「顔だけの高卒女が偉そうに技術を語るな。笑わせんなよ」
劇場ラボ株式会社の開発部、修礼会議室。部長の黒瀬た明が、一人の契約社員が提出した改善提案書を手に取った。ページを巡ることすらせず、彼は目の前でそれをビリビリと破り捨てた。
その光景を見ていた契約社員、シーナ・リンカは背筋を伸ばしたまま、表情一つ変えなかった。だが、膝の上で組まれた両手が、かすかに震えていた。
「シーナ。契約更新はしない。今月で終わりだ。荷物をまとめて出ていけ」
「え……?」
蛍光灯の無機質な光の下、紙片がヒラヒラと舞い落ちる。二十人以上の社員が息を飲む中、声を上げる者はいなかった。その光景を最前列で目撃していた五十四歳の技術者、日山たしは、握りしめた拳の中で爪が手のひらに食い込むのを感じていた。
「部長、今のご自分が何をしたのか、本当に分かっていますか?」
「はあ? お前みたいなロートルが何を寝言をほざいた。黙って見てろ」
この男はまだ知らない。たった今、自らの手で追い出したその契約社員が、IQ二百の天才技術者だということを。やがて黒瀬の愚かな判断は、会社ごと奈落の底へと引きずり込むことになる——名誉も、財産も、全てを道連れにして。
朝、七時十五分。まだ薄暗い劇場ラボ株式会社の技術棟に、最初の灯りがともる。日山たし、五十四歳。入社三十二年目のベテランだ。彼は誰よりも早く出社してシャッターを上げ、開発室の空調スイッチを入れる。年季の入ったコーヒーメーカーが心地よくコポコポと音を立てるのが、一日の始まりの合図だ。
「日山さん、また一番乗りですか? 頭が下がりますよ」
「習慣だよ。この時間が一番頭が回る」
コーヒーが落ちる音を聞きながら、設計データに静かに目を通す。この朝の一時が、日山にとって最も大切な時間だ。精密機器の設計図面を描かせれば、この業界で右に出る者はいないと言われている。だが、そんな自負を日山が口にすることは決してない。技術で成果を出せばいい。言葉で飾る必要はない。三十二年間、それだけを貫いてきた。
しかし、半年前、その職場が一変した。親会社である劇場コーポレーションから乗り込んできた黒瀬た明が、開発部長の椅子に座ったのだ。
かつてこの部署は、若手もベテランも肩書きに関係なく意見を交わし合う、風通しのいい場所だった。それが今や、皆が黒瀬の顔色をうかがいながら発言するばかり。自由な議論は消え、会議は黒瀬の独演会と化している。
「最近、会議で発言するのが怖くて。黒瀬部長に目をつけられたら終わりだよ」
「みんな黙って従うしかない」
技術者の職場が、こんなに息苦しくなってしまうとは。苦々しく思いながらも、今の自分にできることをやるしかないと日山は言い聞かせていた。目の前の仕事に誠実に向き合い、若い技術者たちの目を守り続ける。ただ、それだけを。
そんなある日、開発室のドアが音もなく開いた。
「リンカさん、おはよう。今日も早いね」
「おはようございます、日山さん。昨日の試作品のデータ、まとめてきました」
穏やかな笑顔で差し出されたファイル。シーナ・リンカ、二十六歳の契約社員だ。高校しか出ていないという学歴を、この会社では誰もが知っている。
「あの子、また早出か」
「技術部門に契約社員って、どういう基準で配属してるんだろうな」
「顔がいいから取ったんだろう。それ以外に理由が思いつかない」
だが、日山だけは最初からリンカの実力を認めていた。彼女が入社初日に提出した設計図面を見た瞬間、肝を抜かれたのだ。素材の物性データを独自の数理モデルで解析し、既存製品の弱点を正確についた改良案。その差は、三十年近く道を歩いてきた日山でさえ、思わず息を飲むほどだった。
これは間違いない。この子は本物だ。
「熱性能の向上だけでなく、製造コストの削減につながる改良も盛り込みました。提案書としてまとめたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、是非そうしなさい。これは会議で発表する価値がある」
リンカの顔がぱっと明るくなった。その笑顔を見ながら、日山はファイルをめくり続けた。彼女が入社からわずか二年で築き上げた技術の数々は、この会社の根幹を静かに支えている。だが、その価値を黒瀬をはじめとする経営陣は正しく認識していない。それが日山には、じりじりと胸を焦がすほど歯がゆかった。この会社は、今、自分たちが何の上に立っているのかすら分かっていない。
コーヒーの苦みを舌の上で転がしながら、日山はそっとファイルを閉じた。この先、何かが大きく動く。その予感だけが、朝の静寂の中にひっそりと漂っていた。
——
その日の午前十時、朝礼が始まった。二十人以上の部下を前に、黒瀬は回転椅子に深く腰かけ、腕を組んだまま全員を見下ろしている。前月の売上が目標を二割下回り、親会社から厳しい指摘を受けていた。その苛立ちをぶつける相手を、今日も探しているのだ。
額に浮かぶ脂汗を拭うこともなく、黒瀬は切り出した。
「先月の売上、満たなかった。言い訳は聞きたくない。誰かが責任を取れ」
