「お父さんからもらったベンツを、お母さんにあげなさいよ。」
夫・ジュンのその言葉に、私は耳を疑った。
「は? なんで急にそんなこと言うの?」
「お前、母さんがずっと高級車に憧れてたの知ってるだろ?」
「知らない。お父さんは軽自動車すら買えなかったのに、そんな話聞いたことない」
「それは気の毒だけどさ。でも、あげるのは違うでしょ」
「どうせ古いんだろ?」
「失礼ね。新車よ」
「あ、すごいじゃん。じゃあいいじゃん、あげようよ」
「ただの車じゃないの。お父さんがお母さんへの想いを込めて買った、大事な車なの」
「共有財産って知ってるか?」
「もちろん。でも、贈与は共有にならないのよ。知らないの?」
「めんどくせえ。理屈並べるな」
「はい、どうぞってあげられるものじゃないでしょう」
「じゃあ今日から電気も水道も使うなよ」
「なんでそうなるの?」
「お前の理屈で言うとそういうことだろ。俺の給料で払ってるんだから」
「共働きだし、私のパート代だって家計に入れてるわ」
「月数万の稼ぎで偉そうにすんなよ」
「時短にしてるのは、家事を全部私一人でやってるからよ」
「そんなもん、フルタイムでもできるだろう。母さんは完璧にやってたぞ」
「じゃあお母さんと暮らせば?」
「なんでそういう話になるんだよ。俺はベンツを寄越せって言ってるだけだろ」
「たまに乗ってもらう分にはいいけど、あげるのはお父さんの気持ちに反する。お母さんへの思いが詰まった大事な車なの」
「死んだ人間のことなんて、どうでもいいだろ」
その言葉を聞いた瞬間、私は何かが音を立てて崩れるのを感じた。
「よくそんなことが言えるわね」
「ぐちぐち言うなよ。さっさと鍵出せ」
「断るわ。事故られたら堪ったもんじゃないし」
「母さんを年寄り扱いすんな。まだ55だぞ」
「年齢の問題じゃない。運転の話よ」
「元ヤンだから運転センスは抜群なんだよ」
「余計に怖いわ。絶対に貸さないから」
そう言って私はその場を離れた。
翌日。
「ねえ、車の鍵どこにあった? スペアもないの。引き出しの中にあったはずなんだけど」
「知らねえよ」
車がない。勝手に貸したの? 泥棒でも入ったんじゃないか。
「分かった。じゃあ警察行ってくる」
「待て待て。ちょっと借りただけだろ」
「は? 昨日貸さないって言ったよね。家の車を家族が使って何が悪い?」
「あの車は私の名義よ。今すぐ返して」
「そのうちな。来週の法事で使うって言ってたじゃないか」
「知ってるわよ。すぐにお母さんに連絡して。それまでには返すって」
私は信じられない気持ちでいっぱいだった。
同日。
「ゆかさん、あのベンツ近所でも大評判よ。山田さんに“素敵なお車ね”って言われたわ」
「我が物顔で乗り回さないでください。ガソリン入れてあげたんだからいいじゃないの」
「給油は1回で1万円近くかかりますよ」
「そうなのよ。外車って維持費が大変ね」
「来週は法事で使うので、今すぐ返してください」
「電車で行けばいいじゃないの」
「うちの実家、駅から徒歩1時間なんですけど」
「歩けない距離じゃないわね」
「いい加減にしてください」
「分かったわよ。それまでには返せばいいんでしょ」
「絶対ですよ」
「分かってるって。安心して」
当日。
「お母さんと連絡がつかないの。今日返すって約束したのに」
「ああ、そうだったっけ」
「あなたからも連絡して」
「今はちょっと無理かな」
「なんで?」
「ちょっと遠出してみたいって言うから、温泉に向かってる」
「は? お母さんも一緒なの?」
「お、約束が違うじゃない?」
「悪い。忘れてたんだよ。そんなに攻めるなって」
「どうやって実家まで行けって言うのよ」
「電車とバスで行けばいいじゃん」
「乗り換え3回で家から2時間以上かかるのよ」
「嫁は歩きで十分」
「本気で言ってるの?」
「文句あるなら離婚するぞ」
「いいよ」
「冗談だよ。今から電車乗っても間に合わない」
「仕方ないだろう。母さんが気に入っちゃって、手放そうとしないんだから」
