「バイキが映るから触っちゃだめ」
孫の口から出たその言葉に、私の時間は止まりました。
36年間、図書館で司書として働いてきました。日本の清潔さを保ち、子供たちに読み聞かせをすることが私の誇りでした。その日も仕事を終えて帰宅すると、2階から孫の芽衣ちゃんが階段を降りてきます。
「おばあちゃん、ただいま」
満面の笑顔で駆け寄ろうとする芽衣ちゃん。私も思わず両手を広げようとした、その瞬間です。
「芽衣、だめって言ったでしょう」
息子の嫁、理沙さんが慌てて階段を降りてきます。
「でも、おばあちゃんに会いたくて」
「おばあちゃんにはバイキがいっぱいついてるの。触ったら芽衣ちゃんも病気になるわよ」
その言葉が玄関に響き渡りました。芽衣ちゃんが困惑した表情で私を見つめる視線が、胸に突き刺さるように感じました。
36年間、清潔を何より大切にしてきた私が、バイキ扱いされる。信じられない現実が目の前で起きています。
私は中村道代、市立図書館で36年間司書として務めてきました。本を愛し、清潔を何より大切にする職場です。手洗いと消毒は欠かしません。一度も病気をしたことがないのが、私の小さな誇りでもあります。
6年前、息子の年明さんが理沙さんと結婚した時、心から喜びました。世帯を立てる際には、貯金の中から800万円を頭金として出しました。
「母さん、ありがとう。この家で幸せに暮らすよ」
息子の笑顔が嬉しくて、これからも支えていこうと心に誓いました。5年前には孫の芽衣ちゃんが生まれます。泣いた時のぬくもりは、今でも掌に残っているように感じるのです。
それから毎月15万円の生活費を援助し、保育園代も全額負担してきました。週に5日は夕食の準備もします。理沙さんの仕事が遅いからと、喜んで引き受けていたのです。
でも、半年前から理沙さんの態度が変わり始めます。ママ友の会話を偶然耳にしてしまった日のことが忘れられません。
「義母なんだ。一緒って大変じゃない?」
「正直、古臭いこと言うし、面倒臭いんですよね」
その言葉に胸が締めつけられるような痛みを覚えます。それでも私は家族のために我慢を続けてきました。
理沙さんの態度は日に日に冷たくなっていきます。ある日、洗濯物を干そうとすると、理沙さんが私を呼び止めました。
「お母さん、これからは洗濯も別々にしますね」
「え、どうして?」
「だって、図書館って古い本の匂いがつくじゃないですか。芽衣の服に匂いが映ったらかわいそうで」
図書館の本は定期的に清掃され、衛生管理も徹底されています。それなのに不潔だと決めつけられる。言葉にできない屈辱が胸の奥に広がっていくのを感じました。
翌週には、食器の件でも言われます。
「申し訳ないんですけど、食器も分けていただけますか?衛生面でやっぱり気になっちゃって」
毎日きちんと洗っている食器です。それでも分けられる。まるで私が汚れているかのような扱いに、悲しみが込み上げてきます。
さらに辛かったのは、芽衣ちゃんとの触れ合いを制限されることでした。
「おばあちゃんは今日お仕事だったから、手洗ってからね」
すでに手を洗い消毒もした後なのに、理沙さんは必ずそういうのです。芽衣ちゃんが私を見る目に、少しずつ戸惑いの色が混じり始めます。
そして、理不尽さはさらにエスカレートしていきました。理沙さんが友人たちを家に招いた日のことです。リビングから楽しそうな声が聞こえてきます。
「素敵なお家ですね」
「でしょう。ま、義母がいるのが難点だけど」
小声で言っているつもりなのでしょう。でも、台所にいる私の耳にはっきりと届いてしまいます。
「あ、同居なんですね。それは大変」
「図書館の司書なんですけど、古い本の匂いがして」
クスクスと笑う声が響き、私は手にしていた茶碗を落としそうになりました。友人の前で笑い物にされる。その事実が私の心を深く傷つけていきます。
さらには追い討ちをかけるように、芽衣ちゃんへの洗脳が始まっていました。
「ママ、おばあちゃんと遊びたいな」
「だめよ。おばあちゃんは古い本ばかり触ってるからバイキがいっぱいなの」
「バイキ?」
「そう。だから触らない方がいいの。病気になっちゃうから」
