工場の納品口から入ってきた、油の染みた作業着の老人を、社長は大勢の役員の前で見下して笑った。「町工場の貧乏人が株主総会に来るな。あんた、1株でも持ってるのかい?」と。老人は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。でも次の瞬間、彼が口にした言葉に会場の空気が凍りついた。「では、全株売却します」って。私はその場で、自分たちがどれほど大きな勘違いをしていたのか、まだ知らなかった。老人の正体を聞いた時の、…
工場の納品口から、油の染みた作業着の老人が静かに現れた時、会議室の空気はまだ笑い声に揺れていた。 高級スーツの男、青根成功の社長・木藤が、受付で押し問答する老人を見下ろして声を張り上げた。 「町工場の貧乏人が株主総会に来るな。ここはあんたみたいな人間が来るところじゃないんだ」 役員たちの笑い声が広い会議室に響き渡った。だが老人はうろたえることなく、油の染みた帽子を取って静かに頭を下げた。 「よくわかったよ。あんたがどういう人間か。もう確かめることは何もない。室田さんが見込んだ男はもうどこにもいないのだから。では、全株売却します」 会場が一瞬しんと静まったが、すぐに木藤は腹を抱えて笑い出した。 「どうぞどうぞ。いやあ、いいね。下請けの貧乏人が株主気取りとは。あんた、1株でも持ってるのかい?妄想も休み休み言えよ。よし、久しぶりに笑わせてもらった」 そこへ、会場の奥から白髪の監査役が一歩踏み出し、マイクを取った。 「皆様、ご紹介が遅れました。こちらは桐製作所の会長、桐修造様。当社の株式35%を保有される筆頭株主であります。亡き創業者、室田幻現造がその全株を遺言でこの方に残された、正統な相続人です」 会場が水を打ったように静まり返った。記者たちが一斉にペンを走らせ始めた。木藤の顔から笑いが音なく剥がれ落ちていった。 これは、人を身なりと肩書きで測った者たちが、自身の不正によって転落していく物語である。あの日の約束は、今日この時のためにあった。 — 夜明け前の桐製作所には、機械油と鉄粉の匂いが、いつもと変わらず満ちていた。従業員十数名の小さな町工場で、桐修造はもう50年、同じ作業着を着て同じ旋盤の前に立ち続けてきた。68歳になった今も、その手つきに迷いはない。会長と呼ばれる身でありながら、桐は誰よりも早く工場へ来て、誰よりも遅くまで残る男だった。その手が削り出す部品は、寸法が紙一枚分の誤差もないと言われていた。 その朝も、桐は工場の隅の小さな仏壇に向かい、二つの遺影に静かに手を合わせた。一つは青根成功を共に起こした創業者、室田幻現造の遺影。もう一つは、若くして亡くなった一番弟子の瀬のものだった。 「瀬さん、今日もいい仕事をするよ」 線香の煙が、薄い朝の光の中をゆっくりと昇っていった。桐は、室田が口癖のように言っていた言葉を胸の中でもう一度なぞった。 『俺たちが作ってるのは部品じゃない。誰かの命を預かる仕事だ』 だったな、室田さん。だが、その言葉を桐はただ一度だけ守れなかったことがある。瀬、あの時、お前を構いきれなかった。本当にすまなかった。不良品を止めようとした弟子を桐は守れず、瀬は一人で責任を負って工場を去った。やがて病に倒れ、二度と現場へは戻らなかった。あれから桐は、室田の言葉を二度と曲げまいと、ただ黙って手を動かし続けてきた。 机の上には一通の封筒が置かれていた。青根成功の定時株主総会の招集通知だった。そして、その隣には、室田が亡くなる数日前に桐宛てに書いたまま、まだ封を切っていない手紙が静かに伏せられていた。桐はその手紙を何度手に取っても、まだ開けられずにいる。 そこへ工場の電話がなった。相手は青根成功の監査役、騒木信吾だった。 「会長、朝早くに申し訳ありません」 「会長はよせ。ただの町工場のじじいだ」 「いえ、あなたは今、青根成功の筆頭株主です。室田さんが亡くなる前に、全ての株をあなたに残された」 桐は受話器を握ったまま、しばらく窓の外を見ていた。騒木の声が低く続く。 「室田さんが亡くなってから、会社がおかしいんです。木藤社長が安い海外部品に切り替えて、現場には妙な圧力がかかっているという声を耳にしました」 「そうか。確か、現場には瀬の息子も働いていたな」 「はい。瀬琢磨君ですね。たった一人で踏ん張っているそうです。ですが、私には確かめる術がない。