「そんなにベンツが好きなら、買ってあげなさいよ」
「いくらすると思ってんだ」
「それを勝手に奪って返さない自分たちを、どう思う?」
「今日は返すって言ってんじゃん。しつこいな」
「やばい。今すぐ出ないと」
「帰りは明後日になるから。よろしく」
「2泊もすんの?」
「久々の親孝行だから、邪魔すんなよ」
1時間後。
「ゆか、あと何分で着く? もうみんな集まってるぞ」
「ごめん。駅から歩いてるから、あと1時間くらい」
「なんで歩きなんだ? お前に買ったベンツはどうした?」
「お母さんが気に入って、返してくれないの」
「はあ?」
「憧れの車らしくって、勝手に鍵を奪ってお母さんに貸しちゃったのよ」
「何を考えてるんだ?」
「ずっと返してって言ってるんだけど、今日は温泉に向かってるらしくて」
「ありえない親子だな。すぐに誰かに迎えに行かせるから待ってろ」
「でももうすぐ法事始まるんでしょ?」
「車で行けばすぐだ」
「迷惑かけてごめん。お母さんの命日なのに」
「お前は何も悪くないんだから、気にするな」
「ごめん。せっかくお父さんがくれたのに、取り返すこともできなかった」
「間違ってるのは義母と旦那だ。待ってろ」
3時間後。
「ジュン君、ちょっと話があるんだが、いいか?」
「ああ、お父さん。どうしました?」
「温泉旅行中なんだって?」
「え、まあ、はい。そうですね」
「娘は結局法事に遅れて、和尚さんをお待たせすることになってしまったよ」
「それは大変でしたね」
「君のせいなのに、随分と呑気だな」
「歩くのが遅い嫁が悪いんじゃないですか?」
「笑い事ではないんだが」
「冗談も通じないんですか? 今すぐに車を返しなさい」
「無理に決まってるじゃないですか。何時間もかかりますよ」
「私の言ってることが分からないか。温泉なんて切り上げて戻ってこいと言ってるんだ」
「宿代が無駄になるんですよ」
「知ったことか。あの車は、今日の法事に乗ってくることに意味があったんだ」
「親族が集まって、お経を上げてお参りするだけなのに、なんで車が必要なんですか?」
「君に理解してもらう必要はない」
「いい加減にしないと警察に言うぞ」
「さすが親子だ。ゆかと同じこと言いますね。でも無駄ですよ」
「分かってる。親族相当例だろ」
「よくご存知で。でも、君の母親は対象外だよな。人のものを借りたら返さないといけないんだよ。そんなことも君は親から習ってないのか?」
「うるせえな」
「はあ? 何だって? 誰に向かって口を聞いてる?」
「あまりにもしつこいので。君という人間を見損なっていたようだ」
「はいはい。返せばいいんでしょ。ただし明後日です。わざわざ今から戻るなんてアホらしいことはしません」
「ふざけるな」
「こっちのセリフです。じゃあ明後日、優香にもそう伝えておいてください」
翌日。
「ゆか、昨日は大変だったな。体は大丈夫か?」
「足が筋肉痛なだけだよ。ありがとう」
「警察に被害届を出す件だが、少し待ってくれ」
「なんで?」
「昨日、ジュン君と話した。あれはダメだ」
「義理でもないのに」
「前はあんな人じゃなかったんだけどね。ここ最近、本性を現してきたっていうか」
「温泉に行ってるって言ってたな」
「そうだよ。ベンツはGPSで追跡できるんだが、今確認したら温泉地にはいないんだ。隣の県にいる。しかも、なんというか、調べてみた感じだと、そういう大人のホテル街だった」
「は? 誰と?」
「まさか、お母さんと一緒なの?」
「それはさすがにないだろう」
「あいつ、人の車に女を乗せてたってこと?」
「まだ分からないが、今から向かってみようと思う」
「私も行く」
「いや、父さん一人で行くよ」
「なんでよ。連れてって」
「今、突撃して問い詰めるのは得策じゃない気がするんだ。今回だけだと言い逃れされるかもしれないだろ」
「一度でもダメに決まってるじゃない」
「こういうのは継続性があることが重要らしい」
「なんでそんなに詳しいの?」
