窓口の端で、古びた鞄を抱えた老人が静かに立っていた。新人行員の私、神崎蒼太が「他銀へどうぞどうぞ」と笑った瞬間、支店内の空気が凍りついた。「うちの銀行に貧乏客はいらないんだ」と課長代理の藤堂が言い放ち、老人は静かに頷いた。「では別の銀行へ預金を移させていただく」。その直後、端末に信じられない数字が並び始める。百万、五百万、一千万、一億——。電話が鳴り響き、本店から緊急連絡。窓口の隅で、老人は…

窓口の端で、古びた鞄を抱えた老人が静かに立っていた。新人行員の私、神崎蒼太が「他銀へどうぞどうぞ」と笑った瞬間、支店内の空気が凍りついた。「うちの銀行に貧乏客はいらないんだ」と課長代理の藤堂が言い放ち、老人は静かに頷いた。「では別の銀行へ預金を移させていただく」。その直後、端末に信じられない数字が並び始める。百万、五百万、一千万、一億——。電話が鳴り響き、本店から緊急連絡。窓口の隅で、老人は...

窓口の隅で、古びた鞄を抱えた老人が静かに立っていた。新人行員の神崎蒼太が「他銀へどうぞどうぞ」と笑った瞬間、定営銀行第一支店の店内に凍りつくような空気が広がった。

「うちの銀行に貧乏客はいらないんだ」

課長代理の藤堂啓介が、老人を見下すように言い放った。老人はただ黙って立っていた。

「そうか。では別の銀行へ預金を移させていただく」

「ご自由にどうぞ。手続きはここで打ち切らせてもらえますよ」

その直後だった。支店内にピン、と短い電子音が響いた。五秒後、もう一度。さらに五秒後、また。業務端末に出金通知が流れ始める。百万、五百万、一千万、三千万、一億——桁が見る間に膨れ上がっていく。

「な、なんだこれは?」

「え、まさか……」

ロビーの電話がけたたましく鳴り響いた。本店からの緊急連絡だった。窓口の隅で、老人はゆっくりと古びた鞄を閉じた。たった一人の老人によって、この銀行の運命が決まろうとしていることに、まだ誰も気づいていなかった。

地方都市の駅前に構える定営銀行第一支店。その窓口の前で、一人の老人が静かに番号札を握っていた。クオン・カザブロ、七十四歳。年季の入ったジャケットの肘には布が当てられ、手元の鞄も塗装の剥げた金具まで丁寧に手入れされていた。誰の目にも、ただの近所の年寄りにしか見えなかった。

だが、カザブロの本当の顔は、食品と不動産流通を束ねるクオンホールディングスの会長であり、この銀行の創業に関わった人物だった。「金は使うものだ。貯めるものではない」——裸一貫から一台のトラックで全国規模のグループを築いた男の、変わらぬ口癖だった。

その朝、カザブロが支店を訪れたのは、入院を控えた妻のためだった。手術費用と身の回り品を整える現金が必要だった。

呼び出しのベルが鳴り、カザブロはゆっくりと窓口へ歩み寄った。対応したのは、まだ若い新人行員の女性だった。胸の名札には「篠崎ミナ」の文字があった。

「お待たせいたしました。お客様、本日はどのようなご要件でしょうか?」

「すまんが、現金を引き出したい。内が来週から入院でね、まとまった額がいるんだ」

「お辛い中、わざわざお越しいただきありがとうございます。お引き出しの金額はどれくらいご希望でしょうか?」

「百万ほど。手術費用の立て替えに使うつもりだ」

「かしこまりました。本人確認のお手続きをさせていただきますね。少々お時間をいただきますが、丁寧に進めさせていただきます」

ミナは両手で書類を受け取り、深く頭を下げた。声に媚も軽蔑もなかった。ただ、目の前の老人を一人の人間としてまっすぐ見つめる温かさがあった。

「お足元、お疲れではありませんか? よければ椅子のある窓口にご案内させていただきます」

「お気遣いありがとう」

「少しお時間がかかりますので、お待ちの間、温かいお茶をお持ちしますね」

「ああ。いただこう」

しばらくして、湯呑みに入った緑茶がカザブロの前にそっと置かれた。湯気の立つ茶を一口含むと、カザブロの口元にかすかな笑みが浮かんだ。

「ありがとう。いい窓口さんだ」

手続きを終えたカザブロは、丁寧に頭を下げて支店を後にした。鞄の中には、きちんと束ねられた百万円が収まっていた。

カザブロの背中が自動扉の向こうに消えると、隣で書類整理をしていた若い行員が吹き出した。

「マジで丁寧にやってんすね、篠崎さん。あんな貧乏臭い爺さん、適当でいいのに」

そう言ったのは、ミナの同期入行である神崎蒼太。二十三歳。有名私大を卒業し、地元有力者の父親の七光りで育ってきた男だった。定営銀行へもコネで就職し、第一支店に配属された。