純粋な孫に恐怖心を植えつける。孫との絆を意図的に壊そうとしている。その事実に気づいた時、怒りよりも先に深い悲しみが心を包み込みました。
ある日、2階から息子夫婦の会話が聞こえてきました。
「母さんのこと、そんなに言わなくても」
年明の声です。やっと息子が私を守ってくれると思った瞬間でした。
「あなた、分かってないわね。子供の健康が第一でしょう。それにお母さんって時代遅れじゃない。何でも口出しするし」
「でも、色々援助してもらってるし」
「お金を出すのは当然でしょう。孫がいるんだから援助は当然」
そう言い切る理沙さんの言葉に、息子は何も言い返せません。私の献身は彼らにとって当たり前のことになっていたのです。
そして、決定的な出来事が起こります。ある日、理沙さんが保健所に電話をしているのが聞こえてきました。
「孫が体調悪いんです。もしかして同居の義母が図書館で働いてて衛生面が心配で。でも古い本ってカビとか」
保健所に通報しようとしている。私の職場を不潔だと訴えようとしている。その事実に、全身が震えるような怒りを覚えました。
近所でも噂が広がっていきます。
「道代さん、お孫さん可愛いでしょう」
「え、でも最近はあまり」
「あら、お嫁さんが遠ざけてるって聞いたけど、衛生面がどうとか。図書館って清潔な職場なのにね」
理沙さんが近所に悪評を広めていた。36年間、真面目に働いてきた私の評判が傷つけられていく。
そんなある日、保育園から帰ってきた芽衣ちゃんが小さな声で言いました。
「先生が本は綺麗って言ってた」
「そうよ。おばあちゃんの図書館はとっても綺麗なのよ」
「でも、ママが」
「芽衣ちゃん?」
「おばあちゃんにはバイキがいるから触っちゃだめって」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れていくように感じました。孫の絆さえも壊されようとしている。もうこれ以上は耐えられない。そう思い始めていたのです。
その日、私は体調を崩して図書館から早退しました。玄関の鍵を開けて家に入ると、2階から理沙さんの声が聞こえてきます。誰かと電話をしているようです。
「そうなんです。実は相談があって」
足音を立てないように、階段の下で立ち止まってしまいました。
「義母のことなんですけど、ちょっと心配で。最近、芽衣に変な執着を見せるんです」
執着。その言葉に心臓が凍りつくような感覚を覚えます。
「抱きしめようとしたり、無理に触ろうとしたり、私が止めても聞かないんです」
そんなことはありません。私は芽衣ちゃんが嫌がることなど一度もしたことがないのに。どうしてこんな嘘を?
「虐待とまでは言いませんが、芽衣も最近おばあちゃんを怖がってて」
虐待。その言葉が私の耳に突き刺さります。全身の血の気が引いていくのを感じました。
「ですから、一度専門家の方に相談したくて。高齢者のそうですね、とかそういう可能性も。認知症」
私を認知症扱いしている。
「できれば早めに施設とか検討した方がいいかなと」
施設に入れようとしている。私をこの家から追い出そうとしている。膝が震えて、立っているのがやっとでした。
その夜、私は夫の忠雄に全てを話します。
「もう限界だ」
「道代、お前は十分我慢した」
忠雄は怒りを隠しきれない様子で、息子の年明を呼びました。
「年明、お前、理沙さんがどんなことを言ってるか知ってるのか?」
「母さん、聞いてたの」
息子の顔に浮かぶのは驚きではなく困惑の色です。まるで聞かれたことが問題だと言わんばかりの表情でした。
「虐待、認知症、施設。私が何をしたって言うの?」
「母さん、理沙も心配してるだけで」
その言葉に、私の中で何かが音を立てて切れていきます。
「心配?嘘でしょう。私を追い出したいだけじゃない」
そんなこと、夫の忠雄が口を開きます。
「年明、お前、理沙さんの言いなりになってるだけだろう」
「父さんは黙っててよ」
息子が父親に怒る。今まで見たことのない光景に、私は言葉を失いました。
「あなた、母親より妻の方が大事なの」
静かに問いかけると、年明は視線をそらします。
「そういうわけじゃないけど、理沙も色々大変で。母さん、もう少し配慮してくれたら」
配慮?私が配慮が足りないというのですか?
