夫が突然「競馬で10万負けた。金がない。迎えに来い」と夜中に電話してきたのは、ごく普通の火曜日のことだった。私はまだ仕事中で、ハルトは家で寝ていた。夫はリストラされてから1年、仕事もせずギャンブルに明け暮れていた。「いい加減にしてよ」と言えば、「うるせえな」と返ってくる。ハルトがもうすぐ中学生で制服代に10万かかると伝えても、「よし、その金を寄越せ。俺が5倍にしてやる」と平然と言った。私は限…

夫が突然「競馬で10万負けた。金がない。迎えに来い」と夜中に電話してきたのは、ごく普通の火曜日のことだった。私はまだ仕事中で、ハルトは家で寝ていた。夫はリストラされてから1年、仕事もせずギャンブルに明け暮れていた。「いい加減にしてよ」と言えば、「うるせえな」と返ってくる。ハルトがもうすぐ中学生で制服代に10万かかると伝えても、「よし、その金を寄越せ。俺が5倍にしてやる」と平然と言った。私は限...

「競馬で10万負けた。金がない。迎えに来い」
夜の電話口で、夫は平然とそう言った。私は仕事中だった。何度同じやり取りを繰り返せば気が済むのか。
「いい加減にしてよ。毎日毎日、仕事もせずにギャンブルばかり」
「うるせえな」
「いつも負けてばかりじゃない。センスがないんだからやめなさいよ」
「大穴を当てて、楽させてやるからさ」
「ハルトはもうすぐ中学生になるのよ」
「だからなんだ。義務教育だろうが」
「制服やら何やらで、10万近くかかるのよ」
「よし、その金を寄越せ。俺が5倍にしてやる」
「……もう、嫌だ」
このやり取りに、私はすっかり疲れ果てていた。夫はリストラに遭ってから1年、無職のままだ。腐らずに頑張ってほしかった。そう伝えると、夫は逆ギレした。
「お前が悪いんだろうが。内の子ってやつが足りないから、リストラされたんだよ」
「私のせいにする前に、やることがあるでしょ。仕事探しはしてるのか」
「してるよ」
「どこが。毎日昼間から酒を飲んで、競馬、競艇、競輪。私も限界よ」
「だったら出ていけ」
「……そうする」
「はあ? なんでだよ」
「あなたが出ていけって言ったんでしょ」
「離婚するってことか?」
「それしかない。1年耐えたけど、もう無理」
「ハルトには父親が必要だろ」
「まともな父親ならね。今のあなたを見て、ハルトが尊敬すると思う?」
「1年無職だっただけじゃないか。俺はやればできる男なんだ」
「じゃあ、やりなさいよ」
「おう、やってやるよ」
「じゃあ、結果が出たら連絡して」
「お前、待ってられないのか? ハルトの気持ちはいいのか?」
「あの子に引くまでもないわ」
「そんなのわからないだろう」
「あの子の貯金箱からお金を盗んだくせに、子供から慕われるなんて、よく言えるわね」
「あれは……俺が返しただろ」
「でも、あの子はすごくショックを受けていた。実の父親が泥棒だなんて、どんな思いだったか」
「いつか返す予定だったんだよ」
「そうやって『いつか』と言っているうちに、年を取って誰もいなくなるのよ」
「じゃあ、俺はどうしたらいいんだ?」
「酒とギャンブルをやめて、真面目に働くことね」
「頼むよ。見捨てないでくれ」

