引き戸が乱暴に開かれ、強烈な香水の匂いが出汁の香りをかき消した。派手なスーツを着た若い男が、白髪混じりの年配の男を連れて店内に入ってきて、値踏みするような視線を送った。
「えっ……」
カウンターの中で、若い店主・さやの手が止まる。連れ立って来た女性客と、隅で茶を飲んでいた老人も、その異様な空気に気づいて顔を上げた。
若い男は、さやの方には目もくれず、店内をぐるりと見回して小さく頷いた。
「うん。ここなら計画通りに行けそうだな」
「単刀直入に話そう。店主さん。この一帯に新しい商業ビルを建てる。あんたの店もそのうち立ち退きになる。早めに決断した方がお互いのためだ」
「何を急に……」
「この方はうちの社長。ここの土地を再開発する計画ってことよ」
「こんなボロ店、早く畳んで金もらって楽になりなよ」
「ひどい……」
その時、店の隅で湯飲みを置く音が静かに響いた。今まで黙っていた老人が、ゆっくりと歩み寄った。
「では、契約破棄で」
その時の彼らはまだ知らなかった。キャンセルされたのは、自分たちの人生であることを。そして数ヶ月後、ベーリング海で二人は自らの罪を呪うことになる。全ては、一本の電話から始まった。
霧の残る早朝。下町の路地に、一人の老人がゆっくりと歩みを進めていた。影人、七十二歳。古びた顔に安物の腕時計を巻き、年季の入ったキャンバス地の鞄を肩から下げている。杖をつきながら歩くその姿は、近所に住むどこにでもいる釣り好きの老人にしか見えなかった。
路地の奥に、小さな店があった。紺色の暖簾には「朝切り食堂」と染め抜かれている。その暖簾をくぐろうとしていた一人の若い女性、さや、二十四歳。三年前に両親を交通事故でなくしてから、たった一人でこの店を切り盛りしている店主だった。
「あ、おじいちゃん。今日も早いね」
さやが顔を上げて微笑む。
影人は何も言わず、孫娘がくぐる暖簾をそっと支えた。
「今日もいい匂いがしとるな」
「うん。川越の豆腐屋から取り寄せた赤味噌よ。ふんわり甘くて、おじいちゃん好きでしょ」
「お前の味噌汁は、毎朝わしの楽しみだ」
影人は、店の奥のカウンター席に腰を下ろした。古い木製のカウンターには、さやの父親が掘ったという小さな桜の花が一つ刻まれている。影人の指は、その花に軽く触れた。
その花を見ると、影人はいつも亡き息子のことを思い出す。商売人としては不器用な男だった。だが、人を見る目だけは誰よりも確かだった。
「はい、おじいちゃん、お待たせ。サバの味噌煮と、出し巻き卵、それと煮物」
湯気の立つ味噌汁の碗から、ふんわりとした香りが広がる。油の乗ったサバが、艶のある煮汁にとろりと絡んでいた。
「うん。今日もうまい」
引き戸が軽やかな音を立てて開いた。
「おはよう、さや。今日もちゃんと食べに来たよ」
カウンターの常連席に座ったのは、さやの高校時代からの親友、しおり、二十四歳。都内の総合商社に務めるOLで、最近は週に二度はこの店に通う、さやの一番の常連だった。
「いつもありがとう。今朝はサバの味噌煮もあるよ」
「やった。さやのサバ味噌は世界一だもん。あ、おじいちゃん、おはようございます」
「ああ、しおりちゃん、おはよう」
さやはふと、カウンターに置かれた両親の写真を見つめた。
「お父さんとお母さんが残してくれたこの店。私が守ってみせる。それが私の決めたこと」
「うん。お前の親父もお袋も、それを聞いたら喜ぶだろう」
「人を金で測る者とは長く付き合えん。お父さんの口癖。私、覚えてる」
「あれは、わしが押し付けた口癖だ。商売人としては失格の口癖を」
「失格じゃないよ。お父さん、その言葉のおかげで、たくさんのお客さんに愛されてた。私も、さやのお父さんの味、忘れられないもん」
影人は、細めた目で孫を見つめた。湯飲みの中の茶が、ゆっくりと揺れている。
孫は自分の足で立っている。両親をなくしてから三年、たった一人でこの店を守り続けてきた。自分の出る幕はもうない。影人はそう思っていた。少なくとも、この日までは。
その時、カウンターの上に置かれた電話が鳴った。
「はい、朝切り食堂です」
電話の向こうで、若い男の軽い声が響いた。
「ああ、もしもし。覚えてるかな? 同じクラスだったんだけど」
