午前五時、古い団地の台所で半額弁当を温めていたら、銀行から電話が鳴った。「おじいさん、あんたの口座はもう要らないよ。時は金なりだからね」若い行員の笑い声が、スピーカーから漏れた。十年前、妻を看取った日に開いた口座だった。給料振込も、孫の学費も、全部そこだった。私は作業着のまま銀行へ向かった。窓口で名前を告げると、近眼の上司がため息をついた。「社員十万人のご来店?まさに嘘つきご来店ですね」ロビ…
「社員十万人のご来店って、まさに嘘つきご来店ってやつですね。」 若い銀行員が吹き出し、近眼メガネの上司が深いため息をついた。 「時は金なりなんですよ、おじいさん。妄想に付き合っている暇はない。うちに口座があるなら、今のうちに解約してください。他所がお似合いだ。」 忍辺銀行初音町支店のロビー。窓口の前に立つのは、くたびれた作業着を着た老人だった。その手には、丁寧に包装された和菓子の箱があった。 「待ってください。」 その時、若い女社長が立ち上がった。作業着姿のまま、番号札を握りしめて。 「さっきからお客様に向かって、その言い方はないでしょう。」 「あのね、あなたには関係ない話でしょう。それとも業務妨害ですか?本社との関係も見直さなければなりませんね。」 「え、それとこれとは…」 「お嬢さん、いいんだ。ありがとう。」 老人は怒らず、静かに告げた。 「時は金なりでしたかな。承知しました。」 「物分かりが良くて結構です。」 老人はその場で携帯電話を取り出し、短く一言だけ言った。 「ああ、わしだ。ああ、全部進めてくれ。」 数秒後、支店のあちこちで端末が一斉に鳴り始めた。 「課長、大型法人口座の解約通知です。それも何件も…」 モニターの上で、解約の表示が次々と灯っていく。一社、二社、三社。まるで病気の診断書のように正確に、容赦なく。 事務室は一斉に騒ぎになった。ただならぬ空気が立ち上がり始める。 「と、止めろ。全部止めろ。処理を保留にしろ!」 だが、その電話一本がこの支店を丸ごと消し去ることになるとは、まだ誰も知らなかった。 すべては、十年前のあの時の縁から繋がっていた。 午前五時。まだ薄暗い住宅街の一角。築四十年を超える古い一軒家で、岩尾の一日は始まる。 起き抜けにまず向かうのは、泣き別れの仏壇だった。線香に火を灯し、細い煙がゆらゆらと天井へ立ち上るのを眺めながら、岩尾は写真の中の妻へ語りかける。 「静さん。今日はな、先月から世話になっとる銀行さんへ、挨拶と手続きの仕上げに行ってくる。」 朝飯は、昨夜スーパーで買った半額の弁当だった。 「今日も半額が買えたなあ。」 贅沢はせんでいい。豪邸にも高級車にも縁がない暮らし。近所の住人は、彼を気のいい現場の親方さんだと思っている。生前の妻は、そんな夫を見てよく笑っていた。あなたは社長より親方の方が似合うわね、と。 だが、この老人の本当の顔を知る者は、この町内に一人もいなかった。 湯呑みを傾けるうち、岩尾はぽつりと呟いた。 「早いもんだ。晴れてから、もう四十年になる。」 四十年前の雪の夜。創業して間もない頃、取引銀行に突然融資を打ち切られた。手形の決済に追われ、苦楽を共にした職人たちに頭を下げて辞めてもらうしかなかった。 「すまん。本当にすまん。」 雪の降る事務所の前で、何度も何度も頭を下げた。守ってやれなかった職人の家族。あの夜の冷たさを、岩尾は一日たりとも忘れたことがない。 そして、あの夜、自分へ誓った言葉がある。 「筋を通さない相手と、銭の付き合いをするな。」 胸の奥で、あの夜の誓いが静かに蘇った。その言葉は四十年間、岩尾の行動の背景であり続けてきた。 食卓の上の携帯電話が震えた。相手は、長年連れ添った仕事の相棒である。 「会長、ご入金の手続き、昨日付けで全て完了いたしました。」 「ご苦労さん。なら、あれは挨拶だな。世話になる相手には、預ける側から顔を見せて頭を下げる。それが筋だ。明日と言わず、今日、わしが直接行く。」 「会長自らですか? 先方にはこちらから出向かせることもできますが。」 「銭を預ける窓口に、顔も見せず経営者がいるか。予約だけで頼む。」 電話を切った岩尾は身なりを整えた。しかし、その服装はいつもの作業着である。銀行へ行く前に、朝の現場へ顔を出すのが日課だからだ。 ただし、手土産の和菓子だけは、町で一番の和菓子屋で調えた。白い包装紙に、桜の焼き印。世話になる相手への手土産にだけは、銭を惜しまない。それも妻から教わった流儀だった。 「行ってくるぞ、静。」 写真の妻は、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔だった。 同じ日の朝。忍辺銀行初音町支店の事務室では、朝礼が開かれていた。 店長は今朝、本部から支店再編検討会議へ急に呼び出され、面談の引き継ぎもそこそこに不在となっていた。現場の采配を振るのは、支店長代理の神木竜二。四十五歳。本店への栄転を狙う、この支店の実力者である。 「いいか、時は金なりだ。数字の悪い支店から再編の候補に上がる。低所得の客に時間を使うな。今日は人も足りん。長話の年寄りは早めに切り上げろ。」 事務室の空気が、ピンと張り詰めた。誰も反論しない。この支店では、神木の機嫌がすべてだった。 神木は続けて、一枚の書類を掲げて見せた。 「先週、隣の支店で、大手企業の顧問を名乗る怪しい老人の相手に、窓口が半日潰されたそうだ。いるんだよ、そういう承認欲求を満たしに来る大物気取りが。縁があっても相手にするな。」 最前列で迷いなく頷いたのは、九条。二十五歳。有名大学を出て、本店の幹部候補に選ばれた入行二年目の数字と効率で割り切ることを信条にしている自称エリートだ。 「効率優先。了解です。」 … Read more