携帯が鳴って、画面に「母」の文字が見えたとき、私は何気なく電話に出た。それが、すべての始まりになるとは知らずに。
「裕二、私、真金梗速になったみたいなの」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「は? 何それ? マジで言ってるの?」
「うん。いきなり胸が痛くなってね。救急車で病院に行って検査を受けたら、真金梗速だって言われちゃって」
真金梗速。それはかなりの大病だ。冗談では済まない。
「今は点滴をしてもらったから状態は安定しているの。でも、明後日、バイパス手術を受けないといけないって言われたわ」
「手術? しかも明後日?」
「そうなの。じゃないと命の危険があるからって」
頭が真っ白になった。でも、すぐに現実がのしかかってくる。明後日は、あのハワイ旅行の日だ。俺たち夫婦は、ずっと前からこの日を楽しみにしていた。
「大丈夫だよ。手術をすれば治るんだろ?」
「分からない。でも、手術なんて初めてで……病院は苦手なの。お父さんが亡くなった時の記憶があるから、入院するのだって本当に怖いわ」
「大丈夫だよ」
「裕二の顔が見たいわ。病院には来られない?」
その言葉に、胸が痛んだ。でも、俺には無理だと言うしかなかった。
「悪い。それは無理なんだ。仕事が忙しくて」
「手術の日は?」
「行きたい気持ちは山々だよ。でも、無理なもんは無理だ。休んだりできないか?」
「それは無理だよ。俺の状況は知ってるだろう。今だってカツカツの状況でやってるんだ。仕事を休んだら生活ができなくなる」
「そんな……」
「大人なんだから、しっかりしてくれよ。それに、俺だけじゃなくて勝彦がいるだろう。あいつは独身で好き放題してるんだから、お見舞いくらい来られるだろう」
「勝彦はそうかもしれないけど……もし、会えるのは最後になるかもしれないのよ」
その言葉に、一瞬戸惑った。でも、ハワイの計画が頭をよぎる。
「それはそれで、仕方ないって」
「仕方ないなんて、言わないでよ」
「とにかく俺は今の生活を守るのに精一杯なんだ。母さんのことまで考える余裕はない。俺は国子のことだって守らないといけないし」
沈黙が流れた。そして、母は小さく呟いた。
「分かった……そうよね。ごめんなさい」
「きつい言い方しちゃったけど、俺だって行きたくないわけじゃないんだ。仕事だからしょうがないって言ってるんだ」
「うん。無理しないで頑張ってね」
電話を切った後、少しだけ罪悪感が残った。でも、ハワイのことを思うと、その気持ちはすぐに消えていった。
三分後、勝彦の方にも連絡がいったらしい。母は、俺の代わりに勝彦に病院に来てもらえることになった。勝彦は仕事を休んででも来ると言ってくれたらしい。母はそれで安心したようだった。
五分後、国子がハワイ旅行の話を母に電話でしているのを、俺は後から知った。国子は母に、旅行のことを誇らしげに話したらしい。母は、俺が「仕事」と言って断ったことを告げた。すると国子は言ったという。
「へえ、そんなことがあったんですね。でも、断って普通だと思いますよ。どうしてわざわざ私たちがお見舞いになんて行かないといけないんですか? お母さんが手術しようが、うちらに関係ないんで」
「ひどい言い方ね」
「そりゃ血のつがりもないんだから当然でしょう。うちの両親が手術するんだったら、当然旅行なんて全部キャンセルしますけど」
「あなただったら、しないんじゃないの?」
「そう。分かっていただけて本当に嬉しいです」
さらに国子はこうも言ったらしい。
「じゃあお土産はどうしましょうかね? 買ってきても、お母さんがあの世にいるんじゃ渡せないんで、なしでいいですか?」
「そんなことがよく言えるわね。冗談で済まされるようなことじゃないわよ」
「冗談じゃないですよ。本気で言ってるんです。少しでも節約をしておきたいんです」
それを聞いた母は、ただ「分かったわ」と言っただけだったそうだ。
十分後、俺の携帯が鳴った。母からだった。
「仕事っていうのは、嘘だったのね」
「は? 何だよ」
「さっき国子さんから連絡があったのよ。そうしたら、あなたがハワイに行くって言ってたわ」
一瞬、言葉に詰まった。隠し通せると思っていた。
「ああ、そうだよ。何か問題でもあるのか? 俺が行かないことが、そんなに悪いことか?」
「別にそのことを怒ってるわけじゃないの。でも、どうして嘘なんてつくのよ。ハワイ旅行に行くからって言ったら、どうせあなたグチグチ言ってくるだろう」
「俺たちがこの日をどれだけ楽しみにしてたか。あんたのせいで気分が台無しだよ。変なタイミングで病気になんてなりやがって。もっと俺たちのことを考えてくれよな」