「配慮?私がどれだけ配慮してきたと思ってるの?800万円も出して、毎月15万円も援助して」
「金の話を持ち出すなんて、母さんらしくない」
その言葉が私の心に最後の一撃を加えます。
「それに理沙の気持ちも分かってあげてよ。母さんだって若い頃は、姑に気を使ったでしょう」
息子は完全に妻の味方でした。母親の献身を当然のものとして受け取り、感謝の言葉さえない。
翌日、私が芽衣ちゃんと少しでも触れ合おうとすると、理沙さんが割って入ります。
「芽衣、だめって言ったでしょ」
「でも、おばあちゃんは病気なの。触ったら芽衣も病気になるから」
もう我慢できませんでした。
「理沙さん、もうやめてください」
「やめる?何をですか?」
冷たい目で私を見る理沙さん。そこには一片の温かさもありません。
「芽衣ちゃんに嘘を教えるのをやめて。私は病気じゃない」
「嘘でも、最近おかしいですよね、お母さん。認知症の初期症状かもしれませんよ」
「私は正常です」
「それを判断するのは私ですから」
理沙さんの口元に冷たい笑みが浮かびます。
「それに、このままだと芽衣の教育にも悪影響なので、できれば少し距離を置いていただきたいんです」
「距離?」
「一回と二回、完全に別にしましょう。食事も別、生活も別。お母さんの部屋から出てくれなければ問題ありませんから」
自分の家で軟禁状態にされようとしている。
「それが嫌なら、施設も検討していただかないと。芽衣の安全のためですから」
施設に入るか、部屋に閉じこもるか。そんな選択を迫られている。
その瞬間、私の中で何かが完全に切れる音がしました。もうこの人たちのために尽くす必要はない。私には私の人生がある。自分を守る権利がある。
「わかりました」
静かに答えると、理沙さんは満足そうに頷きます。
「お母さんも分かってくれてよかったです」
でも、私が本当に分かったのは別なことでした。この家族のためにこれ以上何かをする必要はない。そして、自分の尊厳を守るために戦わなければならない。
その夜、私は夫と二人でこれからのことを静かに話し合い始めたのです。理沙さんは知らないでしょう。私たち夫婦がどれほどの力を持っているのかを。そして、その力をどう使うべきかを。冷静に、確実に、計画を立て始めていました。
その夜、寝室で夫の忠雄と向き合いました。
「道代、もう我慢しなくていい」
忠雄の声には、これまで聞いたことのないほどの強い決意が込められています。
「でも、年明は。年明は妻に洗脳されてる。もう息子じゃない」
そんな言葉を遮るように、忠雄が私の手を握ります。
「いいか、よく聞け。この家の名義は誰だ?」
「私たち」
「そうだ。年明夫婦はただの居候なんだ」
その事実を改めて突きつけられます。確かにこの家は私たち夫婦の名義です。
「生活費の口座。誰の名義だ?」
「私の口座から年明の口座に毎月振り込んでいる」
「そうだろう。お前が止めたら、あいつらは何もできない」
夫の言葉に、私の中で何かが動き始めるのを感じました。
「でも、孫の芽衣は」
「可愛いけど、ああいう母親に育てられたら、お前のことをバイキ扱いする子になるぞ」
その言葉が胸に深く突き刺さります。確かに、このまま理沙さんの洗脳が続けば、芽衣ちゃんは本当に私を汚いものだと思うようになるでしょう。
「俺たちは十分やった。もう自分たちの人生を生きよう」
「本当にいいの?」
「ああ、お前を守るのは俺の仕事だ」
涙が溢れてきます。でも、今度の涙は悲しみではなく、決意の涙でした。
翌朝、私は図書館を休んで銀行に向かいます。
「すみません。この口座の自動振り込みを止めたいのですが」
「自動振り込みの停止ですね。こちらにご署名をお願いします」
