その日、夫はいつもより念入りに髪を整え、新しいジャケットを羽織った。一見すると真面目な会社員が取引先との会食に向かう姿。しかし私は知っていた。夫が向かう先に、取引先は待っていない。ましてや会社でもない。
「わかりました。お気をつけて」
笑顔で送り出すと、夫は何の疑いも持たず玄関のドアを閉めた。私は夕食を済ませると、準備していたメールを開いた。送信先は、夫が待っていた相手。
「あなたが待っていた日がようやく来ましたね」
そして、私は送信ボタンを押した。
私の名前は美保。五十四歳。夫の啓介とは結婚して二十四年になる。三十代半ばでようやく授かったのが、一人娘の優香だった。啓介は大手企業に勤める会社員で、生活に不自由はなかった。贅沢はできなくても、住宅ローンを払い、娘を習い事に通わせ、年に一度は家族旅行へ行ける。私はそれで十分幸せだった。
ただ、夫は仕事が忙しく、家事や育児のほとんどは私が担っていた。それでも毎月決まった生活費を入れてくれて、娘の誕生日には必ずケーキを買って帰ってくる。夫は仕事の愚痴も言わず、家族を大切にする人だった。
そんな日々に異変が起きたのは、娘が中学三年生になった春のことだった。それまで毎月三十二万円入れていた生活費が、突然二十五万円に減った。教育費も増えているのに、どうして減らすのか。そう尋ねると、夫は面倒そうにネクタイを緩めた。
「俺も立場が上になったんだ。部下との付き合いや接待に金がかかる」
「会社から経費は出ないの?」
「全部は無理なんだ。お前は家にいるから分からないんだよ」
その言葉に引っかかるものがあったが、受験を控えた娘の前で言い争いたくなくて、無理やり納得した。ところが半年後、生活費はさらに二十万円まで減った。その一方で、啓介は急に見た目を気にするようになった。髪をこまめに染め、若い人向けの香水を使い、休日には見たことのない服で出かける。
「会社の若い連中と並ぶと、老けて見られるからな」
そう笑っていたが、嘘の隠し方は驚くほど雑だった。スーツのポケットから出てきた二人分の映画の半券。家族では行ったことのない店の領収書。夫がお風呂に入っている時に目に入ったスマホの画面には、「今日も若くてかっこよかったよ」という女性からのメッセージ。
私は夫が不倫をしていると確信した。問い詰めようと思えば、その日のうちにできた。しかし、娘は高校受験を目前にしていた。ただでさえ不安定な時期に、父親の不倫まで背負わせたくない。高校に入るまで、せめて卒業するまで。そう考えていた時、知らない番号から電話がかかってきた。
「啓介さんの奥様ですか?」
若いというより、落ち着いた女性の声だった。
「私、啓介さんと真剣にお付き合いしています」
胸の奥が冷たくなった。それでも私は、できる限り平然を装った。
「夫からは、どのように聞いているのですか?」
「夫婦関係はもう終わっていると。娘さんが成人したら必ず離婚すると言っています」
女性は自信に満ちた声で続けた。
「私もそれまでは待つつもりです。だから、邪魔をしないでください」
私は思わず小さく笑ってしまった。夫が娘の成人を待っている。家族のことを思ってのことなのか、自分が責められないタイミングだと思っているのか。ただ、滑稽だった。その瞬間、私も同じ日まで待つと決めた。
「わかりました。娘が成人するまでは、こちらも何もしません」
電話先の女性は、私が負けを認めたと思ったのだろう。「話の分かる方で助かりました」と言って、電話を切った。
ただ、電話の途中で妙なことを言っていた。「啓介さんは四十代半ばで、まだこれからの人ですから」。当時の夫は四十九歳。多少若く言う程度ならまだしも、夫は女性に四十一歳だと名乗っていたのだ。白髪を染め、年齢の話を避け、車内でも自分の経歴を詳しく話さない。愛人は夫を、自分より少し年上の四十代だと信じているようだった。私は訂正しなかった。夫の嘘を暴くのは、今ではないと思ったからだ。
それから五年間、生活費は減ったが不自由はなかった。夫は不倫がバレないように、ボーナスだけはちゃんと渡してくれた。そして私は、何も知らない妻を演じ続けた。
「今日も大事な接待だ」
「週末は部下とゴルフだ」
夫は私が全て信じていると思っていた。時には得意げに「お前は家のことだけ考えていればいい。今更外で働いても、大した仕事はできないだろう」と言った。でも私は笑って聞き流した。その間に、夫が家に入れた金額を全て記録し、不倫の証拠を保存した。会った日、宿泊したホテル、購入した贈り物、会社へ提出した経費の内容。夫は愛人との食事を接待費として申請し、二人で止まったホテルまで出張費として処理していた。
