「パパは無職のフリーターです。」――娘の作文を聞いた瞬間、教室は爆笑の渦に包まれた。私はグレーのスウェット姿で、ただ静かに娘を見つめていた。あの日、妻と娘の冗談が、まさかこんな形で炸裂するとは思わなかった。保護者の女王・戦国マリ子が、勝ち誇った目で私を見下す。「奥さんに養ってもらってる無職の方が、よく平気でいられるわね。」娘は泣きそうだった。それでも私は、何も言わなかった。ただ、心の中で決め…
授業参観の教室。磨き上げられた床の上で、ブランドバッグを抱えた母親たちが、まるで値踏みするように、地味な父親を見つめていた。教壇では、幼い少女が緊張した顔で作文を読んでいる。 「パパは無職のフリーターです。」 その瞬間、教室がどっと湧いた。 「やだわ。あんな風にヘラヘラして、奥さんに養ってもらってる無職の方がねえ…」 嘲笑の渦の中で、少女は必死に涙をこらえていた。父親は何も言わない。ただ静かに、娘を見つめていた。 数日後、学校の応接室。机の上に広げられた一枚の地図。膝から崩れ落ちる母親たちの前で、「無職のフリーター」と笑われた父親が、静かに告げた。 「あなた方の土地、売却します。」 地味な父親の本当の顔を知った時、傲慢な者たちが見下していた世界は、足元から音もなく崩れ始める。 まだ夜の色が残る早朝。霧谷修三は台所で味噌汁の鍋を火にかけていた。色褪せた紺色のエプロンに、グレーのスウェットパーカー。五十六歳の手は節くれ立っているが、手慣れた手つきで卵を割る。玄関で支度を整えた妻の尚が、子供服の生地が詰まった大きなトートバッグを肩にかけた。町の片隅に小さなアトリエを構える、子供服のデザイナーだ。 「行ってきます。留守番よろしくね。うちの無職のフリーターさん。今日もスウェットが似合ってるわよ。」 「はいはい。気をつけてな。」 くすくすと笑い合う二人には、この冗談にちょっとした思い出があった。いつだったか、尚が一人でいるところを、娘の学校の保護者の一団に囲まれたことがある。先頭にいたのは戦国マリ子。尚の仕事や住まいのことを、笑顔の裏で根掘り葉掘り聞いてきた。特に、いつもスウェット姿の夫の仕事に関しては、年収まで聞いてきた。しかし尚は全てをのらりくらりとかわしていた。やがてマリ子はわざとらしくため息をついた。 「夫のお洋服って、本当に悩みの種よね。お休みの日でも品格を持たないといけないから。ああ、でも、最近の方って、立派なお仕事をされている方でも、見た目が無職のフリーターみたいな方が多いんですって。」 取り巻きが口元に手を当てて囁くように笑う。だが尚は眉一つ動かさなかった。 「あら、うちの夫はいつだってスウェットですよ。本物の無職のフリーターだったら、どうしましょう。」 さらりと笑い飛ばされて、マリ子の作り笑いが固まった。怒鳴るでもなく、媚びるでもなく、ただ飄々とかわす。それが尚という人だ。以来、「無職のフリーター」は霧谷家の、ささやかな笑顔の合言葉になっている。 そこへ、寝癖のついた小さな頭がひょっこり顔を出した。 「パパ、おはよう。ママ、もう行っちゃった?」 「ああ、たった今な。ほら、顔洗ってこい。」 七歳の一人娘、日向。父にとっては、目に入れても痛くない宝物だ。卵焼きを焼きながら、日向が思い出したように口を開く。 「ねえ、パパ。今度の参観日で読む、家族の作文を書いてくださいって、先生に言われたの。パパのこと、書いてもいい?」 「お、パパのこと書いてくれるのか?嬉しいな。ただし、パパの秘密だけは書くんじゃないぞ。」 「秘密?あ、パパがママのこと世界で一番好きってこと?」 「う、こ、こら。ま、まあ、そういうこともだな。」 「へへ。パパ、すぐ逃げる。」 照れくさそうに台所へ引っ込む父の背中に、日向は声を立てて笑った。朝食を終えると、修三は古びた自転車の後ろに日向をひょいと乗せた。高級車が列をなす門のそばを、親子は風を切って進んでいく。 「日向、見てみろ。あの桜、もう葉っぱになってきたな。」 「本当だ。この前までピンクだったのに。」 「過ぎた時間は二度と戻ってこない。だから、よく見ておくんだぞ。」 すれ違う人に、修三は誰にでも軽く頭を下げる。