「今日中にこの家から出て行ってくれ」—…
結婚40周年の夕食の席で、夫の正仁は私に言った。「今日中にこの家から出て行ってくれ」 私は箸を止めた。「今、何とおっしゃった?」 正仁は私が朝から作った茶碗蒸しを食べながら、平然と続けた。「この家は俺の親から継いだ家だ。つまり俺のものだ。お前には出ていってもらう」 今日は40回目の結婚記念日だった。食卓には正仁の好物ばかりを並べた。なのに、夫から渡されたのは感謝の言葉ではなかった。 正仁は廊下から古びた茶色い旅行鞄を持ってきた。「これに入るだけ持っていけ」 私はその鞄を見つめた。それは40年前、新婚旅行で使ったものだった。結婚40周年の贈り物が、この鞄だというのか。 「何か言いたいことがあるのか」 「いいえ」 私は立ち上がった。「わかりました」 正仁は私が泣くと思ったのだろう。すがると思ったのだろう。でも私は寝室へ行き、必要な服だけを鞄へ入れた。そして最後に、押入れの奥から白い封筒を取り出した。 玄関で靴を履くと、正仁が腕を組んで言った。「今更謝っても遅いからな」 私は振り返り、深く頭を下げた。「40年間、お世話になりました」 「それだけか」 「はい。それだけです」 正仁は気づいていなかった。消えた印鑑、銀行から届く封筒、そして私の名前で作られた覚えのない書類。私はそれらをずっと調べていたことを。 私の名前はハルコ、65歳。正仁は5歳年上の70歳。結婚して40年、2人の子供を育て、正仁の両親を見送り、家事も家計もほとんど私が担ってきた。 正仁は昔から厳しかった。よく言えば昭和の男。「俺が働いてるからこの家が成り立ってるんだぞ」 私は反論しなかった。専業主婦だった私には、外で稼ぐ正仁への感謝もあったからだ。でもいつからだろう。感謝が遠慮になり、遠慮が我慢になっていた。 こんな私が異変に気づいたのは半年ほど前のことだった。役所へ出す書類に使おうとした印鑑が、引き出しから消えていた。 「正仁さん、私の印鑑知らない?」 「知らない」新聞からも顔を上げずにそう言われた。 3日後、印鑑は何事もなかったように元の引き出しへ戻っていた。私の勘違いか。そう思った。 でも翌月、銀行から封筒が届いた。私が見る前に正仁が取り上げた。 「それ、何?」 「俺のだ。お前には関係ない」 その夜、台所で洗い物をしていると、正仁が電話で話す声が聞こえた。 「家なら俺名義だ。担保にしても問題ない」 「そして妻の保証もつけてある」 私は手を止めた。でも水は止めなかった。気づかれたくなかったからだ。 翌朝から私は日付と会話をノートに残した。見つけた書類は写真に撮る。自分が過去に署名した書類も確認する。そしてある日、正仁の机から1冊のパンフレットを見つけた。 海を望む豪華な高齢者向け施設。「老後の資産を増やしながら優雅な第二の人生を」と大きな文字で書かれていた。投資すれば高い配当金が入るらしい。 私は会社名を調べた。でも建設予定地にはまだ何もない。会社もできたばかりだった。 私は一度だけ正仁に聞いた。「その投資、本当に大丈夫なの?」 正仁は笑った。「女が余計な口を出すな。俺はお前より世間を知ってる。黙ってればいい」 その瞬間、私は決めた。もう一度だけきちんと調べよう。それで何もなければ私の思い過ごしだったと笑えばいい。 でも、思い過ごしではなかった。 結婚記念日の1週間前、私は自分名義で駅前の小さな部屋を借りた。6畳の和室、狭い台所、窓から見えるのは向かいの屋根だけ。それでも、夫に出ていけと言われない部屋だ。 そして結婚40周年の日、正仁から本当に出ていけと言われた。だから私は予定より少し早く、その部屋へ移っただけだった。 翌日の朝早く、正仁から電話があった。「ハルコ、俺の青い薬はどこだ。寝室のタンスか。薬は食器棚の2段目だ」 少し間が開いた。そして声が変わった。「銀行から何か届いてなかったか。どうした。いいから答えろ」 私は言った。「私には関係ないのでしょう」 正仁はそのまま電話を切った。 その日の午後、私は銀行へ行った。専門家にも同席してもらった。見せられた書類を見て、背筋が冷たくなった。借入額は1800万円。借りた人の欄に正仁の名前。担保はあの家。そして連帯保証人は私。 「これは私の字ではありません」 はっきり言った。 「署名は私の字に似ています。でも違う。私は説明も受けていません。署名もしていません」 銀行側もすぐ確認に入った。ただし、家を担保にして借りた正仁本人の借金まで消えるわけではない。 3日後、正仁が私の部屋まで来た。「開けろ」 私は玄関を開けたが、部屋には入れなかった。「ここは私が借りた部屋です。勝手に入らないでください」 「夫婦だろ」 私は少し笑った。「追い出した相手を、必要な時だけ妻に戻すのですか?」 建物の1階にある談話室で話すことにした。 正仁は開口一番、怒鳴った。「銀行に何を言った」 「事実を伝えただけです」 「署名してないなんて言うから話がややこしくなっただろう」 … Read more