「臭いですね。高齢者の方はご遠慮願います。当行は効率を重視しておりますので」
常南第一銀行桜町支店、三十二歳の支店長代理・神崎匠は、車椅子の老婆とその夫に向かってそう言い放った。整えられた髪型、パリッとしたスーツ、磨き上げられた革靴。数字と実績だけを追い求める男の顔に、一瞬の慈悲もなかった。
「承知しました。本日は失礼いたします」
穏やかにそう告げて、白髪の老人は妻の車椅子をゆっくりと方向転換させた。どこからどう見ても、近所を散歩している普通の老夫婦にしか見えない。地味なポロシャツに綿のズボン、履き古したスニーカー。妻は花柄の質素なブラウスに膝かけを羽織っている。
しかし、誰も知らなかった。この老夫婦が全国千人の社長から慕われる伝説の経営者であることを。そして、この銀行に百億円以上預ける超大口顧客であることを。
高嶺誠一郎、六十八歳。妻のよし子、六十六歳。よし子は三年前の脳梗塞で足が不自由になり、それ以来、誠一郎は毎日妻の世話をしてきた。着替え、食事、リハビリ。すべて自分の手で。それは義務感からではなく、愛する妻と過ごせる時間を大切にしたいという純粋な思いからだった。
「あなた、いつも本当にありがとう」
「何を言ってるんだ。四十年以上一緒にいるんだぞ」
「でも、毎日私の世話ばかりで……こうして一緒に出かけることが何より嬉しいの」
二人にとって、こうした何気ない外出の一つ一つがかけがえのない時間だった。近所に銀行ができたと聞き、口座を作りに来ただけのこと。それなのに、支店長代理の神崎は、車椅子の客は妨げになる、衛生管理のためだと理由をつけ、「臭いですね」と言って追い出した。
よし子の目に小さな涙が浮かんでいた。見知らぬ若者からこんな扱いを受けたのは初めてのことだった。自分の存在が否定されたような深い悲しみが胸を締めつける。
「もういいわ、あなた。帰りましょう」
「よし子……帰ろう」
誠一郎の声は静かだったが、深い悲しみを帯びていた。しかし、その背中には六十八年の人生で培った品格がにじみ出ている。どんな屈辱を受けても取り乱すことはない。だが、その心の奥底では、静かな炎が燃え始めていた。
神崎は勝ち誇ったように笑みを浮かべ、その背中を見送った。自分が追い払った相手が誰なのか、この瞬間、彼はまったく理解していなかった。
翌日、誠一郎は一人で銀行に向かった。妻への謝罪を求めるためだ。復讐ではない。筋を通すために来たのだ。銀行に入ると、また同じ光景が目に入った。何人もの高齢者が肩を落として出ていく姿。やはり、昨日だけではなかったのか。
フロアの奥から神崎が近づいてくる。その目が誠一郎の服装を上から下まで舐めるように見た。
「はあ。昨日の老人か。大した預金もできないくせに、また来たのか」
「今日は口座開設ではありません。昨日の件についてお話ししたいことがございます。妻への発言はあまりにも失礼ではないでしょうか。謝罪をお願いしたいのですが」
「謝罪ですか? 当行の方針に従っての対応でございます。なんら問題はございません」
「方針として、お客様に『臭いですね』と言うことが認められているのですか?」
「衛生管理上の発言でございます。お客様が不快に感じられたのであれば、それは受け取り方の問題かと」
受け取り方の問題。その言葉が誠一郎の胸に刺さった。時代が変わっても、こんな銀行員がいるものなのか。かつて誠一郎は、高度経済成長期に銀行員が「金を貸してやる」という立場で中小企業の経営者を見下していた光景を何度も目にし、声を上げ続けてきた。あの時代の傲慢さが、まだここに残っていたのか。
「では、支店長にお話しすることはできますか?」
「支店長はただいま対応中でございます」
「では、本部にご連絡することは?」
神崎の目が一瞬鋭くなった。しかし、すぐに薄ら笑いを浮かべる。
「お客様、当行の正当な対応に対してクレームを繰り返されるのはご遠慮いただきたいですね。このような形で業務を妨害されるお客様には、今後ご来店をお断りすることもございます」
神崎はわざと声を大きくした。フロア中に聞こえるように。周囲の客たちの視線が一斉に誠一郎に集まる。まるで迷惑客を見るような冷たい目だった。