さやの、お盆を持つ手が一瞬止まった。
「日川君……?」
「そうそう。久しぶり。元気にしてた?」
「うん、元気にしてる」
さやの声には、わずかな戸惑いがにじんでいた。日川は高校時代の同級生だが、決して仲が良かったわけではない。むしろ、さやにとっては苦い記憶しかない相手だった。
「いや、さやが食堂やってるって聞いてさ、来月、同窓会やろうって話になったんだよ。二十人くらいで。お前の店、貸し切りで使えない?」
「同窓会……」
「うん。幹事を任されちゃってさ。地元の店だし、安く貸し切れるかなって」
さやは迷いつつも、店主として首を縦に振った。
「うん、分かった。受けるよ」
「マジでありがとう。じゃあ、来月の第三金曜日、十九時から。金額とか特別メニューとか、色々任せるわ」
「分かった。みんなに喜んでもらえるように、準備するね」
電話が切れる。さやは受話器を置いたけれど、その手はわずかに震えていた。
「同窓会か……」
「さや、今のって……しおり、覚えてる? 日川くんが、来月、同窓会をうちでやってくれるって」
しおりの手が、お椀の淵で止まった。
「日川……あの日川が幹事?」
「うん。二十人くらいで集まるんだって。しおりも絶対来てね」
「さや、あいつ、本当に大丈夫? 昔のこと、忘れてないよね」
「まさか。もう八年前のことだよ。みんな大人になってるって」
しおりは何か言いかけて、唇を閉じた。さやの、久しぶりに見る少女のような表情を曇らせたくなかった。
カウンターの隅で、影人は黙って茶を飲んでいた。だが、その湯飲みを置く音が、いつもよりほんの少しだけ重かった。
孫の顔が久しぶりに輝いている。それは嬉しいことだ。だが、なぜか胸騒ぎだけが、影人の中で止まなかった。
その日から、さやは毎日、メニューを考え続けた。二十人分のコース料理。普段は出さない少し高価な食材も、思い切って仕入れることにした。地元の豆腐屋から木綿豆腐を取り寄せ、馴染みの魚屋には油の乗った金目鯛を頼んだ。
久しぶりにみんなに会える。その思いが、さやの手をいつもより丁寧にしていた。
同窓会当日、朝切り食堂は朝から特別な空気に包まれていた。さやは夜明け前から店に立ち、仕込みに追われていた。油の乗った金目鯛、立派な木綿豆腐。二十人分のコース料理を、一品一品丁寧に仕上げていく。
店は隅々まで磨き上げられ、テーブルには真新しい花が生けられた。紺色のテーブルランナーには、一切のシワもない。
午後三時、引き戸が開いて、しおりが顔を出した。
「さや、ちょっと話があるんだけど……」
しおりの声が、ひときわ低かった。さやは手を止めて、振り返る。
「あのね、私、念のため他の同級生たちに聞いて回ったの。今日の同窓会、ちゃんと連絡来てる? って」
「……うん。誰も、連絡受けてないって」
「えっ? 私だけじゃないの?」
「他のクラスだった子十人くらいに聞いたけど、全員『同窓会? 何それ』って」
さやの手から、布巾がぽたりと落ちた。
「そんな……でも、日川君は一週間前に確認したら、大丈夫って……」
「さや、もう一度日川に電話して確認した方がいい」
さやは震える手で携帯を取った。何度コールしても、出ない。何度かけ直しても、出ない。
「……予約も、申し込みも終わってる。当日になって……」
さやは自分に言い聞かせるように、もう一度味噌汁の鍋に向き直った。けれど、その背中はわずかに震えていた。
カウンターの隅で、影人は黙って茶を飲んでいた。けれど、その目だけは、店の入り口をじっと見据えていた。
十八時を過ぎた。誰も来ない。
十八時半。誰も来ない。
十九時。引き戸の前に、ようやく人の影が見えた。さやは弾かれたように顔を上げる。
引き戸が乱暴に開けられた。香水と煙草の匂いが出汁の香りをかき消す。入ってきたのは、日川一人だけだった。後ろには、同級生たちの姿はなかった。
「日川君……みんなは?」
「ああ、それなんだけどさ」
日川は焼けた顔のまま、カウンターに肘をついた。一人だけで来たことを楽しむような、醜い笑みが浮かんでいる。
「わざわざ報告に来てやったんだよ。えっとね、急だけどさ、片親育ちのボロ店はキャンセルで」