数分後、私はハルトの部屋を訪ねた。
「急に悪いんだけど、今日からおばあちゃんちに行くから、修学旅行で使ったバッグに服をまとめておいてくれる?」
「うん、分かった」
「後で話そうと思ったんだけど……お父さんと別々に暮らそうと思ってるの」
「離婚するってこと?」
「うーん、そうなるかな。驚いたよね。ごめん」
「なんで、もっと早くしなかったの?」
「え?」
「お父さんが仕事をやめてから、お母さんが笑わなくなったの。すごく嫌だった。離婚すればいいのにって、ずっと思ってたよ」
「そうだったんだ……」
「子供がそういうことを言っちゃいけないかなと思って、黙ってたけど」
「大人になったわね、ハルト」
「もう中学生だし。友達の親も、結構離婚してるし」
「そっか」
「少しずつ、大人になってるんだね」
「おばあちゃんちに住むなら、中学校は別のところになる。春人も、こっちの友達と離れるのが嫌だろうから、新しい部屋を借りるよ。おばあちゃんちに行くのは、少しの間だけ」
「いや、引っ越したい」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「どうして、何があったの?」
「お父さんが、友達の親にお金を借りてたんだ」
「え?」
「『お前の親父、やばいな』って言われて、結構恥ずかしかったんだよね」
「ごめん。お母さん、知らなくて」
「『お前が返せよ』って言われたけど、2万円も持ってないし」
「ハルトは悪くない。あなたが返す必要なんてないの」
「うん」
「お父さんが借りたものは、お父さんが返すから」
「分かった」
「そんな思いをさせてたなんて、何も知らなくてごめんね」
「大丈夫。新しい中学校で、たくさん友達作るから」
「本当に転校していいの? 無理してない?」
「おばあちゃんとおじいちゃんと暮らせるんだよね。だったら最高じゃん」
「お母さん、ハルトが笑えるように頑張るから」
「僕も勉強頑張る。部活はバスケがやってみたいんだけど、いいかな?」
「いいよ。お母さんもずっとバスケ部だったの」
「かっこいい。買おう」
「何それ?」
「バスケットボールシューズ」
「へえ。楽しみ」

翌日、私たちは家を出た。
「大きい荷物は、後日業者に頼むから」
「はあ……もう出てったのか」
「離婚届は置いておいたわ。多分、自分で書いて役所に出すなんてことはしないだろうから、弁護士さんに頼むことになると思う」
「おい、やりすぎだろ」
「ちゃんと対応してね。じゃあ、さようなら」
「待てって。いきなりすぎて、ついていけねえよ」
「こっちは、ずっと我慢してたんだけどね」
「だからって、なんで今日なんだよ」
「ハルトの学校の手続きとかもあるから、急ぐのよ」
「転校すんのか。せっかく友達もできたってのにかわいそうだろ」
「その友達を奪ったのは誰よ?」
「あ、あんた、ハルトの友達の親にお金を借りたらしいわね」
「借りてない」
「息を吐くように嘘をつくのね」
「ああ、あれ、ハルトの友達だったのか。ごめん、ごめん。知らなくてさ」
「ごめんで済むと思ってるの? あの子は、友達から『金返せ』って責められたのよ」
「それはおかしいだろう。俺が借りたんだから」
「何がおかしいの? 少しはハルトの気持ちを考えてよ」
「分かった。ハルトには謝るし、金もすぐ返す」
「金もない人が、どうやって返すわけ?」
「仕事が見つかりそうなんだ」
「ああ、そう。頑張って」
「離婚なんて言うなよ。家族だろ」
「家族を裏切って傷つけたのは誰?」
「そんな大げさな話か」
「私だけなら、何をされても耐えられた。でも、ハルトを傷つけることだけは、絶対に許さない」
「離婚して、どうするんだよ」
「今まで通り働いて、家族を養うわ。あなたがいない分、生活も楽になるし、いいことしかない」
「俺は今のままじゃ、家賃が払えないぞ」
「ご実家にでも頼れば?」
「うちの実家が貧乏なの、知ってんだろ」
「そうね。蛙の子は蛙だなって思ってるわ」
「親からの金の無心が嫌で、携帯の番号まで変えて絶縁したんだぞ」
「そちらの親子関係のことは、そちらで処理して」
「なあ、頼むよ。お前がいないと生きていけないんだ」
「じゃあ、生きることを諦めてください」
「それは言いすぎだろ」
「被害者ぶらないで」