「承知しました。お引き取りください」
誠一郎は静かに一礼して銀行を後にした。その歩調は穏やかだったが、六十八年の人生で培った確かな決意が宿っていた。個人の問題ではない。これは組織全体の問題だ。
自宅に戻ると、よし子が心配そうな顔で待っていた。
「どうだった?」
「話にならなかったよ。謝罪どころか、迷惑客として扱われた。それだけではない。あの銀行では毎日、高齢者が同じような扱いを受けているようだ。何人もの老人が肩を落として出ていくのを見た」
「そんな……」
「昔、私が何度も見てきたあの体質だ。時代が変わっても、人を見下すやり方は変わっていなかった」
誠一郎は静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。夕日が町を赤く染めている。
「桐君に電話する。ただし、報復ではない。あの銀行を正しい方向に変えるためにだ」
「あなた……」
「よし子と同じ思いをする人が、これ以上増えてはいけない。あの銀行員一人の問題ではない。銀行という組織全体の体質そのものを変えなければならない」
よし子は夫の手をそっと握った。四十年以上連れ添ってきた。この人がこういう顔をする時、必ず何か大きなことが動くのだと、彼女は知っていた。
「分かったわ。私もできることをするから」
その夜、誠一郎が電話をかけた相手は桐晃、五十八歳。株式会社劇場エンタープライズの代表取締役だ。二十年前、投資の失敗で全財産を失い、借金を抱えて自暴自棄になっていた時期がある。妻にも逃げられ、友人にも見放され、孤独のどん底にいた。そんな時、「まだ終わりじゃない」と声をかけてくれたのが誠一郎だった。桐の恩は、決して返しきれないほど深いものだった。
電話が繋がった瞬間、桐の明るい声が響いた。
「先生、ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
「ああ。実は、少し相談したいことがあってね」
「相談ですか? 先生から相談とは珍しい。どうされました?」
誠一郎は淡々と、この二日間の出来事を話し始めた。新しくできた銀行に口座を作りに行ったこと。支店長代理によし子が「臭い」と言われて追い出されたこと。翌日一人で謝罪を求めに行ったが、逆に迷惑客として扱われたこと。そして、毎日何人もの高齢者が同じような扱いを受けているであろうこと。
話を聞くにつれ、電話の向こうで桐の呼吸が変わっていくのが分かった。
「先生と奥様に、そんなことを……。ああ、許せない。絶対に許せません」
「桐君、落ち着いてくれ」
「落ち着けるわけがないじゃないですか! 先生と奥様にそんな仕打ちを……」
「桐君、私が望んでいるのは報復ではない」
「では、何を?」
「あの銀行を変えることだ。同じような扱いを受けている高齢者が、あの銀行には他にもいるはずだ。それを明らかにし、二度とこのようなことが起きないようにする。それが目的だ」
「……さすがは先生です。承知しました。まず朝倉弁護士に連絡を取り、法的な整理を行います」
「頼む」
「それと、先生にお願いがあります」
「なんだね?」
「先生のことを知っている経営者は、私だけではありません。全国にたくさんいます。彼らに今日の出来事を伝えさせてください」
「それは大げさではないかね?」
「大げさではありません。先生がいなければ、今の私たちは存在しない。その恩師が侮辱的な扱いを受けたんです。みんな同じ気持ちのはずです」
「分かった。だが、乱暴な手段は取らないように」
「もちろんです。先生の教え通り、正々堂々と」
電話を切った後、誠一郎は静かに目を閉じた。窓の外では夕日が完全に沈み、部屋の中に静かな夜の気配が漂っている。
「桐さん、怒っていた?」
「ああ。しかし、きちんと分かってくれた」
「あなた、本当にこれで良かったの? 大事になるわよ」
「大事にしなければ、何も変わらない。あの銀行員一人の問題ではないんだ」
よし子は静かに頷いた。夫のこういう顔を、彼女は何度も見てきた。一度こう決めたら、必ずやり遂げる。それが高嶺誠一郎という人間だった。