「えっ……」
しおりの手から、箸がぽとりと落ちる。
「マジ無理。不衛生だし。こんな一人でやってる店とか、ありえないんですけど」
「キャンセルって……でも、二十人って……」
「ああ、二十人とか嘘。最初からお前の店なんて、そんなレベルじゃねえし。同窓会なんて、最初からやる気なかったんだよね。ちょっと、お前の店が潰れそうかどうか、確認したかっただけ」
さやの顔が、徐々に青ざめていく。
「そんな……ひどい……」
さやは何も言えず、ただカウンターを握りしめた。その指の関節が白くなっている。
店の隅の席で、影人が湯飲みを静かに置いた。その指は、わずかに震えていた。
「ま、じゃあな。店主さん、せいぜい頑張って」
引き戸が乱暴に閉まる。日川の笑い声が、路地の向こうに消えていった。
店の中は、しんと静まり返った。カウンターには、誰にも食べられることのない二十人分の料理が並んでいる。湯気が、まだほのかに立ち上っていた。
さやは何も言わず、ただ立ち尽くしていた。やがて、その頬を一筋の涙が伝った。
「あいつ、最低……」
「ごめん、しおり……」
「さやのせいじゃない。あいつがずっと、ああいう奴なのよ」
さやの声が震えていた。まぶたの裏に、遠い日の教室が蘇ってくる。
高校の教室、昼休み。さやは机の上で、そっと弁当箱を開けた。中には、店の売れ残りの煮物、薄い卵焼き、少しだけの白米。母がその日の朝、店の仕込みの合間に詰めてくれたものだった。
そこへ、足音が近づいてきた。
「うわ、何それ? 残り物? 朝切り、毎日それ食ってんの?」
教室に笑い声が広がる。
「まあ、片親育ちじゃな。貧乏ったらありゃしない」
さやは俯いて、何も言えなかった。そこへ、一人の女子生徒が自分の席から立ち上がった。
「さや、私もそっち行っていい?」
「しおり……」
「さやの卵焼き、一口もらっていい? 朝切り食堂の卵焼き、世界一なんだもん」
しおりはさやの卵焼きを箸でつまみ、満面の笑みで頬張った。
「やっぱり美味しい」
日川は、それでもさやへの嘲りをやめなかった。
「はあ? 何? あいつら。底辺同士、勝手にやってろよ」
さやとしおりは、それでも肩を寄せて弁当を分け合った。窓から差し込む昼下がりの光が、二人の机を柔らかく照らしていた。
「しおり……あの時、私の味方になってくれて、本当にありがとう」
「何言ってんの? 今でも、さやの卵焼きが世界一だと思ってるよ」
二人は、カウンター越しに手を取り合った。
「さや」
影人が初めて口を開いた。さやは振り返る。
「お前、そんな目に遭っとったのか……わしは、何も知らんかった」
さやは影人に優しく微笑んだ。
「おじいちゃん、心配しないで。今日のキャンセルのことも、昔のことも、私、ちゃんと自分で乗り越えるから。お父さんとお母さんが残してくれたこの店、私の手でちゃんと守るって決めたの。だから、誰かに助けてもらおうなんて思ってない」
「……そうか」
影人は、その言葉に何も返さなかった。ただ、黙って孫の顔を見つめていた。細い目の奥に、深い影が落ちる。わしの知らぬところで、孫はたった一人でこれだけのものを抱えていたのか。
その夜から三日が過ぎた。朝切り食堂は、いつも通りに暖簾を出していたけれど、さやの目の下には薄い隈ができていた。仕入れた二十人分の食材は、結局半分も使いきれずに傷んでしまった。それでも、さやは朝、いつも通りに鍋を火にかけた。両親が残したこの店を、止めるわけにはいかなかったから。
しおりは出勤前に立ち寄り、カウンターの常連席でさやの様子を心配そうに見つめていた。影人も、いつもの隅の席で静かに茶を飲んでいる。
「ねえ、無理してない?」
「うん、大丈夫。ちょっと眠れなかっただけ。それよりしおり、仕事は……なんだか胸騒ぎがするの。あいつ、まだ何か仕掛けてくる気がして」
その時、引き戸が乱暴に開けられた。あの香水の匂いが、また店の中に流れ込んだ。
「日川君……今度は何の用?」
「ああ、店主さんよ。あなた、何しに来たの? 先日の賠償の話なら、改めて……」
「いやいや、今日は別の用で来たの。社長、こちらです」
