綾音は電話口でため息をついた。哲夫が銀行のローンの契約日を指でなぞるように確認してくる。彼はいつもそうだ。大事なことは何度でも確認しないと気が済まらない。
「再来週の契約日、分かってるよな。休みはちゃんと取ってあるんだろうな」
「大丈夫よ。ちゃんと有給申請してあるから」
「そうか。なんか最近お前、忙しそうだったからさ」
「新しいプロジェクトを任されてるのよ。私はその主任だからね。そりゃあ忙しいわよ」
「でも将来のために大事なことだから、上司も快く了承してくれたわ」
「家を買うんだからな」
「そうよ。私たちの家を買うんだからね」
哲夫の声が少しだけ弾んだ。二人で長い間約束してきたことだった。ずっと夢に見てきた形だ。
「婚姻届はいつ出すことにしたんだ? 婚約者のまま家を買うことになるけど」
「私の誕生日に合わせようと思ってるの。記念日と一緒の方がいいでしょ」
「半年くらい先になるな」
「私は別にいつでもいいけどね」
「いや、こういうのは記念日と合わせた方がいいんだ。式は婚姻届を出した後だな」
「そうね。それがいいと思ってる。できれば早くお母さんに安心してもらいたいの。うちの母、もう七十歳を超えてるからね」
「俺も同じだよ。だから式はちゃんと挙げたい。でも順番は大事にしたいんだ」
「先に家を買うって時点で順番はめちゃくちゃだと思うけどね」
「それはいい条件の家が見つかったから仕方がないだろ。これを逃してたら他の人に買われてた」
「確かに、値段も立地も信じられないくらい素敵な家よね」
「だろ。だから家はもういいとして、それ以外は順番をちゃんとしたいんだ」
「そうなんだ」
「それにこれからずっと一緒にいるんだし、ちょっと式が遅れたって大したことじゃないだろ」
「そうね。本当に結婚するまで長かったしね」
「待たせて本当にごめんな。俺も仕事のこととか色々あってさ」
「分かってるわ。別に責めてるわけじゃないの。あなたが私のことを真剣に考えてくれてるのは分かってたから。それじゃあ仕事、頑張ってね」
「ああ、綾音もな」
その三日後、職場で後輩のユリアに声をかけた。
「ユリア、再来週なんだけど、私、有給を取るの。だからその日、私の代わりに任せたい仕事があるんだけど、いいかしら」
「ええ、別にいいですよ。でも先輩が有給を取るなんて珍しいですね。いつも上の人から取れって言われるまで取らなかったじゃないですか」
「確かにそうね。私が有給申請した時、部長が驚いてたわ。でも特別な理由なのよ。銀行に行って契約をしないといけないから」
「契約?」
「家を買うのよ。それで共同ローンを組むことになったから、その契約をしないといけなくて」
「なるほど。それってもちろん、アイノスってやつですよね」
「そうよ。哲夫と二人でそこで暮らすの」
「でも、結婚はまだされてないですよね」
「そうそう。プロポーズはされたから婚約関係ではあるけどね。式とか結婚の前に家かって、順番が変なんだけどね」
「いえいえ、そんなの関係ないですよ。二人で幸せになれるのなら、何でもいいじゃないですか」
「確かにユリアの言う通りね」
「でも哲夫さんも素晴らしいですね。若いのに家を買う決断をするなんて」
「昔から二人の夢だったのよ。いつか大きな家を買って暮らしたいねって、ずっと話してたの」
「へえ、なんだか羨ましいです。哲夫さんみたいな素敵な人が旦那様で、それで家を買って一緒に住むなんて」
「ユリアは何回か哲夫と会ったことあるもんね。そんなに哲夫を評価してるなんて思わなかったわ」
「いやいや、本当に素晴らしい人だと思ってますよ。先輩も勝ち組ですね」
「いや、別に勝つとか負けるとかそういう話じゃないから。でもようやく哲夫と結婚できるのは嬉しいかな。十二年も一緒にいたしね」
「本当に素晴らしい結婚ですよ」
「新しい家に引っ越したら、ユリアも招待するからね」
「本当ですか?」
「もちろんよ。きっと哲夫も喜ぶわ」
二週間後、母に電話をかけた。
「お母さん、無事にローンも通ったわ。これでいよいよ引っ越しすることになるから」
「そうかい。本当に良かったね。若くして家を買うなんて、最近じゃ珍しいと思うけど」
「二人で働いてローンを返していく予定だからね。そこまで無茶してる感じじゃないのよ」
「哲夫君とはもちろん結婚をするんだろうね」
「当たり前でしょ。私の誕生日に婚姻届を出すから」