「現場としては精一杯やっています。技術的な課題が……」
「言い訳するな。結果が全てだ」
着任してから半年、売上不振の原因は常に現場の技術者たちに転化されてきた。本当の問題は、技術を理解しない人間が技術部門のトップに座っていること自体にある。だが、それを口にできる者はいない。日山は静かに状況を見渡しながら、歯を噛みしめた。
「おい、シーナ。お前が提出した改善提案書ってのは、これか? 考察の分際で技術部門に意見するとは、いい度胸してるじゃないか」
リンカが三日かけてまとめた五十ページの提案書。それを手に取り、黒瀬はページをめくることすらせず鼻で笑った。表紙には「高機能セラミック部品の耐久性向上に関する提案」と記され、詳細な実験データ、コスト分析、実装スケジュールまで盛り込まれている。それを確かめることもせず、黒瀬はシュレッダーの前へと歩み寄った。
「うん」
ガリガリと機械音が会議室に響く。五十ページ分の紙が、数秒で粉々に裁断されていく。三日間、深夜まで残ってデータを分析し、何度も計算を検証して書き上げた提案書が、三十秒で消えた。
「部長、何を……」
「黙れ、日山。お前には聞いていない」
会議室の温度が一気に下がる。周囲の社員たちは視線を机に落としたまま、身動きしない。誰も何も言えない。声を上げれば、次は自分が標的になる。その恐怖が、部屋全体を支配していた。
「顔だけの高卒女が、偉そうに技術を語るな。笑わせんなよ。大体な、契約社員が正社員と同じ会議に出席していること自体がおかしいんだよ。身の程知れ」
リンカは背筋を伸ばしたまま、表情を変えなかった。だが、膝の上で組まれた両手が、かすかに震えているのを日山は見逃さなかった。
その日の夕方、日山は静かにリンカのもとを訪れた。彼女は自分のデスクで、くしゃくしゃにされた提案書のコピーを広げながら、何かを書き直していた。
「リンカさん」
「……日山さん。ごめんなさい、気を遣わせてしまいましたね」
「いいや。謝ることはない。あれは、お前の方が正しい」
日山は彼女の隣に立ち、書きかけのメモをのぞき込んだ。そこには、新たな実験計画が几帳面な字で書き込まれている。
「また、一からやり直そうとしてるのか?」
「だって、技術は止まらないですから。諦めたら、そこで終わりです。私が考えたデータは、嘘じゃありません。誰かに否定されたからって、正しさが変わるわけじゃない」
その言葉に、日山は静かに頷いた。そして、ポケットから小さなUSBメモリを取り出した。
「これをやろう。お前の提案書のバックアップだ。俺が昔、お前と同じ立場の連中と一緒に作ったデータや、これまで俺が引き継いできた技術資料が全部入っている。役に立つかもしれない」
「日山さん……! ありがとうございます!」
リンカの目が、涙で潤む。だが、彼女は決して泣かなかった。何度か瞬きをして感情を飲み込むと、力強く頷いた。
「大丈夫です。私、自分の技術で、必ずこの会社の見方を変えてみせます。たとえ、私一人になっても」
「……ああ。俺も、できる限り協力する。あの黒瀬の鼻を明かしてやろうじゃないか」
——だが、時というのは残酷だ。黒瀬の誤算は、リンカの提案書をゴミ箱に捨てた時点で止まらなかった。彼女の解雇をきっかけに、彼女が持っていた特許出願前の技術データが、ライバル企業の手に渡る事件が発生する。内部調査が入り、原因は黒瀬が採った短絡的な人事にあったことが判明した。だが、時すでに遅し。
劇場ラボ株式会社は、主要取引先からの信頼を一気に失い、株価は暴落。親会社の劇場コーポレーションからも見放された黒瀬は、責任を取らされる形で役員の座を失い、私財を投げ打つどころか、退職金も吹き飛ぶほどの損害賠償を背負うことになった。
日山は、その決着を自分の目で見届けた。会議室で憔悴しきった黒瀬の姿を。誰もが自業自得だと目を逸らす中、日山はただ静かに呟いた。
「もし、あの時、お前が彼女の話を聞いていれば、会社がここまで落ちることはなかったんだ」
黒瀬は何も答えなかった。すでに彼の心は折れていた。
——
それから数ヶ月後、日山の机の上に一通の手紙が届いた。差出人は、シーナ・リンカ。彼女は退職後、競合他社ではなく、業界で最も技術力のある中小企業グループにスカウトされ、主任研究員として働いていた。手紙には、新しい職場で開発した製品が業界誌に大きく掲載されたこと、そして「日山さんにいただいたデータが、何度も道を照らしてくれました」という一文が添えられていた。
日山は満足そうにそっと手紙を折りたたみ、机の引き出しにしまった。窓の外では、春の陽射しが新しい技術開発の始まりを祝福するように、柔らかく差し込んでいた。
「……次は、あの子の番だな」
日山はコーヒーを一口含み、穏やかに笑った。沈みゆく夕日ではなく、昇りゆく朝日が、これからの未来を静かに照らし始めていた。明るいものになりますように——その祈りが、静かに、しかし確かに、技術者たちの新たな一歩を支えていた。