1年後、ハルトは部活の帰りに、見知らぬ女性に声をかけられた。
「お母さん、部活の帰りに、おばあちゃんに会った」
「え? おばあちゃん? 旅行中のはずだけど」
「違う。お父さんの方のおばあちゃん」
「え?」
「『ハルトだね。おばあちゃんよ』って。家はどこってしつこくて、無視してたけど、ずっとついてくるから、友達の家に逃げ込んだんだ」
「今更、なんで……」
「僕も会ったことなくて、顔を知らなかったから、『ハルト君?』って言われて、『うん』って言っちゃった」
「いいのよ。何かされた?」
「何もされてない。普通にニコニコして、優しそうだったよ」
「なるべくお母さんが送り迎えするから」
「やだよ。友達に笑われちゃう」
「そっか」
「じゃあ、もし次に会ったら、お母さんの連絡先を教えておいてくれるかな?」
「分かった」
「友達と一緒だから、心配しないで」
「気をつけるのよ」

3日後、義母から電話がかかってきた。
「やっと連絡が取れたわ」
「なぜ、私の居場所が分かったんですか?」
「あなたの実家は分かってたから、近隣の中学校で待ち伏せしてたのよ」
「やめてください。ハルトが怖がるでしょう」
「息子にそっくりねえ。すぐに分かったわ」
「今更、何の用ですか?」
「確かに私たちは疎遠だったし、息子にもお金の件で色々と迷惑をかけたけど、やっぱり家族は一緒にいるべきだと思うのよ」
「一緒にいたらいいじゃないですか。今までのことは、夫婦で十分反省したの」
「ちゃんと息子に謝って、やり直したいのよ」
「謝ったらよろしいのでは?」
「それが、タクシーに何度電話しても繋がらないの」
「それで、私の実家の近くまで来たんですか?」
「そう。あなたたち、こっちに引っ越したのね。閑静な住宅街で、素敵なところじゃない?」
「はい。非常に快適に、幸せに暮らしてます」
「今日から、息子の家で私たちも暮らすことにしたわ」
「はい?」
「断るなら、息子と離婚してね。ああ、介護もよろしく」
「何をおっしゃってるか分かりませんが、息子さんに会いたいなら、ここにはいませんよ」
「あら、タクシーは出張か何か? 相変わらず忙しくしてるのね」
「彼の家は河川敷ですよ」
「え?」
「ああ、川沿いに家を建てたのね。立派じゃない」
「そんな立派なものではなく、ビニールハウスです」
「は? なんでうちの息子がそんなことに?」
「離婚してから、そうなったみたいですね」
「嘘? 離婚? あなたが浮気したの?」
「なんでそうなるんですか?」
「じゃあ、借金でも作ったの?」
「母親のくせに、それはないわよ。あなたたちと一緒にしないでください」
「何よ、その言い方」
「両親揃って息子に金を無心して。あの人がどれだけ苦しんでたか、知ってますか?」
「子が親を助けるのは当然でしょ。育ててもらった恩は返すべきだわ」
「この子の幸せを願うのが、親じゃないんですか?」
「願ってるわよ」
「会社にまで金の無心に行ってた。それが影響したのか知りませんが、あの人は2年前にリストラに遭いました」
「そうなの?」
「1年は私が支えてきました。でも、ハルトの貯金に手をつけたり、子供の友達の親にお金を借りたりしたことがきっかけで、離婚したんです」
「あの子を捨てたのか。かわいそうに」
「ハルトを傷つけるのは、誰であっても許しません」
「そんな、河川敷ってどこの?」
「知りませんよ。手紙でそう言ってきただけですから。『河川敷で暮らしてる。助けてくれ』って」
「助けてあげなさいよ」
「私とタクシーは、もうすでに他人ですよ。養育費だって、1円ももらっていません。助けるどころか、関わりたくもないんです」
「ひどい女だ」
「何とでも言ってください」
「で、あなたは実家でぬくぬく暮らしてるってわけ?」
「いえ、アパートを借りて、ちゃんと自立してます」
「収入と出費はいくら? あと、部屋の間取りも教えて」
「なんで、そんなことを教えないといけないんですか?」
「私と夫を養う余裕があるかどうか、聞いてるの」
「私に養う義務があると、本気で思ってますか?」
「私は、ハルトの祖母よ」
「だから何ですか?」
「孫と一緒に暮らす権利があるわ」
「ないです」
「じゃあ、私たちはどうすればいいの?」
「何をそんなに焦ってるんですか?」
「家賃が払えなくて、追い出されたの」
「頑張って働いてください。では」
「待って。うちは子沢山で、やっとの生活なんです。頼られても困るんです」
「そんなこと言わないでよ」
「失礼します」

