母から一本の電話が来た。「軽井沢の別荘、あんたに譲るわ」。長年、認知症の義父母の介護を一手に引き受けてきた私への、ようやくの報いだった。その夜、妻の佳代子が不安そうに言った。「ねえ、二人で老後を過ごす約束でしょ?」私は鼻で笑った。「約束?あれは考えてただけだ。お前はもう不要なんだよ」。翌日、母に呼び出され、鬼のような形相で詰められた。「佳代子さんを捨てるなんて、あんた正気か」。それでも私は取…

母から一本の電話が来た。「軽井沢の別荘、あんたに譲るわ」。長年、認知症の義父母の介護を一手に引き受けてきた私への、ようやくの報いだった。その夜、妻の佳代子が不安そうに言った。「ねえ、二人で老後を過ごす約束でしょ?」私は鼻で笑った。「約束?あれは考えてただけだ。お前はもう不要なんだよ」。翌日、母に呼び出され、鬼のような形相で詰められた。「佳代子さんを捨てるなんて、あんた正気か」。それでも私は取...

健二は、母から届いた一本の電話で浮かれていた。長年介護を続けてきた母たちが、その労いに応えて軽井沢の別荘を譲ってくれるという。十八年もの間、誰よりも尽くしてきたのは自分だという自負があった。この機会に、自分もようやく自由になれる。そんな思いが頭の中を支配していた。

「ねえ、健二。私、あなたと離婚するつもりはないわよ。二人でゆっくり老後を過ごそうって約束したでしょ」

妻の佳代子が、不安そうな顔で問いかけた。しかし健二は、鼻で笑うように答えた。

「約束? ああ、そんなことも言ったな。でも俺は考えてただけだ。必ずそうするとは言ってないだろう」

「だって、お義母さんたちだって、そのために別荘をくれるんじゃないの」

「だから何だって言うんだ。俺は一人でやっていける。お前はもう不要なんだよ」

健二の言葉は、容赦なかった。佳代子の顔色が、見る見るうちに曇っていく。

「ちょっと待ってよ。今までずっと一緒にやってきたじゃない。約束を守ってくれるって信じてたのに」

「約束? よく言うよ。お前、自分の顔、鏡で見たことあるか? 介護とパートの疲れで、まるで老婆だぞ。一緒に歩くのも恥ずかしいんだよ。俺は今もバリバリのビジネスマンだ。お前とは釣り合わないんだよ」