その夜、桐は全国経営者ネットワークに緊急の連絡を回した。メッセージは瞬く間に拡散していく。
「先生に何てことを。許せん」
「私も動きます。明日そちらに向かいます」
「こんな侮辱、絶対に見過ごせない」
深夜になっても桐の電話は鳴りやまない。北海道から、九州から、関西から。日本全国の経営者たちが次々と声を上げた。彼らの多くが常南第一銀行に口座を持っており、その預金金額は想像絶する額に上る。
一方、朝倉弁護士の調査は迅速だった。五十五歳の彼は金融トラブルの専門家として知られ、数々の不正を暴いてきた実績を持つ人物だ。
「桐社長、調査結果が出ました」
「どうでした?」
「これは氷山の一角です。この支店がオープンしてからわずか半年で、高齢者からのクレームが八十七件。通常の支店の五倍以上という異常な数字です。その多くが神崎支店長代理の対応に関するものです。差別的な発言を受けた、門前払いにされた、車椅子での来店を断られたという深刻な内容も含まれています。それらの苦情はすべて握りつぶされ、本部に報告されることはなかった。ネットでの口コミなども削除されています」
「組織的にやっていたということですか?」
「はい。神崎支店長代理の方針として、開店当初から徹底されていたようです。数字を上げるためなら手段を選ばない。それが、高齢者への差別という形で現れていたのです。金融庁への報告はすでに準備しております。銀行法では、不当な理由なく客を差別することは許されません。場合によっては業務改善命令、最悪の場合は営業停止処分もありえます」
「それだけでは済まない。我々経営者が一斉に動けば、この銀行は終わりだ」
翌朝、誠一郎は静かに身支度を整えていた。いつもと変わらない質素な服装。しかし、その目には確かな決意が宿っている。
「あなた、無理をしないでね」
「大丈夫だ。今日は若い者たちが集約だからね」
「でも、私たちの顔も見せないといけないわね」
誠一郎は妻の手を握り、静かに微笑んだ。今日の行動は単なる報復ではない。
「ええ、社会を変えるための私たちのお仕事ね」
窓の外では、すでに数台の高級車が自宅前に止まり始めていた。北海道から飛行機で駆けつけた者、九州から新幹線を乗り継いできた者、関西から高速道路を飛ばしてきた者。彼らは皆、恩師のために一夜で全ての予定をキャンセルし、この場に集まったのだ。その数は増え続け、やがて道路を埋め尽くすほどになっていった。
その日の朝礼は、いつもと変わらない光景だった。
「本日も効率的な業務運営を心がけてください。当期の目標達成まであと少しです」
職員たちは黙って頷いている。神崎の言葉に疑問を持つ者もいるが、口に出す者はいない。以前、高齢者への対応を改善すべきだと進言した先輩職員が、翌月には遠方の支店に飛ばされた。その話は支店中に知れ渡っている。
「昨日、不当なクレームをつけてきた客がいましたが、毅然とした対応で追い払いました。ああいう客には、はっきりとした態度が重要です」
「は、はい」
「時間のかかる客に構っている余裕はない。今日も数字を積み上げましょう」
女性職員の林瀬は、手元の書類に目を落としたまま唇を噛しめた。昨日の穏やかな老人、すごく肩を落とされていた。あの後、大丈夫だったのかしら。しかし、自分には何もできない。
朝礼が終わり、開店準備が始まった。職員たちがそれぞれの持ち場に着き、フロアに朝の空気が流れ込んでくる。開店まであと十分。その時だった。ガラス扉の向こうに、杖をついた小柄な老婆の姿があった。開店を待ち切れず、扉の前でたたずんでいる。白髪を丁寧に束ね、古びた花柄のワンピースを着た、どこにでもいるような穏やかな老婦人だ。
開店と同時に扉が開くと、老婦人はゆっくりと店内に入ってきた。
「すみません。年金の振り込みを確認したいんですが」
窓口に向かおうとした老婆の前に、神崎が立ちはだかった。
「お客様、本日はご遠慮いただけますか?」
「え?」
「他のお客様のご迷惑になりますので」
「でも、年金が振り込まれているか確認だけ、娘から頼まれていて……」
「ATMをご利用ください」
