あの日の銀行の応接室、窓は閉まっているのに土の匂いが漂っていた。私は清潔なスーツの男を前に、妻の手が震えているのを感じていた。「桐さん、農業はリスクが高いんですよ」支店長はそう言い放った。四十年、この土地で土を耕し、従業员十二人と共に築いてきたものを、たった一言で否定された気がした。「返済は一度も遅れたことはありません」そう訴えても、彼は決算書をめくるだけで、数字を見ているようで見ていなかっ…

あの日の銀行の応接室、窓は閉まっているのに土の匂いが漂っていた。私は清潔なスーツの男を前に、妻の手が震えているのを感じていた。「桐さん、農業はリスクが高いんですよ」支店長はそう言い放った。四十年、この土地で土を耕し、従業员十二人と共に築いてきたものを、たった一言で否定された気がした。「返済は一度も遅れたことはありません」そう訴えても、彼は決算書をめくるだけで、数字を見ているようで見ていなかっ...

銀行の応接室に、かすかに泥の匂いが漂っていた。窓を閉め切った清潔な室内に、長靴の裏に付着した土が放つ、土と草と汗の混じった匂い。エアコンの冷気がその匂いをかき消そうとしているかのようだ。

テーブルを挟んで向かい側に座る男の視線が、自分たちを見下すように向けられている。スーツの男は、差し出した名刺への視線すらも誠実さに欠けていた。名刺には「緑丘銀行 緑丘支店 支店長 三条」とある。この場所に何度も足を運んできた男、宗介には分かる。この男は、目の前に座る老夫婦が何者なのかを、まったく理解していないのだ。

手元の書類に目を落とすふりをして、三条支店長は言葉を続けた。

「桐さんへの融資について、当行としましても見直しを検討しております。本部から、農業法人へのリスク評価を厳格化するよう指示が来ておりまして」

その言葉に、隣に座る妻の千鶴が、そっと宗介の手に自分の手を重ねた。細い指が、かすかに震えていた。

「返済は、一度も遅れたことはありません。見直しとは、どういう意味でしょうか」

宗介は、できるだけ平静を保って尋ねた。40年間、この土地で農業を続けてきた男の声は、思ったよりも低く、よく通った。

「当行としましては、農業法人への融資はリスクが高いという判断です。天候に左右される事業への長期融資は、銀行全体の方針として難しくなってきているのが現状でして」

三条は、書類に目を落としたまま淡々と答えた。

「失礼ながら、後継者の問題もありますし、いつまで現在の規模を維持できるかという点も懸念材料です」

「決算書はご覧になりましたか。経営が安定していることは、数字を見ればお分かりいただけるはずですが」

「数字は拝見しましたよ」

三条は、目の前の決算書を手に取り、パラパラとめくった。しかし、その目は数字を追っているのではなく、ただページをめくる動作をこなしているだけだった。

「ただ、桐さん。数字が良くても、業種というものが重要なんです。農業は、どうしても投資家から見ても、銀行内部から見ても、成長産業とは言いにくい。この辺りの農家も、後継者不足で廃業が相次いでいるのが現状ですから」

「うちは、違います。従業員も十二名おりますし、都内の高級レストランとの取引もさせていただいております。何より、この土地で作り続けてきたという実績が」

「奥様、経営の話は数字だけではないんですよ。長く農業をされているのは分かりますが、その実績というのが、いまの時代にどれほど通用するのかという問題もありますから」

千鶴は、口を開きかけて、しかし何も言わなかった。代わりに、買い物袋から古びた手帳を取り出した。

「支店長、少しよろしいでしょうか。もう十年以上前の話で恐縮ですが、当時の村田支店長とこういう話をしたことがあります。農業は、この国を支える食を守る産業だと。数字だけでは測れない価値があるのだと、あの方はおっしゃってくださいました」

村田の名前を出した途端、三条の顔に一瞬、苛立ちの表情が浮かんだ。

「村田は、顧客に甘すぎましたね。銀行というのは、慈善事業ではありませんので。桐さん、分かっていただきたいのは、経営者の情熱だけで融資が受けられる時代ではないということです。明確な出口戦略、いわゆる事業承継のプランがなければ、融資継続は難しい。ここは正直に申し上げておきます」

