夫のスマホに映る見知らぬ若い女からのメッセージは、私の人生を揺るがす最初の一撃だった。
「あんたが奥さんね。私、ノブリンの彼女だけど。うわ、頭悪そう」
私は静かに言い返した。
「何の用ですか」
「最後だから挨拶くらいしておこうと思って。ノブリンのスマホ見て連絡したの」
「何が最後なんですか」
「あんた、もうすぐ捨てられるんだよ」
「そうなんですか。知らなかったです」
その女は「ブリンはエリートだから海外赴任が決まった。選ばれたのは私」と言い放った。夫が私を置いて彼女を連れて行くという。「あんたなんかと遠距離するのもだるいから別れて、私を連れて行ってくれるんだって」
「なんで本人が言わずに、あなたが連絡してくるんですか」
「私からも一言かましてやりたくてさ」
「私があなたに何かしました?」
「私の大事なノブリンを独占したでしょう」
「結婚してましたからね」
「1年も気づいてないのに、何が妻だよ」
「知ってましたよ。探偵も入れてとに特定してます。浜田ももかさん、26歳。高校中退。実家は宮崎県で、父と母と兄が住んでるんですね」
相手が息を呑んだ。
「なんでそんなことまで調べてんの?」
「だってあなた、仕事もちゃんとしてるみたいだし、その様子じゃお金を持ってないでしょう。だったら、あなたが慰謝料を支払えない時は、いずれご両親に相談しないといけないかもと思って調べさせていただきました」
「慰謝料って何? なんで私が払うわけ?」
「若いから、頭がよろしくないからご存知ない。あなたが今やってることは不貞行為と言います」
「不貞行為? 意味わかんない。好きになって一緒にいることの何が悪いの?」
「だったら順番を守らないと。行列に横入りされたら嫌でしょう」
私は続けた。「離婚してから付き合えばよかったんです。順番を守らないからこういうことになるんですよ」
「えっと、結局どういうこと?」
「私が弁護士を通して慰謝料の請求をします。払っていただけないようでしたら、ご実家に連絡します。それでも決着がつかなければ裁判になりますね」
「無理なんだけど」
「しかも夫と一緒に海外赴任についていくんですよね」
「そのつもりよ」
「そういう計画を離婚前から立てているのは悪質ですね。そこら辺も慰謝料の額に反映されるかもしれません」
「それって大体くらいなの? 20万とかなら友達が貸してくれるかも」
「0がひとつ足りませんね」
「は? 200万?」
「最低限の金額ってだけです。私の心のダメージはそんなに安くありません。だって15年も夫婦でしたよ。息子だって中学生の多感な時期です」
「じゃあ海外赴任ついて行かなければいい」
「行かなくていいんですか?」
「だって裁判とか無理だし、何より実家に言われるのは絶対ダメなの」
「厳しいご両親みたいですもんね。まさか東京でOLとして真面目に働いてると思っていた娘が既婚者と交際してるなんて。田舎のご両親が知ったら、さぞ驚くでしょうね」
「お願いします。言わないでください。じゃないと連れ戻される。あんな山奥で暮らすのは絶対に嫌なの」
「あなたが社会人として自分で責任を取れるのであれば、連絡する必要はありません」
彼女は泣きそうな声で言った。
「わかりました。ノブリンとは別れます」
「あっさり切り捨てるんですね」
「海外もついていかないし、今すぐにブロックします」
「そこまでしていただけるのであれば、こちらも慰謝料については交渉に応じましょう」
「本当ですか?」
「近いうちに弁護士から連絡があると思います。しっかり対応してくださいね」
「わかりました。本当にすみませんでした」
「若いんだから、同世代の素敵な人を見つけてください」
「ですよね。あえておっさんに行くことなかったです。色々買ってもらえるし、行ったことないお店ばかり連れて行ってくれるから、夢見てるみたいで」
「魔法は解けましたか?」
「はい、もういいです。気づけてよかったです。では失礼します」
彼女との電話を終えて数時間後、夫が帰ってきた。
「何? 離婚したい」
「どうして」
「海外赴任が決まったし、もう離婚しかないかなって」