「神崎君、お客様への口の聞き方に気をつけて」

ミナは手を止め、抑えた声ではっきりと言った。だが神崎は鼻先で笑い、面倒そうに肩をすくめた。

「いやいや、あの、肘当てのジャケット見ました? 絶対に大した口座持ってないって。百万引き出すのに、汗かきながら来るような人ですよ。上得意でも何でもないっしょ」

「お客様を見た目で判断するのは、銀行員として一番してはいけないことよ」

「うわ、出ました。篠崎さんの真面目教科書発言。だからうちって実績伸びないんですよ。効率、効率」

神崎は携帯電話を取り出し、無造作に画面をタップした。指先が一瞬ためらうことなく素早く動く。

「君、まさか店内の写真を……」

「裏垢すよ。裏垢。フォロワー、支店の中じゃ俺が一番多いんで」

液晶には、カザブロの後ろ姿が映っていた。添えられた文字は「今日の貧乏客一発目」と、嘲笑を意味する複数の絵文字。匿名アカウントとはいえ、見る者が見ればすぐに分かる内容だった。神崎は毎日のようにこうした投稿を続けていた。

指先が投稿ボタンに伸びる。

「やめて。お願い。それは本当にやってはいけないことだから」

ミナは両手で神崎の手首を掴み、必死に訴えた。

「何必死になってんすか? 篠崎さんって本当に空気読めないっすよね。ま、家庭の事情で苦労してきた人って、ああいう貧乏ジジイに同調するんすかね」

「私の家のことと、お客様への態度は関係ないわ」

「関係あるっしょ。同じ匂いがしますもん」

その言葉に滲む悪意に、ミナの喉の奥がぐっと詰まった。それでもミナは視線をそらさなかった。家庭の事情が人事担当に伝えてあることも、影で噂されていることも、ミナは薄々気づいていた。

その時、自動扉が再び開いた。カザブロがミナのいる窓口の前で立ち止まった。

「先ほどの印鑑を忘れてしまったようでね」

「あ、こちらですね。申し訳ございません。気づいておらず」

ミナはテーブルの隅に置いてあった印鑑を渡した。その時、神崎はとっさに携帯を背中に隠し、何事もない顔で書類整理に戻った。カザブロは気づいたそぶりもせず、ミナに深く頭を下げた。

「ありがとう。お手数をかけたね」

「いえ、ありがとうございます。お気をつけて」

「やれやれ、忘れ物か。ジジイ、聞こえてたんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ」

ミナの胸の奥に、声にならない悔しさが滲んでいった。

それから数日が過ぎた頃、支店の空気はすっかり変わっていた。その中心にいたのが、異動して二か月の課長代理、藤堂啓介だった。三十三歳。私立大経済学部卒の自称エリート。神崎が父親の名を持ち出したのをきっかけに、藤堂は急速に神崎と息を合わせていった。支店長のオオサワ・タカシは終日奥の支店長室で法人顧客の対応や本店との折衝に追われていた。窓口フロアの実質的な運営は、藤堂に委ねられていた。

「神崎君、君の言う通りだ。うちの支店は客の振り分けが甘い。上得意と一般の線引きをもっと明確にする必要がある」

「ですよね。預金額一千万以下は、まとめて自動受付に回せばいいんすよ。窓口の手間が省けます」

「ああ、それがいい。手続きの遅い客は利益率が下がる。資源配分の合理化だ」

藤堂は自分の口座データ画面に「有料客」「一般客」「お断り検討」の三つのラベルを書き込み始めた。本店の規定にはない、独自の分類だった。

その朝、カザブロが再び支店を訪れた。妻の入院が長引く見通しとなり、定期預金の一部を解約してまとまった資金を手元に置いておくためだった。やがてカザブロの番号が呼ばれ、ミナの窓口へ案内された。

「カザブロ様、お待たせいたしました。本日もお越しくださり、ありがとうございます」

ミナが立ち上がろうとした瞬間、藤堂が背後から端末を操作し、カザブロの受付を別の窓口へ回した。

「課長代理、カザブロ様は私の担当ですが」

「篠崎君は新人だ。待たせている他の客の対応に集中しなさい。カザブロ様は神崎君の窓口へ回す」

「しかし……」

「君に決定権はない。私の判断だ。上の意向に逆らうつもりか」

藤堂の声は、言い逃れを許さないものだった。ミナは言葉を飲み込み、書類を握りしめた。カザブロは何も言わずに番号案内に従い、神崎の窓口の前へと歩み寄った。

「カザブロ様、毎度どうも。本日は定期預金のご解約ですね。えっと……あ、ダメだこれ。届出印と形が違うみたいなんすよ」

「同じ印だ。四十年、この一本しか使っておらん」

「いや、機械がそう言ってるんで。規定上、印鑑証明書の原本がないとお手続きできないっすよ。じゃあ、もう一度、解約書を最初から書き直しでお願いします」

カザブロは黙って新しい用紙を受け取った。長年使い込んだペン先には迷いがなかった。書き終えた書類を窓口へ差し出す。

「ああ、すみません。解約理由の欄、『家庭の事情』だけだと弱いすよね。もうちょっと具体的に書いていただけます? あ、それと、満期前解約の利息額の説明書。一項目ずつ読み上げますんで、はいってお返事いただけます。これも規定なんで」

