夜明け前の築地、いつものように自転車の荷台に魚を積んでいたら、仲買人が震える声で言った。「宗さん、今日で最後にしてください」。理由を聞いても誰も目を合わせない。六十年通った銀座の店の裏口で、若い大将が私の袖を取引先の前で引っ張りながら笑った。「このじいさん、未だに自転車ですよ。エコっつうか、貧乏っつうか」。その場にいた九年目の板前が拳を握ったけど、私は静かに肩を叩いて帰った。翌朝届いたのは、…
夜明け前の築地は、まだ暗闇と冷たい空気に包まれていた。早朝四時の匂いが市場全体に染み渡る中、発泡スチロールの箱を三段に積んだ旧式の自転車が、きしむ車輪の音を立てながら静かに角を曲がってきた。サドルに腰を据えているのは、擦り切れた前掛けを巻いた痩せた背中の老人だ。 海原宗介、七十三歳。銀座の高級料理店「気流庵」の厨房に、六十年もの間、毎朝最高の魚を届け続けてきた魚屋の親方だった。 「宗さん、今朝も一番乗りっすね」 仲買人の声に、宗介は軽くうなずいた。 「おう、今日も気流庵に行くからな。中トロ、あの一番奥のやつをくれ」 「あれ、今朝の最上等ですよ。相変わらずすごい目利きだ」 十三歳で漁村を出てから六十年。魚と職人の手だけは見続けてきた。安物のゴム長靴に、擦り切れた腕時計。誰の目にも町の隠居老人にしか映らないが、その目だけは別人のように鋭かった。 「宗さん、あんたが選ぶ魚はなぜか味が違う。うちの商売はあんたの目利きで持っているようなもんだ」 「大げさだよ。ただ、坊主に握らせてやれる魚かどうか、それだけを見ているんだ」 選び抜いた本マグロ、活け締めの真鯛、鮮やかな車エビ。発泡スチロールの箱に氷と共に丁寧に詰め、自転車の荷台に縛り直す指先は、しだれた跡で真っ白だった。だが、その動きには一切の迷いがない。 坊主とは、銀座気流庵の若手板前、霧谷蓮のことだ。中卒で住み込みの修行に入って九年。先代の大将、仙代気流庵像が「百年に一人の逸材」と惚れ込んだ青年だった。 宗介の脳裏に、四十五年前の冬の朝が浮かんでいた。資金繰りに行き詰まり、店を畳む覚悟で頭を下げに来た若き料理人、幻現造。宗介はその男に言ったのだ。 「あんたの腕は本物だ。銀座の明かりは俺が消させない」 そう言って自身の貯金を投じ、毎朝自転車で魚を運び始めた。あの遠い日から、今日まで。 「現造さん、あんたとの約束だけは四十五年経った今も、まだ守れているよ」 家を出る前、台所で握り飯を渡してくれた妻、八重子の声が耳の奥に残っている。「あなた、今日も気流庵さんのところに行くんでしょう。蓮ちゃんによろしくね」。五十年連れ添った妻は、自分の生き方を全て理解した上で、なお毎朝送り出してくれる。それがこの男にとって、何よりの誇りだった。 銀座の街がまだ眠ったままの早朝を、宗介の自転車はきしむ車輪の音と共に静かに走り出していた。 銀座気流庵の裏口に到着する頃には、空が白み始めていた。築地百年を超える数寄屋造りの店構えの裏手に自転車を寄せ、慣れた手つきで発泡スチロールの箱を下ろす。重い箱を抱えた腰の奥に、鈍い痛みが走った。 「ふう。まだまだやれるぞ」 先代の死去から二年。二代目大将はこの間に、若い職人を次々と入れ替え、SNS重視の路線で常連を遠ざけてきた。残った古参は、味方の老職人と霧谷蓮の二人だけだった。 裏口の引き戸が開き、白い板前服をきちんと着込んだ若い板前が頭を下げて出てきた。 「宗さん、おはようございます。いつもありがとうございます」 「坊主、今日はいいのが入ったぞ。中トロ、目玉も澄んでいる極上だ。寝かせ加減には気をつけるんだぞ」 「はい。ありがたく捌かせていただきます」 宗介と霧谷の間に交わされる短い挨拶だけが、過ぎ去りし日の気流庵の空気を今に残していた。 その時、店の表階段から、けたたましい笑い声が降ってきた。サングラスを額に引っかけた男が、両腕を広げながら厨房に入ってくる。二代目大将の義流員せ矢、四十二歳。後ろには、店内見学に訪れた取引先の若手社長が二人、にやにやと続いていた。 「おお、ちょうど良かった。見てくださいよ。これ、うちの裏口名物、令和の不老者」 取引先の若手社長たちが声を上げて笑った。せいは宗介の擦り切れた袖口を指でつまみ、見せつけるように引っ張る。 「このじいさん、六十年もうちに通ってるらしいんですけど、未だに自転車ですよ。エコっつうか、貧乏っつうか」 「へえ、自転車、今の時代にすごいですね」 「親父の代からの付き合いなんで、残してあげてるんですよ。こっちは」 霧谷の顔が一瞬で曇った。宗介の胸の奥で、四十五年前の現造の笑顔がちらりと過ぎった。現造さん、あんたの息子は……。 宗介はそう心で呟いたが、声には出さず、魚の入った発泡スチロールの箱を霧谷に手渡し直した。 「あれ、この魚、色がちょっと悪くないですか? SNS映えしないんですよ、この赤」 派手な腕時計の文字盤を見せつけるように腕を回しながら、せいは箱を覗き込んだ。 「大将、これは最上の本マグロです。写真映えしないかもしれませんが、その分、色合い、そして脂の乗りが抜群ですよ」 「はあ。中卒の坊主が俺に講釈ですか? いや、受けるんですけど。おい、坊主。お前さ、このじいさんに毎朝ぺこぺこ頭下げてんだろ。見苦しいからやめろよ。高が魚屋だぞ」 「大将、宗さんは仙台の……」 「親父の話はいいから。お前さ、九年も住み込みやって、まだ古い感覚が抜けないわけ?」 霧谷の握りしめた拳が白く震えた。日常的に投げつけられている言葉ではあるが、自分の目の前で宗介本人を貶められたのは初めてだった。宗介は静かに霧谷の肩に手を置いた。 「坊主、いいんだ」 「でも……」 「大将の気に召さないようでしたら、別の品に取り替えますが」 「いいですよ。今日はこれを使いますわ。だよね、宗さん」 派手なジェルで固めた前髪をかき上げながら、せいは薄笑いを浮かべた。 「シニアの目利きとか、もう令和には合わないんで。新時代についてきてもらわないとね」 そして取引先の二人を振り返り、わざとらしく肩をすくめた。 「こういう昔気質の人、扱いが難しいんですよ。親父の残した宿題っつうか」 「大将、それは大変ですね」 取引先二人の笑い声が厨房に響き渡る。奥にいた味方の老職人が唇を噛んだまま俯いた。他の板前たちも、誰一人として声を上げられなかった。せいは二代目と言うだけで、完全に店を支配していた。 「それでは、今日はこれで失礼します」 背中で霧谷が涙をこらえる音が聞こえていた。それでも七十三歳の老人は背筋を伸ばし、霧谷の肩に静かに手を置き直して自転車へ向かった。 「坊主、明日もいいのを持ってくるからな」 … Read more