「ATMの方がよくわからなくて、いつも窓口でお願いしているんです」
「では、ご家族と一緒にいらしてください。本日は対応いたしかねます」
「そんな……娘は仕事で」
老婆の声が震えていた。何も悪いことをしていない。ただ、年金の確認をしたかっただけだ。しかし、神崎はその表情を変えることなく、老婆を扉の方へ誘導していく。
「他にもお客様がいらっしゃいますので」
「はい……すみません」
老婦人は小さく頭を下げ、杖をつきながら扉の方へ向かった。その背中が、悲しいほど小さく見える。
「また、こんなことが……」
林瀬は思わず呟いた。神崎は老婦人の背中を見送ると、満足そうに腕を組んだ。
「よし、今日も滑り出しは順調だ」
しかし、その余裕も長くは続かなかった。
「支店長代理、あの外を見てください」
「何だ?」
ガラス越しに見える駐車場に、一台、また一台と高級車が滑り込んでくる。黒塗りのセダン、ドイツ製の高級SUV。普段、この支店に来るような車種では到底ない。
「何だろう。あんな高級車、見たことないぞ」
「何かのイベントか?」
「何だあれは……」
違和感を覚えながらも、神崎はそれを振り払うように部下たちに声をかけた。
「何をぼっとしている? 開店しますよ。持ち場に着きなさい」
職員たちが慌てて持ち場に戻る。しかし、車の列は増え続けていた。一台、二台、三台。気がつけば十台、二十台。そして、黒服を着た男たちが静かに、しかし確実に銀行の前に集まり始めていた。
午前十時、開店のチャイムが鳴り響いた。扉が開くと同時に、信じられない光景が広がった。黒服を着た男たちを従えた経営者風の人物が、次から次へと店内に入ってくるのだ。一人、二人、三人。数えるのも追いつかないほどの人数。その数、なんと千人。静かに、しかし圧倒的な威圧感を纏いながら、フロアを埋め尽くしていった。
職員たちが見る見るうちに青ざめていく。
「え、え? どういう状況?」
「な、何かのサプライズとか……」
林瀬は思わず立ち上がった。フロアを埋め尽くす人々の顔を見て、息を飲む。彼らの目には、怒りが宿っていた。静かな、しかし確かな怒りが。
「な、何事ですか? これは一体……」
神崎の声は震えていた。何が起きているのか理解できない。抗議活動にしては、統制が取れすぎている。その時、人垣の中から一人の男が前に出た。
「神崎支店長代理ですね。株式会社劇場エンタープライズ代表取締役、桐晃です」
桐晃。年商五千億円を誇る大企業のトップ。その名前を知らない者は、この業界にはいない。
「き、桐社長……なぜ、ここに?」
桐は答えない。ただ静かに後ろを振り返った。人垣が静かに左右に割れる。まるで示し合わせたように、千人の経営者たちが道を開ける。その先に、車椅子に乗った老婦人と、それを押す白髪の老人の姿があった。
「あ、あの老人は……昨日、自分が迷惑客として追い払った老夫婦……」
しかし、なぜこの場に? なぜ桐社長と一緒に? 神崎の頭の中で様々な疑問が渦巻く。誠一郎は静かにフロアの中央へと進んだ。車椅子に座るよし子の表情は穏やかで、怒りも悲しみも見せない。ただ静かに、この場を見つめている。
「神崎支店長代理。あなたは先日、こちらの方々に大変失礼な対応をされましたね」
「え? 失礼な対応でございますか?」
「答えてください」
「え、いえ、あの時は当行の方針に従った対応でして……」
「方針?」
桐は静かに繰り返した。その一言に、フロア中の空気が張り詰める。
「口座開設をしに来たお客様を追い出すのが、方針なのですか?」
「そ、それは衛生管理上……」
「謝罪を求めに来たお客様を迷惑客として扱うのも、方針なのですか?」
言葉が出ない。桐の静かな問いが、逃げ道を一つ一つ塞いでいく。
「この方が誰かご存知ですか? 高嶺誠一郎先生です。かつて全国経営者協会の会長を務められた方です。高度経済成長期には百社以上の企業再建を成功させ、バブル崩壊後も多くの経営者を倒産の危機から救ってこられた。業界が誇る伝説の経営コンサルタントです」
神崎の膝が小刻みに震え始めた。
「た、高嶺誠一郎……まさか、あの……」