「承知した」

神崎の口元に薄い笑みが浮かんだ。書類には何の問題もなかった。だが神崎は「規定」という言葉を盾に、カザブロを三度、記入台と窓口の間で往復させた。

「課長代理、カザブロ様への応対は明らかに過剰です。書類は揃っていらっしゃいます」

ミナは必死に気持ちを落ち着けて、藤堂の前に立った。声が震えている。それでも目だけはまっすぐに藤堂を捉えていた。

「君は黙っていなさい。新人が意見するな。月評価に響くぞ」

「……はい。分かりました」

ミナは唇を噛みしめた。書類を書き直し終えたカザブロは、ゆっくりと立ち上がった。古びた鞄を抱え、出口へ向かう途中、すれ違い様にミナへ短く頭を下げた。

「ありがとう」

たった一言だった。だが、その声には、嫌がらせを受けながらも自分のために抗議してくれたミナへの、静かな感謝が滲んでいた。ミナの背筋がわずかに伸び、窓口の名札を握りしめる指先に、もう一度力が戻った。

しばらくして、カザブロは再び支店を訪れた。今度は別の要件だった。神崎の窓口を素通りし、ロビーの中央で藤堂をまっすぐに見据える。

「課長代理さん、少しよろしいか。お伺いしたいことがある」

藤堂は面倒くさそうに近づいた。

「何でしょう? カザブロ様、簡潔にお願いします。本日も大切なお客様をお待たせしておりますので」

「うむ。実は、長年こちらでお世話になってきたが、別の銀行へ預金を移したいと考えてな。手続きを教えてもらえんかね」

藤堂は思わず隣にいた神崎と顔を見合わせ、肩をすくめて吹き出した。

「他の銀行へ移されるということですか? 百万程度のために、わざわざそのようなご相談を」

「そうですか。じゃあ書類お渡ししますね。けど、口座の解約って結構面倒すよ。証明書の原本も必要ですし、書類も何種類も。まあ、何度か通っていただければ、そのうち終わるかと。どうぞどうぞ。手続きはここで打ち切らせていただくことも可能です。どちらでもお好きにお選びください」

ロビーには神崎たちの嘲笑だけが響いていた。窓口の隅で、ミナの顔が青ざめた。長年通ってくださっていたお客様が銀行を変えると申し出ている。それなのに、引き止めるどころか、嘲笑で見送ろうとしている。相手が誰であっても、銀行員としてこれは決して起きてはならないことだった。

「課長代理、お待ちください。カザブロ様、どうかもう一度、よくご検討ください」

ミナは反射的に窓口から飛び出し、カザブロの前に駆け寄った。

「いや、君が悪いのではない。気にしないでくれ」

「篠崎、席に戻れ。お客様のご意向を尊重する。それが銀行員の務めだ」

藤堂の口元には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。カザブロはゆっくりとミナに向き直り、目を合わせた。

「君には世話になった。短い間だったが、君のような行員さんに出会えて、私は嬉しかったよ。君のような行員さんがいる限り、この銀行もまだ捨てたものではない。それだけは覚えておいて欲しい」

ミナの喉の奥がぐっと詰まった。何か言葉を返したかった。だが、声にならなかった。カザブロは深く頭を下げると、鞄を抱え直し、ゆっくりと支店を後にした。

「何お時代劇みたいなこと言ってんすかね」

「全くだ。あんな爺さんとは付き合ってられん」

自動扉が閉じる音と入れ替わりに、藤堂と神崎の笑い声がロビーに響き渡った。

「あのジジイ、本気で他の銀行に移すつもりっすかね」

「まあ無理っしょ。年寄りが書類何枚も書けるわけないっすよ。貧乏人の意地だ。放っておけばいい。減るのは件数だけで、収益には響かない」

笑い声を背に、ミナは俯いたまま両手を強く握りしめた。指の関節が白くなる。涙が出そうになるのを必死にこらえた。

その日の夕暮れ。カザブロの自宅の書斎には、夕日が静かに差し込んでいた。カザブロは革張りの椅子に深く腰を下ろし、机の上の鞄に視線を落とした。今日、支店で書類を三度書き直させた神崎の薄ら笑い、藤堂の見下すような視線、そして窓口の隅で自分のために震える声で抗議してくれた若い行員の姿。