私は結婚前、小さな会社で経理をしていた。二十年近く現場から離れていても、数字を見れば不自然な点は分かる。さらに私は、娘が学校へ行っている間に簿記とパソコンを学び直した。小学校のパートも始め、自分名義の口座にお金を貯めた。そして弁護士に相談し、離婚届と慰謝料請求の準備を整えた。
不倫女性から電話が来た日から、私はただその日を待っていたのではない。夫がいなくても生きられる自分を、五年かけて作っていたのだ。
そして迎えた、娘の二十歳の誕生日。振り袖を着た娘は、玄関の前で照れ臭そうに笑った。
「お母さん、今まで育ててくれてありがとう」
私はその言葉だけで、五年間の我慢が報われた気がした。夫は娘の隣に立ち、父親らしい顔で写真に収まった。
「優香も大人になったな」
夫の言葉を聞きながら、私は心の中で答えた。「ええ、そうね。だから今日で、私の役目も終わりです」
そして、その時が来た。娘の誕生日から一週間後。
「今日も取引先との会食だ。帰りは遅くなる」
夫はそう言って、いつもより念入りに髪を整え、新しいジャケットを羽織った。けれど、私は知っていた。夫が向かうのは取引先が待つお店ではない。本当の向かう先は、五年間付き合ってきた不倫相手が、夫の子供を出産する病院。
「わかりました。お気をつけて」
時計は午後七時。私はパソコンの前に座り、五年前から準備していたメールを開いた。送信先は、夫と不倫相手、私の弁護士、そして夫の会社のコンプライアンス窓口。添付したのは、不倫の証拠だけではない。勤務中の密会記録、接待と偽った飲食代やホテル代。最後に、私は一言だけ加えた。
「あなたが待っていた日がようやく来ましたね」
そして、送信ボタンを押した。
送信から二時間後、玄関のドアが乱暴に開いた。
「美保、お前、何をしたんだ?」
夫は真っ青な顔でリビングへ入ってきた。
「会社から連絡が来た。経費の調査をすると言われたんだぞ」
私はテーブルの上に、離婚届と証拠のファイルを置いた。
「会社に送ったのは、あなたが仕事だと偽って使った会社のお金に関する記録だけです。不倫まで会社に知らせる必要はないだろう」
「勤務中に部下とホテルへ行き、その費用を会社へ請求したのは、家庭だけの問題でしょうか?」
啓介は口を開いたまま、何も言えなくなった。やがて震える声で尋ねた。
「お前、いつから知っていたんだ?」
「あなたが最初に接待だと嘘をついた夜からです」
「それは、いつだ? ずっと前からか?」
「ええ」
夫の顔から、見る見る血の気が引いた。
「だったら、どうして何も言わなかったんだ?」
「娘が十五歳だったからです」
私は夫の目をまっすぐ見た。
「あなたの裏切りで、あの子の受験も高校生活も成人までの時間も、壊したくなかった。でも優香は何も知らず、無事に二十歳になりました。もう、あなたを夫として守る理由はありません」
夫は椅子に崩れ落ちた。
「待ってくれ。さっき、子供が生まれたばかりなんだ」
「知っています。なら、少し時間をくださいというのか? 時間なら五年もありましたよ」
私がそう言った時、夫のスマホが鳴った。画面には不倫相手の名前が表示されていた。夫が電話に出ると、電話の向こうから叫び声が聞こえた。
「啓介さん、五十四歳ってどういうこと? お医者さんに“五十代なら余計に嬉しいでしょうね”って言われたわ。四十代半ばって言ってたじゃない。昇進するって話も嘘だったの?」
夫は私の前で何度も口を動かしたが、言葉は出なかった。夫は妻だけでなく、愛人にも別の人生を見せていたのだ。
その後、会社の調査で勤務中の密会と経費の虚偽申請が確認された。予定されていた管理職への昇進は取り消され、夫は地方支店への移動を命じられた。不倫相手も同じ部署の人間だったため、関係を隠して優遇を受けていたことを問われ、別の部署へ移された。そして夫の本当の年齢、財産分与、慰謝料、これから長く続く養育費を知ると、不倫相手は同居を拒んだ。
「こんなはずじゃなかった」
そう言って夫との関係を終わらせ、子供の認知と養育費だけを求めたそうだ。
私は二人から慰謝料を受け取り、夫とは正式に離婚した。離婚後、私は経理の仕事に就いた。最初は短時間勤務だったが、五年間学び直していたことが評価され、今では一つの会社の経理を任されている。
ある日、娘が私に言った。
「お母さん、私のために我慢してくれてたんだね」
私は首を振った。
「途中からは、私自身がもう一度生きるためだった。でも最初は、あなたのためだったのよ」
私は夫を失ったのではない。私は夫の妻でいるために失いかけていた自分を、ようやく取り戻したのだ。
