昨夜、5年ぶりに元カノと再会した。彼女は高級料亭で、俺の安物スーツを見て「夢も叶えられずフリーターとか、受ける」と笑った。だが、その直後、彼女は泣き崩れて真実を打ち明けた。留学費用は借金で、5000万の契約書を飛行機の中で突きつけられたと。俺が守ったはずの彼女の夢は、とっくに踏みにじられていた。そして、彼女を辱めた男が今、目の前に現れた。俺は静かに立ち上がり、こう言った。「七菜子、俺が5年前…
朝6時、都内の閑静な住宅街にある古い一軒家で、向海真時は一日を始める。自分で入れたコーヒーの香りが漂う中、レコードプレイヤーからフランツ・リストの「愛の夢」第3番が流れている。真時が毎朝決まってかけるレコードだ。 「愛する限り愛せよ」――この曲にはそんな意味が込められていると教えてくれた人がいた。ふと視線が棚の上の古びた写真に向かう。キャンパスのベンチで隣に座る女性と、まだ何者でもなかった頃の自分。彼女は楽譜を抱えて無邪気に笑っている。 「もう5年か」 写真の中の彼女の笑顔を見つめたまま、真時は小さく呟いた。あの日、彼女の夢を守るために自分から身を引いた。ただ一つ確かなのは、あれから5年経ってもこの写真を棚から下ろさずにいるということだった。 レコードの旋律が静かに終わりに差し掛かった時、真時はテーブル上のスマホに目を止めた。画面にはスケジュールの通知が表示されていた。 「今日の18時、かため混じりにつく」 1ヶ月ほど前、大学時代の恩師である杉本教授から電話があった。「どうしても会って欲しい人がいるから、騙されたと思って会ってもらえないか」と。円談めいた話は何度か断ってきたが、その日の恩師の声にはいつになく力がこもっていた。真時は断りの言葉を飲み込んだ。 「悪いけど、本当に俺自身を見てくれる相手なのか確かめさせてもらうか」 そう呟きながら、彼はクローゼットの奥から古びた安物のスーツを引っ張り出した。 都内でも有数の格式を誇る高級料亭。ほのかに薫る香りが漂う静寂の個室で、真時はただ一人座っていた。襖の向こうで足音が止まり、仲居が静かに声をかけた。 「お待たせいたしました」 ゆっくりと襖が開き、そこに入ってきた女性を見た瞬間、真時は息を飲んだ。淡い桜色の着物をまとったその女性は、5年前に別れた元恋人――松田七菜子だった。 「え、真時君?」 七菜子は信じられないものを見るような目で彼を見つめ、立ち尽くしている。真時が言葉を失っていると、七菜子の視線が彼の古びた安物のスーツに落ちた。その瞬間、彼女の表情がすっと曇った。 大学3年の秋、真時は奨学金とコンビニのアルバイトで生活費をやりくりする学生だった。昼飯はもっぱらカップ麺。それでもいつか自分の会社を立ち上げると本気で言い続け、研究室では教授も舌を巻くほどのプログラミングの腕を持っていた。 そんな真時には日課が一つあった。夕方になると音楽棟の練習室の前に足を運び、扉の小窓から中を覗くと、恋人の七菜子が夢中で鍵盤に向かっていた。額に汗をにじませ、時に目を閉じ、時に楽譜を睨みつけながら何度も同じフレーズを繰り返していた。 フランツ・リストの「愛の夢」第3番。七菜子が最も愛した曲だ。 「真時君、またカップ麺でしょう。見なくても分かるわよ。顔色で」 ある日、練習を終えた七菜子が呆れたように笑いながら弁当箱を差し出してきた。中には手作りの弁当が入っていた。 「ちゃんと食べなきゃ、夢を叶える前に倒れるわよ」 それ以来、七菜子は毎日彼の弁当を作ってくるようになった。金はなかったが、穏やかで満ち足りた時間だった。 そんな穏やかな日々に突然影が差した。グランツプロダクション――クラシック音楽業界においてその名を知らない者はいない。国内の主要コンクールの審査員派遣、海外名門音楽院との連携、大手レコードレーベルとの独占契約。業界の頂点に立つこの事務所に所属できれば、ピアニストとしての将来は約束されたも同然だった。