「こうなったのかね」

独り言が、誰もいない書斎に静かに溶けていく。カザブロは深く息を吐き、長年連れ添った銀行への最後の決断を下した。机の上の電話をゆっくりと取る。

「会長、いかがなさいましたか?」

クオングループ秘書室長のクラモチだった。カザブロの顔色だけで、何かが起きたことを察したらしい。

「例の支店を、少し動かしてもらえるかね」

「承知いたしました。グループ全社のメインバンクを他へ切り替える準備に入らせていただきます」

「ああ。ただし、時期は私が指示するまで動くな。連絡があったら、五秒間隔で振り込みを始めてくれ」

「かしこまりました」

「これは教訓を与えるための行いだ。情けでは人は変わらん。ハミ遠取には、明朝、私が支店に入るタイミングに合わせて、本店から駆けつけてもらうように伝えてくれ」

「ご決意、確かに受け承りました。それと、クラモチ。お前自身も、明朝、支店まで迎えに来てくれ」

「会長……」

「あの場ではっきりと幕を引く。長年世話になった銀行だ。最後に私が取れるせめてもの礼儀だ」

「承知いたしました。十時きっかりにお迎えに上がります」

電話を切ると、カザブロは机の引き出しから一枚の古びた写真を取り出した。駆け出しの頃の自分と、若き支店長だったオオサワ・タカシが並ぶ記念写真だった。

「オオサワ君だけは、巻き込みたくないのだがな」

写真の中の若き日のオオサワに向かって、カザブロは小さく呟いた。窓の外では、夕日が街並みを淡い赤色に染めていた。

同じ頃、定営銀行本店の遠取室。遠取のハミ・ヨシアキは月例会議の資料に目を通していた。今期の業績は堅調——目の前の数字はそう語っていた。その時、机の上の直通電話が静かに鳴った。

「ハミ遠取様でいらっしゃいますか。クオングループ秘書室長のクラモチと申します」

その名前を聞いた瞬間、ハミの背筋がわずかに伸びた。クオンホールディングス——銀行の最大の取引先。その秘書室長が夕刻に直接電話をかけてくることなど、過去に一度もなかった。

「本日、会長が貴行の第一支店にお立ち寄りになりました。会長はご立腹でいらっしゃいます。本日付けで、当グループ全社のメインバンクを他行へ切り替えるご決断をなさいました」

ペンを握るハミの手から、ペンがことりと机に落ちた。

「明朝、会長が再度第一支店にお越しになります。ハミ遠取には、その時間帯に合わせて現場にお越しいただきたい。これが会長のご意向でございます」

「……分かりました。必ず伺います」

電話が切れた。受話器を戻したハミの手が震えていた。クオン・カザブロ——この銀行の創業に関わる筆頭株主の一角。その方が、自分たちの銀行で何らかの扱いを受けている。ハミは勢いよく椅子から立ち上がった。額には冷たい汗が吹き出している。

「今すぐ副取と法務部長、人事担当役員を遠取室に呼んでくれ。緊急だ。第一支店の業務端末ログ並びに行員のSNS投稿履歴、五分以内に全件保全しろ。長、私は直接第一支店へ向かう。車を六時半に手配してくれ」

「かしこまりました」

通話を切ったハミは、ネクタイを乱暴に緩めた。下手をすれば、銀行の業績そのものが揺らぎかねない。明朝までに、できることを全てやる。遠取室の扉が慌ただしくノックされた。銀行全体が、これから一夜かけて明朝の対応に向けて動き始める。その指揮を取るのは、自分しかいなかった。

一方、ミナのアパートでは、夜の静けさが六畳一間の部屋を包んでいた。机の上には、母親の医療費の領収書と弟の学費の控えが並ぶ。ミナはそれを一枚ずつ指先でそっと撫でた。引き出しから、家族四人で撮った古い写真を取り出す。父の隣で、母が穏やかに微笑んでいる。

「お母さん……」

写真を胸に当てたまま、ミナは先週の見舞いを思い出していた。病室のベッドに横たわる母が、痩せた手でミナの手を握る。

「水希、仕事はどう?」

「うん。毎日、いろんなお客様がいらっしゃるよ」

「そうねえ。ミナ」

「何、お母さん」

「お金や立場で人を判断せず、誰に対しても誠実でいなさい。それがお父さんとお母さんがあなたに残せる、たった一つのことなの」

「うん」

「お母さんもね、若い頃、貧しくてどうしようもなかった時があったわ。その時に、ある方から優しくしてもらってね。その方の顔は、今でも忘れない。だからね、あなたも、誰かにとってそういう人でいてあげてね」

ミナの脳裏に、あの穏やかな老人の姿が浮かんだ。肘当てのジャケット、丁寧に手入れされた鞄。最後に向けてくれた「ありがとう」の一言。

「お母さん、私、あの方に誠実でいられたかな?」

明日出勤すれば、藤堂と神崎の冷たい視線が待っているだろう。お客様を引き止めようと窓口を飛び出したことで、月評価に響くと藤堂は確かに言った。首になる可能性さえある。家族の生活は、自分の肩にかかっている。それでも——

「お母さん、私、後悔してないよ」

写真をそっと机に戻し、ミナは明かりを消した。窓の外では、町の灯りが夜の闇の中で静かにまたたいていた。

その夜、定営銀行第一支店の支店長室。翌日、支店長のオオサワが本店の月例会議で終日不在になることを、藤堂は早くから把握していた。藤堂は誰もいない支店内のキャビネットから、ミナの評価資料を引き抜き、机の上に並べた。書類差し戻し率、待ち時間の平均、月の取引件数——どの数字も、藤堂が密かに調整を加えれば最下位に落ちる程度の項目だった。