「私だって、なりたくてなったわけじゃないわよ。うるせえなあ。頼むから手術が失敗して死ぬなんてことは勘弁してくれよ。そうなると、いよいよ帰国しないといけなくなるだろうから」
「どうして、そんなひどいことを言うの? 私のことは何にも心配してくれないの?」
「俺たちは自分のことだけで精一杯なんだよ。あんたがどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
「そう。あなたがそう言うなら、仕方ないわ」
「俺たちの邪魔だけはするな。もう極力俺たちに関わらないようにしてくれよ」
「それが、あなたの本音なのね」
「そうだ。俺は父さんには色々と感謝してるが、別にあんたには何の感謝もしてないから。俺たちの生活を支えてくれたのは父さんだよ」
「もういいわ。これ以上、何も聞きたくない」
「そうかよ。それじゃあな」
電話を切った。母の泣き声が聞こえた気がしたが、無視した。ハワイのことが頭の中を占めていた。
一ヶ月後。ハワイ旅行から帰ってきて、日常に戻った頃、母からではなく、俺の方から電話をかけた。仕送りが止まっていたからだ。
「おい、これはどういうことだ?」
「あら、何よ。あなたから連絡するなんて珍しいわね。もしかしてハワイのお土産でもくれるのかしら?」
「憎まれ口叩けるくらいには回復したみたいだな」
「おかげ様で。手術は無事に成功したのよ」
「そんなことはどうでもいいんだ。仕送りを止めたな」
「そうね。それがどうかしたの?」
「俺が父さんから毎月もらっていた仕送りを、あんたが止めたんだな」
「それが何か問題?」
「当たり前だろ。どうしてこんなことをするんだよ。仕送りは俺と父さんとの間でやってたことだぞ。それをなんで止めたりするんだよ」
「それはもちろん知ってるわ。でもお父さんはもう天国に行っちゃったの」
「だとしても、仕送りは続けるようにって言われたんだろ。俺たちが困ってるなら助けてあげてくれってさ。どうしてそんな父さんの思いを踏みにじるようなことをするんだよ」
「よくそんなことがあんたに言えるわね。自分が見舞いに来られなかったからって、仕送りを止めるなんてひどいよ」
「まず最初に伝えておくけど、仕送りをしていたのは私よ」
「は? 何を言ってるんだよ」
「父さんのお金を送ってるって思ってるみたいだけど、それは大きな間違いだから。私が自分で働いて、そのお金を仕送りに使ってるの。あなたの生活が大変だと言うからね」
「母さんが父さんの遺産じゃなくて?」
「違うわ。そんなことは私、できなかったから」
「なんでだよ」
「父さんの遺産は、あなたたち兄弟で分けるべきものよ。それなのにあなただけがもらってるのは不公平でしょ。でも、あなたは生活が大変だと言ってたから、代わりに私が仕事をして仕送りをしていたのよ」
「そんなことをしてたのか……そうよ。父さんの資産や保険金とかは一切手をつけてない。私が受け取ってはいるけど、できるだけ多くあんたたちに渡してあげたいと思っていたから」
「だとしても、なんで仕送りをくれないんだよ。嫌がらせみたいな真似はするなって」
「嫌がらせなんて、私はしてるつもりはないわ」
「じゃあなんで仕送りを止めた? 俺が見舞に行かなかったことを怒ってるからだろ?」
「違うわよ。もう、あなたには必要ないと思ったからよ」
「はあ? どこが?」
「生活に困ってるから仕送りをしていたのよ。それなのに、どうしてハワイになんて行けるの? ハワイ旅行はすごくお金がかかることでしょ。どうしてそんなことが可能なのか、教えてよ」
「いや、それは少ない額をちょっとずつ貯金して……」
「それでハワイに行っただけだろ。俺たちはそんなこともすることはダメなのか?」
「貯金ができてるってことは、余裕があるってことじゃない」
「そんな揚げ足を取るなよ」
「揚げ足じゃないわ。あなたがそう言ったのよ。ハワイに行けるくらいの貯金が作れるんでしょ。だったら、私の仕送りなんて不要じゃない」
「マジかよ……」
「これからは仕送りなしで生活をしていきなさい」
「待ってくれよ。ハワイ旅行に思ったよりも金がかかったんだ。当初予定していた予算を大幅にオーバーしちゃって、今の稼ぎじゃ到底払えないんだよ」
「そんなの知らないわ。自分たちで何とかしなさい」
「俺たちを見捨てるのか?」
「私たちはもう赤の他人だって、国子さんが言ってたわよ」
「国子が? そうよ。他人の私がどうなろうと知ったこっちゃないってね」
「俺は違うよ」