書類に署名をしながら、手が震えているのが分かります。でも、迷いはありませんでした。
「これで来月からは振り込まれないんですね」
「はい。ただ、即日停止も可能ですが」
「一瞬迷います。でも、夫の言葉を思い出しました」
「気をつけてでお願いします」
「承知いたしました」
銀行を出ると、次に向かったのは弁護士事務所です。夫が知人から紹介してくれた、信頼できる弁護士でした。
「なるほど。虐待の濡れ衣を着せられたと」
「はい。録音もあります」
スマートフォンを見せると、弁護士は真剣な表情で聞き入ります。
「これは名誉毀損に当たる可能性がありますね」
「この家の名義は私と夫の共同名義です」
「では、息子さん夫婦には居住権はありません。法的にはいつでも出ていってもらえます」
その言葉を聞いて、私の中で確信が生まれていきます。私には戦う武器がある。
「必要であれば、内容証明郵便で通知を送ることもできます」
「お願いします」
弁護士事務所を後にして、図書館に向かいました。館長と同僚たちに事情を説明する必要があったのです。
「道代さん、最近元気ないと思ってたけど、そんなことが」
「ひどい。図書館は国の衛生基準を満たしてるのに。むしろ一般家庭より清潔よ」
「道代さん、私たちが証明書を用意するわ」
「館長も頷きます。衛生管理報告書、年次点検結果、全部揃えましょう。図書館が不潔だなんて、名誉毀損もいいところです」
職場の仲間たちが全面的に私を支援してくれる。その事実が心に温かい力を与えてくれました。
「道代さん、必要なら証人にもなります。あなたがどれだけ清潔に真面目に働いてきたか、私たちが一番知ってるんだから」
同僚の言葉に涙が溢れそうになります。
「ありがとう、みんな」
その日の夜、家に帰ると夫が待っていました。
「どうだった?」
「全部、準備できた」
テーブルに座り、これからのことを確認していきます。
「明日の朝、口座を完全に凍結する。生活費も保育園代も全部止める」
「夫が頷きます。家はどうする?」
「当面はこのままでも、いずれは私たちだけで暮らす」
年明は。その名前を口にすると胸が痛みます。でも、もう後戻りはできません。
「もう息子だと思わない」
静かに言うと、夫が私の肩を抱きます。
「母親を守れない男は、息子と呼ぶ価値もない」
二人で静かに座っていると、夫が言います。
「道代、お前は間違ってない」
「本当に?」
「ああ、お前は正しい」
その言葉が私の決意を固めていきます。
翌朝、私たちはいつもより早く家を出ました。理沙さんに気づかれないように、静かに玄関を出ます。
「行ってきます」
2階に向かって冷たく言うと、返事はありません。いつも通り、私たち夫婦は透明人間のような扱いです。でも、今日からは違います。
銀行で全ての手続きを終えると、夫が言いました。
「キャッシュカードも新しいものに変更した。年明にはクレジットカードしか渡してないから、もう引き出せない」
「完璧だな」
図書館に向かう途中、携帯電話がなります。年明からの着信です。画面を見つめたまま、私は着信拒否の設定をしました。
「大丈夫か?」
「ええ、もう迷わないわ」
図書館に着くと、同僚が心配そうに声をかけてくれます。
「道代さん。本当に大丈夫?」
「ありがとう。でも、もう決めたから」
その日の仕事中も何度も携帯がなりました。でも、全て無視します。もうあの家族に振り回されることはない。自分の人生を自分で守る。その決意は、揺るぐことなく私の心の中で輝き続けていました。
夕方、家に帰る前に夫と落ち合います。
「準備は整った。明日から戦いが始まるぞ」
「ええ、でも怖くはないわ」
夫の手を握ると、温かさが伝わってきます。
「俺たちは間違ってない。自分を守るために戦うことは、正しいことなんだ」