三条の言葉は、整然としていた。まるで、自分の言っていることが正しいと疑わない人間の言葉だった。

宗介は、テーブルの下で拳を握りしめた。40年間、土を耕してきた手だ。この手で掴んだものを、簡単に手放すつもりはない。

「支店長。うちは、四十年前からこの土地で農業を続けてきました。私がまだ若かった頃、先代の支店長である山本さんという方に言われたことがあります。『お前みたいな真面目な若造でなければ、農業なんてやるもんじゃない。ただし、一度やると決めたら、この土地と生涯添い遂げる覚悟でやれ』と。私は、その覚悟でここまでやってきました」

「桐さん、話が古いんですよ。それでは融資の担保にはなりません。むしろ、そういう頑固な姿勢が、時代の流れに乗り遅れる原因なんです。あなたの…」

「いや、待ってください」

宗介は、三条の言葉を遮った。声は、思ったよりも静かだった。

「うちの妻も、娘も、この土地で働いてきた従業員も、みんな一緒に夢を見てきました。今年のトマトは本当に出来がいい。そのことを、支店長に伝えたかった。そして、その価値を理解していただいた上で、改めて融資の継続をご検討いただけないでしょうか。私は、首を垂れてお願いするつもりはありません。一度、私どもの畑を見に来ていただけませんか。きっと、分かっていただけると思います」

三条は、しばらく宗介の顔を見つめていた。しかし、その目に少しの興味も、変化も見られない。

「申し訳ありませんが、私は畑や作物を見に行く仕事をしているわけではないんです。重要なのは、数字と、ビジネスモデルの合理性です。ここだけの話ですが、あなたは、この土地を手放したくないからといって、周りの景色を見ようとしていない。残念ですよ。せっかく、これまで真面目にやってきたのですから」

三条は、立ち上がった。

「桐さん、本日のところはこれで失礼します。融資継続についての結論は、近日中に書面でお伝えする予定です。どうか、ご一考いただければと思います」

そう言い残して、三条は応接室から出て行った。ドアが閉まる音が、静かな部屋に響いた。

しばらく、何の音も聞こえなかった。エアコンの低い作動音だけが、二人の間を流れていく。

千鶴が、手に握りしめていたハンカチを膝の上に置いた。

「帰りましょう。宗介」

宗介は、何も答えなかった。握りしめていた拳をゆっくりと開き、この家を四十年近く支えてきた自分の手のひらを見た。そこには、土と汗が染みついている。

「千鶴。今日から始まった話じゃない。この目で見てきたんじゃないか、浮き沈みを。今年の不作も、あの台風の夜も、俺たち、二人で乗り越えてきただろう。今回も、きっと大丈夫だ」

その言葉に、千鶴は静かに首を振った。

「あなたのその楽観的なところ、十年以上も経って、やっと分かってきた気がするわ。それでなくとも、ああいう銀行員には、あなたの本気は伝わらない。感情で数字を見てもらおうってこと自体が、間違いなのかもしれない」

「じゃあ、どうしろって言うんだ。俺がこれまで作ってきたものを、すべてバカだと言われた気分だ」

「何もバカだなんて言ってない。あなたは、ただ自分が正しいことだけを信じて生きてきた。それで、ここまでやってこれたのは立派なことよ。でも、ああいった男には、自分の正しさを押し付けるだけじゃダメなのよ」

「それなら、千鶴はどうすればいいと思うんだ」

「さあ、私にも分からない。でも、分かっていることは、あのまま強情を張り続けていたら、銀行との縁は本当に切れてしまうってこと。あとで後悔しないためにも、今日は大人として、きちんと話をしてくるべきだったのかもしれないわ」

自宅に戻った二人を待っていたのは、不安げな顔の従業員たちだった。作業を中断し、ソワソワと玄関の前に集まっている。

「社長、銀行の方はどうでしたか」

「なんか、嫌な感じのこと言われてないですか? 」

宗介は、二人の顔を見つめて、精一杯の笑顔を作った。

「なんだ。まだ何も決まったわけじゃない。ちょっと手続きに時間がかかるって言われただけだ」

しかし、その言葉は、自分自身に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。

その夜、宗介は眠れなかった。布団に横になっても、目が冴えてしまう。隣では、千鶴も眠れずにいるのが分かる。息づかいで分かる。

「なあ、千鶴。まだ分からないだろうが、これからのこと、本気で考えないといけないのかもしれない」

「あなたらしくないわね。何を弱気なこと言ってるの」

「現実を見なきゃいけない時もある。俺たちの力だけで乗り越えられる話じゃないことは分かってる。ただ、信じることをやめたくないんだ。あの畑を、この土地を」

朝が来て、いつものように軽トラックを畑へ走らせた。泥の匂いが、ほんの少しだけ心を落ち着けてくれる。宗介は畑に降り立ち、腰を落として、土の匂いを嗅いだ。朝露を含んだ土は、しっとりと湿っていた。