「なんでそうなるのよ」
「遠距離ではやっていけないだろう」
「意味が分からない。私がついていくという選択肢はないの?」
夫は深く息を吐いた。「ごめん。正直に言うわ。好きな人ができた。お前には悪いけど、俺は若い女とやり直す」
「誰のこと?」
「言ってもわからないだろう」
「浮気してたのね」
「そうなるな。お前との生活は終わり。とっとと離婚してくれ」
「嫌よ」
「頼む。もうお前に愛情はないんだ」
「15年も支えてきたのに、あんまりじゃない。剣斗だってもうすぐ受験なのよ」
「養育費も慰謝料も払う。それでどうにかなるだろう」
「そう言われたって、剣斗だって愛のない夫婦の間で育ってもいいことないと思う」
「そんなに私のことが嫌いなのね」
「そうじゃない。もっと好きな女ができただけだ。だから悪く思わないでほしい」
「あなたは本当にそれでいいのね」
「どういう意味だ?」
「後悔しないかってこと」
「俺も覚悟は決まってるからそれでいい」
「分かった。あなたの言う通り、冷め切った夫婦関係を見せてもよくないわ。海外赴任はむしろいいチャンスかもしれない。剣斗の受験に影響しないよう、タイミングを見て伝えるわ」
「そうしてくれ」
「出発はいつなの?」
「前任者が病気になったから、急がないといけないんだ。1ヶ月後か2ヶ月後くらいかな」
「分かった。荷物は自分でまとめてね」
「え、手伝ってくれないの?」
「私を裏切った人の顔なんて見たくないわ。剣斗を連れて、しばらく実家に帰る」
「学校はどうすんだよ」
「徒歩10分で同じ区内だけど」
「あ、そっか」
「父と母は激怒すると思うけど、覚悟してね」
「分かった。謝っておく」
「じゃあ海外赴任、頑張って」
夫はため息混じりに言った。「ありがとう。ごめんな」
「責任だけ取ってくれたらいいから」
「それは分かってる。ちゃんとするよ」
「離婚届は置いておくわ。書いておいてくれる?」
「分かった。ごめんな」
翌日、私は夫の元上司を訪ねた。
「河野部長、急にすみません。今、お時間少しよろしいでしょうか」
「おお、久しぶりだね。また剣斗君連れて遊びにおいでよ。妻も会いたいと言ってたんだ」
「河野さんや奥様には結婚式の頃からずっと家族ぐるみでお世話になっているので、一番にご報告をと思いまして」
「何かあったの?」
「離婚しました。さっき離婚届を提出してきたんです」
部長は驚いた顔をした。「それはまた急だね。何があったの?」
「まあ、よくあるパターンのやつですかね」
「あいつ、浮気したの?」
「はい」
「え、ちょっと待ってよ。海外赴任に一緒に行くんじゃなかったの?」
「そう言ってたんですか?」
「うん。剣斗君は受験だから実家に預けて、奥さんだけ連れて行くって」
「そんなこと私がするはずがありません」
「だよな。俺もてっきり1人で行くものだと思ってた。だからさすが仲のいい夫婦だなって、妻とも話してたところなんだよ」
「連れて行くのは私じゃないみたいですけどね」
「どういう意味だ?」
「若い女性と付き合ってるみたいなんです。私と別れて、その子を再婚するつもりなんでしょう」
部長は怒りをあらわにした。「なんだよそれ。あんまりだろう」
「海外赴任はいわゆる出世の近道でもある。だから俺はあいつにと思ったのに」
「目にかけていただいていたことは存じていました。だから余計に心苦しいです」
「話にならないな。海外赴任は別の人間に頼むか」
「あ、いえ、それは可能であればおやめください」
「でも、あいつが誰かと籍を入れて『妻です』って言えば、赴任許可しないわけにはいかなくなるんだよ」
「はい。それでも構いません。でも、これから剣斗には学費がかかります。高校、大学となれば、私1人では背負えません」
部長はしばらく黙ってから言った。「確かにそうだね。子供に負担がかかるのは俺も本意ではないが」
「不倫でもなさそうですし、このことは河野さんの心の中だけにとめておいていただけたら」
「本当に、こんなにいい奥さんを裏切るなんて」
「これからも年賀状などでご挨拶はさせてください」