日川はさやの言葉を遮るように振り返り、後ろに向かって声をかけた。引き戸の向こうから、白髪混じりの痩せた年配の男が、ゆっくりと姿を表す。腕を組み、店内を値踏みするように見回している。
「日川君……後ろの方は?」
「うちの会社の社長。ああ、ちゃんと挨拶できてるから、安心して」
年配の男はさやの方には目もくれず、店内をぐるりと見回し、小さく頷いた。
「うん。ここなら計画通りに行けそうだな」
「あの、お客様……」
男は無視するように、ゆっくりとカウンターに歩み寄った。そして上着の内ポケットから一枚の名刺を取り出し、無造作にカウンターへ置く。
名刺には「百鬼ワークス 代表取締役社長 百鬼」と書かれていた。
「単刀直入に話そう。店主さん。この店の土地、うちに売ってほしい」
「えっ……」
「この一帯を再開発する計画でな。新しい商業ビルを建てる。あんたの店も、そのうち立ち退きになる。早めに決断した方が、お互いのためだ」
「お断りします。この店は、両親が残してくれた大切な場所です」
「ほお、強気だな。だが店主さん、悪いことは言わん。ここの所、店の状況が芳しくないと聞いている。客足が減って、仕入れも苦しい。一人で切り盛りするのも、限界だろう。今が、決断の潮時というやつだ」
さやは、はっとして日川を見た。日川は悪びれもせず、にやにやと笑う。
「ねえ、もう諦めなって。残り物弁当を持ってた頃から考えたら、上でしょ? 金もらって楽になりなよ」
その瞬間、さやの中で何かが吹っ切れた。
「百鬼さん、とおっしゃいましたね」
さやの声は低く震えていたけれど、その目は真っすぐに百鬼を見据えていた。
「土地の話の前に、こちらからもお話があります」
「ほう」
「先日、こちらの日川さんがうちの店で同窓会の予約をされました。二十人分の貸し切りでです。私はそれを信じて特別な食材を仕入れ、コース料理を仕込みました。ところが、当日になってドタキャン。しかも、同窓会そのものが最初から嘘だったとおっしゃるのです。賠償請求をさせていただきます。二十人分の食材費、調理代、貸し切り時間の機会損失。合計で十万円です」
「そうですよ。一方的に迷惑をかけておいて、何を言ってるんですか?」
しおりがさやに続いて立ち上がった。
「ほお、十万円ね」
百鬼は視線をゆっくりと日川の方に向けた。
「日川、お前、本当にそんな予約を入れたのか?」
「いえいえ、社長、違うんですって。ちょっと店内を見させてもらうのに、恰好で同窓会って言っただけで、本気で予約とかしてないですよ」
「日川君、嘘を言わないで。証人もいます」
さやはゆっくりと、カウンターにいるしおりと、隅の席の影人を見た。
「ええ、確かに聞いたわ。日川君が、来月の第三金曜日、十九時から二十人で貸し切りって、はっきり言ってた」
影人は何も言わず、ただ静かに頷いた。
「はあ。身内の証言なんて、証拠になるわけないでしょ」
百鬼はしばらく日川の顔を見ていた。やがて、ふっと鼻で笑い、さやに向き直る。
「店主さん、こちらにも顧問弁護士団がいる。素人の店主が、大企業を相手に勝てる相手ではないですよね」
「社長、マジ受ける。ボロ店が、大企業に賠償請求。裁判する金もないだろうし」
「ほう。強気だな。だが店主さん、悪いことは言わん。土地を売って、その金で第二の人生を始めなさい」
「ちょっと待ってください。こんな筋の通らない話、聞いたことない」
「ああ、出た出た。お友達ごっこやめなよ。いい大人が。一生、底辺お友達ごっこね」
「あんた、まだ昔と同じこと言ってるの?」
「お嬢さん、客なら客らしく、黙っていてもらおうか」
カウンターの隅で、影人の、湯飲みを持つ手がぴたりと止まった。その目が、百鬼の方をじっと見据えている。瞳の奥にともる光は、もはやただの隠居老人のものではなかった。
「まあ、考えておきなさい。次は、もっと正式な形で来る」
二人は笑いながら店を出ていった。引き戸が乱暴に閉まる。店の中は、しんと静まり返った。
さやは震える手をカウンターについて、それでも崩れなかった。しおりが、その肩にそっと手を置く。
「しおり、ごめん。怒っちゃって」
「ううん、よく言ったよ、さや。私、絶対許さない」
「お父さんとお母さんの店、絶対に手放さない」