1週間後、義母からまた連絡があった。
「報告不要です」
「河川敷なんてとんでもない。立派なマンションに住んでたのよ」
「え、なんで?」
「しかも隣町。あなたの家から車で30分くらいよ」
「へえ。ちゃんと仕事を見つけたんですね」
「なんか、素敵な女性に出会ったらしくて、その人のお世話になってるらしいわ」
「ヒモじゃないですか。情けない」
「私たちの面倒も見てくれるっていうの」
「それは何よりです。余裕ができたら、養育費を払うようお伝えください」
「何を言ってるの? 払うのはあなたよ」
「はい?」
「ハルトは、こちらで引き取るわ」
「ふざけないでもらえますか? うちの大事な後取りなのよ」
「後を継ぐほどの家でもないでしょう」
「は? なんてこと言うのよ」
「ギャンブルで借金を抱えるような祖父母と父親に育てられて、まともに育つわけがないと言ってるんです」
「私たちは、ここからやり直すの」
「れ子さんのおかげで、第二の人生をスタートするんだから」
「そのれ子さんって方がどんな方か存じ上げませんが、あなたたちに手を差し伸べるとしたら、よほどの全財産家か、何か裏があるとしか思えませんけどね」
「人が幸せだからって、嫉妬してるの?」
「いいえ、私たちは幸せなんで」
「ああ、そう。ハルトがいなくなっても、そう言えるかしらね」
「ハルトがそちらに行くことはありません。勝手に連れ去れば、あなた方は犯罪者になります」
「ハルトの意思だったら?」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「今の生活なら、欲しいものは何だって買い与えられるし、どんな私立の高校や大学でも行かせてあげられるの」
「それは親である私の仕事です」
「まあ、そう思ってればいいわ」
「じゃあ」

数日後、ハルトのスマホに、夫からLINEが届いた。
「父さんだよ」
「なんで、僕のLINE知ってるの?」
「お前の友達に1万円渡して、聞いたんだ」
「お母さんや僕のお金は勝手に取ったくせに、そんなお金があるんだね」
「一丁前に嫌味も言うようになったのか。まあいい。俺のところに来い」
「どうして?」
「最高の環境で、最高の教育を受けさせてやる」
「例えば?」
「バスケしてるらしいな」
「うん」
「専属のコーチをつけてやることもできるぞ」
「部活の先生で十分だけど」
「お前は俺に似て背が高い。将来はプロになることだってできるんだぞ」
「ごめん。何が言いたいのか、分かんないんだけど」
「お母さんと離れて、父さんと暮らそうと言ってるんだ」
「なんで?」
「その方が幸せになれるからだよ。小遣いは、欲しいだけくれてやる」
「分かったよ」
「あ、本当にお金くれるの?」
「もちろん。いくら欲しい?」
「新しいボールとバッシュが欲しいから、5万くらい」
「なんだよ、そんなもんか。50万でも100万でもくれてやるぞ」
「え、そんなに?」
「驚くなよ。父さん、成功したんだ」
「すごいね」
「やっと尊敬される父親になれた。お前の友達の親に借りた金も返したからな」
「もう連絡取ってないけど」
「父さんのところに来ないか? じいちゃんもばあちゃんもいるぞ」
「お母さんがいい」
「欲しいもの、我慢してるんじゃないか」
「別に欲しいものないし」
「そうか。でも、高校になったら金がいるぞ」
「そうなんだ。お父さん、何の仕事してるの?」
「まあ、営業みたいなもんだな」
「ええ」
「金が欲しかったら、いつでも電話してこい」
「養育費は?」
「よくそんな言葉知ってるな。月に30万でいいか?」
「そんなにくれるの?」
「余裕だよ」
「すごいね」
「そのうち振り込んでやるよ」
「分かった」