その言葉を胸に、私たちは家に向かいました。理沙さんたちが気づく。そして、私たちの本当の力を知ることになるのです。
翌日の夕方、図書館から帰宅すると、玄関先で理沙さんが携帯電話を握りしめていました。その顔は真っ青です。
「お母さん」
初めて聞く、震えた声でした。
「何か用ですか?」
冷静に答えると、理沙さんが携帯の画面を見せてきます。
「これ、どういうことですか?お金が引き出せないんです」
「そうですか?」
短く答えて玄関に入ろうとすると、理沙さんが私の前に立ちはだかります。
「そうですか?じゃないです。今日、保育園の支払いをしようとしたらカードがエラーになって」
「それは大変ですね」
「大変ですね、じゃありません。どういうことか説明してください」
その傲慢な態度に、私は静かに微笑みました。
「説明する義務はありません。それは私の口座ですから」
「でも、毎月振り込まれてたじゃないですか」
「それは私の善意です。善意はいつでも止めることができます」
理沙さんの顔からさらに血の気が引いていきます。その時、年明が仕事から帰ってきました。
「母さん、一体どういうことだよ。銀行に電話したら口座が凍結されてるって」
「ああ、そうね。私が止めましたから」
「なんで勝手にそんなこと?」
息子の怒りの声に、私は冷静に答えます。
「勝手?私の口座ですよ、年明。私が自分の口座をどうしようと、あなたたちに関係ありません」
「関係ない?こっちは生活があるんだぞ」
「それはあなたたちの問題です」
リビングに入ると、夫の忠雄がソファーに座っていました。
「年明、お前たちが母さんにどんなことをしたか、分かってるのか?」
「父さんは黙ってて」
「黙らない。お前は母さんをバイキ扱いし、虐待の濡れ衣を着せようとした。そんな息子になぜ援助を続けなければならないんだ?」
理沙さんが割って入ります。
「お父さん、それは誤解です。私は芽衣のことを思って」
「誤解?録音を聞かせましょうか?」
私がスマートフォンを取り出すと、理沙さんの顔が凍りつきます。
「義母が芽衣に変な執着を見せる。虐待とまでは言わないが、認知症かもしれない。そう言ってましたね、理沙さん。それは全部録音してあります。弁護士にもすでに相談済みです」
その言葉に、理沙さんが後ずさりします。
「お母さん、あの時は少し感情的になって」
「感情的?芽衣ちゃんにバイキが映ると教えたのも感情的だったんですか?保健所に通報しようとしたのも?近所に悪評を流したのも?全部、感情的だったと?」
理沙さんは答えられません。年明が慌てて言います。
「母さん、謝るから。だからお金を」
「お金?」
私は静かに笑いました。
「バイキ扱いされた私が、なぜあなたたちにお金を出さなければならないのですか?それに、あなたたちは私のことを『お荷物』と言ってたでしょう。お荷物にはお金はありません」
理沙さんが息を飲みます。自分が言った言葉だと気づいたのでしょう。
「それに、私はもう家族じゃないんでしょう。隔離されて病気扱いされて。外の人間に援助を求めるのはおかしいのでは?」
「母さん、それは」
「もう私に頼らないでください」
そう言って、私は2階に上がろうとしました。
「待って。お願いです。保育園代だけでも」
理沙さんが初めて頭を下げます。でも、私の決意は変わりません。
「図書館で働く不潔な老人に、可愛いお孫さんのためのお金を出せとおっしゃるんですか?」
「お母さん、もう結構です。夫の忠雄も言いました。援助は一切しません」
部屋に入ると、下から理沙さんの泣き声が聞こえてきます。でも、心は動きませんでした。
1週間が過ぎました。息子夫婦は何度も交渉してきますが、全て無視しました。ある休日、ドア越しに年明の声が聞こえました。
