「お父さんが私を捨てて、若い学生と再婚したって本当?」
母は一瞬、言葉を失ったように固まった。テーブルの上で湯気を立てるコーヒーが、やけにゆっくりと時間を刻んでいた。
「…なんで、急にそんなこと言うの」
「知り合いから聞いたの。もう25年も前の話でしょ。私、離婚したとしか聞いてなかったから」
「…ごめん。あんまりにも胸くそ悪くて、言えなかったの」
「分かるけど、私ももう26歳だよ。ちゃんと受け止められるから。教えて」
母は深く息を吸い込んだ。窓の外では蝉がうるさく鳴いていた。あの日もこんなふうに暑かったんだろうか。
「…『ババアのお前が産んだガキがまともに育つか』」
「え…?」
「あなたを産んだ直後に、あの人に言われたの。私は41歳の高齢出産で、あなたの父は医者だったから、どんなリスクがあるか分かってたはずなのに」
夫が、産んだばかりの妻に、生まれたばかりの我が子に向かって、そんな言葉を吐くのか。私はただ、母の顔を見つめることしかできなかった。
「でも問題はその次よ。『医学部の学生が妊娠した。その子を大事に育てる』って言われた時は、人生で初めて白目を向いたわ」
医学部の学生? つまり、母が産んだばかりの私の存在を、あの男は「大事に育てるべき子」ではなく、自分が若い女に産ませた子と並べて語ったのか。研修中の医学生を妊娠させたという噂は、病院内でも広まったらしい。あの男は平然としていたそうだ。
「母さんは何か言い返さなかったの?」
「『そうですか』って言ったわ。そして、『覚えてろよ』とだけ言って、離婚届にサインした」
「…かっけえよ」
「で、生物学上の父親はなんて」
「『覚えてられるかよ』って鼻で笑ってたわ」
私は、子供の頃にこの話を聞かされなくて良かったと思った。当時の私なら、ただショックを受けて終わっていただろう。でも、今は違う。25年越しに知った事実は、私の中で確かな怒りに変わっていた。
数日後、私のかかりつけの医師である遠藤先生から連絡があった。彼は、私の父──あの男の医学部時代の同期だったという。昔は三人でよく遊んでいたらしい。「あいつの患者なんだってね」と言う遠藤先生に、私は父と会ってみたいと言った。すると、遠藤先生は遠慮がちに、父が私の母を「人が変わった」と語ったことを教えてくれた。
「神経症になって、毎日怒鳴り散らかしてたんだよ」
再会した病院の面会室で、あの男はしみじみと言った。25年ぶりに見る顔は、私が想像していたよりずっと老けていた。
「それは大変だったね」
「だろう? それに耐え切れずに離婚したってわけだ」
「でも、養育費すら払わないのはおかしくない?」
「俺は払おうとしたんだ。でも、いらないってお母さんが断ったんだぞ」
「…そう。真実が分かって、すっきりしたよ」
「そうか。よかった」
私は、目の前の男が嘘をついているかどうか、確かめることはできなかった。でも、ひとつだけ確かなことがある。彼は、自分が「捨てた」妻と娘ではなく、「耐え切れずに離婚した」男の物語を、自分のために紡いでいる。その傲慢さが、私の中で復讐心へと変わった。
「結婚式来る? 嫌じゃなければだけど」
彼の顔がぱっと明るんだ。「いいのか? 行くよ。是非、行かせてくれ」
数日後、彼から直接電話がかかってきた。「おい、久しぶりだな」
「…誰ですか?」
「俺を忘れるなんて。お前もついにボケたか?」
「まさか…順さん? なんで私の連絡先なんか知ってるの?」
「かずはに遠藤から聞いた。お前が遠藤の患者だって。それで『娘が結婚する』って聞いてな」
「今更、現れてどういうつもり?」
「俺が連絡したわけじゃねえよ。お前から来たんだろ? 俺の見立て通り、普通に働いて平凡に生きてるみたいだな」
「それが何か?」
「そんなにピリピリするなよ。聞いたぞ、結婚するらしいな。俺にも来て欲しいって言ってたぞ」
「なぜあんたが来るのよ。あんたには外で作った子供がいるんでしょ?」
「いるよ。うちの息子は、偉大受かって研修やってる」
「それはご立派なことで」
「結局、お前の遺伝子だったら、こうは行かなかったってことだよ」
その瞬間、私の中で何かがはっきりと音を立てて切れた。
「私は、子供を医者にするために産んだんじゃない」