その名前を、神崎は知っていた。金融業界にいれば、知らない者はいない。教科書にも載るような伝説的な人物だ。それが、この質素な老人だったとは。
「政府から何度も要職の要請を受けながら、すべて辞退されている。名誉よりも実績を重んじる、真の偉人です。こちらは奥様のよし子先生。障害者雇用促進、独居高齢者への支援、奨学金制度の創設。よし子先生の尽力によって人生が変わった人間が、この国には何万人もいます。あなたはそんな方々を、高齢者で車椅子に乗っているという理由だけで追い出した」
フロアには静寂が広がっていた。職員たちは顔面蒼白で立ち尽くし、林瀬は両手で口を覆っている。そ、そんなすごい方たちだったなんて。
「そして、私を含め、ここにいる全員が先生に恩を感じている経営者たちです。先生がいなければ、私も、ここに集まった経営者たちの成功もありません」
千人を超える経営者たちの視線が、必然に神崎を射抜く。侮蔑、そして激しい憤怒。その圧力は、まるで巨大な壁が四方から迫ってくるかのようだった。神崎は声も出せず、ただ立ち尽くすだけだった。冷や汗が背中を伝い、足が震えて止まらない。
その時、支店の奥から慌てた様子で支店長が飛び出してきた。
「これは一体……!」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたのだろう。しかし、目の前の光景に支店長もまた言葉を失った。フロアを埋め尽くす経営者たち、その中心に立つ伝説の人物、そして顔面蒼白で立ち尽くす支店長代理。
「き、桐社長……」
「支店長。証拠は全て揃っています。朝倉弁護士、説明をお願いします」
黒いスーツに身を包んだ朝倉弁護士が、分厚い書類の束を手に前に出た。
「常南第一銀行桜町支店では、オープン当初から高齢者に対する差別的な対応が常態化していました。この支店がオープンしてわずか半年で、高齢者からのクレームが八十七件。通常の支店の五倍以上という異常な数字です。神崎支店長代理の指示のもと、対応に時間がかかる高齢者を意図的に排除し、クレームはすべて握りつぶされていました。今朝も、年金の確認に来た高齢の女性が追い払われましたね」
支店長の顔が歪んだ。まったく知らなかったわけではない。しかし、神崎の数字が上がっていたため、見て見ぬふりをしてきたのだ。
「うわ、私は銀行のために、効率を上げるために……」
「効率という言葉で、人間の尊厳を踏みにじる権利は誰にもない」
桐の声は静かだったが、その中には抑えきれない怒りが込められていた。
「これは銀行法第十二条に違反する可能性があります。金融庁への報告もすでに準備しております。場合によっては業務改善命令、最悪の場合は営業停止処分もありえます」
「そ、それだけは……」
その時、誠一郎が静かに前に出た。憤怒に満ちたフロアの中で、誠一郎だけが穏やかな表情をしていた。六十八年の人生で培った品格が、その一挙手一投足ににじみ出ている。
「神崎さん」
「は、はい」
「私は、あなたを憎んでいるわけではない。ただ、知ってほしいことがある」
神崎は顔を上げることができなかった。震える両手を握りしめ、冷や汗が背中を流れていく。
「あなたが『臭い』と言って追い出した私の妻は、この国の福祉制度を変えるために尽力してきた人物だ。車椅子生活になってからも、毎日誰かのために祈り、誰かのことを考えている。昨夜も、彼女はあなたのことを心配していた」
「え? 私をですか?」
「なぜ、あんな言葉を使ってしまうようになったのか。何か辛いことがあったのではないかと。彼女はこう言っていた。『あの若い方は、きっと何か辛いことがあったのよ。人は誰でも、最初から冷たい人間ではないはずだから』と」
神崎の目から、涙がこぼれ落ちた。悔し涙ではない。自分の愚かさを、今初めて痛感したのだ。
「いつからだろう……いつから俺は、こんな人間になってしまったんだ。新人の頃は違った。お客様一人一人に丁寧に接し、感謝されることが喜びだった。それが、いつの間にか数字だけを追い求め、人を人とも思わなくなっていた……」
「それが、人を見た目で判断しないということなんだよ」
誠一郎の言葉が、静まり返ったフロアに響き渡った。