「じゃあ、なんで私のことを騙したの? 最初からハワイ旅行だって言わずに、騙そうとしたのはなんで? 私のことなんて騙してもいいくらいの、どうでもいい存在だって思ってたからじゃないの?」
「考えすぎだって」
「とてもそうとは思えないわ。あなたの行動は、血のつながった息子のやることじゃない。だから、私はあなたのことを他人だって思うようにしたから」
「おい、マジかよ……」
「他人に仕送りなんてする必要はないわ。それじゃあ、さようなら」
電話は一方的に切られた。
三十分後、今度は弟の勝彦に電話をかけた。
「勝彦、大変なんだ。母さんと連絡が取れるように、間を取り持ってくれ」
「何? 金の無心でもするつもり? 十分騙し取ったから、もういいだろ」
「母さんから聞いたのか?」
「ああ、手術が終わった後にね。俺はそれまで、あんたが仕送りをもらってることすら知らなかったよ」
「そうか……知らなかったのか」
「おかしいと思ったんだよ。父さんが亡くなってから母さんがパートをし出してさ。生活に困ってるのなら俺が面倒見ようかって言っても、ごまかされてたから。何かあるなとは思ってたけど、まさかあんたのためだったなんて」
「いや、それはちょっと生活に困ってて……」
「それは別にしょうがないと思うよ。でも、そこまで面倒見てくれた人が命の危機だって言うのに、よくハワイ旅行なんて行けるよな」
「どうしてもハワイだけは行きたかったんだよ。本当に楽しみにしてたんだ」
「ハワイなんて、その気になれば後からでも行けるだろう。でも母さんとは、もう会えないかもしれなかったんだぞ。それなのに、なんで旅行の方を選べるんだよ。あんた、どうかしてるぞ」
「いくらかかってると思う? 今回の旅行のために俺がどれだけ金を使ったか。それなのに、なしになんてできるわけないだろう」
「それだって、母さんの金だろ。そんなもんが言い訳になるか」
「それはそうだけど……」
「それに、金と母さんの命で、なんで金を選べるんだよ。あんたはその程度にしか母さんのことを思ってなかったってことだろ。親を大切にできないやつを、俺は家族だとは認めないからな」
「ちょっと待ってくれ。母さんともう一度だけ連絡をさせて欲しいんだ。全部払って話ができないんだよ。俺の気持ちをもう一度だけ伝えさせてほしい」
「そんなことする必要はない。あんたがいくら口でいいように言っても、あんたの行動が家族をどう思ってるかを物語ってるんだ。そんなやつの手助けなんて、俺はしない。二度と実家にも近づくんじゃないぞ。もしそんなことをしたら、俺があんたを力づくで追い出してやるからな」
翌日、今度は国子が勝彦に電話をかけていたらしい。勝彦が言うには、国子が両親に告げ口したことで、国子の両親からも縁を切られたらしい。
「どうしてこんなことをするのよ」
「そっか。あなたもブロックしておかないとダメだったわね」
「ふざけるな。逃げるんじゃない」
「別に逃げてないわ。どうせお金のことでしょう。そんなことに付き合うのは面倒なだけよ。何を言われてもこっちの気持ちは変わらないからね」
「別に仕送りの件はどうでもいいのよ」
「じゃあ何? あんた、うちの両親に余計なことを吹き込んだでしょ」
「ああ、そういうことね。昨日お土産を渡そうと連絡したら、『もう二度とうちの敷居をまたぐな』ってブチ切れられたのよ。確かに二人ともすごく怒ってたからね」
「あなた、告げ口なんて最低な真似よ」
「さすがに私だって、そんなことまでしてないわ」
「じゃあ、なんでよ」
「手術の前日に、あなたのお母さんから連絡が来たの。我家顔合わせで会って以来、とても仲良くなってね。ちょくちょく連絡を取っていたのよ」
「仲いいのは知ってたけど……」
「その時に手術をするって言ったら、わざわざ当日に夫婦でお見舞いに来てくれたの。その時に、あなたたちがいないことを知って、勝彦に詳しい話を聞いたんだって。それを聞いて、二人ともすごく怒っててね。手術が終わってから直接謝罪もされたわ。それで私は縁を切られたの」
「あら、そうなの?」
「お父さんがそう言ってるって」
「しょうがないわね。お父さんの判断だから、従った方がいいんじゃない?」
「ちょっと待ってよ。どうして私がこんな目に遭うのよ」
「家族を大切にできないからじゃない。あんたなんて他人よ。そうやって、いろんなことをするから、本当の家族からも縁を切られるのよ」
「ふざけるな」
「私に怒られても困るわ。話をするのなら、直接島田さんたちにした方がいいわね。まあでも、聞いてくれるとは思わないけどね」
「これからどうしたらいいのよ。裕二が金に困ってても、私はいざとなったら離婚して実家に帰れば済むと思ってたのに」