さやの目には、もう涙はなかった。代わりに、強い光が宿っていた。
店の隅で、影人は静かに湯飲みを置いた。孫が自分の足で立っている。あの目は、もう祖父の助けを必要としていない目だ。
だが、影人はゆっくりと立ち上がった。
「ご馳走さん」
「あ、おじいちゃん、また明日も」
「うん、また来る」
影人は静かに頭を下げ、店を出ていった。これは、もう孫一人の問題ではなくなった。天木商事の会長、木影人という男が、動き始めた。
影人は路地の角を曲がりながら、内ポケットの携帯電話にそっと指を当てた。
「……ああ、わしだ」
電話の向こうで、天木商事の専務の張り詰めた声が答える。
「百鬼ワークスの取引履歴、五年分。それと、あの会社が進めている下町商業地区の再開発計画。土地の権利者リスト、買収提示価格。全部だ。明日の朝までに揃えてくれ」
電話の向こうで、専務が息を飲む音がした。
「もう一つ。百鬼ワークスとの本契約。条件を全面的に見直す。専務名義で通告書を郵送、先方に発送してくれ」
「理由は、当社に対する重大な背信だ。先方は、わしの孫の店を潰しにかかっている」
電話の向こうで、専務が息を吸い込む音がした。
「人を見下す者とは、長く付き合えん。それだけのことだ」
携帯を切ってポケットに戻し、影人は空を見上げた。夕焼けが、雲の縁を金色に染めている。
その夜、朝切り食堂でさやは一人、カウンターの内側に立っていた。エプロンを外し、磨き上げた木のカウンターをもう一度、丁寧に拭いていく。その手が、ふとカウンターの隅で止まる。父が掘った、小さな桜の花。さやの指が、その花の輪郭をそっとなぞった。
「お母さん……」
まぶたの裏に、幼い日の記憶がゆっくりと滲み出してくる。幼いさやが、母の隣で湯気の立つ鍋を見上げている。母は味噌汁を一口すくって味見をし、満足そうに頷いた。
「さや、ねえ、知ってる? 食堂ってね、ただ料理を出す場所じゃないのよ」
「じゃあ、何?」
「食堂はね、人の心を温める場所。お客様が一日の疲れを忘れて、明日もう一度頑張ろうって思える場所。お母さんは、そういう場所にしたくて、ここに立ってるの」
「じゃあ、さやもそういうお店やる」
母は笑って、さやの頭を撫でた。
「お母さん、私、忘れてないよ。一度も忘れたことなんて、ない」
さやの頬を一筋の涙が伝うけれど、その目はもう揺らがなかった。
「お父さん、お母さん、私、この店絶対に守る。ここは、お母さんやお客さんたちとの、大事な場所だから」
カウンターの桜の花が、夕暮れの光の中で静かにさやを見守っていた。
それから五日が過ぎた。朝、さやはいつも通りの暖簾を出した。しおりが出勤前に立ち寄り、カウンターで味噌汁をすすっている。影人も、いつもの隅の席で静かに茶を飲んでいた。
その時、引き戸が乱暴に開けられた。あの香水の匂いが、また店の中に流れ込む。日川と百鬼。今日は、二人だけだった。
「店主さん、話の決断をしてもらおうか」
「お断りします。何度言われても、答えは同じです」
「豪気だな。だが、こちらも譲れん。この一帯の再開発は、もう動き始めている」
さやは深く息を吸った。それから、ゆっくりと百鬼の目を見据える。
「ここは、母と父が二人で築いた店です。この店は、どれだけお金を積まれても手放しません」
「そうよ。こんな筋の通らない話、認められるわけがない」
しおりも、さやに続くように言い放った。
「マジ受ける。思い出って。こんなボロ店、潰れて当然なのに。まあ、店主さんが頑張っても、客足は遠のく一方だ。SNSの悪評も、まだまだ続くだろうしな」
さやの表情が固まった。確かに、ここ最近、朝切り食堂の悪いレビューが増えていたのを思い出した。
「まさか、あなたたちの仕業……証拠あるんですか?」
「言いがかりは、やめてくれませんかね。まあ、そんなことより、土地の話を……」
「それでも、それでも私は、この店を手放しません」
その時、カウンターの隅で、影人が湯飲みを静かに置いた。木のカウンターに湯飲みが触れる、その音だけが店の中に響いた。さやとしおりが、同時に影人の方を見る。
今まで静止していた影人が、ゆっくりと立ち上がり、静かに口を開いた。
「そこまでにしておいたら、どうだね」