健二は、佳代子が必死に言葉を紡ぐのを遮り、一方的に離婚を突きつけた。佳代子が何か言いかけるのを、彼は無視して立ち上がった。

「そういうことだから、出ていけ。十八年間、ご苦労さんだったな」

佳代子は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

翌日、健二は昼休憩中に、母から呼び出された。母は鬼のような形相で、息子を睨みつけた。

「健二、これはどういうことだ。佳代子さんと離婚するんだって?」

「母さんには関係ないだろ。これは俺たち夫婦の問題だ」

「あんた、正気か? 十八年間、佳代子さんにどれだけ苦労をかけてきたと思ってるんだ。親の介護を全部押し付けて、挙げ句に追い出すような離婚とは、あんまりだぞ」

「苦労をかけたのは母さんたちだろう。俺じゃない。介護が必要になったのは、俺のせいじゃないんだからな」

「よくもそんな白々しいことが言えるな。介護は本来、子供のするものだろう。佳代子さんは、あんたの代わりにやってくれていたんだぞ」

「嫁が夫の代わりにやるのは当然だろう。何の問題があるんだよ」

母は、息子の心がすっかり冷め切っていることを悟った。そして、佳代子のことを想い、深い悲しみに暮れた。それでも健二は、母の言葉を聞こうとはしなかった。

「それより母さん、軽井沢の別荘のことだが、約束は確かだな。生前贈与で俺に譲ってくれるんだろう?」

「ああ、確かに言ったわ。名義は、あんたにするつもりだった」

「ならいいんだ。佳代子がいなくても、俺はやっていける。今度、連れてくる人間がいるんだ。楽しみにしていてくれ」

母は、その言葉に何も答えられなかった。ただ、呆れたように、そして悲しそうに、息子の顔を見つめていた。

数日後、健二は役所で離婚届を提出した。佳代子は、最後に一つだけ確認したいことがあると言った。

「覚えてる? 私がまだ介護に慣れてなかった頃、お母さんを怪我させちゃったことがあったでしょ。親戚中が騒いで、私を責めたの。あの時、健二は言ってくれたよね。『俺の嫁に文句があるなら、俺に言え』って」

「ああ、そんなこともあったな」

佳代子の目に、うっすらと涙が浮かぶ。

「あの言葉が、本当に嬉しかった。あれ以来、親戚の人たちも何も言わなくなったし、私ももっと頑張ろうって思えた。そして、あなたが言ってくれた老後の約束。その二つを頼りに、私は十八年間、辛くても頑張ってこられたんだよ」

健二は、面倒くさそうに答えた。

「ああ、あれか。そうだな。あの時は本心だったさ。でも、あれからもう十年以上経つんだぞ。俺はいろんな経験をして、気づいたんだ。お前みたいな老婆と一緒にいるのは、人生の損失だってな」

「損失? 時間の無駄って言うの?」

「そうだよ。お前はもう、賞味期限が切れたゴミなんだよ」

佳代子は、一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐにフッと笑った。

「なるほどね。よくわかったわ。あなたの本心が聞けて、良かった。これで私も、未来を生きられるわ」

「納得できたなら、良かったんじゃないか」

「でも、少し寂しいわね。私には、あなたの同僚の佐藤さん夫婦みたいに、将来を語り合う時間がもうないんだなって」

「佐藤? ああ、あいつのことか。そんな未来は、もう来ないぞ。じゃあな」

健二は、それだけ言って、佳代子の前から姿を消した。二度と連絡をしてくるな、という言葉だけを残して。

それから二週間後、健二は引っ越しの準備で忙しくしていた。軽井沢の別荘に行くための家具や家電を次々と注文し、新しい人生に胸を膨らませていた。そこへ、佳代子から一本の電話が入った。

「大事な話があるの」

「あ? 二度と連絡してくんなって言っただろう。俺は今、引っ越しで忙しいんだよ」

「そう。引っ越し、おめでとう。それでね、健二。あなたに慰謝料を請求します」

「はあ? 慰謝料? 俺たちは円満に離婚しただろうが」

「あれを円満だと言うなら、世の中は円満離婚だらけよ。それに、あなたは爪が甘いのよ」

「爪が甘い? どういうことだ?」

「お母さんから聞いたわ。私と離婚してすぐに、若い女性を紹介したそうね。まさみさんだったかしら。再婚するんでしょ?」

健二は、動揺を隠せなかった。

「なんでお前がそれを知ってるんだ。母さんと連絡を取ってたのか?」

「もちろんよ。あなたが私を捨てた後のこと、知りたかったからね。それに、あなたは自分で言ってたじゃない。『俺はモテるんだ』って。離婚してすぐに親に紹介したことも含めて、状況が揃ってれば疑うのが当然でしょう」

「証拠もなしに何を言ってるんだ。ガキの探偵ごっこか?」

「証拠ならあるわ。興信所に依頼して、あなたたちの関係を洗ったの。それと、佐藤さんの奥さんからも情報をもらったわ。佐藤さん自身も、あなたが部下の彼女と距離が近すぎるって疑ってたみたいよ」

健二は、声を失った。

「私に介護を押し付けて、五年も不倫してたのね。楽しかった?」

「お前には関係ないだろう。俺たちはもう離婚したんだぞ」

「もちろん関係ないわ。だからこそ、私はあなたに慰謝料を請求するの。十八年間の介護を押し付けられて、挙げ句に捨てられたんだもの。そういう事情を鑑みて、慰謝料は二百万円です」