「会社の後輩が奥さんに浮気されてな。色々話を聞いて調べたりしているうちに、詳しくなったんだ」
「そうだったのね」
「義母のためとか言いながら、ちゃっかり自分が使ってたなんて許せない」
「怒りが収まらんとは思うが、少し辛抱するんだ」
「分かった」
数日後。
「リナちゃん、ベンツでドライブ楽しかったね。また一緒にラブホ巡りしよう」
「は? 何の話? 誰に送ったの?」
「あ、あ、」
「“あ”じゃないのよ。リナって誰?」
「友達だよ。気にしないで」
「温泉とか嘘ついて、一緒に出かけてたんでしょ?」
「違うよ」
「父が現地まで行って確認してくれたんだけど」
「はあ。プライバシーの侵害だ」
「自分が買った車のGPSを確認することの何が悪いの?」
「そんなもの仕掛けてたのか?」
「機能として車についてるのよ。知らないの? こっそり位置情報を見るなんて卑怯だぞ」
「誰が言ってんの? 俺は何もしてない。ホテルなんて行ってない」
「いつから浮気してたの?」
「してないって言ってんだろ?」
「嘘つかないで。女性といたのは知ってるのよ」
「それは友達が色々悩んでたから、相談乗ってただけだよ。2泊3日で、結果的にそうなったけど、やましいことはしてない」
「じゃあなんでお母さんと温泉なんて嘘をつく必要があったわけ?」
「そんなことより、母さんが明日車返すって。話そらさないでよ」
「自分がしつこく言ってきたことだろ」
「それはそれ、これはこれ。さっさと白状しなさい」
「そんなに大騒ぎすることじゃないって」
「帰ってから、じっくり話を聞かせてもらうから。悪いけど今日は実家に泊まるわ」
「逃げるな」
翌日。
「車がやっと戻ってきたと思ったら、何ですか? これは。何カ所もめちゃくちゃへこんでるじゃないですか」
「なんか、車の傷やへこみで大騒ぎするのって日本人だけらしいわよ」
「私は日本人なので、大騒ぎさせてもらいます」
「細かいことはいいじゃない。傷はあっても動くんだし」
「どこが細かいんですか? 新車だったんですよ」
「形あるものはいつか壊れるって言うでしょ」
「壊した人が言うことではありませんよ」
「とりあえず返したから。じゃあね」
「待ってください」
「まだ何かあるの?」
「夫が浮気していました」
「あら、そうなのね」
「お母さんはご存知でしたか?」
「いいえ。知りませんね」
「なぜ突然敬語になるのか分かりませんが。そうですか。知らないんですね」
「もちろん」
「分かりました。器物損壊については、刑事と民事両方で進めたいと思っておりますので、また改めて連絡させていただきます」
「は? 何それ?」
「人の車を傷つけておいて、ただで済むと思いますか?」
「身内でしょ? 私たち家族じゃない?」
「じゃあ私もお母さんの服やバッグに落書きしてもいいですか?」
「絶対に許さないわよ」
「同じことなんですよ。大事なものを壊されて許せない気持ち、分かってくれますよね」
「返した後もごちゃごちゃ言われたら堪ったもんじゃないわ」
「反省してないようなので、容赦しません。ご覚悟を」
1週間後。
「ゆかさん、内容証明が届いたんだけど。120万円の請求って、何考えてるのよ?」
「ベンツの1ヶ月分の使用料です」
「高すぎるわよ」
「実際にレンタカーで借りると、そのくらいになります」
「ふざけないで」
「私は貸さないと言ったのに無理やり奪ったのは息子さんですし、無断で使ったのはお母さんです」
「あまり調子に乗ってると、離婚されるわよ」
「なんでここで夫婦の問題が出てくるんですか?」
「別に。もしかして息子さんから何か聞いてるんじゃないですか? 次の新しい彼女との再婚話とか」
「何の話かしら」
「そうじゃなければ、お母さんから離婚なんて言葉が出てくるわけないんですよ」
「知らない。何も知らない」
「今回は使用料の請求でしたが、修理費はまた改めて請求させていただきますね」
「はあ? ちょっと待ってよ」
「ベンツのリアバンパーは純正で20万以上です」