「おじいちゃん……?」
「何だ、じいさん。関係ないものは黙ってろ」
「マジ受ける。じいさん、喋んなよ」
影人はゆっくりと、百鬼の前まで歩み出た。さやは息を飲んで、その背中を見つめた。いつもの優しい祖父の背中とは、どこか違って見えた。
「うん。まだ悪態をつくか。では、契約破棄で」
「ん? 契約? 何の話だ?」
「へ? 何言ってんの? このじいさん、マジ意味不明なんだけど。認知症かよ」
日川はこらえきれずに吹き出した。百鬼も鼻で笑う。
「おじいちゃん!」
さやは影人のそばに駆け寄ろうとした。影人は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと内ポケットに手を入れて、一枚の名刺を取り出した。
「わざわざ名刺など、いりませんよ」
百鬼は鼻で笑いながら、鬱陶しそうに名刺を受け取った。そして、目を落とす。
その瞬間、百鬼の指がぴくりと跳ねた。
「ああっ……」
名刺にはこう記されていた。
「天木商事 代表取締役会長 木影人」
「あっ、あっ、あっ……天木商事の……会長……」
百鬼の顔が一気に青ざめていった。名刺を持つ指が、激しく震え始めた。
「天木商事って、あの……」
しおりは、商社で働く者として、その名前の意味をよく知っていた。現在と物理を束ねる、業界最大手の総合商社。日本の建設会社が、その動向を見て動く。そんな頂点の一つ。
「はあ? 社長、なんで震えてんの? この貧乏臭いじいさんが何?」
「日川……黙れ。黙ってろ!」
百鬼は震える足でよろよろとカウンターから後ずさった。そして、深く深く頭を下げる。
「あっ、天木会長。ご、ご無礼を……」
「おじいちゃん……?」
「はあ? 会長? 何の会長? え、このじいさんが、何の会長?」
日川は状況が全く理解できずに、百鬼と影人の顔を交互に見比べた。
影人は、頭を下げる百鬼を、細い奥の瞳でじっと見据えていた。その視線は、もはやただの常連客のものではなかった。年間数千億を動かしてきた男の目だった。
百鬼は震える足で立ち、深く頭を下げたまま、声を絞り出した。
「あっ、天木会長。ご、ご無礼を、誠に申し訳ございません」
「はあ? 社長、何やってんの? なんでそんなに……」
「日川! 黙れ! 黙ってろ!」
百鬼の怒鳴り声が店内に響いた。日川は初めて百鬼の本気の怒声を浴びて、思わず一歩後ずさる。百鬼の額には、滝のような汗が浮かんでいた。
カウンターの内側では、さやが両手で口元を抑えたまま、影人の背中を凝視している。しおりも、その隣で、息をするのも忘れたように影人を見つめていた。
影人は、頭を下げたままの百鬼をじっと見据えていた。やがて、その口が静かに開く。
「単刀直入に申し上げる」
影人の声が、店の空気をぴんと張り詰めさせた。
「来月以降の、天木商事と百鬼ワークスとの契約。全面的に見直す。年間百億円の発注。その全てを、別の取引先に振り替える。明日の朝には、専務名義で百鬼宛てに、正式な通告書を送る」
「おっ、おおお、お待ちください! それは、私どもの会社が……」
「私の知ったことではない」
影人の声は低く静かだったけれど、その一言は、店の空気を刃のように切り裂いた。
「百億……」
さやの声が震えていた。
「それからもう一つ。百鬼が進めている下町商業地区の再開発計画。わしは天木商事として、正式に反対の意思を表明する。あの一帯の土地の持ち主たちにも、わしの名前で、本日中に反対の文書を送付済みだ」
百鬼は、ふらつきながらカウンターの縁を掴んだ。天木商事。その名前が一度でも反対側に回れば、計画は終わる。全ての取引先、全ての金融機関、全ての行政窓口が、天木の動向を見て動く。それを、百鬼は誰よりも知っていた。
「あっ、ぅ……ちょ、ちょっと待って! おじさん、何の話してんの? 再開発って、うちの、うちの大事な……」
百鬼の声は、もはや泣き声に近かった。
影人はゆっくりと、一歩、百鬼の方へ進めた。そして、静かに口を開く。
「もう一つ、申し上げておくことがある」
影人は、内ポケットから二つ折りの封筒を取り出した。
「これは、わしの会社がこの一週間で集めた資料の目録だ」
「資料……?」