「綾音が結婚するなんて、ちょっと現実味がないね」
「何言ってるのよ。私もう三十五歳よ。結婚適齢期なんてとっくに過ぎてるんだから」
「私の中では綾音はまだ二十歳くらいで止まってるんだよ」
「その若さを保てたらいいんだけどね。私はお母さんを少しでも早く安心させたくて、結婚を焦ってたくらいなのよ」
「そうなのかい? そんなの気にしなくていいのに。綾音は真面目な性格だし、仕事もとっても頑張ってるみたいだから、私は何の心配もしてなかったよ」
「そうだったんだ。でも私が仕事を頑張ってるのは、確実にお母さんの影響だよ。女手一つで私を育ててくれたお母さんの背中をずっと見てきたからね」
「お父さんは綾音が三歳の頃にいなくなったからね。寂しい思いをさせたと思うよ」
「そんなの全然感じてないから。私の中にあるのは、お母さんに対する感謝だけよ。もちろん恩返しもさせてもらうつもりだし。お母さんも哲夫と同居するの、受け入れてくれるよね」
「私のことなんて気にしなくていいんだよ。哲夫君が嫌なわけじゃないんだろう?」
「大丈夫。その辺は全部、話し合ってあるから」
「そういうことならいいんだけどね。とにかくまずは引っ越しを終わらせて、式を挙げたりしてから、また話し合おう」
「そうね。哲夫君ともちゃんと話してみたいから」
一週間後、哲夫から連絡があった。
「綾音、所有権移転登記が無事に完了したよ。鍵ももらったし。これでこの家はもう俺たちのものだ」
「そうなんだ。よかったわ。なんだかまだ実感が湧かないけど」
「引っ越しをしたら実感も湧いてくるだろ。準備はもうできてるのか?」
「もちろんよ。だって来週にはもう出るんだから」
「そうだな」
「でも本当に家具家電は全部あなたが払うってことでいいの? 無理してるなら私も半分出すけど」
「いや、それはいいんだ」
「ありがたいことではあるけどね」
哲夫が急に真剣な声になった。
「ちょっと話があるんだけどいいか」
「改まって、何?」
「俺は、やっぱりお前と一緒にいるのは無理だと思う」
綾音は一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「は?」
「十二年も同棲して新居も買ったけど、婚約破棄でいいか?」
「ちょっと待ってよ。何言ってるの? 婚約破棄?」
「そうなんだ。悪いとは思ってるけど、お前とこれ以上一緒にいたくないんだよ。だから別れようぜ」
「意味が分からないわ。どうしてそんなことをしないといけないの?」
「説明しただろう」
「急に無理とか言われて、説明として十分なわけないでしょ。どうして無理になったのか、理由を言いなさいよ」
「何もかもだよ。ちょっと仕事ができるからって見下されてるのが、正直無理だったんだ」
「見下してなんてないわよ」
「俺の金遣いにぐちぐち言ってきてただろう」
「それは新居を買うための貯金をしてたからよ。二人揃ってお金を貯めないと家なんて買えないから、ちゃんとしてねって言ってただけよ。別に上から指示してるとかじゃないから」
「お前はそう思ってるかもしれないけど、俺はむかついてたんだよ。こういうのは受け手側の意見を尊重するもんだ」
「だからって婚約破棄するって言うの?」
「そうだよ。お前みたいなやつと、もう一秒足りとも一緒にいたくない。お前は嫁不合格だ」
「何よそれ」
「別の女と新居で暮らすから」
「別の女? あんた、浮気してたってこと?」
「ああ、そうだよ。そっちと一緒になるからさ」
「よくもそんなことを堂々と言えるわね」
「別に何の問題もないだろう。俺たちは結婚してたわけじゃない。ただの婚約関係なんだから、浮気してたからって問題ないだろ」
「あんた、最初からそのつもりだったんでしょ。家を買ったら私を捨てるつもりで」
「そんなことないって。お前とはつい昨日まで一緒になるつもりだったんだ。でも今日になって無理だってなったんだよ」
「そんなわけないでしょ」
「信じるも信じないもお前の勝手だ。どちらにしても俺はお前と別れる。新居には俺たちが住むから、お前は来るなよ。ただ、ローンはお前もちゃんと払い続けろ。俺たちは共同ローンを組んでるんだから」
「その家に住みもしないのに、払い続けろってこと?」
「当たり前だ。俺たちの関係がどうなろうと、銀行からしたら関係ないんだから。銀行に迷惑をかけるようなことはしないでくれ」