「二百万? ふざけるな! そんな金額、払えるわけないだろ!」

「じゃあ、今すぐ払いなさい。それとも、わめいてる暇があったら、きっちりと支払う準備でもしたらどう?」

健二は、頭を抱えた。せっかくの新しい人生が、始まる前から暗雲に包まれていた。

一週間後、軽井沢の別荘への引っ越し当日。健二は上機嫌だった。だが、別荘の前に立ち、鍵を差し込んでも、ドアは開かなかった。

「おかしいな。鍵が入らない。スペアキーも全滅だ」

そこへ、佳代子がゆっくりと現れた。

「あら、どうしたの?」

「何の冗談だよ。鍵が開かないんだ。お前、何か知ってるんじゃないのか?」

「ええ、知ってるわ。防犯のために、鍵を変えたからよ」

「はあ? 防犯のために人の家で何を勝手なことをしてくれてるんだ!」

「勝手じゃないわよ。この別荘の名義人は、私ですから」

健二は、言葉を失った。

十分後、健二は実家に電話をかけ、母を問い詰めた。

「母さん、これはどういうことだ? 佳代子が別荘は自分名義だって言ってるんだぞ!」

「事実だから、しょうがないでしょ」

「事実だって? おかしいだろう! 生前贈与で、俺に名義を移すって言ってたじゃないか!」

「あんたが自分で確認しに来た時は、確かにあんたを名義にするつもりだったわ。でもね、状況が変わったの。あんたは、佳代子さんと離婚したでしょう」

「それが何だって言うんだよ。関係ないだろう!」

「関係大ありよ、このバカ息子。そもそも、なんで私たちが別荘を譲ろうと思ったのか、分かってる? 十八年間の介護への恩返しよ。だから、あんたじゃなくて、佳代子さんに譲ったのよ」

「介護を支えたのは俺だろう! 俺が働いて生活費を稼いでたから、佳代子は安心して介護できたんだ!」

「稼いでたから何よ? 外で稼いでたら、嫁に介護を押し付けて不倫していいの? 十八年間の佳代子さんの献身を、踏みにじっていいの?」

健二は、母の勢いに押されながらも、食い下がった。

「だって、佳代子は俺の嫁だったんだぞ!」

「佳代子さんがしてきたことを、ヘルパーさんに頼んだら、いくらかかると思ってるの? 慰謝料二百万円は、むしろ安いくらいよ。佳代子さんは、あんたに謝られて泣いてたわ。あの子が私を落としてしまった時も、泣きながら『本当にごめんなさい』って謝ってきた。あの子は、ずっと一生懸命だったのよ。あんたが残業だとか言って不倫相手と遊んでる間も、私たち老人の世話をしてくれてたんだから」

「それくらい、嫁なら当然だろう」

「あんたが佳代子さんの立場だったら、そんなこと言える? 私だったら、あんたなんて即座に捨てて、実家に帰ってるわ。それくらい大変なことをさせてたのよ。その恩を返すことの、一体何が悪いって言うのよ」