「百鬼がこの店に対して行った嫌がらせ、SNSの悪評工作、取引業者への圧力。全ての証拠は、わしの手元にある」
百鬼が、顔面蒼白になった。さやの手が、口元を抑える。SNSの悪評も、取引業者の圧力も、さやにとっては原因不明の不幸として、ただ耐えるしかなかった出来事だった。それを、祖父は全て把握していた。
影人は、二つ折りの封筒を、カウンターの上に静かに置いた。
「天木商事の顧問弁護士団に、すでに百鬼への損害賠償請求の準備をさせている」
百鬼の膝が、ついにがくりと崩れた。床に両手をつき、肩を激しく揺らしながら、ただ「申し訳ございません」を繰り返している。
「会長、お願いします! 何でもいたします! 契約の見直しも、再開発も、賠償も、全て誠心誠意対応いたします! ですから、どうか、どうか……」
影人は、しばらく百鬼を見下ろしていた。それから、静かに口を開く。
「無理だな」
「えっ……」
「わしの孫が傷つけられた」
その瞬間、百鬼の顔が、もう一段階別の色に変わった。
「ま、孫……? 孫……」
日川が、ようやく事態の最後のピースを理解した。
「日川。お前、お前は、この方のお孫さんを……」
百鬼の喉から、引きつるような声が漏れた。残り物弁当だの、片親育ちだの、不衛生だの。日川がさやに投げつけてきた言葉の一つ一つが、百鬼の脳裏を走馬灯のように駆け巡っていく。百鬼は、床についたまま、もう顔を上げることができなかった。
影人は、百鬼を見下ろしたまま、最後の言葉を、静かに、しかしはっきりと告げた。
「わしの孫の店から、出ていきなさい」
「は、はい……」
百鬼は、床を這うようにして立ち上がった。日川だけが、まだ状況に完全には追いついていない様子で、百鬼の跡をよろよろと追いかけた。
「社長、待ってくださいよ……ねえ、社長!」
引き戸が、震える手で恐る恐る開かれる。二人の姿が、夕暮れの路地に消えていった。
「じいちゃん……」
さやの足が、ふらりとよろめいた。カウンターを回り込み、影人の元へ駆け寄ろうとするけれど、途中で膝が崩れて、影人の胸の中に倒れ込んだ。
「さや」
影人は、さやの小さな体を、しわだらけの大きな腕でしっかりと受け止めた。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
さやの目から、こらえていた涙が一気に溢れ出した。影人は、さやの背中を、しわだらけの大きな手のひらで、ゆっくりと何度も撫でた。
「すまんかったな、さや。わしは、もう我慢できんかった」
「うぅ……おじいちゃん……」
「お前を、わしの名前で縛りたくなかった。この店は、お前の手で立て直した店だ。わしの影が、その上にかかってはいかんと思った」
「おじいちゃん……」
「だが、今日だけは、わしを許してくれ」
さやは、影人の胸に顔を埋めたまま、何度も何度も頷いた。しおりは、二人を見つめながら、自分の頬を伝う涙を、そっと指で拭った。
夕暮れの光が、店の暖簾の隙間から、柔らかく差し込んでいた。カウンターの隅の、桜の花の彫刻が、その光の中で静かに二人を見守っていた。
翌朝、業界紙の一面に見出しが踊った。
「百鬼ワークス、最大顧客を損失」「下町再開発計画も白紙化か」
日川は、全てを失った。社を追われ、自己破産。業界からも追放された。
「天木会長の孫娘を辱めた男」。その評判は、またたく間に広がり、二人を雇う会社など、どこにも残っていなかった。
そしてある日、二人の前に、黒いスーツの男が現れた。天木商事、特別調査室の者だった。
「会長より、お前たちへの最後の処遇を預かってきた」
男は一枚の書類を、二人の前に差し出した。
「北の海で働け」
百鬼の顔が、こわばった。
「拒否権はない。借金の取り立ても、業界からの追放も、全てこれに署名すればやめてやる。だが、署名しなければ、お前たちにはもう、生きる場所すら残らない」
二人は、震える手で契約書に署名するしかなかった。
ベーリング海。それは、人間が人間として扱われない場所だった。
数ヶ月後、凍てつく波浪が、漁船の甲板を叩いていた。摂氏零下二十度。波しぶきは空中で凍りつき、甲板に氷の粒となって突き刺さる。