藤堂の頭の中に、昼間の光景が何度も蘇る。新人の女がロビーの真ん中で自分の判断に逆らった。客の前で課長代理の自分が恥をかかされた。その感覚が、藤堂のプライドをじわじわと焼いていった。

「新人の分際で」

藤堂は携帯を取り出し、神崎の番号にかけた。

「神崎君、明日、支店長が本店会議で終日不在だ。その間に、ミナの本人面談を済ませる。立ち合い人を頼む」

「マジっすか? 了解です。エリート課長代理の右腕、しっかり務めますんで」

「業績資料は私の方で揃えておく。本店人事部に上げれば、降格・配置換えは確実だ。それと、例の老人客の件。何か後から問い合わせが来た場合は、全て、篠崎の窓口応対の不備だったということに揃えておく」

「ああ、そっか。あの貧乏ジジイの件も、ミナのせいにしとけば課長代理は無傷っすね」

「当然だ」

電話を切ると、藤堂の口元に薄い笑みが浮かんだ。新人の女一人を切り捨てれば、全てが丸く収まる。藤堂はそう信じて疑わなかった。

翌朝、支店の空気はこれまでとは違う張り詰めたもので満ちていた。本店の月例会議でオオサワ支店長は朝から不在。窓口運営の全権は、藤堂が握っていた。通勤鞄を置いたミナの手が、わずかに震えている。昨夜、自分自身に誓った覚悟が、今まさに試されようとしていた。

その時、事務室の片隅で、神崎の携帯に立て続けにメッセージの着信音が響いた。何気なく画面を見た神崎の顔が、みるみる青ざめていく。

「あ、あれ? 嘘でしょ?」

「神崎君、どうした?」

「やばいです、課長代理。俺の裏垢、特定されました」

「裏垢? 支店内で客の写真とか撮って投稿してた、あの匿名アカウントが?」

藤堂は神崎の手から携帯を奪い取った。タイムラインには、神崎が投稿していた支店内の写真と嘲笑の言葉が、何百件ものリツイートと共に並んでいる。コメント欄には、すでに支点名と神崎の本名らしき情報が書き込まれ始めていた。

「バカ者。顧客情報の流出だ。店内の備品配置から、うちの支店だと特定されているじゃないか」

「す、すみません。課長代理、でもこれ全部、俺一人でやったことで、課長代理は何も……」

「当たり前だ。私が指示した記憶など一切ないぞ。業務改善の議論とSNS流出を一絡げにするな」

藤堂の口元に冷たい笑みが戻った。

「いいか、神崎。これはお前の独断専行だ。それから、同期のミナがお前を止められなかった、教育不足が真の原因だ。そういう筋書きで上申書に書き加えておく」

神崎の脳裏に、一瞬あの日の光景が蘇った。両手で自分の手首を掴み、必死に止めようとしたミナの顔。だが神崎はその記憶を奥歯で噛みつぶした。

「そうっすね。全部ミナが悪い。あいつが俺を止めてくれなかったから」

こびるような笑顔の裏で、神崎は自分が今嘘をついたことを痛いほど自覚していた。通路の影で立ち止まったミナの耳に、その会話の断片が届いていく。ミナは両手を強く握りしめた。

そこに、自動扉が開く音が響いた。古びた鞄を抱えたカザブロが、支店に足を踏み入れる。通路から戻ろうとしていたミナの足が、一瞬止まった。カザブロは藤堂と神崎には目もくれず、一直線にミナの窓口へと歩み寄った。

「カザブロ様、本日もお越しいただき、ありがとうございます。私の力不足で、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」

「君が謝ることは、何一つない」

すると、藤堂と神崎が薄笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。

「カザブロ様、他の銀行へのお手続き、本日もどうぞどうぞ」

神崎の笑い声に、藤堂も肩を揺らして吹き出した。ロビーが息を飲んだように静まり返った。

カザブロは古びた鞄をゆっくりとカウンターの上に置き、低く落ち着いた声で告げた。

「では、そうさせてもらおう」

神崎の笑みが一瞬だけ止まった。その直後だった。支店内のどこかで電子音が鳴った。ピン、と短く鋭い音。五秒後、もう一度。ピン。さらに五秒後、ピン。業務端末の画面に、出金通知が感覚で映し出され始める。

百万、五百万、一千万、三千万、五千万、一億——容赦なく桁が膨れ上がっていく。全て、かつての口座からの振り込みだった。

「待て、どれもうちの大口口座だ……」

藤堂が画面を覗き込んだ瞬間、その表情が固まった。

「クオン・カザブロ。クオンホールディングス株式会社。クオン不動産、クオン流通サービス、クオンフードチェーン……」

経済誌の見出しでしか目にしないような大企業群の名前が、画面いっぱいに並んでいった。ミナの目も、自分の窓口の端末画面に釘付けになっていく。

「クオンホールディングス……地元商会の広報誌で何度か見た名前。県内最大の食品流通グループ。その会長が……毎月のように肘当てのジャケットで来店していった、あの穏やかな老紳士が……」