「そんなにかかるの? 義理のパパに直してもらえばいいでしょ」
「なぜですか? 父が壊したわけじゃないのに。あとは警察行って、器物損壊で被害届を出して終わりです」
「私がぶつけたんじゃない。あの下手くそ女がやったのよ」
「はい。誰のことですか?」
「え? お母さん以外の女性が車を運転したんですか?」
「いや」
「もしかして、リナさん?」
「なんで知ってるんだ?」
「ジュンがリナさんと間違えて私にLINEしてきたんです。“ベンツでドライブ楽しかったね”って」
「あのアホ」
「まあ、3人で仲良く責任取ってください」
「家族を苦しめていいと思ってるの?」
「もう他人になるので」
「どういう意味?」
「離婚以外ありますか?」
「本当にそれでいいのね」
「はい。浮気する男は無理です」
「悪いのはジュンでしょ? 私は車を借りただけじゃない」
「私からすれば同罪です。では」
翌日。
「お前、会社に内容証明なんて送るなよ」
「実家に帰ったまま戻ってこないので、確実な方法を取っただけ」
「それは色々あるんだよ。それより、なんだこれ? 300万円の慰謝料って。ふざけてんのか?」
「大真面目よ。心も車も傷つけられたの。このくらいが相場だって弁護士が言うから、仕方なくその額だけど、本当は100億欲しいくらい」
「証拠は?」
「ホテルに行った履歴が車に残ってるわ」
「それだけか?」
「ホテルに数時間、男女で滞在していれば、不貞行為があったと認定されるそうよ。しかも2日連続。相談だという言い訳をしたいなら、裁判でもすればいいわ」
「ふざけんな。なんで別れる女に300万も払わないといけないんだよ」
「ちなみに車の使用料と修理代は、お母さんの方に送らせてもらった」
「なんてことするんだ」
「でも、ぶつけたのはあなたの女みたいね」
「誰からそれを?」
「お母さんよ。自分の罪を軽くするために、息子の浮気相手を売ったみたい」
「マジかよ」
「どうせ泣きついてくると思うけど、3人のうち誰でもいいから、支払いだけよろしく」
「お前には血も涙もないのか?」
「あるから悲しいし悔しくて泣けてくるんでしょ」
「だったら仕返しなんてせずに、一人で泣いてろ」
「そうかな。母のためにも、泣き寝入りしたくないの」
「なんで亡くなったお母さんが出てくるんだよ」
「あの車は本当は父が母に買ったものだったの」
「あ」
「1年半前に注文して、納車を楽しみにしてた。でも母に病気が見つかって、間に合わなかったのよ。父は車を見ると思い出すからって、ずっと人に預けて目に触れないようにしてたの」
「だったら尚更都合がいいじゃないか。俺や母さんが使ってやったんだから」
「違う。あの法事の日に実家に乗って行って、お母さんに見せる約束だったの。お父さんは約束通り買ってくれたよって。そう伝えたかったのに」
「お前、本気で言ってんの?」
「何が?」
「あの世にいる人間があの車を見て“素敵ねえ”なんて思うわけがないだろ」
「分かってるよ、そんなこと。でも、どこかで見守っててくれると思うから、残された人たちは前を向いて生きていけるの」
「意味が分からない」
「私と父にとっては大事な節目だった。それを台無しにされたこともそうだし、私を裏切ってたことも、絶対に許さない」
「慰謝料は払わないっていうか、払えない。俺だって生きていかないといけないんだ」
「そっか。分かったよ」
「なんだよ。あっさり引き下がると、それはそれで不気味だな」
「じゃあね。離婚届は実家に送ります。さようなら。今までありがとう」
翌日。
「ゆか、社長から呼び出しがあった」
「知ってる」
「お父さんの友人だったなんて、初めて知ったんだが」
「プライドを傷つけると思って黙ってたけど、あなたが2年前に転職する時に口添えしてくれたのは父なの」
「らしいな。慰謝料と修理費を払わないなら給与引きにすると言われたよ」
「そう」
「お前ら本当に卑怯だな」
「だったら辞めたら? できるわけないでしょ。父の顔を潰したのに、解雇しないでくれるのよ。それだけでも感謝しなさいよ」