「強がるなよ。親一人子一人で苦しい生活を送ってきたのは分かる。だから、結婚式の祝儀くらいは出してやろうと思ってる」
「いらない。手も口も金も出さないで」
「お前に断る権利はないだろう。かずは来ていいって言ってくれたんだから」
「あの子は忙しくて、疲れて返事したんだわ」
「そんなわけあるかよ。じゃあ、そういうわけだから、式で会おう」
母には、私が父を式に呼んだことを話した。母は烈火の如く怒った。親族が皆知っている、あの男の所業を。でも、私は引かなかった。
「お母さん、お願い。結婚式じゃないとできないことがあるの」
「復讐のためになんか使わないで」
「ごめん。それは私が決める。あいつの人生を終わらせるわ」
「何をする気なの?」
「大丈夫。式自体は絶対に成功させるし、多分着席して5分もいられないと思うから」
彼は案の定、式が始まってすぐに姿を消した。親族たちは不思議がったが、私は知っている。式場に、彼がかつて勤めていた系列病院の上司が来ていたことを。彼は事実上のクビを言い渡されていたのだ。私の夫の義父が、その病院の理事長を務めていることを彼は知らなかった。
翌日、母が聞いてきた。
「あの男、すぐに帰ったけど、なんで?」
「実はね、あいつ、うちの夫の系列病院を首になってたの」
「え?」
「その時の上司も式に来てたから、ばったり会って気まずくて帰ったんだよ」
「かずは、全部知ってたの?」
「もちろん。知らなきゃ呼ばないよ。だって、看護師3人に手を出して、1人から訴訟されて、患者からのクレームも一番多かったらしいからね。『ご心で有名で、死任が出てないのが奇跡だ』って話だよ」
母は呆れたように笑った。
「おまけに、21歳で結婚した医学生の方は、とっくの昔に離婚してるみたい」
「…誰に聞いたの?」
「遠藤先生。でも、息子が医学部受かって研修だって自慢してきたけど、それもおかしな話でね。医学部の学費は、奥さんの実家が医者一族だから全部出してくれたらしいよ。自慢する権利もないわけよ」
「相変わらず女癖が悪くて、うつは上がらない…どうしようもないクズだってことね」
私は、母の目を見た。
「もう十分よ。これで終わりにしましょう」
「冗談じゃないよ。私が小学生の頃、お母さん、働きすぎたよね」
「あの時はごめんね。自己管理ができてなかったの」
「家に帰ったら、いつもお母さんがいるって聞いて、驚いた。それで、夜ご飯食べたら、またすぐに働きに行って、それで倒れたんだよ。あの時、私は決めたの。もしお母さんに何かあっても、絶対に自分が助ける。そのために医者になるって」
母は目を丸くして、それから寂しそうに笑った。
「そうだったの。嬉しかったわ」
「…お母さん、具合、悪いんでしょ?」
母の顔から血の気が引いた。
「何言ってるのよ。お母さんは元気よ」
「この間、帰った時、薬の袋を見た。あれは、がん患者しか飲まない薬だよ」
母は、しばらく沈黙した後、小さく息を吐いた。
「…見たのね。どうしてわざわざ隣町の病院なんて行くの?」
「結婚式の前に、余計な心配かけたくなくて」
「余計って何なのよ? 子が親を心配することの、何が悪いわけ? 黙ってたのはごめん。でも、父さんへの復讐は違う。そんなことしても、私は嬉しくも何ともない」
「分かってるよ。でも、私はあいつを許せない。あいつが地獄に落ちない限り、お母さんに振りかかる不幸は全部あいつのせいだと思ってしまうんだよ。ごめんね。最後まで黙ってればよかった」
「…どっちみち、遠藤先生から聞いたから」
その後、私は母を説得して、義父の病院で精密検査を受けさせた。結果は、幸いにも切除可能ながんで、早期発見だった。母は何度も「あんたって子は本当に」と言いながら、手術を受けることになった。
数日後、事件は起きた。あの男が私の家に乗り込んできて、母に激高した。
「かずはのせいで、根も葉もない噂が広まって、俺はどこの病院にも最終職ができないんだぞ!」
「だからって、なんでかずはに手をあげたのよ!」
「あいつが裏で動いてるのは分かってるんだ! 冷静に考えりゃそうだよ。25年ぶりに連絡してくるなんて、復讐以外ないもんな。騙された俺がアホだ!」
私は、頬を押さえて床に立っていた。唇の端から血が滲んでいる。目の前で、母が彼を睨みつけている。
「よくも大事な娘に怪我をさせたわね」