数分後、ハルトが私のところに来た。
「お母さん、お父さんからLINE来た」
「なんで?」
「友達に1万円渡して、僕の連絡先を聞いたって」
「なんてことをしてるのよ」
「月に30万円くれるくらい、儲かってるらしいよ」
「嘘? 何の仕事してるわけ?」
「営業みたいなものって言ってた」
「ありえない。そんなうまい話があるわけがないわ」
「僕もそう思って、どんな仕事してるか聞いてみたんだけど、分からなかった」
「子供が余計なことをしなくていいの。あの人たちに連れ戻されたら、どうするのよ」
「誘われたけど、僕はお母さんから離れないよ」
「分かってるでしょ?」
「うん。でも心配なの。もし裁判でも起こされて、あっちに資金があるなら、お母さん負けちゃうかもしれない」
「調べたら、15歳になったら親を選べるんだって」
「そうなの?」
「あと2年後には、僕がお母さんを選ぶから」
「何言ってるの? 1秒足りとも、あっちには行かせないわ」
「うん。僕も行きたくないよ」
「次に連絡があっても、無視しなさい」
「うん」

数日後、夫から電話がかかってきた。
「ハルトなら、俺と寿司食ってるから、心配すんな」
「ちょっと、勝手なことしないでよ」
「学校帰りに声をかけたら、ホイホイついてきた。よっぽど腹が減ってたのか、がっついてるぞ。ちゃんと食べさせてんのか」
「失礼なこと言わないで。あなた、河川敷で暮らしてたんじゃないの?」
「ああ、そんな時代もあったな。2週間くらいだけど」
「何がどうなって、そんなに余裕ができたのよ」
「とある女に出会ったんだ」
「お母さんが言ってた、れ子さんって人ね」
「彼女が仕事を紹介してくれてさ。金で困ってた時代が嘘みたいに潤ってる」
「どうせ、怪しい仕事で稼いだ金でしょ」
「合法に決まってんだろ。じゃなかったら、とっくに刑務所入ってるわ」
「お願いだから、ハルトに関わらないで」
「あいつが自分の意思で来たんだ」
「場所を教えて。すぐに迎えに行くわ」
「心配すんなって。ちゃんと家まで送り届けるから」
「やめて。家なんか知られたくない」
「だったら、タクシーに乗せるよ」
「俺は今更、お前とよりを戻そうなんて思ってない。好きな女もいるしな。勝手に幸せになればいいじゃないか」
「なんで、今更関わろうとするのよ」
「贖罪っていうのかな。あの頃の俺は、本当に荒れてたしクズだった。お前らには悪いことしたと思ってるんだ」
「気持ちだけ受け取っておくわ」
「金に困ってないか? ハルトにいくらか持たせてやろうか?」
「いらない。ちゃんと働いてるから、ほっといて」
「そっか。分かったよ。でも、ハルトが俺を選んだ時は、従ってくれよ」
「そんなこと、あの子が言うわけがない。すぐに迎えに行くから、場所を教えて」
「はいはい。分かったよ」

翌日、ハルトが熱を出した。
「お母さん、仕事行くけど、1人で寝てられる?」
「うん。今測ったら37. 5度しかないし、大丈夫」
「インフルじゃないと思うけど。熱が上がってきたら、すぐに連絡して」
「分かった」
「勝手にお寿司に行ったこと、お母さん怒ってるからね」
「うん。ごめん」
「午後からおばあちゃんが来てくれるから、寝てて」
「お父さんからの連絡は、無視するのよ」
「はい」

