廊下に車椅子が置きっぱなしになっているのを見て、健一が眉をひそめた。「なあ、母さんの車椅子、ちゃんと片付けろよ」——仕事から帰ったばかりの彼の口調は、まるで私を責めるようだった。その日、私はお母さんの夕飯を作りながら、介護と会社の手伝いで手が回らなかっただけ。なのに彼は「お前は家にいるから暇だろ」と吐き捨てた。私は十八年間、彼の母親の介護を一人で続けてきた。彼は何もしてこなかった。それなのに…
廊下に車椅子が置きっぱなしになっているのを見て、健一が眉をひそめた。仕事から帰ってきたばかりの彼は、疲れた表情のまま吐き捨てるように言った。 「なあ、母さんの車椅子が廊下に置きっぱなしだけど、ちゃんと片付けろよ」 「ごめん、すぐ片付ける」 「介護やってるんだからちゃんとしろよ。仕事から帰ってきてあんなの廊下にあったら邪魔なんだけど」 美咲は台所から顔を出し、少し感情的になって言い返した。 「確かに出しっぱなしにしてたのは悪いけど、お母さんの夕飯の準備をしてたの。私一人でやってるんだし、手が回らないこともあるわ。健一こそ、たまには手伝ってくれてもいいんじゃない?」 「はあ? 俺は仕事してるんだけど。今日だって今帰ってきたとこだし。みさは暇だろ?」 「暇じゃないよ。介護も大変だし、お母さんの会社の手伝いもしてるし」 「会社の手伝い? お母さんが自営なのは知ってるけど、小さい会社じゃん。咲が手伝えるレベルの仕事って、どうせ雑用だろ。それで忙しいって言われてもな。俺は会社で朝から晩まで働いてるんだ。お前は家にいるからストレスとかないだろ」 「そんな言い方……」 「それより、ちゃんと家のこと片付けろよ」 「分かった」 その日の夜、美咲は母親の部屋で介護をしながら、声をかけられた。 「美咲さん、健一と喧嘩したの?」 「ああ、いいえ、大丈夫です」 「あの子、機嫌が悪かったし、さっき車椅子に膝をぶつけていたの。あなたに当たってると思って」 「バレてましたか? そうなんです。少し喧嘩しちゃって。でも、大したことはないですよ。きっと疲れてイライラしているだけでしょうし」 母親は優しく微笑んだ。 「ごめんね、美咲さん。迷惑かけて。あの子が介護を全部あなたに押し付けて」 「お母さんが謝ることじゃないですよ。私、お母さんのこと大好きですから。それに介護は全然苦じゃないですし」 「美咲さん、あなたは本当に優しい子ね。十八年間も私のために尽くしてくれて、ありがとう」 「お母さん、何言ってるんですか? 私の方こそ、お母さんには本当によくしてもらってますから。お互い様ですよ」 翌日、美咲は母親の会社で事務仕事をしていた。電話が鳴り、美咲が対応する。 「お母さん、高田正司さんから期日の問い合わせです。今週は立て込んでいますが、どうしますか?」 「待たせてしまうのはいけないわ。他のスケジュールを組み直せば大丈夫だし、今週中と伝えて」 「分かりました。あと、今月の請求書を作成したので、後で確認してもらっていいですか?」 「え、もう作ったの?」 「はい。さすがに慣れましたし、こういうのは早い方がいいと思って」 「ありがとう。美咲、いつも助かるわ。でも、ここまで働いてくれているし、ちゃんとした給料を出したいの。介護だけじゃなくて、会社の仕事もやってくれてるでしょ?」 「でもお母さん、私はただお手伝いしているだけですよ。介護の延長みたいなものですし」 「あなたは立派に仕事をしてるわ。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、お給料なんてもらえません。本当にお手伝い程度のことしかやってませんから。むしろ、お金をもらうような働きをしていないのにもらってしまうのは、社員の人に気が引けてしまいます」 「分かったわ。でも、いつかは受け取って欲しいの」 「分かりました。ありがとうございます」 その日も健一は遅く、帰ってこなかった。美咲がスマートフォンにメッセージを送る。 「ねえ、健一、今日も遅くなるの?」 「ああ、仕事が立て込んでて、多分泊まり込みかな? 夕飯いらないし、先に寝てて」 「分かった。気をつけてね。それにしても、最近多くない?」 「忙しいんだから仕方ねえだろ。なんだよ。俺が遅くまで働いてるのに文句か? 家計のために頑張ってるっていうのに」 「そういうつもりじゃないわ。ありがとう」 「お前さ、もっと俺に感謝とかねえの?」 「え?」 「専業主婦で養ってやってるのに、俺の相手もせず金ばっか使いやがって」 「そんな言い方……」 「ああ、もっと愛想のいい女と結婚すればよかった。家に帰っても疲れた顔のおばさんがいると、やる気なくすわ」 「ねえ、さすがに言っていいことと悪いことがあるんじゃない?」 「もう少し綺麗にしていろって言ってんだよ。お前、老けたし。鏡とか見てる? 人にどう見られてるか、もう少し気にしろよって話だろ。事実言われて切れるなよな」 美咲は何も言い返せず、その日はそれ以上会話を続けなかった。 一週間後、健一が珍しく早く帰ってきた。リビングに座り、美咲を呼び止める。 … Read more