結婚前の顔合わせで義母に頬を叩かれ、「身の程を知れ」と義実家に笑われた私――黙っていた父が名刺を一枚置いた瞬間、座敷中の空気が凍りついた
第1部 「身のほど知れ。町工場の娘が区が家に入れると思ったの」 パーン――乾いた破裂音が、高級料亭の静かな座敷に響いた。 私の頬は火のように熱く腫れ上がり、口の中に鉄の味が広がった。周囲を取り囲む婚約者の親族たちは止めるどころか、冷たい目を向けて薄く笑っている。 だが私は泣かなかった。隣に座る父も、怒りで席を蹴り上げたりはしなかった。父はただ、ゆっくりと音を立てずに手元の湯呑みを畳に置いた。 この時、私を見下して笑う区が家の人間は、誰も知らなかったのだ。自分たちが「底辺の町工場」と嘲ったこの無口な父が、わずか数十分後に自分たちの未来を根底から叩き潰す存在であることに。 私の名前は水野咲、三十二歳。市役所の福祉課で働きながら、父と二人で穏やかな日々を送ってきた。母は私が幼い頃に亡くなり、それ以来、父の誠一郎が男手一つで私を育ててくれた。口下手で不器用だが温厚で礼儀正しい父。油の匂いが染みついた作業着姿で毎日真面目に働く父の背中を、私は世界中の誰よりも尊敬している。 そんな私が区が竜一と出会ったのは、知人の紹介がきっかけだった。竜一は三十五歳、中堅の区が商事の営業部長を務めるいわゆるエリートだ。人当たりが良く、スマートなプロポーズを受けた時、私は心から幸せになれると信じていた。 しかし結婚が決まり、彼の家族と関わるようになってから、私の心には常に重いような痛みが残るようになった。原因は竜一の母、つまり義母となる予定のれ子だった。 「水野さんのお家は随分と質素でいらっしゃるのね。竜一は区が商事の次期社長になるかもしれない男よ。 quant というものがあるのだから、あなたも少しは教養を身につけていただかないと」 会うたびに投げつけられる見下した言葉。家柄や肩書きを何よりも重んじる彼女にとって、市役所勤めの私や小さな町工場で働く父の存在は、「ふさわしくない」の一言に尽きるのだろう。 それでも私は波風を立てまいと、必死に笑顔を作って耐えてきた。私が我慢すれば丸く収まると自分に言い聞かせていた。肝心の竜一は、母親が私に嫌味を言う場面でも決して間に入って守ってはくれなかった。 「さき、母さんはああいう人だから。今だけ我慢してくれ」 困ったような笑顔で私に視線を送るだけ。彼は母親に逆らえず、世間体や家への肩書きを何より気にする人だったのだ。 それでも今日という日さえ無事に終われば――私は淡い期待を抱いて、顔合わせの席に向かったのだった。 舞台となったのは庭園の美しい老舗の高級料亭。広い座敷の上座には、竜一の父であり区が商事の社長である正男と、母のれ子。隣には竜一の姉で経理を担当している香織が座っている。対する下座には、私と父。慣れないスーツに身を包んだ父は少し緊張した面持ちで、それでも誠実に深くお辞儀をした。 「水野誠一郎と申します。本日はこのような立派なお席を設けていただき、ありがとうございます」 父の丁寧な挨拶に対し、正男は「ああ、どうも」と短く頷いただけだった。れ子に至っては挨拶を返すことすらせず、私の着ている淡い桃色の着物をじろじろと眺め回して、ふんと鼻で笑った。 「まあ、随分と地味なお着物ね。水野さん、こういう格式高い席には慣れていらっしゃらないのかしら」 開始早々、れ子の冷たい言葉が座敷に響く。私は膝の上の手をぎゅっと握りしめた。 「母の形見の着物でして。派手ではありませんが、大切な日にはこれを着たいと思いまして」 私がそう答えると、れ子はさらに口角を険しく歪めた。 「形見? 縁起でもない。区が家の行事にそんな古めかしいものを着てくるなんて、常識を疑うわ」 きっぱりと言い放たれた言葉に息が詰まる。竜一の方をちらりと見たが、彼は気まずそうに目を伏せ、お銚子に手を伸ばすだけだった。やっぱり今日も助けてはくれない。 れ子の標的は着物だけでは終わらなかった。彼女の冷酷な視線が今度は隣で静かに座っている父へと向けられたのだ。 「そういえばお父様は町工場にお勤めでしたかしら」 わざとらしいほど大きな声でれ子は尋ねた。父は穏やかな表情を崩さず、静かに答える。 