1時間後、ハルトのスマホが鳴った。
「お前、学校休んでんのか?」
「なんで知ってるの?」
「お前の中学に電話したら、休みだって聞いてさ」
「なんの用?」
「今から銀行行くぞ」
「は?」
「お前の口座を作るんだ」
「郵便局なら持ってるけど」
「それはお母さんが管理してる口座だろう。俺とお前との秘密の口座を作るんだよ」
「なんで?」
「父親として、お前には何もしてやれなかった。せめて金に余裕ができた今、何かしてやりたいんだ」
「勝手に作ればいいじゃん」
「今は厳しくて、本人確認が必要なんだよ。保険証を持ってるか?」
「ある」
「なんで学校休んでるんだ? 病気か?」
「熱があるんだ」
「何度だよ」
「37. 5度だけど」
「そんなもん、熱のうちに入らねえよ。さあ、行くぞ。お母さんが仕事で、お前が休みなんて、こんなチャンス滅多にないだろう」
「まあ、そうだけど」
「駅前に赤い銀行があるから、そこにしよう。30分で来れるか」
「分かった」

3時間後、ハルトから連絡が来た。
「お母さん、ごめん。熱が上がってきた」
「え? 何度?」
「うん、今測ったら39度超えてた」
「大変。インフルかもね。おばあちゃんには帰ってもらおう。移ったら大変だもんね。すぐに帰るから、待ってて」
「仕事なのに、ごめん」
「何言ってるの? 外に出かけたりしたからじゃない。安静にして寝てればよかったんだ」
「え、どこか行ったの?」
「お父さんから呼び出されて……」
「なんで?」
「銀行口座を作りに行こうって言われたんだ」
「はあ?」
「お母さんは、お父さんからのお金は絶対に受け取らないと思ったから、僕がもらえば生活が楽になるかなと思って」
「何言ってるのよ。お母さん、ちゃんとお給料もらってるし。そりゃ部屋は少し狭いかもしれないけど、2人で生きていく分には困ってないの」
「だって、お母さん、新しい洋服買ってないでしょ」
「そんなこと、気にしてくれてたの?」
「うん」
「その話は、治ってからね。すぐに戻るわ」