「よくもそんな自己中なことが言えるわね」
「何とでも言ってくれ」
「相手の女は誰なのよ」
「お前もよく知ってるやつだよ。なんならお前が紹介してくれたんだぜ」
綾音の頭に、一人の顔が浮かんだ。
「もしかして、ユリア?」
「そうだよ。あいつは俺に懐いててな。可愛いやつだから、あっちと結婚しようかなって思ったんだ」
「二人して私を裏切ってたのね」
「そういうこと。分かったら婚約破棄を受け入れてくれ。新居にもお前は近づくなよ。そのマンションは今月で解約してあるから、別の適当なところに引っ越してくれ」
「……それでいいのね」
「当たり前だ」
「分かった」
「悪いな」
一週間後、綾音は哲夫に電話をかけた。
「哲夫、もう引っ越しは終わったの?」
「なんだよ、いちいち連絡してくんなよ。俺たちはもう赤の他人なんだからな」
「引っ越したかどうかくらい、教えてよ」
「はあ、まあいいぜ。俺たちはもう新居に引っ越し済みだよ。もちろんユリアもな」
「なんかユリアと話したりもしてないんだってね。ユリアがぶち切れられると思ったけど、意外だったって驚いてたぞ」
「あなたと話すこともないから、そんなことをする必要もないのよ。あの子のことを嫌いになったから」
「まあ、あまりユリアのことを悪く思わないでくれ。お前が全くもって魅力的じゃなかったっていうのが一番の原因なんだから。自分に責任があるって考えないと、成長しないぞ」
「随分と浮かれてるみたいね」
「当たり前だろ。これからこの新しい家で最高の女と、二人で幸せな生活ができるんだからな。これで浮かれないやつなんていないぞ」
「もう結婚も決まってるの?」
「ああ、そうだよ。結婚は記念日に合わせた方がいいから、半年後くらいにしようと思ってるんだ」
「私の時と同じことを言ってるのね」
「そりゃそうだろ。記念日はお前の誕生日と同日なんだから」
「どういうこと?」
「俺とユリアの出会いは、お前の誕生日だ。覚えてないか? 五年前のお前の誕生日に、ユリアが家に来てプレゼントを渡してくれただろう。そこでお前がユリアを俺に紹介したんだ。あれが俺とユリアの出会いだからな。その日を記念日にして婚姻届を出すつもりだ」
「当て付けにしか見えないんだけど」
「まあ、記念日のたびにお前の顔が浮かんで笑えるし、良くないか?」
「あんたら、本当に性根が腐ってるのね。まあいいわ。そんな人間と縁が切れてよかった」
「強がるなって」
「そんなんじゃないから。それより、あなたたちが引っ越したのなら、内容証明郵便はそっちの家に送った方が良さそうね」
「内容証明郵便ってなんだよ」
「慰謝料を請求するから、その内容証明郵便よ」
「は? 慰謝料だと?」
「当たり前でしょ。浮気してたんだから」
「俺たちは結婚してたわけじゃないぞ」
「婚約中でも、不貞行為があった方には慰謝料は請求できるのよ。あんたはその辺の知識がなかったみたいね。だからバカみたいにぺらぺら話してくれて、こちらとしてはありがたかったけど」
「マジで慰謝料を払わないといけないのか?」
「こっちはもう弁護士に相談して、請求しても問題ないってお墨付きをもらってるのよ。だからあんたは素直に支払いなさい」
「マジかよ。引っ越しで家具を買い換えたりして、出費がかなり多いのに」
「そんなの、こっちは知ったこっちゃないわ。それじゃあ、送らせてもらうからね」
一週間後、哲夫の元に一人の年配の女性が現れた。綾音の母だった。
「哲夫君、あなたはとんでもない人間だったのね」
「お母さん、どうしてこの連絡先を?」
「綾音から聞いたんだよ。どうしてもあなたに一言伝えたくて、お願いしたんだ」
「俺たちの関係はもう終わってるんです。後からぐちぐち言ってこられるのは困ります」
「俺だって慰謝料を払ったり、色々と始末があるんですから」
「そんなのは当然のことよ。綾音を騙してたんだからね」
「もういいですか? 気は済んだでしょう」
「そんなわけないでしょ。あの子は十二年もの間、ずっとあなたと結婚することを夢見ていたのよ。家を買うために貯金だってしてたのに」
「それはあんたと同居するためだったんでしょ」
綾音の母は静かに首を振った。