「そうだな。この匂いを、手放すことはできないな」

千鶴もまた、車から降りて、畑を見渡した。その目は、昨日までと違って、決意に満ちていた。

「あなた。あたし、ちょっと思いついたことがあるの。まだ自分の中で整理できてないけど、すごく大事なこと」

「何だよ、はっきりしねぇな」

「説明するより、見てもらった方が早いわ。あしたでいいかしら。あなたに付き合って欲しい場所があるの」

「俺にか? 」

翌朝、軽トラックを走らせ、千鶴の指示に従って、車は郊外へと向かった。やがて、川沿いの土手道に出た。水田が広がる風景が、眩しいほどに陽光を浴びている。

「ここよ、ここに停めて」

車を降りると、千鶴は土手を指さした。

「子供の頃、よくここで遊んだの。取れたての野菜を、この川で冷やして食べたこともあったわね」

「そういえば、何かそんなこと言ってたな」

「宗介、あの土地を売るのは、もったいないと思うの。この景色が、あの土地が、あなたの人生を作ってきた。それは、あなたの代だけじゃない。私や娘にとっても、大切な場所なの」

「そんなことは分かってる。分かってるが、銀行が」

「聞いて。うちの畑には、世界中の誰よりも自慢できる、この土がある。この水がある。道具や機械は売っても、この土地さえあれば、また一から始められる。そう思わない? 」

千鶴の目は、強く澄んでいた。この何十年かで、一度だって、妻がこんなに強い眼差しをすることがあっただろうか。いや、なかった。

「宗介。あの土地を全部売る必要なんて、ないのよ。半分だけ、手放す。なんだったら、あたしも何か手伝う。有機野菜に、加工品。なにか新しいことを始めましょ。ロングトレールでも、だめかしら。というよりも、多少、大胆にいかないと、この先はないって、ちゃんと分かってる?

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「千鶴さんや。いきなり、何を言い出すんだ。今、何の話をしてるか分かってるのか」

「分かってるつもりよ。どうせあなたは、銀行に頭を下げて、土地を全部売るなんて、絶対に許さないって顔をしてる。だから、こう言ってるの。半分でいいでしょ? どうせ有無を言わせないじゃないか、あの男は」

千鶴は、いたずらっぽく笑った。その顔に、隠しきれない悲しみが滲んでいた。

家に戻ると、千鶴は娘の彩香に電話をしていた。都内で結婚し、共働きで忙しく暮らしている娘だ。

「彩香、もしもし。忙しいところごめんね。お父さんとちょっと大きな話を始めたの。あなたにも、相談したいことがあるの。今度、時間を作ってくれないかしら。うん、大事な話だから。うん、大丈夫よ、心配しないで」

電話を切ると、宗介が居間の障子を開けて声をかけてきた。

「千鶴。彩香か。何かあったのか」

「何でもないわ。ちょっと、親バカってやつよ。ねえ、宗介。お願いがあるんだけど。私に、新しいことを始めさせてくれないかしら」

「何を急に、千鶴がそんなことを言うなんて」

「あなたの作ったトマトを、もっと色んな人に食べてもらいたいのよ。都内の高級レストランだけじゃなくて、もっと気軽な料理屋さんとか、それこそスープカレーの店とか。加工して瓶詰めにしたら、野菜嫌いの子供たちにも食べてもらえるかもしれない。保存が効くから、出荷の幅も広がるし」

「そんなの、大きな設備投資が必要だ。今の俺たちにできることか? 」

「私ね、あの銀行員の話を聞いて思ったの。彼らは、数字でしか物を見ていない。育てる土の温かさも、人の手の温かさも、分かってないんだなって。それなら、私たちの思うやり方で、実績を作ればいい。私は、あなたと一緒にやってきた。妻として、この土地に生きる者として。それを、あんたのことを一番分かってる私が、応援しないでどうするの」