「愛したことねえよ。張り手をお見舞いしただけだ。唇が切れて出血してるが、3日もすりゃ治る。医者が言うんだから間違いない」
「どうしようもないクズね。よくそんなんで医者やってられるわ」
「頭がいいんだから仕方ないだろう。世の中のアホどもが受からない試験に受かり続けてきた結果なんだよ」
「そんな心志しの意思に見てもらう患者さんがかわいそうね」
「うるせえよ。被害届けは出す。あなたは終わる」
「勝手にしろ」
私は、平静を装って言った。でも、心の中は震えていた。母が私の代わりに怒ってくれている。その姿を見て、私は決意した。
母は後で言った。「かずはが復讐みたいなことを言い出した時、私は大反対した。こんなことになる気がしてたのよ」
「いいえ、かずはが正しかった。あんたみたいな外虫は、徹底的に叩いて潰しておくべきだったのよ」
「はあ。お前に何ができるんだ?」
「私にはできることはないかもしれない。でも、かずはは違う。私への愛情と、あなたへの憎しみを同じ分量持っているわ。それがどれだけの大きさか、あなたには分からないでしょうね」
「だな。知ったこっちゃねえわ」
「覚悟しておくことねえ。言っておくけど、今更謝ったって無駄よ。一生、あなたを許さない」
「石免許持ってれば、怖いことなんてねえよ。お前なんかにビビると思うな」
翌日、私は警察に行き、傷害の被害届を出した。そして、あの男に最後の引導を渡すため、会いに行った。
「お父さんに殴られて、いい記念になったよ」
「親を殴るなんて、さすが、あの無能が育てた娘だな」
「へえ。無能な母が、娘を偉大に行かせて、医者になるまで支えられると思ってるの?」
「…どういうことだ?」
「私、医者だよ。まだ研修だけどね。ちなみに、高一郎君とは同じ医大の同期だけどね」
「ちょっと待て。嘘だろ」
「世間は狭いね。私たちを捨てた父親と同じ苗字の人がいたら、そりゃ気になるじゃん。だって、ち~マスなんて滅多にないしね」
「そうか。医者になったのか。俺の遺伝子のおかげだ。感謝しろ」
「冗談やめてよ。私は、父親が医者だなんて知らなかったよ。お母さんが過労で倒れて、私が絶対に助けるって気持ちで猛したの。あんたの影響なんて、1ミリもない」
「俺の頭の良さが遺伝したんだ」
「お母さんも医学部だったんでしょ?」
「そうだが、あいつは中退した。じいちゃんの会社が倒産したからって聞いた」
「そういう運すらない女なんだよ」
「ちなみに、頭の良さは母親からしか遺伝しないっていう研究結果もあるらしいよ」
「そんなことはない」
「まあいいや。職につけなくて困ってるんだよね。うちの義父の病院で雇ってもらえるよう、頼んであげようか?」
「ああ、必要ねえわ。お前の義実家に何ができる?」
医療法人劇場会。私はその名を告げた。
「そこの息子が私の夫なんだけど。不要だったかな?」
彼の顔色が、一瞬で変わった。
「…お前、あんなところにとついたのか?」
「式場の案内見なかった? 『林し』って書いてあったでしょ?」
「あんなよくある苗字で、気づくわけないだろう」
「義父に聞いたよ。しばらくうちの系列にいたんだって。しかも、患者さんから訴訟を起こされた途端に、突然逃げたらしいじゃない。適当な診察。セクハラにパワハラのオンパレードだったらしいね。本当に医者の風上にも置けないわ」
「長年医者やってりゃ、色々あるんだよ。研修医ごときが偉そうに言うな」
「でも、その研修医ごときの助言で、近隣の病院に義父が伝えてくれたから、就職先がなくなったみたいだけど、大丈夫そう?」
「お前、母親にそっくりだな。生意気で傲慢で、謙虚さもなくて」
「褒め言葉です。大好きな母に似てるって言われて嬉しい」
彼が激昂する前に、私が続けた。
「あなたが逃げた後、病院では調査が行われたの」
「何の調査だよ」
「まあまあ、落ち着きなよ。ここからが面白くなるんだからさ。さっさと言え」
「診察中の女性患者に、猥褻な行為をしたよね」
「…するか」
「へえ。おかしいなあ。看護師と患者さんの証言が、一致してるんだけど」
「知らん。覚えてない」
「それでも、厚労省の移動審議会によって審議されて、アウトになれば、あんたは終わるよ」
「ちょっと待ってくれ。厚労省まで持ち出すのは、違うだろう」