1週間後、ハルトは退院した。肺炎になりかけたのだ。
「あんたのせいで、ハルトは1週間入院してたわ」
「なんで俺のせいなんだよ」
「熱があるのに、連れ出した。そうじゃない?」
「あの時は微熱だったぞ」
「40度近くまで上がって、肺炎になりかけたのよ」
「それは悪かったよ。良くなったのか」
「今日、退院した」
「そっか。じゃあ、快気祝いに焼肉でも行くか」
「ふざけないで。ちょっと金を持ったくらいで、父親面しないでよ」
「別にいいだろう」
「私、どうしてもしっくり来なかったの」
「何がだよ」
「どうして、こんなに羽振りがいいんだろうってこと」
「俺は成功しちゃいけないのか?」
「そんなことないわ。まともな仕事ならね。でも、急すぎるのよ」
「俺だって、それなりに努力したけどな」
「だから、友達に相談してみたの。元旦那が金を持ってるのが変だって」
「お前はアホか」
「その前に、1つ聞いていい? ハルトのために作った通帳はどこ?」
「それは俺が預かってる」
「どうしてよ? ハルトにお金を振り込むんでしょ? あの子が引き出せないなら、意味がないじゃない」
「父親として、使い道を管理する義務があるからな。あいつにはカードがそのうち届くから、心配すんな」
「友達が言ってたわ。犯罪に使うための口座じゃないかって」
「は?」
「何、驚いてるの?」
「いや、突拍子もないこと言うなと思ってさ」
「口座を解約しようと思って、銀行に行ったの。そしたら、200万円入ってますが、どうされますかって聞かれて驚いたんだけど」
「それは、ハルトの教育資金だよ」
「え、じゃあ、ありがたく頂いていいのね」
「それはちょっと待とうか。色々と税金のこととかもあるし、一旦整理するわ」
「意味の分からない言い訳をしないで。何の取引に使われたか知らないけど、怪しいことにハルトを巻き込むなんて、どうかしてる」
「違うんだって」
「まだ言い訳するの?」
「私とハルトは、この1年、2人で助け合って生きてきた。あの子だって、なかなか友達ができなくて苦しんだ時期もあったけど、今やっと楽しい毎日を送れるようになったのよ」
「だったら、良かったじゃないか」
「あんたのせいで、ハルトは小学校の友達を失った。親が借りたお金のせいでからかわれて、どれだけ辛かったと思ってるのよ」
「あれは悪かったと思ってるし、もう返したじゃんか」
「そういう問題じゃない。ようやく忘れかけたことを、あんたが思い出させた。だから、体調を崩したのよ」
「ただの風邪だろう」
「何もかも、俺のせいにするなよ。あなただって、自分がリストラされたのは内の子が足りなかったからって、私を責めたよね。そうだろ」
「だったら、私の化粧のりが悪いのも、雨ばっかりで洗濯物が乾かないのも、温暖化も円安も、全部あんたのせいよ」
「おいおい、それはあんまりだろ」
「まあ、私の友達があんたの周りをすでに調べてくれてるから、その結果次第では、もう会うこともないと思うけど」
「ああ、お前の友達ごときに、何を調べられるんだよ」
「言い忘れてたけど、彼女は警察官よ」
「え?」
「最近、ここら辺でお年寄りを狙った犯罪が増えているそうなの。あなたが絡んでないことを祈るわ」
「いや、ちょっと待ってくれ。手元に200万ある。これで一緒に逃げてくれないか?」
「たったそれだけのお金で、どうする気よ? あんたとそっくりなギャンブル好きのご両親の面倒も見ていかないといけないんでしょ?」
「あんなジジババより、お前たちの方が大事だ」
「あなた、勘違いしてない?」
「何をだ?」
「ハルトがあなたの呼び出しに応じたり、LINEの返信をしていたのは、全て私のためだったのよ」
「嘘だ。俺を父親として認めたんだ」
「お金で自分たちを苦しめた男が、どうしてお金を持ってるのか。あの子なりに探ろうとしていただけ」
「そんな……」
「警察の友達が言ってたけど、あなたたちは出し子とか、その下の尻尾。今頃、上の連中は海外にでも逃げてるはずだって」
「頼む。お前のところでかくまってくれ」
「心配しなくても、色付きの檻の中に入れてあげるわ」
「やだよ。それに出てきた後は、どうすりゃいいんだ?」
「今度こそ、河川敷にでも住んだら?」
「うるせえ」
「リストラされた時、俺は終わったと思った。俺がどんな気持ちだったか、分からないだろう」
「分かるから、1年間何も言わずに支えたんでしょ」
「ハルトが生まれて、ずっと幸せだった。あなたがハルトを抱っこしてる姿を後ろから見るのが、幸せだった。だから、仕事を失ったくらいで、嫌いになるわけがないでしょ」
「なのに、あなたが頑張るなら、私は何年でも支えるつもりだったよ。でも、たった1ヶ月で、ハローワークに通うのをやめたよね」
「40過ぎて無職なんて、誰も雇ってくれない」
「就職活動もしない人を雇う会社なんてない」
「プライドを傷つけられて、自信を失ってたんだよ」
「それが理由で、ギャンブルにはまったの?」
「お前やハルトの視線が痛かった。家から出る口実なら、何でも良かったんだ」
「お金まで減らしてくることはないでしょ」
「気がついたらはまってて、一発当てれば家族を楽にできると思った」
「朝飯前にもほどがあるわ」
「でも、離婚してれ子と出会って、俺は救われたと思ったんだ」
「詐欺グループに出会って『ラッキー』って? 最初は知らなかったんだよ。営業の仕事って言われて、お年寄りに電話して金融商品を勧めるだけだって」
「さすがに途中で気づいたでしょ」
「気づいたよ。でも、もう引き返せなかった」
「金が入って、ハルトに寿司を食わせてやれて、『お父さんすごいね』って言われて、舞い上がってたんだ」
「それで、息子を犯罪に巻き込んだの? あの口座が詐欺の振り込み先に使われることを知ってたくせに」
「すまん。俺は……俺はただ、ハルトにかっこいい父親の姿を見てほしかっただけなんだ」
「詐欺でお年寄りを騙すのが、かっこいいの? そんな汚い金で身を張ったって、何にもならない」
「分かってるよ。ハルトには悪いことをしたと思ってる。せめて金だけでも、楽させてやりたかったんだよ」
「嘘ばっかり。最近も、稼いだお金はギャンブルに使ってたでしょ?」
「いや、使ってないけど」
「ハルトが言ってたわ。寿司屋に行った時、車の中に競馬新聞が入ってたって」
「あれは、落とし物を拾っただけで」
「また嘘をつくのね」
「結局、あなたは何も変わってなかった。息子のためって言いながら、全部自分のためだったのよ」
「違う」
「ハルトを傷つけた挙句、犯罪の片棒を担がせようとした罪を、一生かけて償いなさい」
「なあ、頼む。助けてくれ」
「1つだけ聞かせて」
「なんだよ」
「本当に、ハルトを愛してたの?」
「当たり前だろ。俺の息子だぞ」
「なら、2度とその汚い顔を見せないで。それが、あなたが息子に与えられる最後の愛よ」