「家を買うって話を綾音とした時に、あなたと同居をさせて欲しいってお願いをしてきたのよ。その分、自分が多めに払うからってね。実際に頭金を出したのは綾音でした。それくらい、綾音はあなたと一緒に住みたかったのよ。家を買ったのも、きっとあなたと同居したいっていう気持ちが大きかったはずよ」
「そんなことに付き合わされるのも、俺は嫌でしたからね」
「だとしたら、最初から断ればいいでしょ」
「まあでも、家は俺も欲しかったですし。綾音の力を借りないと買えないのは分かってましたから。だから了承したんです」
「了承したふりをしていたのね」
「やめてくださいよ。俺がそれを認めたら、詐欺で訴えるつもりでしょう。そんな手には乗りません」
「あなたのやったことを、私は許しません」
「お好きにどうぞ。いつかは二人で一緒に大きな家に住めたらいいですね。まあ、そんな日は来ないと思いますが」
「そうね。でも、新しい家は探してるのよ」
「は? 何を言ってるんですか?」
「実は同居の話は、ずっと前に綾音から聞いていたのよ。私は申し訳ないと思って断ったんだけど、綾音に説得されて受け入れたわ。でもさすがに、こんな歳のばあさんが一緒に住むなんて、あなたは嫌だと思ったの。それで私もお金を貯めていたのよ。単に貯金をするだけじゃなくて、勉強をして投資をして増やしたりしてね。そのおかげで、かなりまとまったお金ができたの。それを、同居する際には二人に渡そうと思ってたのよ。ローン返済の足しにしてもらえればいいなと思ってね」
「そんなことを考えてたんですか」
「でも、その必要もなくなったから、このお金は全部綾音に渡すって伝えたのよ。そしたら綾音が、今度は私と同居したいから、そのお金を家の資金に使いましょうって言ってくれてね。今はそのための物件探しを、綾音がやってくれてるわ」
「あいつにそんな余裕があるはずが」
「だから綾音に負担をかけるつもりはないわ。全部、私が払うつもりでいるから。あの子にはこのことは内緒だけどね。きっと、申し出ても断られると思うから」
「そんなに金があるんですか?」
「ええ、そうよ。あなたも受け取れてたはずのお金だけど、もったいないことをしたわね。まあ、あなたのような最低の人間にお金を渡さずに済んで、本当に良かったわ。それじゃあ、もう二度と綾音に近づかないでね」
三日後、今度はユリアが綾音の職場に怒鳴り込んできた。
「私が左遷されるって、どういうことですか?」
「連絡してこないでくれる? あなたとはもう何の関係もないんだから」
「これが最後です。私がどうして左遷されないといけないのか、説明してください」
「上司に相談したのよ。あなたに婚約者を奪われたと伝えたわ。その上で、ユリアと同じ職場にいるのは辛いって、正直に話したの。そうしたら人事部の人間と話し合ってくれてね。コンプライアンスのこともあるから、あなたを別の部署に移動させることに決まったみたい」
「ふざけるな。男を取られたくらいで、こんな仕打ちをするなんて」
「私は幸せをぶち壊されたのよ。それなのに、よくそんなことが言えるわね」
「移動なんてできるわけないでしょ。私は哲夫君と一緒に生活をするんだから」
「そんなのは私の知ったことではないわ。辞めるなりなんなり、いくらでもやりようはあるでしょう」
「本当に冷たいわね」
「そっくりそのまま、あんたにお返しするわ。人の婚約者を奪ったことを忘れてるみたいね」
「ちょっと仕事ができるからって調子に乗ってるあんたが嫌いだったのよ。それで目の前で婚約者を奪って、私の方が上だって思い知らせてあげたの」
「婚約者を取るようなことで、どうして上だって証明できるのか、私には理解できないわ。ただ、とても傷ついたっていうのは事実よ。だからあなたがいると、仕事に支障が出るの。一応私は営業部で一番の営業成績を出してるからね」
「あんたが会社に泣きついたから」
「いや、私の訴えを聞いたというより、会社が事実を知った上で、会社の就業規則に則ってあなたを異動させたって感じよ」
「それで私は左遷されるのね」
「あんたのやったことは、職場の人間関係を壊すという就業規則違反だからね。違法な処分ではないから」
「何よそれ」
「私にやかましく言う暇があったら、今後のことをどうするか哲夫君と話し合いなさい」
「別にいいわよ。こんな会社、辞めてやるわ」
「そうするの? こっちにはもう哲夫君の家があるのよ。ずっと私たちは同じ家に住むことを夢見てたんだから。その夢が叶うっていうのに、離ればなれの生活なんてできるか」