ミナは思わず両手で口を覆った。神崎の顔が一気に青ざめていく。

「クオンホールディングス……まさか、あのクオングループの……」

その時、ロビーの電話がけたたましく鳴り響いた。受付の行員が震える手で受話器を取り、藤堂に差し出す。

「課長代理、本店の遠取からです」

「遠取から?」

藤堂が受話器を耳に当てた瞬間、遠取の怒声が漏れ聞こえてきた。

「藤堂、今誰を相手にしているか分かっているのか? 私は向かっている。全ての記録を保全しておけ」

「え? あ、はい」

電話が切れた。藤堂の手から受話器が滑り落ちる。カザブロは表情を変えず、鞄から一枚の名刺をカウンターの上に置いた。

「クオンホールディングス株式会社 代表取締役会長 クオン・カザブロ」

「ご希望通り、他の銀行への切り替えを進めてもらっている。クオンホールディングス全社の口座も、私個人の預金も、全て別の銀行へ移す」

「お、お待ちください。カザブロ様。これは何かの行き違いかと……」

「行き違いではない。私は正式に銀行を変えるつもりで来ている」

藤堂は返す言葉を見つけられなかった。

「カザブロ様、もしかして最初からこうなることを……」

「いや、こうなる前に、君たちが気づいてくれることを願っていた。残念ながら、間に合わなかった。それだけだ」

支店のスピーカーから、店内放送が流れる。クオンホールディングスグループ全社並びにクオン・カザブロ名義の個人口座、当行との取引契約解除の届け出を本店が正式に受理した——という内容だった。ロビーの若手行員が、思わず口を押さえる。この支店の本年度の業績見通しは、たった今、吹き飛んだ。

「ま、待って。違います。これは俺のせいじゃ……」

「神崎、お前が貧乏なジジイだなどと軽々しく口にしたから、こうなったんだ」

「いや、課長代理が客の振り分けの判断を全部指示していたじゃないですか」

「お、お前、逆らうのか」

責任の押し付け合いがロビーに響き渡る。カザブロは二人を見ようともしなかった。

「篠崎さん、明日からも誇りを持って、この窓口に座っていなさい。君の正しさは、この私が証明する」

「クオン様……」

カザブロは鞄をゆっくりと閉じた。窓口の中で、ミナの目から涙がぽろりとこぼれ落ちた。もう、誰も笑ってはいなかった。

直後、自動扉が勢いよく開いた。

「申し訳ございません。遅くなりました」

ロビーに駆け込んできたのは、本店の月例会議に出席していたはずのオオサワ・タカシ支店長だった。会議の途中、本店から緊急連絡を受け、急遽タクシーで駆けつけてきたのだ。オオサワはその場に膝をつき、深く頭を下げた。

「会長、本当に、本当に申し訳ございませんでした。窓口運営を藤堂課長代理に任せきりにしていた、私の責任です」

「オオサワ君、久しぶりだな。君が支店長だった時代に、地元の小さな工場への融資を、上司の反対を押し切って通してくれた。その出来事を、私は今でも覚えている」

「会長……」

オオサワの口元がわずかに震えた。同じ支店にいながら、一人だけカザブロに温かく迎えられているオオサワの姿を、藤堂と神崎は信じられない思いで見つめていた。

その時、支店の前に黒塗りの公用車が滑り込むように止まった。降り立ったのは、銀髪に整えた白い口髭の紳士。定営銀行の遠取、ハミ・ヨシアキだった。本店から駆けつけ、ネクタイの緩みも直さずにロビーへ飛び込んできた。

「クオン会長、本当に、本当に申し訳ございません」

ハミはそのままロビーの中央で、深々と頭を下げた。銀行のトップである遠取のその姿に、藤堂と神崎の表情が完全に凍りついた。

ちょうどその時、ロビーの壁時計が十時を告げた。自動扉が再び静かに開く。グレーのスーツに身を包んだクラモチが、ロビーに足を踏み入れた。

「会長、お迎えに参りました。十時きっかりでございます」

その一言で、ロビーの空気が変わった。全ては、カザブロの事前の指示通りに進んでいた。神崎の手から業務端末が滑り落ち、乾いた音を立てる。

「クオン会長、何か誤解があるかと。私は現場の混乱を収めようとしただけで……」

藤堂の額から油汗が滝のように流れ落ちる。カザブロは視線を藤堂に移した。

「現場の混乱を作ったのは君だ。客の振り分けに『お断り検討』などというラベルをつけ、新人の篠崎さんに責任を押し付けようとした。その上、行員のSNSの問題まで、彼女のせいにしようとした」

「いえ、いえ。それは……」

「藤堂君に申し上げる。本店で保全した支店内の防犯カメラ映像と、神崎行員のSNS投稿履歴。そこには、篠崎ミナ行員が神崎行員の投稿を、体を張って止めようとしていた場面が、はっきりと記録されている」

