男の子が生まれたぞ、親父の遺産は全額いただいて行くからな——元夫が赤ん坊を抱えてそう言い放った瞬間、私は自分の耳を疑った。二週間前に離婚したばかりの元夫と、その隣に立つ再婚相手は、なんと私の実の妹だった。二人は産まれたばかりの赤ん坊を宝物みたいに見せびらかしている。でもこの人たち、何も知らないんだ。私は産科医として元夫の家の病院で働き続けていて、義父から次期理事長を任されていた。「遺産は………

男の子が生まれたぞ、親父の遺産は全額いただいて行くからな——元夫が赤ん坊を抱えてそう言い放った瞬間、私は自分の耳を疑った。二週間前に離婚したばかりの元夫と、その隣に立つ再婚相手は、なんと私の実の妹だった。二人は産まれたばかりの赤ん坊を宝物みたいに見せびらかしている。でもこの人たち、何も知らないんだ。私は産科医として元夫の家の病院で働き続けていて、義父から次期理事長を任されていた。「遺産は……...

「男の子が生まれたぞ。親父の遺産は全額いただいて行くからな」

元夫の遊平と、その再婚相手である私の実の妹・michelle金が、赤ちゃんを見せびらかすように抱えて立っている。赤ん坊は小さな両手を握りしめて、何も知らずにすやすやと眠っている。

私は母と一緒に、その光景を黙って見つめていた。

この二人は何も知らないんだ。私は静かに口を開いた。

「遺産は……もう一円も残っていませんけど」

私の名前は由里絵。元夫の遊平とは二週間前に離婚が成立した。そして今日、元夫から慰謝料が振り込まれた。今まで見たことのない金額に、感覚がおかしくなりそうだった。けれどもこれであの辛かった日々に区切りがついたと思い、嬉しさと同時にほっと力が抜けた感覚を味わっていた。

離婚の原因は、元夫の浮気と散財だった。これからはいつ帰ってくるのか分からない人を無駄に待たなくていい。毎月のカードの支払い金額を不安に思う必要もない。私は元夫という薬病神から解放されたのだ。通帳を見ながらそんなことを考えていた。

しかし私たち夫婦の場合、離婚はしたが完全に縁が切れたわけではない。なぜなら元夫の家は病院で、私はそこで働く医師なのだから。義両親とは戸籍上は縁が切れても、仕事の上では理事長と上司であり、毎日のように顔を合わせている。

最初は退職を考えた。だが、私の専門が産科だったため、理事長の義父に引き止められてしまった。医師が不足しているので、義父は私にやめられては困るという下心があったのだろう。私はそういう事情を理解していたが、私がやめてしまうと一番困るのは妊婦さんたちだ。迷惑をかけたくないという気持ちの方が強く、辞めることはできなかった。

元夫は医師ではなく普通のサラリーマンだ。彼は医学部受験に失敗して会社員の道を選んだ経緯がある。私との収入の差は、彼にとってコンプレックスになっているのだろう。もしかしたら、そこからくるストレスで浮気や散財に走ったとも考えられる。

そんなある日、義母から電話が入った。

その日は休日で私は自宅にいたのだが、義母はあえて私の休みを見計らって電話をかけてきたそうだ。大事な話があるというので、私は座って会話することにした。

「夫のことなんだけど……実はもう長くないかもしれないの」

「……そうなんですか」

理事長の義父は私と同じ産科の医師で、私にとっては指導医だった。厳しい人だが、患者さんにはいつも優しく紳士に向き合う。その姿は私にとって良いお手本だった。そんな義父だが、最近胃に癌が見つかったことはすでに義母から聞いていた。状況は思ったより深刻だったようだ。

「それでね、病院の今後のことで悩んでいるのよ。息子は医者じゃないしね」

義母は一呼吸を置いて、覚悟を決めたように話し始めた。

「夫とよく話し合ったんだけどね。由里絵さん、うちの病院を継いでくれないかしら。夫はあなたのひたむきさにいつも関心しているわ。あんな努力できる人材はいないって」

突然のことで、私は言葉に詰まってしまった。理事長である義父がそうやって私を見てくれていたことに、感謝の気持ちが湧き上がる。しかし私には元夫の存在が引っかかり、素直に頷けなかった。