室田さんの意思をついだあなたにしか、もう頼めないんです」 長い沈黙の後、桐は静かに息を吐いた。 「わかった。総会に出るよ」 「ありがとうございます。私も動いて、情報を集めます」 受話器を置いた桐は、作業着の袖をもう一度きつく締め直した。室田さん、あなたに託された会社で何が起きているのか、この目で確かめてくるよ。 その同じ朝、青根成功の本社では月例の経営会議が開かれていた。長い会議机の上座には、社長の木藤がシックなネクタイを締めて座っていた。その隣には、25歳の若さで経営企画室長についた娘・玲奈の姿があった。室田が亡くなってまだ一年も経っていない。それなのに、創業者の名を口にするものは、もうこの会社に誰もいなかった。 スクリーンには、海外の部品メーカーへ切り替えた場合のコスト削減額が大きく映し出されていた。玲奈がネイルの先で資料を弾きながら、感情のない声で言った。 「国内調達はタイパが悪すぎます。海外に全部切り替えれば、原価は3割落ちます。データ上は何の問題もありません」 「うむ。利益を生まない仕事に価値はない。職人を過剰に抱えている時代じゃないんだ」 木藤が満足げに頷くと、役員たちも一斉に追従して首を縦に振った。その光景を、末席で黙って見ている若い社員がいた。品質保証部の瀬琢磨。25歳の生真面目な若手だった。琢磨は表情を消して、静かに手を上げた。 「お言葉ですが、海外品はまだ耐久試験を通っていません。心臓部のユニットに使うには、もう少し検証の時間がいります」 会議室の空気がわずかに張り詰めた。木藤はちらりと琢磨を見やり、鼻で笑った。 「現場の人間が経営会議で口を出すな。お前の仕事は、上が決めたことに黙って従うことだろう」 琢磨と同級生の玲奈が、それを引き取るように口を挟んだ。学生時代から変わらない、人を見下す時のあの癖だった。 「瀬君って、高校の時からそういうとこあったよね。いちいち真面目で、要領が悪くて、なんでこう融通が効かないんだろう」 クスクスと、役員たちの間に笑いが漏れた。琢磨は奥歯を噛みしめ、それでも背筋はまっすぐ伸ばしたまま、何も言い返さなかった。言い返したって無駄だ。どうせ、この場の全員が社長の味方なんだから。 木藤は満足げに手元の資料を閉じた。 「決まりだ。来月から海外調達に全面切り替える。国内の下請けは順次切っていく。特にあの桐製作所のような工場に、いつまでも高い金を払う義理はない」 「賛成です。あそこの会長、何度言っても値下げに応じませんし。古い職人なんて、もう時代遅れですよ」 その名が出た時、琢磨はわずかに顔を上げた。桐製作所は、この会社を50年支えてきた工場じゃないか。あそこの部品だけは、一度も不合格を出したことがないのに。その確かな仕事を切って、海外の安物に変えるというのか。琢磨にはどうしても正気とは思えなかった。 会議が終わると、廊下で玲奈がすれ違い様に琢磨の肩を小突いた。 「次の検査で不合格なんて出したら、あんたの席なくなるからね」 「分かってる。品質は曲げられません」 「はいはい。私のお父さん、社長が決めたことに逆らうなら、やめてもらうだけだよ。代わりなんていくらでもいるんだから」 玲奈の靴音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。一人残された琢磨は、胸ポケットのノギスに指で触れた。亡き父が現場で握り続け、そのまま残した一本だった。父さんなら、こんな時どうした?答えは帰ってこない。それでも琢磨はノギスをぎゅっと握りしめ、品質部の自分の席へと静かに戻っていった。 数日後、青根成功の組み立て工場で、琢磨は一つの部品を前に立ち尽くしていた。海外から届いたばかりの新しい部品だった。その寸法が、規定の公差をわずかに超えている。ほんの髪の毛ほどの誤差だった。だが、心臓部のユニットに組み込めば、ズレや熱でいつ壊れてもおかしくない数値だった。ユニットは病院の人工呼吸器にも使われる。ここで止めなきゃ、その先で誰かの命に関わる。手のひらにじっとりと汗が滲んだ。 それでも琢磨は、検査報告書の判定欄にはっきりと「不合格」の二文字を記し、ラインを止めた。そこへ革靴の音を響かせて木藤が現れる。玲奈もその後ろに従っていた。木藤は報告書をひったくるように手に取り、しばらく眺めてから、わざとらしく息を吐いた。 「規定通りね。ご立派なことだ」 「公差を超えています。このまま流せば、いずれお客様の手元で不具合が起きます」 … Read more