「そして、私が今日ここに来たのは報復のためではない。君だけの問題ではないんだ。銀行全体の体質そのものを変えなければならない。それが、今日ここに来た理由だ」
「先生の言葉通りです。従って、我々はこの銀行との取引をすべて解除します。ここにいる千人以上の経営者が、当行の全国にあるそれぞれの支店に口座を持っています。そして、本日付けで全ての口座を解約し、他行へ移します」
支店長の顔が、完全に顔面蒼白になった。千人以上の経営者の預金総額は、軽く見積もっても数兆円に上る。この支店どころか、銀行全体を揺るがす事態だ。
「お待ちください! なんとかお考え直しを……!」
「考え直して欲しければ、まずこの銀行が変わることだ」
「変わります! 必ず変わります!」
「高齢者を大切にし、すべての顧客を平等に扱うこと。弱い立場の人々に寄り添い、その尊厳を守ること。それができるまで、我々は取引を再開するつもりはない」
フロアを埋め尽くす千人の経営者たちが、静かに、しかし力強く頷いた。その圧力の前に、支店長はただ頭を下げ続けるしかなかった。
その日のうちに、常南第一銀行の本社から常務取締役が駆けつけてきた。事態の深刻さを伝える遠藤からの緊急指示だった。本社に第一報が入った瞬間、取締役会は騒然となったという。そして、遠藤自身もかつて若い頃、誠一郎のセミナーに参加し、その教えに感銘を受けた一人だったのだ。高嶺誠一郎という名前を聞いた瞬間、遠藤の顔色が変わったのも無理はない。
「高嶺先生、奥様、この度は当行の者が大変な無礼をいたしました。誠に申し訳ございません」
遠藤は深々と頭を下げた。その姿勢は九十度を超え、床に額がつきそうなほどだ。
「心よりお詫び申し上げます」
本社から持参した詫び状と謝罪状を差し出すが、誠一郎は静かに首を横に振った。
「私への謝罪は必要ありません。しかし、ただ一つだけお願いがあります」
「何でございましょうか。できる限りのことはさせていただきます」
「同じような扱いを受けた高齢者の方々、全員にきちんと謝罪し、保証を行ってください。過去半年で八十七件もの苦情が寄せられているそうですね。その一件一件に誠意を持って対応してください」
「申し訳ございません」
「そして、二度とこのようなことが起きないよう、改革を徹底してください。私への謝罪よりも、それが何より大切なことです」
「かしこまりました。必ずや……」
遠藤は何度も頭を下げながら、すべての要求を受け入れた。その場で本社に電話をかけ、高齢者対応専門のチームを編成することを即座に約束する。神崎は即日解雇となり、後日正式な解雇が決定された。三十二歳にして新店舗の立ち上げを任され、店長代理という地位を得た彼のキャリアは、自らの傲慢さによって完全に崩壊した。支店長も監督責任を問われ、左遷が決定する。見て見ぬふりをしてきた責任は、大きかった。
金融庁からは厳重注意が入ったものの、誠一郎の取りなしにより業務改善命令は見送られた。銀行が自発的に改革を進めているという点が考慮されたのだ。後日、常南第一銀行は高齢者対応の専門窓口を設置し、全職員に対する人権研修を義務化した。バリアフリー設備も整備され、介助が必要な顧客への対応マニュアルも新たに策定される。
「先生、三ヶ月ごとに第三者機関による顧客サービスの調査が行われることになりました。その結果はすべて公開されます」
「それがいい。透明性が信頼の基盤だからね」
「はい、先生の言葉通りです」
桐をはじめとする経営者たちは、銀行の改革を見届けた上で徐々に取引を再開していった。ただし、定期的な監査を受け入れることを銀行側に約束させた上で。
一方、神崎は銀行を解雇された後、しばらく就職先が見つからなかった。噂は業界中に広まり、どこも雇おうとしなかったのだ。三十二歳にしてすべてを失った神崎は、狭いアパートで一人、俯く日々を送っていた。貯金は底をつき、プライドも粉々になった。
ある日、彼の元に一通の手紙が届いた。差出人を見て、神崎は目を疑った。高嶺よし子。自分が「臭い」と言い放ち、銀行から追い出した老婆からの手紙だった。
なぜ? なぜ、この方が?