「母さん、話を聞いて」
「何の用ですか?口座のこと?」
「なんで止めたの?」
「あなたたちはもう大人でしょう。自分たちで何とかしてください」
「でも、生活が」
そこに理沙さんの声が割り込みます。
「お母さん、いきなり何なんですか?こっちは生活があるんです。保育園代だって」
私は冷たく言いました。
「バイキ扱いされた私が、なぜ孫の保育園代を払わなければならないのですか?」
「ちょっと待ってください。あれは」
「お荷物にはお金はありません。その言葉、理沙さんが言ったんでしょう?」
理沙さんが絶句します。
「それに、私はもう家族じゃないんでしょう。隔離されて病気扱いされて。外の人間に援助を求めるのはおかしいのでは?」
ドア越しに、理沙さんが泣き崩れる音が聞こえてきます。
「お願いします。私が悪かったです」
「今更ですか?」
「本当に申し訳ありませんでした」
「だからお金を?」
「もう私に頼らないでください」
さらに1週間後、郵便受けに内容証明郵便が入っているのを理沙さんが見つけたようです。
「これ、何ですか?」
夜、年明が私たちの部屋に来ました。
「母さん、これ」
「見ての通りです。弁護士からの通知です。退去要求」
「そんな」
「この家は私たち夫婦の名義です。あなたたちには居住権はありません。それに、名誉毀損行為について法的措置も検討しています。虐待の濡れ衣を着せようとしたこと、忘れていませんか?」
年明の手から書類が落ちます。
「母さん、本気なのか?」
「本気です」
「でも、俺たちはどこに?」
「それはあなたたちの問題です。理沙さんのご実家にでも帰ればいいのでは?」
その言葉に、年明は何も言えなくなりました。
2週間が過ぎると、理沙さんの様子が明らかに変わっていきます。プライドの高かった彼女が、毎日のように泣いているのが聞こえてきます。
「どうしよう。お金もない。家も追い出される」
「理沙、落ち着いて」
「落ち着いてなんていられない。保育園代も滞納してるのよ。このままじゃ芽衣が」
「実家に帰るか」
「冗談じゃない。この家はどうするのよ」
「でも、母さんと父さんの名義だから」
「そんなの聞いてない」
理沙さんの声が日に日に弱々しくなっていきます。そして1ヶ月後、ついに理沙さんが完全に崩れ落ちました。
「私が悪かったんです」
初めて聞く、心からの謝罪の言葉です。
「全部私が悪かったの。お母さんを傷つけて、バイキ扱いして」
でも、私の心は動きません。
「今更ですか?」
「お願いします。許してください」
「許す?それとこれとは別です」
理沙さんが泣き崩れます。プライドの高かった彼女が、完全に打ちのめされている。それでも私は冷静でした。自分を守るために戦う。その決意は揺るぐことがなかったのです。
年明が最後にもう一度だけ尋ねてきました。
「母さん、本当に許してくれないのか?」
「許せません」
「でも、親子だろう」
「あなたが母親を守らなかった時点で、親子ではなくなりました」
その言葉に、年明は何も言えず、ただ立ち尽くすだけでした。
1ヶ月後、息子夫婦が引っ越す日がやってきました。玄関先にダンボール箱が積まれています。理沙さんが泣きそうな顔で私の前に立ちました。
「お母さん、あの時は本当に申し訳ありませんでした」
「今更ですか?」
冷たく答えると、理沙さんの目から涙が溢れます。
年明が頭を下げます。
「母さん、許してくれ。俺が悪かった」
「悪かったと思うなら、なぜあの時守ってくれなかったの?それはもういいです。私はあなたたちを許すつもりはありません」
その時、芽衣ちゃんが泣きながら階段を降りてきました。
「おばあちゃん」
小さな声で呼ばれて、心が痛みます。でも、表情は変えませんでした。