「違わないね。あんたがやったことは、医者としてというより、人として、道に反することばかりだから。この免許を奪われたら、俺は生きていけない」
「知るか。私のお母さんは、あんたに捨てられて、もう生きていけないって状態から、私を育てあげて医大まで行かせたんだよ。夫婦には色々あるんだ」
「あんたが若い女に溺れただけでしょ。同期の子に罪はないけど、父親がいない子を2人も作ったのは、確実にあんたの罪だからね」
「かずは、ごめんな。父さん、お前から連絡が来て、嬉しかったんだ。で、息子とも疎遠になって、娘と繋がれたことが嬉しかった。この25年、果たせなかった父としての役割を、今から果たさせてくれないか?」
「そんなもん、こっちは求めてないから」
「頼む。俺は真面目にやれば、そこそこいい医者なんだ。お前の義実家で雇い直してくれないか?」
「訴訟になってる医者なんて、雇うわけないでしょ」
「そう言わずに頼んでくれよ。お前の義父なら、温情をかけてくれるかもしれないだろ」
「娘の私が、義父に一切の温情はいらないから、徹底的にやってくださいよ、って言ってあるよ。なんで、あんたは、お母さんが昼も夜も働いて、私に無理やり作った笑顔を向けてたこと、知らないでしょ」
「悪かったって言ってるじゃないか」
「そんな薄っぺらい謝罪で済むほど、こっちの25年間は、余裕あるもんじゃなかったんだよ」
彼は、何か言いかけて、口を閉じた。私は、静かに告げた。
「お母さんは、癌になったんだよ」
「…え?」
「因果関係なんて証明できないけど、私を医大に入れるまで、相当なストレスと過労があったと思う。それを、一応の医者として否定できないんだよ」
「それは、関係ないと思うぞ」
「自分の食事や睡眠もままならない生活を送ってたのよ。本当に関係ないと言いきれる?」
「それはまあ、若干生活習慣は影響するかもしれないけど、俺のせいというのは暴論すぎないか?」
「もういいよ」
「許してくれるのか?」
「なわけないでしょ。あんたなんか、もうどうでもいいって言ってるの。そこに落ちてくれたら、それでスッキリするから。今後は一切連絡してこないで」
「おい、待てよ。お前しか頼れる人間はいないんだよ」
「このクズが。お前なんか、2度と診療すんな」
「かずは、頼む。話を聞いてくれ」
私は、その場を立ち去った。背後で、彼が何か叫んでいたが、聞こえないふりをした。
その後、彼から何度もLINEが来たが、全て既読無視してブロックした。母は「あいつが俺に連絡してきたんだぞ。復讐のためでしょ」と呟き、遠藤先生に問い詰めたらしい。遠藤先生は言ったそうだ。「かずはは、あんたに復讐してるんじゃない。あんたの幸せを守ってるんだ」って。
母の手術は成功した。私は、回復した母と、温泉旅行に行った。入籍前の私と夫と一緒に。そこで、母は言った。
「あんた、本当に頑張ったんだね。あの男を医者にするなんて、並大抵の努力じゃなかったはずだ」
「今更褒められても困るんだけど」
「お前、頑固だね」
「だったら何?」
「…検査結果、見せてみろ」
「結構です。私の情報は、何であろうと渡したくない」
「俺も、一応内回の医者だ」
「端っこすぎて見えないわね」
母は、私の目をじっと見て言った。
「心配なんだ」
「あなたに心配されるくらいなら、この命を失った方がまだマシだわ」
「そんなことを言うな」
彼女の声が、少し震えていた。私は、熱い湯に浸かりながら、母の手を握った。二度と離さないように。
あの男は、その後、結果的に患者や看護師、後輩医師から数々の訴訟を起こされ、損害賠償請求の結果、多額の負債を抱えることになった。医師免許も剥奪された。私は、25年も前のことで慰謝料請求する知識もなく、もやっとしたまま過ごしてきたけど、元夫の転落を肴に、娘と酒を酌み交わした。
「今日は高いシャンパン買ってきたよ」
「何回寿ぐのよ」
母は笑った。手術痕はすっかり綺麗になり、今では友人たちと小旅行を楽しんでいる。「働いて動いて気を揉み続けてきた人生だったから、こんなにゆっくりできる日が来るとは思わなかったわ」と、母は少し戸惑いながら言う。それでも、神様はこの時間と、素晴らしい娘をくれたのだと思っているらしい。私は、このまま母と穏やかな時間を過ごしていくのだろう。