「ありがたいことなのですが……離婚していることが、前向きな気持ちの邪魔をするんです」

私が正直に元夫のことを伝えると、義母は涙をこらえているのか言葉に詰まりながらも、誠実な口調でこう答えた。

「あなたが奥さんになって、家庭を守り、息子を理解しようとしていたこと。私は嬉しかったわ」

「お母さん……」

義母は息子の不始末を詫びて、こんなことを頼むのは良くないと思っていると話す。

「でもね、患者さんのことが心配で……」

患者を思う気持ちは私も同じだった。それを言われてしまうと、私も心が動く。

「私、病院のことは何も分かりません。一人では何もできないと思います」

義母は病院経営のことは相談できる人がたくさんいるし、スタッフもあなただったら力になってくれると言った。私は義両親に一日でも長く一緒に働いて私を助けて欲しいと伝え、次期理事長になることを承諾した。

それから私は次期理事長として修行期間に入った。今までの仕事はそのまま継続しながら、経営に関することや雑務などにも関わるようになり、目が回るほど忙しい毎日だ。とはいえ、ありがたいことに環境に恵まれ、私一人では到底歩めない道を、みんなのサポートのおかげでしっかりと歩み続けている。

ある日の午後、私は理事長の見舞いに行った。

「由里絵先生、本当にありがとう。決心してくれて安心しているよ」

病床の義父は少し痩せていて、病衣のまま枕にもたれかかっている。私は理事長先生が育ててきた組織と、義母を含めたみんなのおかげだと言い、改めて感謝の気持ちを伝えた。

義父の胃がんは、手術をすれば回復する可能性もあるそうだ。だが日々の激務がたたって体力が落ちているため、手術に耐えられないかもしれないという。一日でも長く生きていて欲しいと心から思った。

病院からの帰り道、元夫から電話がかかってきた。無視しようかと思ったが、しばらく連絡を取っていなかったので出てみることにする。

「おお、これはこれは次期理事長先生。聞いたぞ、お前、病院継ぐんだって。別れた亭主の椅子を横取りしていい身分だな」

元夫のいい加減さ丸出しの声を聞き、電話に出てしまったことを後悔した。嫌味たらたらな言い方に虫酸が走る。用があるなら早くして欲しいと伝えると、元夫は要件を言い出した。

「俺さ、結婚することになったのよ。でも今定職についてなくてさ、仕事探してるから俺を雇ってくれよ。役職付きで」

「そんなにいい加減な人を、誰が雇うんですか」

私はこんな人とは関わりたくないと改めて思う。

「最近大金払っちゃって金ないんだよ。五百万も払ったからな」

五百万円とは、先日元夫が私に払った慰謝料の額だ。自分で払ったような言い方をしているが、実際はほぼ義父が負担していることを私は知っている。しかし関わりたくない私は「両親に報告しておきます」とだけ答えて電話を切った。

元夫の嫌味なところは以前と全く変わっていない。この病院にいる以上、私がこの男と関わっていかなければならないのかと思うと、先が思いやられた。

翌日、義母にこのことを報告した。

「相変わらずね。迷惑かけてしまって申し訳ないわ」

「大丈夫ですよ」

そう言った後、私は元夫が結婚すると言っていたことを話す。しかし義母は何も聞いていないとのことだった。義母が言うには、私との離婚話で義父と元夫はかなり衝突したらしく、それからは絶縁状態になってしまったそうだ。

義母が頭を悩ましているのは、やはり病院のことだった。

「あの子ももう大人なんだから、放っておきましょう。私たちは夫と病院のことだけ考えないとね」

私も義母と同じ考えだ。病院にいる患者さんに私たちの内輪揉めなんて関係ない。今は目の前のことに集中する時なのだ。

義母とこうして話し合えたことで、私のモチベーションがさらに上がり、義母との信頼関係もより深いものになっていく。義母は院内の事務仕事をしているのだが、義父の看病も重なって時折り疲れが見える。私もできる範囲で協力したいと思い、おかずの差し入れや家事などの手伝いをするようになった。