「だからって、俺はもう家を引き払って、荷物も全部送ったんだぞ! どうしてくれるんだ!」

「あんたが佳代子さんを捨てた時にね、私とお父さんも、あんたという息子を捨てました。あんたみたいな恩知らずは、もう私たちの息子じゃありません」

母は、そう言い放って電話を切った。

数日後、佳代子の元へ、健二から電話があった。彼は、怒りと絶望で声を震わせていた。

「おい、お前で満足かよ。俺の人生をめちゃくちゃにして、満足か?」

「何を言ってるの? あの引っ越しの日、あとで雨が降ってたわね。大丈夫だった?」

「大丈夫なわけないだろう! 引っ越し業者はさっさと帰るし、家具や家電は届いたけど別荘に入れなくて、野ざらしになったんだぞ! 全部、雨でダメになったんだ!」

「あら、それはお気の毒に」

「気の毒に、だと? 俺と前の荷物も一緒に全滅だよ! 今は前の実家で世話になってるけど、引っ越せたのは数日後だったんだ。その間、荷物は全部ゴミになったんだぞ!」

「そうですか。残念でしたね」

「何を他人事みたいに言ってるんだ! 最近じゃ職場でも、俺と前の不倫の噂が回っててな。くそ、なんでこんなことになったんだ!」

「噂? ああ、佐藤さんね」

「佐藤だと?」

「ええ、前に言ったでしょ。佐藤さんには、不倫の証拠を掴むために情報をもらったの。あの後、不倫が発覚したから、ちゃんと伝えておいたわよ」

「ってことは、佐藤の野郎がこの噂を流してるのか! 最近、あいつが寄ってこないと思ったら、そういうことか! お前もお前だぞ!」

「何がよ?」

「なんで佐藤に、不倫のことを話したんだ!」

「最初から、不倫調査で協力してもらってたのよ。私が言わなくても、遅かれ早かれバレてたでしょう」

「だとしても、確定はしてなかったはずだ!」

「自分が協力したことの顛末くらい、知りたいでしょう。それに、この状況は全部、自業自得よ」

「会社での立場も、金も、親も、別荘も、全部お前のせいでなくなったんだぞ! 返せよ! 俺の人生を返してくれ!」

佳代子は、電話越しに、静かに、しかしはっきりと言った。

「返せって言ったわね。じゃあ、私の十八年を返してよ。あなたが言ってくれた老後の穏やかな生活。あの時の言葉だけを頼りに、私は十八年間を過ごしてきたの。介護とパートで疲れて、髪も肌もボロボロになっても、いつかはあなたとの時間があるからって、そう思って頑張ってきたの。その十八年を、私に返してよ」

健二は、言葉を失った。

「返せって言われても、返せるものじゃないでしょう。だったら、あなたが文句を言う資格なんてないわよ」

「か、佳代子、俺が悪かった……すまなかった……」

「今さら何の謝罪よ」

「俺が悪かった! だから、せめて慰謝料だけは、取り下げてくれないか! 今、二百万も払えないんだよ! このままじゃ、前の実家からも追い出される! 前だって、俺に愛想を尽かすかもしれない! だから、頼む!」

「このタイミングでそんなことを言えるあなたが、あなたの全てが、もう本当に無理です。これ以上、私の人生に干渉しないでください」

「そんな寂しいこと言うなよ! お前に頼るしか、俺はもう……」

「これ以上、私の人生から何も奪わないで。これから先の私の人生は、もうあなたには関係ないことよ」

そう言って、佳代子は電話を切った。

その後、健二とまさみさんは、まさみさんの実家を追い出されたらしい。雨でダメになった家具や家電、その他の私物の処分費をまさみさんの両親に出させた挙げ句、慰謝料二百万円を払うために、両親の生活費にも手を出したのがバレて、まさみさんは絶縁されたという。その状況で仕事を辞めるわけにもいかず、今も二人そろって白い目に晒されながら働いているそうだ。どこで暮らしているのかは、誰も知らない。

佳代子は、その後も両親のサポートを続けようと考えたが、両親は「これ以上迷惑をかけたくない」と言って、施設に入ることを決めた。今では施設での生活が快適なのか、佳代子が面会に行くと、二人とも楽しそうに笑っている。

佳代子は、両親から譲ってもらった軽井沢の別荘で、一人暮らしを始めた。パートだった仕事も転職し、今では正社員として働いている。金銭的に余裕があるとはいえないが、自分の時間をゆっくりと過ごしている。

失った時間は戻らない。でも、これからの人生は、自分のものだ。佳代子はそう思いながら、穏やかな日々を積み重ねていた。

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