「分かったよ。払えばいいんだろ」
「よろしく」
「クソが」
数日後。
「ゆかさん、ジュンが解雇になったのよ」
「知ってます」
「退職金もゼロなんて、生活できないわ」
「あなたの仕業なんでしょ?」
「いいえ。私は何もしてません」
「お父様の紹介で就職できたって聞いたわ。こんな嫌がらせするなんてひどい」
「いいえ。むしろ、解雇まではされないように父は動いてくれました。慰謝料を給与引きで払いさえすれば会社に残れるよう、取り計らってくれたんです。それがどうして解雇?」
「車内の風紀を著しく乱したとのことです」
「何それ? どういう意味?」
「リナちゃんを含む女性社員3名と同時に、結婚を前提に交際していました。その上、既婚であることを隠してたそうです。私が内容証明を送ったり、慰謝料天引きの噂が出回ったことで、3人の女性が気づいて騒ぎになり、収拾がつかなくなったと聞いています」
「なんてこと?」
「3人は訴訟を起こすそうなので、解雇は当然の措置だと思います」
「かわいそうなジュン」
「同情すべきは3人の女性でしょう」
「男なんだから、女遊びくらいするわよ」
「人の心配をしてる場合ではありませんよ。レンタル料120万はさすがに冗談ですが、使えなかったことで発生した損害については請求します」
「金ってうるさい女ね」
「はい。もう金でしか怒りが収まらないので、使用料と修理代で60万を払ってください」
「そんなお金ないって言ってるでしょ。返すのは渋る、壊しても弁償しない。だから息子さんがあんな風に育ったんじゃないですか」
「子供も産んでないくせに、人の子育てに口出してんじゃないわよ」
「確かに産んだことはありませんが、親がどういうものかは知っています。うちの両親は、間違ったことをすれば叱ってくれました」
「私だってそのくらい」
「じゃあ今すぐジュンに説教した方がいいですよ。もう手遅れだと思いますが」
「うるさい」
「失礼します。あとは弁護士を通してください」
翌日。
「お父さん、どうにかなりませんか?」
「何の用だ?」
「給与引きでいいので、解雇は勘弁してください」
「俺が決めたんじゃない。友人の判断だ」
「うまいこと言ってくださいよ」
「たくさんの女性を騙しておいて、よく残ろうと思えるな。車内に居づらくはないのか?」
「俺は全然平気です」
「厚顔な男だ」
「今後は社外の人間と付き合うことにしますから」
「そういう問題ではないんだが。俺が浮気したのは、ゆかにも原因があるんです」
「何が言いたい?」
「あいつには色気がないです。女として終わってます」
「よくも人の大事な娘にそんなことが言えたな」
「だって事実だから仕方ないでしょ。パートして家事もして町内会の役員までやってると聞いてる。忙しくて自分に構う暇がないんだろう。断れないあいつが悪いんです」
「全てを押し付けておいて、“女として終わってる”だと。まあそうですね。お前の方が男として、いや、人として終わってるじゃないか」
「ひどい。そこまで言うことないじゃないですか」
「人には散々言っておいて、なぜ自分は怒るんだ。そういう身勝手さが今の状況を招いたんだぞ」
「うるさいです。無職の年金暮らしに説教されたくありません」
「悪かったなあ。ただ、俺も会社を売却するまではそれなりに忙しくしていたんだ」
「え?」
「妻の病気が分かって、仕事なんてしてる場合じゃないと、友人に会社を売った」
「まさか」
「そうだ。君が働いていた会社は、私が作った」
「マジすか?」
「老後に困らない程度の金は手に入れたが、肝心の妻がいない。だからせめて娘には幸せになって欲しかったのに。お前みたいな無能に捕まるなんて、がっかりだよ」
「それはすごいです。あの規模の会社にまで成長させるなんて尊敬します。今後も息子でいさせてください」
「はあ?」
「離婚は撤回します。ゆかを必ず幸せにしますから」
「何を言ってるんだ。金があると思ったら急に態度を変えやがったな」