血のつながらない元義両親であっても、互いに支え合えるいい関係だと思った。

ある日、私は義母と二人で義父のお見舞いに行った。すると義父からこんな言葉が出た。

「由里絵さん、母さんを連れて食事に行ってきてくれないか。最近は私の看病ばかりだから、たまには気分転換をと思うんだが」

義母は「そんな呑気なことしていられない」と断るが、義父は私の顔をじっと見て促している。自身の体がきついのに妻のことを気にかける姿に胸を打たれ、私は義母にこう言った。

「そうですね、お母さん。お父さんのお願いだし、ちょっと出かけましょう。看護師さんから美味しいピザのお店を聞いたところだったんですよ」

「美味しかったら、お父さんにテイクアウトしてもいいですよね」

私はさらにプッシュをかけた。義母が遠慮がちに義父の顔を見ると、義父はにっこりと笑いながら「行ってらっしゃい」と言った。私は二人の仲睦まじい姿が羨ましく思いながら、義母を連れ出した。

やはり噂通り美味しいピザだった。ついでにパスタも頼み、その美味しさに義母の表情も緩む。

「由里絵さんは、スタッフさんともいいコミュニケーション取っているのね」

「皆さん協力的で手腕もいいので、頼りになります」

義母曰く、義父は生真面目なタイプだったから、スタッフさんとはなかなか打ち解けられなかったらしい。しかしそこを義母が橋渡しとなって、いい関係を維持してきたのだ。そんなことを話しながら、私は義父がよく言っていたことを思い出し、義母に伝えた。

「理事長先生はいつも言ってましたよ。今の自分があるのは奥さんのおかげだって」

「あら……まあ。私にはそんなこと言ったことないのに」

義母は少し涙ぐみながら笑っていた。

美味しい食事を終えた後、義母が家に用事があるというので一緒に向かった。二人で義実家に着くと、見たことのない車が止まっていた。私たちは怪しげにその車を見ながら、家の鍵を開け部屋に上がる。リビングに入ると、ソファーでくつろぐ元夫と女性が見えた。

絶縁状態と言っていたから、元夫が義実家に来るのは久しぶりなのだろう。そんなことを思いながら、私は横にいる女性を見て、一瞬凍りついてしまった。

しかし義母が先に口を開いた。

「あら、遊平、久しぶりね。元気にしてたの? それで、そちらの方は……」

義母が挨拶をしようと女性の方を見る。

「どうも、姉がお世話になってます。michelle金です」

その女性は私の実の妹だった。前に会ったのがいつだか覚えていないほど久しぶりの再会だ。

妹は大学を中退してからずっと男を渡り歩いて生きている。私とは正反対のような女だ。まさか妹が元夫の結婚相手なのか……。そう思いながら、私は義母に自分の妹だと告げた。

「こんにちは。ご無沙汰してます」

「……michelle金」

「なんでお父さんのお見舞いに来ないの?」

「はぁ? 何のために? そこの次期理事長先生が行けばいいんじゃないの?」

元夫は皮肉たっぷりに私の方を見ながら言う。

「お姉ちゃん、理事長になるんだって。さすがリベンジね。勉強ばっかしてるからすっごくダサくて、姉妹って言われるのが迷惑だったんだけどね」

元夫は馬鹿にしたような笑い声を上げ、妹も一緒にニヤニヤしている。

「ねぇ、今日は何の用ですか? 今からお父さんのところに行くから、暇じゃないんですけど」

「はいはい、分かったよ。今日の用事は俺を病院で雇う話だよ」

元夫は「今から平社員とか無理だから、役職をつけろ」と自分勝手なことを言い出す。

「お姉ちゃん偉いんだから、できるでしょ。私たち結婚するんだし、お腹に赤ちゃんもいるからさ」

その発言に、私と義母は目を丸くして驚いた。

「そうそう。男の子だって言われてるんだよ。俺はこの子供を医者にして、この病院を継がせるつもりなんだよね。そうなればうちの病院も安泰しょ。そこの理事長先生より、いい話だろう?」