日川は、ずぶ濡れの作業着を着て、巨大な籠を必死に引き上げていた。隣で同じ作業をしているのは、百鬼だった。あの威厳に満ちた痩せた経営者は、もうどこにもいなかった。痩せ衰え、髭を伸ばし、ただの老いた男になっていた。
日川の手は、まめだらけでパンパンに腫れていた。
「社長、もう無理ですよ、こんなの」
「黙れ! お前のせいだ! お前さえいなければ、わしはこんなところに……」
「はあ? 俺のせい? あの食堂を潰そうって言い出したのは、社長でしょ」
「お前があの娘を辱めたからだろうが!」
百鬼の怒鳴り声は、凍てつく風に虚しくかき消されていった。甲板長が、二人をちらりと見て、しわがれ声で言った。
「お前ら、仕事中に、こんなところで知り合うな」
二人は、何も言えなかった。
休憩時間、日川は甲板の隅にうずくまり、震えながら空を見上げた。雪がしんしんと降っている。その雪空の雲の切れ間に、星が一つだけ光っていた。
日川の脳裏に、あの夕暮れの食堂の光景が蘇った。カウンターの隅で湯飲みを置いた老人。深く頭を下げていた百鬼。そして、両手で口元を抑え、震えていたさやの顔。
「片親育ちのボロ店はキャンセルで」。自分が放ったその言葉が、今、自分の心臓を刃のように切り裂いていく。キャンセルされたのは、あの店ではなかった。日川、かける……自分自身の人生だった。
日川の頬を、温かいものが一筋伝った。涙だった。だが、その涙さえも、すぐに頬の上で凍りついた。
「おい、休憩終わりだ! 次の網を引け!」
「はい……」
百鬼も、震える足でゆっくりと立ち上がった。
「さ、寒い……なぜ、私はこんなところに……」
ガチガチガチと、歯が音を鳴らした。零下二十度のベーリング海の上で、百鬼と日川の、本当に長い夜がまだ始まったばかりだった。
季節が、二度ほど巡った。
朝切り食堂の紺色の暖簾は、新しく掛け替えられていた。布の生地だけは、さやの祖母が残した古い反物から、丁寧に縫い直されたものだった。
「おじいちゃん、今日も早いね」
「年寄りの朝は早いんだ。仕方なかろう」
「ふふっ、味噌汁、温めるね」
カウンターの隅には、いつもの席が開けられていた。湯気の立つ味噌汁が、影人の前に置かれる。
しおりは、会社を退職していた。今は、さやの店の経営パートナーとして、カウンターの内側に並んで立っている。
「さや、新しい仕入れ先のカタログを見ておいてね」
「はい、しおりシェフ」
「もう、その呼び方、やめてって」
その時、引き戸が軽やかな音を立てて、続けて開いた。入ってきたのは、若い男女が数人。さやとしおりと同年代の、見覚えのある顔ぶれだった。
「あ、みんな……」
「さや、来たかったんだ! ちゃんと営業してるって聞いてさ。日川がいなくなったって聞いて、ずっと気になってたんだ。朝切り食堂のこと。本当はね、私たち、みんな来たかったの」
「日川が幹事だって聞いて、なんか嫌な予感がしてさ……当日も、みんな誰一人、連絡をもらってなかったんだよ。みんな」
「だから、今日、私たち、本当の同窓会をここでやらせてもらおうと思って」
さやの目から、こらえきれなくなった涙が、一気に溢れた。
「いらっしゃい、みんな。今日は、世界一の卵焼きを振る舞うわよ」
カウンターの隅で、影人は静かに茶を飲んでいた。その口元が、わずかに緩んでいる。
その日の夕暮れ。
「おじいちゃん、ありがとう。私、店、守れた」
「お前が、自分の足で守った店だ。わしは、何もしておらん」
「ううん、おじいちゃんがいてくれたから、私は立っていられたの。それに、しおりがいたから」
「さや、ありがとう」
「しおりこそ、ありがとう。あんたの卵焼きが食べられなくなって困るのは、私だもん」
さやは、カウンターの隅の、桜の花の彫刻を、そっと指でなぞった。
「商売は、人を見る目から始まる。お前は、その目をちゃんと持っている」
「おじいちゃんの口癖、また増えたね。おじいちゃん、明日も来てね」
「うん。味噌汁を、楽しみにしとる」
人を見下す者の末路は、いつの時代も、雪深い海の底のように冷たい。だが、人を大切にする者には、いつか必ず報われる日が来る。
木影人、七十二歳。今日もまた、孫娘の食堂の隅で、味噌汁の湯気を、静かに待っている。