宗介の目に、かすかに光るものがあった。

「千鶴……俺は、本当に、お前に何度も助けられてきた。今回も、そうなんだな」

「当たり前でしょ。十年ひと昔って言うけど、次の十年、私たち、まだまだ頑張れるわよ」

その夜、二人は久しぶりに、蔵から出してきた古い酒を酌み交わした。食卓に並んだのは、採れたてのトマトをたっぷり使ったサラダと、千鶴が漬けた梅干し。酒の味は、しょっぱくもあり、甘くもあった。

翌朝、宗介は目を覚ますと、いつもより気持ちのいい朝を迎えていた。カーテンを開けると、一面に広がる野菜畑。昨日までは見ていた風景が、今日は少し違って見える。

「よし、今日もやるぞ」

軽快な足取りで畑に向かう。朝露に濡れたレタスが、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。

千鶴は、千鶴で、家の応接間にパソコンを広げていた。カタカタと何かを打ち込んでいる。

「何をしてるんだ? 」

「ふふっ、計画書。あなたに内緒で、こっそり作っていたのよ。銀行に出す書類じゃないわよ。私たちの新しい人生の計画書」

そう言って、千鶴が差し出した紙には、手書きの文字で「農家民宿 はるかぜ」と書かれていた。

「何だ、これは」

「昔からの夢だったのよ。農家にも、泊まりに来てくれる外国人の観光客に、日本の食文化ってやつを紹介するの。体験型の農園講座なんかを開いて、人を集めるんだ。ここだけの話、この辺りも、もうじき新駅ができるって話もあったりなかったりで、小さな宿なら、やっていけるかもしれないと思ってね」

「千鶴、本気か?

「もちろん本気よ。パッと見、地味で勝気な女房に、出来ない相談だとでも思った? 」

宗介は、妻の作った計画書をじっくりと読み込んだ。そこには、獲れたての野菜を使った夕食の献立や、地域の農家を巻き込んだイベントの開催案、フランス人の観光客向けに、農業体験と街中にある伝統工芸の職人見学をセットにしたツアーの構成まで書かれている。この歳になって、妻の才能に驚かされるとは思わなかった。

「千鶴、恐れ入った。本当に、よく考えてたんだな」

「働き盛りの若い衆が、安心して畑を続けられるようにするのが、今の私たちの役目だと思うのよ。私は、いきなりそれをやりたいの」

「でも、銀行の融資がダメになるかもしれないって時に、設備投資なんて、リスクが大きすぎるんじゃないか? それに、この地域で本当に人が集まるのか? 」

「リスクは、最初から分かってる。もちろん、無理だと言われれば、それまでよ。でも、国が推し進めるインバウンド需要ってやつを、信じてみたくもなるじゃない。それに、なにも最初から立派な建物を建てる必要はないわ。敷地の片隅に、小さな古民家を改修して、ゆくゆくは、って感じでもいいし。銀行にいきなり返せと言われなければ、何とかなるかもしれない。何せ、祖母が残してくれたあの土地が、まだあるんだから」

千鶴の言葉を聞きながら、宗介は、島の名前を知った。家からそう遠くない場所にある、古い湊町だ。春には桜が咲き誇り、秋には銀杏が黄葉する。そんな場所を、あの時、千鶴が気に入らなければ、こうはならなかったかもしれない。

「よし、分かった。千鶴。一つ、相談があるんだが」

「何?

改まって」

「俺も、千鶴に手伝って欲しいことがある。目の前の借金を返すためだけに動くんじゃない。後に続く者たちに、この土地の素晴らしさを受け継ぐために、一緒に力を貸してくれないか」

「何を急に。あなたらしくもない。でも、その心意気、買ったわ。私たち、まだまだ、捨てたもんじゃないわね」

そう言うと、千鶴は、大切そうに、その計画書を筆箱にしまった。

数日後、宗介は、一枚のハガキを手に、県庁へ向かっていた。千鶴が作った計画書を手に、農林水産課の窓口を訪ねたのだ。

「すみません。農業相談なんですけど」

「はい。どのようなご用件でしょうか」

「あの、この書類を見てください。これから、農業を発展させるための計画を立ててまいりました」

窓口の職員は、差し出された計画書を手に取り、じっくりと読み始めた。そして、何ページか進んだところで、その手を止めた。

「失礼ですが、こちら、葛城さんという方は、お見受けしたことがありませんが」

「はあ」

「こちらの経歴書、拝見しましたが、ずいぶんと経験を積まれていますね。それで、首都圏の大手観光会社を辞めて、こちらに移り住んだと。どうして、また」

「ええ。前の仕事では、地方の観光振興に携わっておりました。この土地の魅力を活かしたビジネスで、農業を盛り上げていけないかと思いまして。具体的には、この計画書にもあるように、世界から観光客を呼び込みたいと考えています」