義母は息子の無責任な話を聞いて、顔色が悪くなってきた。それに気づいた私は、二人に「帰ってください」と強い口調で言った。

「そして、少しは相手の身になって口を利きなさい」

「お母さん、心配いらないですよ。姉みたいな他人から病院を取り戻すチャンスですよ」

義母はその言葉に、堪えきれず大声で怒鳴った。

「今すぐ出ていって! 私たちがどんな思いでお父さんと病院を支えているのか、分からないの? 部外者が口出しするんじゃないわよ!」

元夫と妹の顔色が変わるのが分かった。その後、義母は妹に向かって言った。

「孫よりも、私や由里絵さんのことが大切で、同じくらい患者さんとスタッフも大事だ」

さらに元夫が「俺のことは大事じゃないのか」という問いに、義母はこう答えた。

「真面目に働かず、奥さんを大事にせず、あげくに自分の懐のために、まだ生まれていない孫を利用しようとする人を、大事にしようだなんて思えないわ」

義母は立っているのも辛い状態で、ついにしゃがみ込んでしまった。私は義母を支えながら寝室へ連れて行った。

私は義母の存在に勇気をもらえたようで、かなり強い口調で二人に帰るように怒鳴った。

「怖い怖い。遊平、もういいわ。帰りましょう。こんな意地悪な人たちには、赤ちゃんの抱っこをさせないからね」

元夫と妹は捨て台詞を吐きながら、家を出ていった。

その数日後、私は義実家で起きたことを義父に話した。義父は「困った息子だ」と言いながら、病院の顧問弁護士に相談してみると答えた。確かに、こういうことは第三者に入ってもらった方がいいのかもしれない。

「それとな、私にはある考えがあって、決心したところなんだ」

義父は少し真剣な顔になって、話し始めた。

数ヶ月後、元夫婦から話があると連絡があった。私と母は二人が来るのを実家で待つ。すると外から赤ちゃんの鳴き声が聞こえ、無事に出産できたことが分かる。二人はその後も夫婦を続けており、赤ちゃんを連れてきていたのだ。

「見ろよ、男の子が生まれたぞ。親父の遺産をもらいに来たぞ。全額いただいて行くからな」

ニコニコしながら赤ちゃんを見せる二人を、母は黙って見ている。私はなぜ元夫が遺産は全てもらえると思っているのか不思議に思いながら、状況を見つめていた。

「次期理事長さん。そういうわけなんで、遺産は俺らのものだ。残念だったな」

この人たちは何も知らないんだということが分かり、私が説明した。

「遺産を全部……もう一円も残っていませんけど」

「はぁ?」

「お父さん、自分の遺産を私とお母さんに生前分与したの、知らないの?」

元夫婦は明らかに動揺した顔に変わった。

「遺産分は、あなたがお父さんから借りてる借金と、私に払った慰謝料ってことになったんです」

「ふざけるな!」

元夫は赤い顔をしながら叫んだ。

「それとね、理事長先生の手術は成功したのよ。来週には退院よ。嬉しくないの?」

元夫婦は動揺を隠せない。妹は元夫に向かって、小声で「死ぬんじゃなかったの」と聞いている。それを聞いて、母は落ち着いた口調で言い放った。

「由里絵さんは、婿養子組してうちの家系に入ったのよ。あんたたちみたいな寄生虫には用はないの。その子を責任持って育てなさいね」

二人とも青ざめた顔で私を見ている。

「あなたたち、お父さんに死んで欲しかったなんて思ってないわよね。もし働きたかったら、うちの清掃員なら空いてるわよ。かなりレベルの高い清掃をやってるけど、できるの?」

元夫は「もう二度とこんなところに来るものか!」と怒鳴り、赤ちゃんを連れて出て行った。

私が母の方に笑顔を向けると、母も笑顔で頷いている。その表情を見て、私はすっきりとした気分になった。

その後の元夫婦の状況はよく知らないが、元夫は子供を育てるためにいくつもバイトを掛け持ちしていて、疲労感が漂い、すっかり人が変わったようだと知人から聞いた。それ以上のことは興味がないのでどうでも良いが、しっかり苦労するのはいいことだと思う。

すでに現場に戻っている義父が、私のシフトを見ながらこう言った。

「またあそこのパスタが食べたいんだが、この日はどうだ?」

「お父さんは、ピザよりパスタがお気に入りなんですよね」

義父はニコニコ笑いながら頷いている。義父の机には「理事長」というプレートが置いてあり、やはり理事長という名がしっくり来るなと改めて思う。

この一年くらいは色々なことがあったが、苦労した分いいこともたくさんあって、今のこの状況に私は満足していた。

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