「違いますよ。お母さんへの愛に心を打たれたんです」
「誰が信じるか」
「離婚はしません。今後も仲良くしてください。そして信頼を取り戻したら、俺にもベンツを買ってくださいね」
「頭、大丈夫か?」
「はい、絶好調です」
数分後。
「離婚届、出しちゃった」
「うん。秒で出した」
「マジか。弁護士に言われて書いちゃったけど、やめときゃよかったな」
「今更何なの?」
「じゃあ仕方ない。俺と再婚してください」
「は?」
「やっぱり、お前しかいないって気づいたんだ」
「あ、そう」
「お父さんがお母さんを最後まで愛したように、俺もゆかを愛し続けたい。3人の女性たちに訴えられたのは仕方ないが、俺とゆかとお父さんとで力を合わせれば乗り越えられると思うんだ」
「なんで私と父が助けないといけないの?」
「また家族になるから」
「熱でもある?」
「ない」
「変なもの食べた?」
「食べてない」
「じゃあ脳の病気かも。病院行きな」
「頼むよ」
「今、父からスクショが来た」
「え?」
「さっき話したそうね」
「いや、見ない方が」
「“色気がない”“女として終わってる”」
「それは違うんだ。なんていうか、お父さんの誘導尋問っていうか」
「何も誘導してないけど。圧というか。“女として終わってる”私と再婚なんてしない方がいいと思うよ」
「いや、そんなことはない」
「そりゃ数十億の売却益を手にして悠々自適に暮らしてる父の存在が惜しいのは分かるけどさ。お金のためにプロポーズされても困るのよ」
「そんなんじゃない。本気で好きなんだ」
「いい加減、適当なこと言うんじゃないわよ」
「え?」
「そうやって思ってもないのに3人の女性に結婚をちらつかせてたんでしょ」
「違うよ」
「女はね、好きになった人と一生一緒にいようって約束してもらうことが、堪らなく嬉しいの。その気持ちをもて遊んだ罪は大きいわ」
「ゆかのことも、他の3人のことも、同じくらい好きだったんだよ」
「そんなわけないでしょう。全員の気持ちに責任が取れない以上、期待させるようなことすんじゃない」
「今後は気をつけるよ」
「あんたに今後はない。全員が慰謝料請求した場合、いくらになるか想像してみた?」
「いや、全然」
「1000万近くは行くでしょうね」
「えぐすぎないか?」
「仕事も首になって、どう払うのか知らないけど」
「待ってくれよ」
「心強い弁護士さんが、“絶対に逃げられないようにしましょうね”って言ってくれてるの」
「無理だ。そんな額は無理だ」
「お母さんも逃さないから。人の大事な車傷つけておいて、悪いとも思ってないんだからね」
「本当にすみませんでした。申し訳なかったと思ってます」
「じゃあお金で示して」
「はい」
「あと、2人とも頭おかしいから病院行け」
その後、ジュンは会社から懲戒解雇処分を受けました。車内で同時に3人の女性と交際していたことが発覚し、いずれも既婚であることを隠していたことで、3人全員から慰謝料請求の訴訟を起こされました。総額は1000万円近くになると弁護士から聞いています。
式場の下見や親に合わせたことが発覚したことで決定打となり、慰謝料が跳ね上がったそうです。その後は就職先も見つからず、日雇いのバイトで食いつないでいるとか。
お母さんの方も修理代と損害賠償が確定しましたが、ジュンの賠償金1000万円を支払うために、住んでいたマンションを手放すことになったようです。親子で古いアパートに引っ越したそうですが、毎日のように言い争いが絶えず、ご近所から何度も苦情が来ていると聞いています。
自分で動かした歯車は、全部自分に戻ってきたようですね。
私はといえば、ようやく穏やかな毎日を取り戻しました。ベンツは修理から戻ってきて、今はピカピカです。毎月父と一緒にお墓参りに乗って行っています。
あの日に果たせなかった約束を、少しずつ届けていくつもりです。
今の私には、空から守ってくれるお母さんと、世界一頼もしいお父さんがいます。過去に囚われず、新しい自分として前を向いていきます。