店先を掃く商店の主人にも、犬を連れた年寄りにも。日向もそれを真似て、小さな声で「おはようございます」と続く。 門の辺りでは、ブランドバッグを下げた母親たちが、修三のスウェット姿と年代物の自転車を、値踏みするように眺めていた。 「あそこのお父さん、また自転車で送ってきてるわ。奥さんに食べさせてもらってるんですって。ねえ、ねえ。」 囁きは修三の耳にも届いている。だが彼は気にするそぶり一つ見せず、日向の背中が校舎に消えるまで見送った。家に戻り、奥の小さな部屋に入ると、太い字で書かれた短い言葉が、古ぼけた額縁にかけられている。修三はそれに目をやり、ほんの少しだけ目尻を緩めた。 「先生に拾ってもらえなけりゃ、今の俺はいなかったな。」 参観日を一週間後に控えた午後。駅前の高級ホテルのラウンジに、ブランドで身を固めた母親たちが集まっていた。中央のソファーに深く身を沈めているのは、戦国マリ子。保護者たちの頂点に君臨する女だ。ブランドの新作バッグを皆に見せるようにテーブルへ置き、紅茶のカップを傾けながら、マリ子はゆっくりと切り出した。 「ねえ、皆さん。今度の参観日、霧谷さんのお宅はいらっしゃるのかしら?」 「日向ちゃんのとこですよね。お父さんが、ぼろい自転車で送ってきてるんですよ。平日の昼間からお家にいるみたいですから、奥さんに養ってもらってるってことですよね。」 「あら、そういうご家庭、増えてるみたいだし。流行りに乗ってるご家族なのかしらねえ。」 わざとらしく首をかしげる。その仕草が合図だった。くすくすと笑い声が一段大きくなった。 「でもね、運転手もつけず自転車で送り迎え。家族のあり方は最先端でも、中身は昭和で時間が止まっていらっしゃるの。この学校にふさわしいのかしら?」 テーブルの端に座っていた一人の母親が、カップを持つ手を止めた。 「でも、霧谷さんのお嬢さん、とても優しい子ですし。ご事情があるのかも…」 言いかけた声がふっと途切れた。マリ子が笑みを浮かべたまま、その母親を見たからだ。氷のように冷たい目だった。 「あら、随分肩を持つのかしら。」 母親は目を伏せ、残りの紅茶を味も分からぬまま喉へ流し込む。誰もマリ子には逆らわない。逆らったものが次にどうなるか、この場の全員が肌で知っていた。マリ子は隣に座るママ友に、優しく顔を向けた。 「ねえ、あなたはどう思う?あなたも、随分お世話になっているものね。」 ママ友の頬がわずかに強張った。喉の奥で言葉を探すように一瞬詰まり、それから貼り付けたような笑顔を作る。 「え?ああ。えっと、自転車で送り迎えとか、普通じゃありえないかと。この学校にはふさわしくないと思います。」 「あら、そう。皆さん、この方は霧谷さんがこの学校にふさわしくないと思ってるんですって。私は何も言ってないわよ。どうなのかしらと思っただけよ。」 マリ子は満足そうな笑みを浮かべていた。数日のうちに、囁きは学校の中にも浸み出していった。下校の時刻、門の前では迎えに来た母親たちが子供を待ちながら立ち話に花を咲かせていた。新人教師の水島しおりは、児童を見送りながらその輪のそばに立っている。声も潜めない噂が耳に流れ込んできた。 「…無職のフリーターだって。」 その言葉が、しおりの胸をちくりと刺す。 「こんなのおかしい。子供たちだって聞いてるのに。」 言わなければ、と喉まで出かかった言葉を、しおりはそっと飲み込んだ。この学校に来てまだ半年だが、もう十分すぎるほど思い知らされていた。ここでは、正しさなど何の力も持たない。声を上げた教師がどんな風に潰されていくのかも。握りしめた指先だけが、居場所をなくして冷たくなっていく。教育の場であるはずの場所で、「品格」を語る人たちが、一つの家族を笑っていた。 参観日当日。教室の窓の外には、磨き上げられた高級車がずらりと並んでいた。廊下に立つ母親たちは、誰もがブランドの新作バッグとアクセサリー、洋服で身を固めている。その列の一番端に、シンプルな紺のジャケットを羽織った修三が、目立たぬよう静かに立っていた。担任の水島しおりが、緊張で明るい声を作って進行する。 … Read more