藤堂の顔がみるみる青ざめていく。

「篠崎行員は、新人として、止めるべきものを止めようとしていた。それを『教育不足』と書き換えて上申書に上げる。その筋書きを、私は許さない。嘘で塗り固めた筋書きで、新人の若い行員を切り捨てる。それが君たちの『業務改善』だったのか」

藤堂は返す言葉を見つけられなかった。

「藤堂、今、お前が口を開くたびに、この銀行の信用が失われていくんだ。黙っていなさい」

ロビーの隅で様子を見ていた行員たちから、小さく息を吐く音が漏れた。カザブロはゆっくりと神崎と藤堂を見た。

「私も若い頃は、何度も見下されてきた。この鞄も、古い上着も、長い間一緒に働いてきた、大事なものだ。見た目だけで人を判断する人間に、本当の信用は築けない。金は、使ってこそ意味がある。そして、何を目的として使うかが重要なのだ。人の価値を決めるためのものじゃない」

ロビーは水を打ったように静まり返っていた。行員たちはただ黙って、カザブロを見つめていた。

「会長のお言葉で、銀行として一番大切なことを、改めて思い出しました。立場の強い者に流されれば、判断を誤ることもあります。本日あったことを、どうか忘れないでください」

クラモチの声に、ロビーにいた者たちが深く頭を下げた。

「会長、お願いします。もう一度だけ、私にチャンスを」

藤堂は声を震わせながら、必死に言葉を続ける。神崎も青ざめた顔のまま、床に手をついて頭を下げた。

「会長、すみませんでした。俺、ただフォロワーが欲しくて……」

カザブロは二人を黙って見つめていた。やがて、ゆっくりと首を横に振った。

「君たちは、途中で人を見下すのをやめることもできたはずだ。改善する時間も十分にあった。しかし、何も変わらなかった。傲慢な行員のままだった。君たちのような行員がいたのでは、この支店に未来はないよ」

「そ、そんな……」

その言葉に、藤堂と神崎は何も反論できなかった。カザブロは窓口の中で立ち尽くすミナへ、ゆっくりと歩み寄った。

「篠崎さん」

「はい」

「君は何も間違っていなかった。今日のことを、生涯の誇りに思いなさい」

「会長……」

「君のような行員さんがいてくれて、私は救われたよ。その当たり前のことができない人間も、多いのだよ」

「クオン様、ありがとうございます」

ミナの喉の奥がぐっと詰まった。涙が堰を切ったように溢れ出す。ロビーの隅で見守っていた行員たちが、誰からともなく深く頭を下げた。窓口で立ち尽くす新人行員に向かって、支店内の頭が一斉に下がっていく。

「篠崎さん、今日のことは、本店も含め、必ず正式に評価させていただく」

「うむ。では、私はこれで失礼する」

カザブロは鞄を抱え直した。クラモチがロビーの扉の前で静かに頭を下げて待っていた。外に出ると、午前の柔らかな光が街並みを淡く染めていた。カザブロは鞄を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。

事件からわずか数時間後のことだった。全国のニュースが一斉に報じた。大手地方銀行・定営銀行第一支店、新人行員によるSNS顧客情報流出事件。そしてSNSでは、神崎の本名、出身大学、実家の住所までもが特定され、晒されていた。地元の有力者として知られた神崎の父親は、その夜のうちに、地域の役職という役職全てから辞任を申し出た。長年築き上げてきた家の信用は、息子のたった一日の所行で地に落ちた。神崎の自宅には、終日報道陣と嫌がらせの電話が鳴り続けた。

翌朝、神崎蒼太の懲戒解雇が通知された。同日、クオンホールディングス法務部より、肖像権侵害、名誉毀損、個人情報保護法違反の疑いで刑事告訴、さらに信用毀損による民事訴訟が提起された。

「お前は本当に、なんてことをしてくれたんだ」

「お父さん、ごめんなさい。お父さん……」

父親はもう、息子の言葉に答えなかった。金融業界はもちろん、どの業界も神崎の名前を採用する者はいなかった。二十三歳の未来が、たった一日で完全に閉ざされた。

藤堂啓介の末路も、同じく容赦なく訪れた。当初、藤堂への処分は三階級降格とされていたが、調査が進むにつれて、客の振り分けやミナへの責任転嫁の画策が業務端末の操作ログから明るみに出た。ハミ遠取は藤堂への処分を即日、懲戒解雇に変更した。背任並びに業務上の重大な背信行為——その認定だった。クオンホールディングス法務部は、信用毀損による損害賠償請求訴訟を正式に提起した。請求額は、グループ全社が他行へ口座を移したことで生じた事務処理コストを含め、億単位に上るとされた。卒業学部の同窓会は、藤堂の名前を会員名簿から除名した。エリートのコミュニティは、落ちぶれた一人を容赦なく切り捨てた。