「バイキなんていなかったんだよね。ママが嘘ついてたんだよね」
「そうよ、芽衣ちゃん。ごめんなさい。芽衣ちゃんは悪くないわ」
優しく頭を撫でると、芽衣ちゃんが私にしがみついてきます。
「おばあちゃん、もう会えないの?」
その言葉が胸に突き刺さります。
「会えないわけじゃないけど、前みたいには無理ね」
「毎日会いたい」
「おばあちゃんも」
涙をこらえながら、芽衣ちゃんを抱きしめました。でも、これ以上は譲れません。
引っ越しのトラックが去っていくのを、窓から見送ります。夫の忠雄が私の肩に手を置きました。
「これで良かったんだ」
「ええ、分かってる」
でも、涙は止まりませんでした。
3ヶ月が過ぎました。息子夫婦が出ていった後、私たちは2階部分を完全にリフォームします。広々としたリビングと、二人だけの静かな空間が出来上がりました。
朝、夫婦で穏やかに朝食を取ります。
「こんなに静かな生活、久しぶりね」
「そうだな。これが本来の俺たちの生活だ」
誰にも気を使うことなく、好きな時間に起きて好きなものを食べる。そんな当たり前のことが、どれほど幸せなことか。
図書館での仕事も以前のように楽しめるようになりました。
「道代さん、最近表情が明るくなりましたね」
「ええ、おかげ様で」
同僚が嬉しそうに言います。週末は夫婦で散歩に出かけたり、友人を招いてお茶会を開いたり。自由な時間が私たちのものになりました。
でも、時々寂しさが襲ってきます。
「芽衣ちゃん、元気にしてるかしら?」
「大丈夫だろう。来月会えるんだから」
そうです。月に一度だけ、芽衣ちゃんと会う約束をしています。
その日がやってきました。公園で待っていると、芽衣ちゃんが走ってきます。
「おばあちゃん」
「芽衣ちゃん、大きくなったわね」
「うん。もうすぐ小学生だよ」
「そう」
「おばあちゃん、一緒に入学式行けないけど」
芽衣ちゃんの目に少し寂しさが浮かびます。2時間一緒に遊びました。お弁当を食べて、絵本を読んで。時間はあっという間に過ぎていきます。
「もう帰るの?」
「ええ、また来ましょうね」
「毎日会いたい」
その言葉に涙をこらえます。
「おばあちゃんもよ」
遠くに、年明と理沙さんが立っています。理沙さんは後悔に満ちた表情をしていました。
「私が悪かった」
理沙さんのつぶやきが風に乗って聞こえてきます。
「もう戻れないんだよ、俺たちは」
年明の言葉が聞こえました。でも、私は振り返りません。
家に帰ると、夫が温かいお茶を入れてくれます。
「寂しかったか?」
「ええ。でも、これで良かったのよ」
夫が頷きます。
「そうだな。お前は正しい選択をした」
道代の選択は決して簡単なものではありませんでした。理不尽に耐え続けるのか、それとも自分の尊厳を守るのか。私は答えを得られました。それは、孫との日常を手放すという大きな代償を伴うものでした。
でも、私は間違っていないと思っています。人としての尊厳を守ることは、何よりも大切なのです。理不尽な扱いに我慢し続けることが、必ずしも正しいわけではありません。時には、毅然とした態度を取ることも必要なのです。
私の人生は完全に元通りになったわけではありません。孫とは月に一度しか会えず、息子との関係も修復されていません。それでも、私は今、自由です。誰にも貶められることなく、夫と穏やかに暮らしています。
図書館で働き、友人と笑い、夫と静かな時間を過ごす。そんな日々が、私にとっての幸せなのです。
もしあなたが同じような理不尽に直面しているなら、一人で我慢し続ける必要はありません。あなたにも、自分を守る権利があるのですから。勇気を持って、一歩踏み出してください。その先には、きっとあなた自身の人生が待っています。