「謝った真似はしない方がいいわよ」
「は? 何が夢が叶うだ。まだ決まったわけじゃないからね」
一週間後、哲夫から連絡があった。
「綾音、今度時間を作って話し合いをさせて欲しいんだが」
「話し合い? これ以上話すことなんてないでしょう」
「いや、駄目だ。婚約を解消するにあたって、まだ決めないといけないことが残ってる。慰謝料はもう払うって言っただろう」
「それだけじゃないわ。お互いの共有財産の清算をしないとね」
「共有財産?」
「離婚する時は財産分与しないと駄目でしょ。その婚約版みたいに考えてもらえればいいわ。二人で共有してるものをどうするか、決めないとね」
「こっちのマンションで使ってた家具とか家電は、売り値が一円もつかなかったって言ってただろう」
「そうね。だいぶ古いものだったからね」
「だったらもう何も話すことはないだろう」
「あるじゃない。あなたが住んでるその家は、私たちの共有財産よ」
「は?」
「その家をどうするか決めないと駄目よ」
「これは俺とユリアが住むって言ったはずだ」
「あんたが勝手に言っただけで、私はそんなの認めてないから。もし住むというのなら、ローンの支払いも全部あんたがやりなさい。頭金も全額返金してもらうわよ。それでもいいのなら、二人で幸せな生活を送りなさい」
「そんなの、無理に決まってるだろう」
「だったら家は売って、そのお金を折半しましょう。それが一番いい解決策よ」
「待ってくれ。俺から家を奪わないでくれ」
「奪うですって? 私から幸せも家も奪っておいて、よく言えるわね」
「それは悪かったって」
「そんな適当な謝罪で許されるわけないでしょ。その家を売ることを認めなさい」
「そんなの無理だ」
「だったら裁判所にお願いして、競売にかけてもらうわ。でも競売だと売り値はガクンと落ちるわよ。それでもいいの?」
「それしかないのか?」
「だからそうだって言ってるでしょ」
哲夫はしばらく黙り込んだ。
「分かった。お前も一緒に住もう。部屋はたくさん余ってるし。それでどうだ?」
「バカじゃないの? どうして私があんたたちと一緒に住まないといけないの」
「こっちはお母さんと同居できないかって動いてるのよ」
「それは聞いたけど、そんなことがなくても、あんたたちのような人でなしと同居なんて絶対に嫌よ。マイホームは俺の夢なんだよ」
「私にとっても夢だったわよ。あなたと二人で幸せに暮らすっていうのが、私の夢だった。でもあんたはそれをぶち壊したの。そんなことをしておいて、同居しようなんてよく言えるわね」
「分かった。こうしよう。俺はやっぱりお前と結婚するよ。俺にはお前しかいない。ユリアとは別れる。だから二人であの家で生活しよう。それなら問題ないだろう」
「問題ありまくりよ。私はあんたに対してもう愛想が尽きてるの。そんな人間と結婚なんてごめんよ」
「必ず幸せにするって」
「今更そんな言葉、使わないでもらえる? あんたは婚約者失格だから。二度と私の前に現れないで」
それから、家は売却されることになった。二人は売却額の半分ずつを手にしたが、哲夫には結局何も残らなかった。新しい家への引っ越しの初期費用、綾音への慰謝料、一括で購入した家具家電の支払い。それらを全て払った後、彼の手元にはほとんど金がなかった。
そして、哲夫が家を失い、金に困るようになったと知ったユリアは、あっさりと哲夫を見捨てた。自分の異動先の会社の近くで暮らし始めたのだ。当然、ユリアにも綾音は慰謝料を請求していたから、ユリア自身も金に困るようになった。仕事で成果を出そうと焦るあまり、同僚の足を引っ張るような行為をし、それが会社にバレて首になった。それからはアルバイトを掛け持ちしながら、ギリギリの生活を送っているそうだ。
一方、哲夫はアパートで一人、寂しく暮らしているという。広い家での生活とはかけ離れた生活だが、彼にはそれくらいがお似合いだ。
綾音は今、母と二人で暮らしている。一戸建てはさすがに難しかったので、賃貸のマンションで家賃を折半しながら生活している。母は「お金はあるから」と言ってくれたが、それに甘えたくなかった。綾音はマンションという選択肢を選んだ。大切な母と一緒にいられるのなら、どんな形でも幸せだと思えたから。実際、今の暮らしはとても充実している。この選択は間違っていなかったようだ。