窓口の男は、少し驚いた顔をしていた。

「なるほど。では、こちらが第一希望の地区ですね。ご自宅のある〜地区ではなくて?」

「いえ。この地区に、どうしても、こだわりたいんです。理由は、まあ、色々とありまして」

顔を上げた男は、穏やかな笑みを浮かべていた。

「よく来てくださいました。農業を始めるなら、この地域がいい。私も、この地域の農業のことを、もっと知りたくて、今日まで勉強してまいりました。力になります。そうだ。まずは、君を、仲間に紹介したい。色々と、教えてもらおうじゃないか」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

男は、にっこりと微笑んだ。その顔には、すべてを理解しているかのような優しさがあった。

「そう言わずに、これから。この地域は、農業にビジネスのチャンスを見つけた人を、決して拒んだりしない。ましてや、あなたみたいな人を、なんて、木っ端微塵に扱ったりはしない。ようこそ、私たちの町に」

こうして、男は、地域の農家と連携した新規就農のモデルケースとして、動き出すことになった。男の名前は、藤岡駿介。後に、この町を支える農業の担い手となる男との出会いだった。宗介が、千鶴と共に、新しい一歩を踏み出そうとしていた頃。都内の大手銀行の融資課では、一本の電話が話題になっていた。

「ああ、うん。それで、その葛城さんは、どうしたって?」

「はい。地元の農家を束ねるリーダーと組んで、農業法人を設立する計画を進めているようです。我々が融資を渋ったことへの、当てつけもあったのかもしれません」

「……ふうん。で、お前、どう思う? 本当に、成功すると思ってるのか?」

「分かりません。ただ、彼らには、我々が数字で計算する以上の何かがある。そんな気がするんです。ですから、少しだけ、長い目で見てやることにしたんです。何も、融資だけが、すべてじゃないでしょうから」

受話器の向こうで、誰かが笑った気配がした。

「やれやれ、甘ちゃんめ。だが、それでいいのかもしれないな。何せ、銀行は、利ざやだけで動いてるんじゃないからな」

その頃、宗介たちは、汗を流しながら、畑に囲まれた 古びた納屋に立っていた。

「ここを改修して、みんなが集える場所にするんだ。そうすりゃ、自然と人が集まってくるってものだ」

「本当に、やるのか? 千鶴さんたちと、借金してまで、やることなのか?」

「なあ、高梨さん。俺は、あの銀行にだけは言われたくないんだよ。家族も、土地も、全部失う覚悟で、俺は、この道を選んだんだ。金だけが、人生のすべてじゃないって、教えてやろうと思ってるんだよ」

そう言って、宗介は、農業を続ける決意を胸に、翌日もまた、いつものように畑に立った。スコップを片手に、土を耕す。彼の思考は、明晰になっていった。

「よし、ここに、直売所を作ろう」

千鶴が、ハッと顔を上げた。

「通販の拠点にもなるし、今はやりの農家レストランなんて面白いかもしれないわね」

「ああ。だけど、そうなると、人手が足りない。どうする」

「近所の、仕事がないって言ってるお年寄りに力を貸してもらうってのはどうかしら。高齢者の生きがいづくりにもなるし、向こうだって、引け目を感じることなく働けるわよ」

二人の周りに、人々が集まってきた。彼らはみな、この土地を愛し、この地で生きようとしている人々だった。数日後。大きな荷物を抱えた男が、緑丘銀行の受付に立っていた。先日、三条支店長に融資を断られた、あの時の男、藤岡駿介の姿があった。

「あの、緑丘支店の三条支店長をお願いします。私は、藤岡といいます」

受付の女性が、奥へと引っ込んでいく。やがて、応接室から、スーツ姿の三条が現れた。

「お待たせしました。で、今日は、どのようなご用件ですか?」

「実は、この度、私の事業計画を見ていただきたくて、参りました。どうしても、お見せしたい資料がありまして」

藤岡は、そう言って、分厚い封筒を差し出した。三条は、怪訝な顔をしながらも、それを受け取り、中身を確認した。そして、数ページに目を通したところで、ピタリと、手を止めた。