「はい。小さな工場で長く働いております」 その言葉を聞いた瞬間、れ子は扇子で口元を隠し、ふっと露骨な嘲笑を漏らした。 「職人さんね。悪くはないお仕事なのでしょうけれど、率直に申し上げて区が家とは少し格が違いますわね」 座敷の空気が一気に冷え込んだ。姉の香織は無表情でこちらを見つめ、社長である正男は「我が関せず」とばかりに料理に手をつけている。私の心の中で何かがギリギリと音を立ててきしむのを感じた。 自分のことならどれだけ見下されても我慢できる。でも一生懸命に私を育ててくれた父の生き方を、これ以上侮辱されることだけは――。 私がたまらず反論しようと顔を上げた、まさにその時だった。れ子の口から、父の尊厳を完全に踏みにじるさらなる最悪の一言が飛び出した。 「本来ならうちの竜一にはもっとふさわしい立派なご縁談がいくらでもあったのよ」 れ子のかん高い声が静寂の座敷に響き渡った。美しく盛りつけられた鯛の姿造りが、まるで無機物のように冷たく見えた。 「大企業のお嬢様や大きな病院の院長令嬢。それなのに竜一がどうしてもと言うから、私どもは百歩譲って今日の席を設けてあげたの。それなのにそのみすぼらしいなりで、ご自分の立場の低さも理解なさっていないなんて」 れ子はため息をつき、ひんやりとした視線を父から私へと移した。 「親が親なら娘も身のほど知らないのね。町工場の娘が区が家に入るだなんて、本当は図々しいと思っているんでしょう」 その瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。 第2部 自分の着物を笑われるのはいい。学歴や職業を見下されるのも、竜一のためなら我慢できた。でも油にまみれ、ひび割れた手で私を大学まで行かせてくれた父を不当に貶しめられることだけは、絶対に許せなかった。 私は両手で畳を強く押し、背筋を伸ばしてれ子をまっすぐに見据えた。 「お義母様、私へのご忠告はありがたくお受けいたします。ですが、父をそのように言わないでください。父は誰にも恥じることのない立派な仕事をしてきました」 座敷の空気がぴたりと止まった。社長である正男の手から箸がカチャリと音を立てて箸置きに落ちる。姉の香織は目を丸くし、竜一はあっと情けない声を漏らした。れ子の顔から先ほどまでの余裕笑いが完全に消え失せ、その顔が見るみるうちに怒りで赤く染まっていく。 「あなた、目上の私に向かって口応えをする気?」 れ子の声は低く、血を吐くようなすごみを帯びていた。次の瞬間だった。シュッと着物が擦れる音がしたかと思うと、れ子が身を乗り出していた。 パン――乾いた破裂音が料亭の座敷にこだました。顔が右に大きく引かれ、視界がぐらりと揺れた。頬に走る鋭い痛みと、じんわりと広がる熱。一瞬何が起きたのか理解できなかった。私はれ子に思いきり平手打ちをされたのだ。 「身のほど知れ! 町工場の娘が区が家に入れると思ったの!」 れ子の金切り声が頭の上から降り注ぐ。私は畳に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。痛みが怒りに変わるよりも先に、絶望が胸を満たしていった。区が家の親族たちは誰一人としてれ子を止めようとしなかった。それどころか「生意気な娘だ」「少しは痛い目を見ないと分からない」とでも言いたげな冷たい嘲笑を浮かべて私を見下している。 私はすがるような思いで竜一を見た。私の婚約者。私を一生守ると誓ってくれた人。しかし竜一は立ち上がることさえしなかった。おろおろと視線を彷徨わせ、混乱するように私に向かってこう言ったのだ。 「さき、頼む。今は君が謝ってくれ。これ以上母さんを怒らせないでくれよ」 その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で竜一に対する何かが完全に音を立てて崩れ落ちた。ああ、この人は私を守らない。自分が安全な場所にいるために、私を差し出す男なのだ。 頬は熱く腫れ上がり、悔しさで胸が張り裂けそうだった。それでも私は泣かなかった。大声をあげて泣き叫んだり、怒鳴り散らしたりはしなかった。ただ隣に座る父の顔をじっと見つめた。 … Read more