震える手で封を開ける。丁寧な字で、こう書かれていた。
「あなたが本当に変わりたいと思うなら、私が設立した福祉施設で働いてみませんか? 給料は高くありませんが、人を見る目を養うには、弱い立場の人々に寄り添うことが一番です。あなたにはまだ、やり直すチャンスがあります。それを無駄にしないでください」
神崎はその手紙を何度も読み返した。涙で文字が滲んでいく。なぜ、俺を助けようとするんだ? あれほどひどいことをしたのに。自分を追い出した相手が、なぜ手を差し伸べてくれるのか理解できなかった。しかし、それこそが高嶺夫妻の生き方そのものだったのだ。人を見た目で判断しない。過ちを犯した者にも、やり直すチャンスを与える。
その夜、神崎は初めて鏡の中の自分と向き合った。そこに映っていたのは、傲慢で冷酷だった自分ではなく、ただ泣いている一人の人間だった。
「俺は……俺は、なんて愚かだったんだ」
あれから半年が経った。季節は移り変わり、高嶺夫妻の自宅には紅葉が色づき始めている。神崎は今、よし子が設立した福祉施設で介護士として働いていた。銀行員時代とはまったく異なる仕事だ。認知症の高齢者、体が不自由な方、孤独を抱える一人暮らしの老人。そうした人々と日々接する中で、神崎は少しずつ変わっていった。
ある日、施設で認知症の高齢者の世話をしていた時のことだった。
「ありがとう。優しい人だね」
「いえ、当たり前のことです」
「あなたみたいな若い人が、こんなおばあちゃんの世話をしてくれて……」
「おばあさん、僕の方こそありがとうございます。あなたのおかげで、人として大切なことを学ばせてもらっています」
その言葉は、心からのものだった。神崎は月に一度、必ず高嶺夫妻の自宅を訪れるようになっていた。施設での仕事の報告と、人生の先輩としての教えを請うためだ。
「あら、神崎さん、顔色が良くなったわね」
「奥様のおかげです。施設の仕事は大変ですが、毎日が充実しています」
「そう、よかったわ」
「先生、奥様、本当にありがとうございます。あの日の出来事がなければ、僕は一生あのままだったと思います」
「神崎君、人は変われる。それを信じることが大切なんだ」
「はい。今の僕があるのは、先生方のおかげです」
誠一郎は縁側でお茶を飲みながら、その様子を眺めていた。妻が自分を辱めた相手を許し、導いていく姿を見て、改めて彼女の人間としての大きさを感じている。
ある日、桐からの定期報告があった。常南第一銀行の改革は順調に進んでいるという。高齢者専用窓口には感謝の声が多く寄せられ、支店の評判も回復しつつあった。
「先生、今回の件をきっかけに、業界全体で高齢者対応の見直しが進んでいます。金融庁も新たなガイドラインの策定に動き出しました」
「それは良かった」
「先生の行動が、社会を変えました」
「いや、変えたのは君たち若い世代だよ。ありがとう」
一方、女性職員の林瀬もまた、この出来事をきっかけに変わった一人だった。あの日、神崎のやり方を傍観し続けた自分を深く反省した彼女は、高齢者への対応を一から学び直し、介護の資格も取得した。今では支店で最も信頼される担当になっている。杖をついた顧客が来店すると、林瀬は真っ先に駆け寄る。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ、お手伝いいたします」
「ありがとう。助かるよ」
「ゆっくりお手続きしましょう。時間は、たっぷりありますから」
その言葉に、嘘はなかった。
誠一郎は縁側から庭を眺めた。色づいた紅葉が風に揺れ、夕日がその葉を金色に染めていく。
「よし子、あの日、銀行から追い出されて良かったのかもしれないな」
「そうね。あなたがいつも言っていたことが、また証明されたわ」
「何だったかな?」
「人はいつか必ず、自分の愚かさに気づく日が来る。そしてその時こそが、本当の成長の始まりだって」
「そうだったなあ」
二人は穏やかに微笑み合った。四十年以上連れ添った夫婦の間に、言葉はいらない。あの銀行での出来事は確かに辛い経験だった。しかし、それによって多くの人が変わり、社会が少しだけ良い方向に動いた。神崎は人の痛みが分かる人間になった。林瀬は自分の信念を持って行動できる人間になった。銀行は高齢者に優しい場所になった。そして、全国から集まってくれた千人の経営者たちが、今日もそれぞれの場所で奮闘している。それこそが、長い人生を歩んできた二人にとっての、何よりの喜びだった。
夕日が二人を優しく照らしている。オレンジ色の光が縁側に差し込み、よし子の車椅子を温かく包み込んでいた。
「まだまだ、やれることはありそうだな」
「明日も、また誰かのために」
明日もまた誰かのために祈り、誰かのことを考える日々が続いていく。目の前にいる人を大切にし、小さな親切を積み重ねていく。それが高嶺夫妻の生き方であり、彼らが後世に残す最も大切な教えなのである。