「そう言ってくれて嬉しいよ。嫌じゃなければ、またうちに来てくれないかな」
「もちろんです。ありがとうございます。奥様にもよろしくお伝えください」
「何か困ったことがあったら連絡してな」
「はい、ありがとうございます」
数日後、ももかから電話がかかってきた。
「奥さん、すみません。私です。彼が毎日マンションに来て、インターホンを鳴らし続けるんです」
「迷惑な男ね。警察に行ってもいいですか?」
「それはちょっと待って」
「でも、言われた通りブロックしてるだけだから、シンプルに心配してるだけだと思うんです」
「分かった。じゃあ、次家に来たら別れ話をして」
「はい」
「よろしく」
「あの、内容証明ってやつが届いて、慰謝料300万って書いてあったんですけど」
「そうよ。ここからあなたの協力と態度次第で減額はあり得るから」
「わかりました。言う通りにします」
「このことを誰にも言わないように。言えば、私とあなたの約束はなしになるわ」
「はい」
数分後、夫がももかに電話をかけていた。
「ももちゃん、どうしたの? 既読もつかないし、電話も出ないじゃん。ねえねえ、寂しいよ。会いたいよ。アメリカ行きの準備もあるでしょう?」
ももかは冷たく言い放った。「もう合わない」
「なんで俺と一緒にアメリカ行くんだろ?」
「行かない」
「急にどうしたの? 早く籍を入れて、会社に報告しないと一緒に行けなくなっちゃうよ」
「それでいい」
「なんで? 楽しみにしてたじゃん」
「別れたい」
「は?」
「もう好きじゃない。会わない。消えて」
「ちょっといきなり、何てこと言うの?」
「しょうがないでしょ。気持ちが消えたんだから」
「あんなに愛し合ってたのに何言ってんだよ。俺はももちゃんのために何もかも捨てたんだぞ」
「頼んでない」
「そんな冷たいこと言うなよ。俺はももちゃんがついてきてくれるって言うから、海外赴任の話受けたんだよ。1人じゃ耐えられないよ」
「知らない」
「なあ、考え直してくれ。何か不安があるなら、俺が全部取り除いてやるから」
「やだ。実家には絶対に帰りたくないの」
「何の話?」
「とにかくもう、あなたには関われない。それだけわかって」
「ああ。あと、次インターホン連打したら警察呼ぶ」
「ももちゃん、何があったの?」
「ごめんね。バイバイ」
数日後、夫は会社で部長に呼び出された。
「部長、すみません。海外赴任の件なんですけど、白紙ってわけにはいきませんか?」
「何言ってんだよ。お前が前から願ってたことだろう。だから俺がプッシュしてやったんじゃないか」
「そうなんですけど、実は離婚しまして」
「そうみたいだな」
「え、なんでご存知なんですか?」
「河野さんからご丁寧に連絡をいただいたよ。いつお前から言ってくるかと思ってたら、まさか先にLINEで言われるとはな」
「面目ない。そこまでしていただいたのに、合わせる顔がなくて」
「なんで別れた?」
「性格の不一致みたいなところです」
「そうか。長年夫婦やってりゃ色々あるよな」
「そうなんですよ。で、それと海外赴任がどう関係ある?」
「息子の受験も近いですし、離婚したとはいえ父親ですから、できるだけ近くで支えてあげたいというか」
「それなら心配ないだろう。あんなしっかり者のママがついてるんだから」
「そうなんですけどね」
「今更白紙なんて無理だぞ」
「ですよね」
「それにお前が蹴れば、次の候補は山田だが、いいのか? 同期のあいつには負けたくないってずっと頑張ってきたんじゃないか」
「はい。あいつには抜かれたくないです」
「たった2年の辛抱だ。帰ってきたらいいポジション用意して待ってるからさ」
「はい、わかりました。頑張ります」
「その意気だ。失礼します」
1ヶ月後、夫から電話がかかってきた。
「来月、アメリカに立つよ」
「そうですか。わざわざ報告は不要です」
「受験が落ち着いたら、剣斗と遊びに来ないか?」
「なぜでしょう」
「いや、社会勉強にもなるし、お前のことも海外旅行なんて連れていけなかったから」
「別れた妻に対して、そんなこと思わなくていいんですよ」
「でも、一緒に若い女性と行くと言ってませんでしたっけ?」