「あなたって、本当に色々な人と縁を切るわね。それってあんまりいい趣味とは思わないわよ」
「趣味なわけないでしょ」
「うん。まあ、どちらにしてもあなたがどうなろうと私は知ったこっちゃないわ。もう私たちは赤の他人だから、連絡はできないようにするからね」
「待ちなさいよ。仕送りの話をしましょうよ」
「いやよ。他人のあなたに話すことなんて、何もないわ」
二週間後。今度は俺のところに、母から電話がかかってきた。
「裕二、仕送りのことで話があるの」
「また送ってくれるのか?」
「違うわよ。誰がそんなことをするもんですか」
「じゃあ、何だよ」
「今まで仕送りで送ってたお金を、返還してもらおうと思って」
「は? 何を言ってんだよ。返還だと」
「そうよ。きっちり全額返してもらうわ」
「ふざけるな。そんなもん返すか。あれはあんたたちが俺にくれたもんだろうが。それを返せなんて意味が分かんねえんだよ」
「これは弁護士さんとも相談して決めたことよ。あなたの家に内容証明郵便で請求書を送らせてもらった。ちゃんと返還をよろしくね」
「なんでだよ。そんなこと許されるわけがあるか。裁判でも何でもしてやるからな」
「そう。でも、あなたは負けると思うわよ」
「なんでだよ」
「だって、あなた私たちを騙して仕送りを受け取ってたでしょ」
「何を言ってるんだ? ハワイ旅行に行ってただけだろ」
「だから、あれは時間をかけて貯金をしたんだ。でも、国子さんがおかしなことを言ってたわ。『ハワイは行きに行ってたから、今回はオアフに行ってみようと思う』ってね。なんだかハワイによく行ってる人みたいな口ぶりよ」
「それは見栄を張ったんだよ」
「そう。実はあなたたちのSNSを見つけさせてもらったわ。夫婦でアカウントを持ってるのね」
「嘘だろ? なんでだよ」
「私はこういう今時のことは知らないんだけど、勝彦が見つけてくれたのよ。そうしたら、あなたからかなり裕福な暮らしをしてるわね。高そうなブランド物を買ったり、二人で高級レストランに行ったって自慢してたわよね。あんなの、普通に働いてるだけじゃ無理よ。私たちのお金を、こんな無駄なことに使うなんて。これで、生活に困ってるってお父さんに泣きついたのも嘘だったってことが証明されたわ」
「だから返せってことか」
「そうよ。私たちはあなたたちの生活のために仕送りをしていたの。無駄遣いをさせるためじゃないわ」
「昔のことだろ。グチグチ言うなよ。親子なんだから、金をくれるくらい普通だ。それを返せなんて、情けないことを言うなよ」
「私は、自分が騙されてただけなら何も思わなかった。でも、あなたはお父さんのことも騙したわ。お父さんは病気で入院してる時も、ずっとあなたのことを心配していた。私にも、あなたのことを守ってやってくれってお願いをしてきたわ。なのに、それが全て嘘だった。お父さんは騙されたまま天国に行ったのよ。こんなことをされたら、私だって黙ってはおけないわ。二度とあなたとは関わりたくなかったけど、やったことの責任だけは取らせるから」
「ちょっと待ってくれ。金はもう払えないって。今までの仕送り金額って、とんでもない額だぞ」
「そうよ。あんたはそれを騙し取ってたの」
「俺たちの生活がどうなってもいいのか?」
「他人がどうなろうと、知ったこっちゃないわ」
「頼むよ。一度話だけでもさせてくれ」
「やめてよ。何かあるのなら弁護士を通して。お願いだから、だるい連絡はしてこないでね。私はこの救われた命を、この先の人生を満喫するつもりだから」
その後、私は友人に今までの仕送り全額の返還を請求しました。そのせいで、友人の生活は経済難になってしまったそうです。こんな時にこそ、私たちを頼りにすればよかったのに、もう私たちはいません。となると、頼れるのは消費者金融だけでした。結果、今は多額の利息を返済するために昼夜問わず仕事をしているとのこと。今の状態であれば、お見舞いにも来られないと言われたら、仕方ないなと思うんですけどね。
ちなみに、国子さんは借金だらけの裕二と離婚して、一人で生活を始めたみたいです。ただ借金がないだけで、生活は苦しいようですね。近所の喫茶店にはパンケーキが置いてあるそうですが、それすら今は食べることもできず、いつも眺めることしかできないと聞いています。
一方の私は、無事に退院をして元気に生活しています。一度死に直面したことで、人生感が大きく変わりました。夫を亡くして後ろ向きになっていたのですが、命があるのなら、たくさんの思い出を作りたいと思うようになりました。いつか天国に行って、夫にたくさんの土産話をしてあげたいなと思っています。