その社長を名乗る男・黒田が七菜子に接触してきたのだ。 「松田さん、君の才能は素晴らしい。是非我が社でのデビューを視野に入れ、アメリカ留学を全面的に支援したい」 七菜子の目が輝いた。行き先はニューヨークの超名門校・ローレンス音楽院。ここを卒業できれば世界の舞台への切符を手にしたも同然と言われている。しかも帰国後はグランツプロダクションでのデビューまで確約するという夢のような話。とっくに諦めていた夢が彼女の目の前に差し出されたのだ。 「真時君、聞いて。留学できるかもしれないの。そしてデビューも」 満面の笑顔で報告してくる七菜子を見て、真時の頬が自然と緩んだ。彼女の才能がようやく誰かの目に止まった。それだけで十分だった。 だがその数日後、真時は一人黒田に呼び出されていた。都内のホテルのラウンジ。黒田は優雅にコーヒーカップを傾けながら真時を見つめていた。その目には感情がなく、値踏みするようなものだった。 「向海君には少しお願いがあるのだが」 「何でしょうか?」 「松田のこと、別れてくれないか?」 「は?」 「彼女はこれから世界の舞台に立つ人間だ。君のような――失礼だが、何者でもない男が隣にいては彼女の価値が下がる」 真時は拳を握りしめた。しかし黒田はまるで天気の話でもするかのように続けた。 「もし君が別れないと言うなら、留学の話やデビューの話を白紙に戻す。彼女の夢は君の選択次第なんだよ。もちろん、これは君と私だけの話だ。彼女には一切知らせないでほしい。彼女が君に未練を持ったまま渡米しても集中できないだろう。よく考えてみたまえ。将来を誓った相手がいては、人生をかけて世界に挑戦なんてできやしないと思わないか」 黒田は穏やかに微笑んでいた。まるで善意の助言をしているかのように。しかしその目の奥に宿る冷たい光を真時は見逃さなかった。この男は七菜子を人間ではなく商品として見ている。だが彼には反論する材料が何もなかった。金も地位もない。七菜子の夢を守る力が今の自分には何ひとつない。 その夜、真時は七菜子を呼び出した。キャンパスの桜並木、葉が散り始めた秋の夕暮れに二人は向かい合って立っていた。 「七菜子、別れよう。お前が重いんだよ。俺には俺の道がある。お前の夢に付き合ってる暇はない」 「何を言ってるの、真時君。冗談でしょ? 急にどうしたの? ねえ、冗談だよね?」 「冗談じゃない。もう終わりにしよう」 嘘だった。全部嘘だった。握りしめた拳の爪が手のひらに食い込んでいた。だが、ここで本当のことを言えば彼女の夢が壊れてしまう。 「どうしてよ。意味わかんない」 七菜子の目から涙が溢れる。真時はそれを見ないように背を向けた。一歩、二歩と遠ざかる足音。背中に七菜子の視線が突き刺さる。振り返りたかった。だが、ここで振り返ってしまえばもう二度と離れられなくなる。真時はそのまま歩き続けた。七菜子は一人、桜並木に取り残された。それが5年前の全てだった。 「あの選択は間違っていなかったんだな」 真時は目の前の七菜子を見つめ、心の中でそう呟いた。美しい着姿。洗練された佇まい。彼女は夢を叶え、立派に成長した。自分が泥を被った甲斐があった。それだけで十分だ。 「杉本教授、相変わらず強引よね。騙されたと思ってなんて」 「ああ、あの人らしいよ」 真時は少しだけ笑った。七菜子も釣られてか、にわかに口元を緩めかけたが、すぐにその表情は消えた。先ほど一瞬曇った顔――それが再び彼女の表情に戻っていた。 「やっぱり俺のことを許してくれてはいないんだな」 5年前、理由も告げず一方的に別れを切り出した自分を、七菜子はまだ許していないのだ。当然だろう。 「七菜子、アメリカでの評価すごかったらしいな。さすがだよ」 その言葉を聞いた瞬間、七菜子は膝の上でぎゅっと着物の袖を握りしめた。 「ねえ、真時君、あなた今何をしているの?」 彼は言葉に詰まった。ここで「夢を叶えて社長になった」と言えば、七菜子はどう思うだろう? … Read more