「ああ、あれは終わった」
「あら、まあ。やっぱり若い女はダメだな。気分がコロコロ変わってついていけないや」
「家庭を壊しておいて、笑い話にしないでください」
「ごめん」
「あなた、小麦粉や製品が体質的に合わないから、なるべく自炊した方がいいですよ」
「俺が何もできないの知ってて嫌味かよ」
「掃除も洗濯も、しっかり頑張ってくださいね。物価も高いようなので、贅沢はできませんよ。剣斗の学費のことも考えて節約してください」
「ごちゃごちゃうるせえな」
「不安なんですか?」
「そりゃそうだろう。海外暮らしなんてしたことないし」
「だとしても、今後私に連絡してきて、ぐだぐだアドバイスを求めるようなことはしないようにお願いします」
「冷たいなあ」
「剣斗のこと以外では関わらないと約束しましたよね」
「分かってるよ」
「では、検討を祈ります」
2年後、夫はアメリカから帰国し、会社で衝撃の事実を知らされた。
「部長、どういうことですか? ちゃんと説明してください」
「何を怒ってんだよ」
「なんで山田が部長に昇進してるんですか?」
「この2年、よく頑張ってくれたからだが」
「これで俺が宮崎の支店に左遷って、なんでですか?」
「うん。俺に言われてもなあ。人事の最終決定は上に権限があるから。文句があるなら直接言ってくれ」
「約束が違うじゃないですか。帰ってきたらいいポジション用意するって言ってくれましたよね」
「そりゃお前が全力で頑張ってたらの話だろう。アメリカに行ったじゃないか。結果出てないよな。現地のクライアントからクレームが何度入ったか分かってるか?」
「それは運というかな、何というか」
「その上、嫁と子供ほったらかして浮気した挙げ句、その女を海外赴任に連れて行こうとしてなかったか?」
「してません」
「おかしいなあ。ももちゃんが言ってることと違うんだが」
「え? なんでその名前を」
「河野さんはももちゃんと繋がってたんだ。それで色々とお前と付き合ってた頃の話を聞いて、どうもおかしな点が出てきた」
「いや、お前が絶対交際費であげてきた領収書と、ももちゃんとのデートの日がことごとく同じなんだよ」
「それはたまたまではないでしょうか」
「納得の行く説明をしてくれよ。他にも証言はある。出張にも同行させてたな。会社の経費はお前の不倫に使うためのものじゃない」
夫は観念した。
「すみません。今まで横領した分は、今後の給与から天引きする」
「はい」
「首にならなかっただけありがたいと思えよ。子供への養育費が滞ったら河野さんが困るから、俺が上に頭を下げてやったんだ」
「そうだったんですか。本当にすみませんでした」
「アメリカに続き、宮崎でも1人ぼっちだな。お前が選択した道だから同情はしないが、ちゃんと反省して見つめ直した方がいいぞ」
「はい、わかりました。大変申し訳ございません」
翌日、夫は宮崎に飛び、私の実家を訪ねてきた。
「河野さん、帰ってきたよ」
「あら、お帰りなさい」
「なんか機嫌良さそうだな」
「そう、俺今度は宮崎に移動になった」
「あ、そう」
「この2年で色々考えたんだ。女遊びもしなかったし、1人で頑張った」
「それが何?」
「もう一度一緒になってくれないかな?」
「無理」
「そっか。だよな」
「宮崎、いいところじゃない? ももちゃんの実家でもあるし、きっと気に入るわよ」
「何でだよ。なんでお前とももちゃんが繋がってんだよ」
「元々はあっちから連絡してきたのよ。あなたと一緒に海外行くってマウントしてきたの」
「で?」
「それ以前にすでに私はあなたたちの関係は把握してたから。親に言われたくなければ別れろって言ったら、すんなり言うこと聞いてくれた」
「え、ちょっと待て。お前が仕組んだのか」
「だってこっちは離婚することになるのに、仲良くアメリカ暮らしなんてさせるわけがないでしょ」
「なんだよそれ。俺は突然振られて1人で海外に行ったんだぞ」
「だから何よ。家事も手探りで、どんなに大変だったか、あんたに分かる? 私は1人でずっとやってきたからね。その大変さをあんたに味わって欲しかった」