数日後、義母から電話がかかってきた。
「助けて」
「タクシーが逮捕されたのよ。私たち、住む場所もお金もないの」
「知ってますよ」
「ハルトの祖父母なのよ。少しは情けをかけなさいよ」
「情け? 自分の孫を犯罪に利用しようとした人たちにかける情けなんて、1ミリもありません」
「通帳の1つや2つ、融通してくれてもいいでしょ」
「ほら、やっぱり知ってたんですね」
「え?」
「私、通帳なんて一言も言ってませんけど」
「それは……多分、そうかなと思って」
「一瞬でも裕福な暮らしができて、よかったじゃないですか。その分、今後の生活とのギャップもすごそうですけど」
「そうなのよ。もう貧乏暮らしは嫌なの」
「息子さんが出てくるまで、長生きしてください」
「そんなこと言わずに、助けて。寝る場所だけでも、お願い」
「ああ、それなら、1つだけあるかも」
「本当? 嬉しいわ。ありがとう」
「河川敷、どうぞ」

数ヶ月後。
「お母さん、今日の試合、3ポイント決めたよ」
「すっごい! 約束通り、今夜は焼肉食べに行こう」
「やった」
「お母さん、僕、お父さんいなくても幸せだから。友達もできたし、バスケも楽しいよ」
「ハルト……」
「大人になったら、旅行に連れてってあげるね」
「うん。楽しみにしてる」
「僕は今日の焼肉が楽しみ」
「お母さんも、ハルトに負けないくらい食べちゃうもんね」
「太るよ」
「ぐっ……健康でいてほしいから言ってるのよ」
「うん。これからも、2人でずっと笑っていられるよ。健康で頑張る。ダイエットもね」
「焼肉の前に、それを言うな」

タクシーは、特殊詐欺グループの一員として逮捕された。ハルト名義の口座は、詐欺の振り込み先に利用される寸前だったそうだ。息子に金を残したかったと供述していたようだが、実際は自分のギャンブル代に消えていたらしい。

実刑判決が下り、彼は今、刑務所の中で規則正しい生活を送っている。刑務作業という仕事をやっと得て、今頃喜んでいるのではないだろうか。

一方、タクシーの逮捕と同時に、れ子さんは姿を消した。高級マンションも追い出された義父母は、さすがに河川敷には住まず、日雇いで働きながら安い宿を転々としているそうだ。

私は警察官の友人の協力で、ハルト名義の汚れたお金を全て被害者の方へ返還し、ハルトの潔白も証明した。中学生になったハルトは、バスケ部のエース。将来は社長になってお母さんを支えると、嬉しいことを言ってくれている。

辛かった日々も、笑顔に溢れた日々に変わるんだと、今実感している。すぐにサイズアウトしてしまう靴を買うため、仕事をバリバリ頑張らないと。

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