その夜、藤堂の自宅には、妻からの一通の手紙が置かれていた。中には署名済みの離婚届と、子供を連れて実家に戻る旨の短い書き置きが記されていた。

「私のキャリアが……家族が……」

帰ってくる声は、もう誰からもなかった。三十三歳のエリートは、たった一日で全てを失った。

事件の波紋は、神崎と藤堂の二人だけで終わらなかった。翌週、金融庁による定営銀行への立ち入り検査が正式に発表された。クオンホールディングスのメインバンク変更を受けて、関連企業や他の大口顧客も次々と他行への口座移動を申し出る、連鎖反応だった。定営銀行の株価は、事件発覚から三日で過去五年で最大の下落幅を記録。ハミ遠取は引責辞任を自ら申し出た。第一支店の存続そのものが危ぶまれる事態となった。

支店の窓口で、ミナはいつもと変わらず、目の前のお客様一人一人に深く頭を下げていた。

事件から数日後、クオンホールディングス本社の会長室。カザブロは机の上に広げた一枚の資料に視線を落としていた。地域に根差して五十年、多くの家族の生活を支えてきた支店。窓の外には、一週間前と変わらない町の景色が広がっていた。

「会長、第一支店の存続が、正式に協議に上がっているとのことです」

「篠崎さんは、今日も窓口に立っているそうだな」

「はい。変わらず誠実に、お客様に向き合っておられるとのことです」

カザブロはしばし目を閉じた。

「潰すわけにはいかんな」

「と言いますと?」

「グループの関連企業のうちいくつかは、第一支店に口座を戻す。ただし、条件付きだ」

「どのような条件でございますか?」

「行員教育の徹底、シニア顧客対応の専門部署の設置。そして、篠崎さんを、その中心に据えること」

「会長、それは……あの新人の行員さんをですか?」

「あの場で、たった一人、誠実に向き合ってくれた行員だ。彼女が見ているものを、銀行全体が学ぶべきだ」

クラモチはしばらくカザブロの顔を見つめてから、深く頭を下げた。

「承知いたしました。会長のご決断、確かに受け承りました」

カザブロは机の引き出しから一枚の書面を取り出した。

「それと、私財を投じて、財団を一つ立ち上げる。シニアと若い行員の橋渡しをする組織だ。クラモチ、準備を進めてくれ」

「会長、その財団の名前はいかがいたしましょうか?」

「クオン触れ合い財団としよう。私が若い頃に教わった、人と人との触れ合いの大切さ。それを次の世代に繋ぐ場にしたい」

「素晴らしいお名前でございます」

カザブロはゆっくりと頷いた。窓の外の明かりが、夕闇の中で静かにまたき始めていた。

季節が一つ巡った。本店の研修期間を経て、篠崎ミナはクオンホールディングス本社内に新設された「クオン触れ合い財団」の窓口担当として、新たな勤務地での配属を受けた。財団は、カザブロが私財を投じて立ち上げた、シニア層と若手行員の橋渡しを目的とする組織だった。財団の最初の事業として、定営銀行との共同によるシニア顧客対応研修プログラムが立ち上がった。引責辞任を経て、遠取の職を退いたハミ・ヨシアキは、自ら理事の一人として現場視察を欠かさなかった。

第一支店の窓口も、すっかり様変わりしていた。本店営業部へ異動したオオサワの後任には、若手の女性支店長が着任し、ロビーには「人への敬意を忘れない」と書かれたカザブロの色紙が飾られている。ミナの母の入院費用は、財団の医療支援基金から毎月の補填が始まり、弟の学費にも奨学金の補助が手配された。

ある秋の日、ミナは久しぶりに母の病室を訪れていた。窓辺の花瓶では、淡いピンクのコスモスが控えめに揺れている。ベッドに半身を起こした母が、痩せた手でミナの手を握った。

「ミナ、新しいお仕事はどう?」

「うん。お母さんがずっと教えてくれた、『誠実でいなさい』っていう言葉。それを後輩の行員さんたちに伝えていく仕事なの」

母の目に、ゆっくりと涙が滲んだ。

「ミナ……ちゃんと覚えていてくれたのね」

母は痩せた手で、ミナの頬をそっと撫でた。

「うん。お母さんのおかげだよ。ありがとう」

「あなたは、私の誇りよ」

母の手を握るミナの指先に、もう震えはなかった。

その秋の日の午後、財団の小さな控室で、ミナはカザブロに深く頭を下げた。

「会長、私はこれから、何をお返しすればよろしいのでしょうか?」

「お返しなどいらんよ。君は、君のところに来てくださるお客様に、誠実な親切をこれからも続けてくれればいい」

「はい。一人一人のお客様に、誠実に向き合ってまいります」

「君のような行員さんが、これからの銀行を支えていてくれる。そう思えば、明日が来るのが楽しみで仕方ないよ」

「会長、まだまだご活躍ください。私たちがしっかり学ばせていただきますから」

穏やかな秋の午後。ミナは今日も、目の前のお客様一人一人に、変わらず誠実に接していた。

Thumbnail