「じゃあ河野の部長にももちゃんを紹介したのもお前か?」
「その通り」
「お前のせいで、俺は同期に出世で負けて左遷されることになったんだぞ」
「私のせいじゃないでしょ。自分が浮気して若い女にうつつを抜かしたのが原因よ。何アホなこと言って責任転換してんの?」
「でもさ、私はあなたの浮気に気づいてた」
「そうなの?」
「お風呂やトイレまでスマホを持ち込むようになったら怪しいってネット記事を見たことがあったけど、まんまその通りで笑っちゃったわよ」
「その時に言えばよかっただろうな」
「何なんだろうね。泣きつくのもキャラじゃないし、負けを認めるのが怖かったのかも」
「プライドかよ」
「そうね。制裁としてのプライドはあったかもね。あと、剣斗には両親揃った家庭で育って欲しいという固定概念もあったかもしれない」
「そう思うなら一緒に暮らそう」
「料理を一品増やしたり、レシピも改良したわ。でもあなたは何にも気づかなかった」
「それくらいで分かるわけないだろう」
「でもね、気づいたのよ。剣斗と一緒にいられるのは残り数年しかないのに、母親の偽りの笑顔なんか見せていいのかなって」
「本当の笑顔を俺がプレゼントするよ」
「剣斗が言うのよ。『よく笑うようになったね』って」
「俺がもっと楽しくなるんじゃないか。素敵な人にも出会えたし、剣斗の勉強も見てくれる」
「おい、まさかお前、もう男がいるのか?」
「私はちゃんと手順を踏んだわ。離婚して、剣斗の受験が終わって、自分の気が合う人と楽しくご飯行ったりしてるだけ」
「この裏切り者。俺は認めんぞ。お前が俺以外の男と一緒になるなんて」
「河野さんは俺の女だ。どこの誰だ? 合わせろ」
「あなたは通りすがりのタイプの女性に『お前は俺の好みの女だ』って言ってたけど。隣の男と別れろ? 言うわけねえだろ。やることは同じよ」
「なんでこんな目に会うんだよ」
「ももちゃんは素直に自分の罪を認めて、慰謝料減額のために私に協力してくれたわ。300万のところを150万まで値引きしてあげたの」
「俺は300万払ったぞ」
「それがあなたの謝罪の気持ちだったんでしょ。おまけに養育費だって月に6万も払ってる」
「当然ね。あなたは父親なんだから。俺の金でぬくぬくと暮らしやがって」
「300万は大学の学費で消えるわ。たった6万で私たちが贅沢できると思ってんの? 高校の学費、部活、お小遣いで、とても足りないわ。だから私も本業と副業で稼いでるんでしょ」
「そんなに苦しいなら、一緒になればいいだろう」
「天秤にかけるまでもなく、今の生活を選ぶわ。いつまた浮気されるかもと怯えながら、あなたと暮らすのは嫌」
「もうしないって言ってんだろ」
「結婚した時も同じことを言ったよね。覚えてる? 『俺は絶対に裏切らない』って言ったのよ」
「あの時は確かにそう思ったんだけど」
「昔の話なんてもうどうでもいい。私たちはもう未来を向いてるの」
「本当にもうダメなのか?」
「顔も見たくないほどには嫌いよ」
夫はうつむいた。
「そんな」
「じゃあ、孤独な生活を引き続き堪能してね」
その後、夫は海外赴任中に手当が増額されるはずだったが、実際は実炊ができず外食を繰り返していたようで、さほどお金も残らない状態で帰国した。
貯金は慰謝料と財産分与で底をつき、宮崎に左遷されたことで収入も減り、さらには横領分の返済や養育費もあり、相当厳しい生活を送っているらしい。
息子との面会は、本人の意思を尊重した結果、しばらく実現することはなさそうだ。
一方、同期の山田さんはその後に海外赴任を経験し、出世コースに乗って安泰だとか。
それを遠い場所から指を加えて眺めるのは、どんな気分なのでしょうね。
我が家には縁のないトラブルだと思っていた。でも、いつ自分が当事者になるか分からないものだ。
我ながらよく冷静に対処できたなと思うが、子供のために感情的にならないようにしようと意識した結果だったと、当時を振り返って思う。
彼と息子が野球観戦や買い物に行っている間に、のんびりカフェで過ごすのが最近の楽しみだ。
こんな平穏で、ありがたい日々が続きますように。