「これは?」

「この土地の、遊休農地の活用計画書です。ここで、新しい農業を起こします」

藤岡の目は、まっすぐに、三条を見つめていた。

「で、この俺に、それが何か関係があるんですか?」

「関係があります。この計画を、銀行の融資ではなく、地域の農業を守るための最初の一歩にしてほしい。そう思って、お願いしに来たんです。あなたの銀行の、新しいビジネスモデルになるかもしれませんよ」

三条は、藤岡の顔を、ジッと見つめた。

「……あなた、面白いことを言うね。第一、私がそこまでして、あなたを助けると思っているのか」

「思っていません。ですが、あなたにしか、できないこともあると思っています」

三条は、フッと、鼻で笑った。

「……悪いが、私は、あなたという人物が、あまり好きではない。だが、その計画書は、一読の価値がありそうだ。預かって、本部に話を通しておこう。まあ、期待はしないでくれたまえ」

「ありがとうございます。期待せずに、待ってます」

藤岡は、そう言って、ペコリと頭を下げると、足取りも軽やかに、銀行を後にした。三条は、その背中を見送りながら、手にした計画書を、もう一度見つめた。

数週間後。緑丘銀行の融資課に、一冊のファイルが届いた。そこには、藤岡駿介という、新規就農希望者の名前があった。その横には、こう記されていた。

「農福連携による、地域活性化の起爆剤となる可能性を評価。実行計画の策定を、条件付きで承認する」

ある秋のこと。一面に、紅葉が広がる山々。そのふもとの畑では、鈴なりのトマトが、真っ赤に色づいていた。

「今年も、豊作だな」

宗介が、満足そうに呟く。隣には、妻の千鶴が立っている。

「そうね」

「あんたが、あの時、半分でいいから売ってくれって言ったとき、俺は、この土地を離れるんだと思ったよ」

「まさか。あんたが、この土地を手放すだなんて、思っちゃいなかったよ。分かってたさ。あんたには、この土地しかないんだって」

千鶴は、優しく微笑んだ。

「あの銀行の前で、半分だけ土地を差し出した時のこと、よく覚えてる。支店長、驚いてたわよ。予想外の対応に、言葉を失ってた」

「ふっ。あいつも、ああ見えて、損な性格だからな。でも、結果的に、あれで関係が悪化するってこともなかった。俺たちが、ちゃんと返済を続けてきたから、分かってくれたんだろうよ」

「そうね。だけど、本当によかったの? 土地の半分を、銀行に譲ってしまって」

「ああ。あれだけの借金を、一括で返済できるって思ってたか? できるわけないだろう。あれで、利息を帳消しにしてもらって、ようやく返せる額になったんだ。むしろ、あの土地のおかげで、今の俺たちがあるんだからな。それに何より、ここで採れた作物を、近所の人たちと美味しく食べられる。それが一番だよ」

千鶴は、目を丸くしていた。

「利息を帳消しに……知らなかった。銀行の人が、あんなに簡単に応じてくれるなんて、思わなかった」

「応じるも何も、借金で首が回らなくなって、土地を売れと言われたんだ。買い叩かれるに決まってる。だが、俺は、千鶴の言った通りにしたんだ。『土地を手放す代わりに、農業を続けさせてほしい』って、直談判しに行ったんだよ。本当に、よくやったよ」

「何言ってるの。あんたが行くって言ったから、私は、ただ見守ってただけよ。それより、これを機に、私たちのやり方も、少しは変えていかないとね」

「そうだな。新しい一歩を、踏み出そう」

後日、家の前に、真新しい、小さな看板が立った。そこには、こう書かれていた。

「農家レストラン はるか」

その文字の横には、絵の上手い従業員が書いたのであろう、トマトの絵が、ちょこんと添えられていた。

「これで、一軒前の店構えだな。大将!」

声をかけてきたのは、トレードマークのツナギが爽やかな、かつての銀行員、三条支店長こと、三条だった。

「おう。今日は、どんな御用だ?」

「いや、これからも、よろしくお願いしますって、挨拶をな。堅苦しいのは、抜きで」

三条は、そう言って、てのひらを差し出した。宗介は、その手を、力強く握り返した。その周りには、新しい農業の担い手たちの、笑い声が絶えなかった。こうして、小さな一歩は、やがて、この土地に、新しい風を吹き込むことになる。それは、ある意味、もう一つの物語の始まりだった。