お見合い写真を一瞥した瞬間、立花孝志はそれをテーブルに投げ捨てて笑った。写真の中の娘は黒縁の眼鏡をかけ、化粧っ気もなく髪を後ろでまとめているだけの、実に地味な女だった。
「うわ、何だよこの女。地味すぎるだろ。おい悠人、これお前の相手だ。地味男と地味ブス、お似合いだろ」
悠人は黙って畳に落ちた写真を拾い上げた。どこかで見たような気がするが、思い出せない。
数日後、見合いの席に座ったのは、弟の悠人だった。兄の孝志は最初から行く気がなく、代理を押し付けたのだ。上座に座っていたのは、黒縁の眼鏡をかけた女性。商店街で兄が老人にぶつかった時、そばにいた女性だった。
蒼井も相手が兄ではなく弟だと気づいた。あの時、老人に頭を下げていた「さえない弟」だ。
「先日は兄が本当に失礼を。まさか今日のお相手だったとは、重ねてすみませんでした」
蒼井はそっけない返事を返し、この男がどんな態度を取るのか見定めていた。これまでの見合い相手は、蒼井が素っ気なくすると態度が悪くなり、最後にはスマホをいじり出すのが常だった。しかし悠人は違った。嫌な顔ひとつせず、必死に話題を作ろうとする。
その時、悠人のスマホが震えた。兄からのメッセージだった。「どうだ? 地味ブスは想像通りだったろ」
悠人は画面を一度見て、スマホを置いた。
「あの、本当は兄が来る予定だったんですが。俺なんかが来て、がっかりされたと思います。今日はお見合いの話は抜きにして、お料理を楽しんでいただけたら」
そして、子供の頃に両親に連れてこられた時、緊張しすぎてお皿の飾りの葉っぱを料理だと思って食べてしまった話をした。蒼井の口から思わず小さな笑いが漏れた。今日初めて見せた、作り物ではない表情だった。
数週間後、二人は小さな喫茶店で待ち合わせするようになっていた。悠人はなぜ人を上下で見ないのか、蒼井が尋ねると、悠人は母の話を始めた。
「母は一昨年に亡くなったんです。外から嫁いできた人で、うちは家柄ばかり気にする家だったから、最後までよそ者扱いされて。それである日、病院のベッドで一冊の本に出会ったんです。『母さんの椅子』って本で、母はそれを何度も読み返して、俺に言ったんです」
「人の値打ちはね、何を成したかでも、どこの家の生まれかでもないの。目に見えない、その人の中にあるんだって。だからあんたは、人のそういうところをちゃんと見てあげられる人でいてね」
悠人はバッグから古びた文庫本を取り出した。
「これなんですけど、塔堂トオルさんっていう作家さんの本で。何百万部も売れて映画にもなったらしいんです。なのに作者は一度もテレビにも雑誌にも出てないらしくて。そんな本が、最後に母の隣にいてくれた」
蒼井は息を呑んだ。指先がカップの上で止まった。目の奥がじわりと熱くなる。慌てて俯いた。
その穏やかな時間を引き裂いたのは、喫茶店のドアベルだった。
「やっぱ悠人じゃん。おいおい、何だよ、こんな店で」
入ってきたのは兄の孝志だった。腕には一之瀬レイカがもたれかかっている。全身ブランドで固めた女だった。
「お前と女が見えたんだ。霊下が見てみたいって言うからさ。お前の見合いの地味ちゃんはね」
レイカは蒼井の顔を覗き込み、一之瀬は蒼井を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見て、口元だけで笑った。
「ねえ、あなたから聞いたわよ。平凡なうちなんですって。家柄もお金も、そして見ての通り花もない。あなた自身には一体何が残るのかしら。悠人君だって次男とはいえ立花の人間よ。本当のあなたを見て選ばれたなんて思わないことね。何も持っていない女を、誰が本気で選ぶっていうの?」
その言葉が蒼井の一番深いところに刺さった。息が止まった。耳の奥で別の声が重なる。家を出ていく父が玄関で吐き捨てた、あの声。
その時だった。
「やめてください」
低いけれどはっきりした悠人の声だった。立ち上がり、いつもの控えめな彼とは違う態度で、まっすぐにレイカを見た。
「この人のことを、あなたは何も知らない。見ようともしていない。俺はちゃんと見てます。この人がどんなに優しいか。あなたたちが地味だと笑う、その奥にどれだけ素晴らしいものがあるか、俺はちゃんと見てるんです」
「これだからお前はそういう貧乏臭い正義感だから、いつまでも立花家の“もう一人の方”なんだよ」
「結構です。俺は兄さんみたいに、人を上とか下とかで見たくないんで」
蒼井はその背中を見ていた。自分のために誰かがこんな風に身を挺してくれたのは、生まれて初めてだった。
それから数日後、悠人は家族にはっきりと告げた。七瀬蒼井さんと、結婚前提で付き合いたいと。父の蒼一郎は低い声で言った。
「その娘をこの家に呼びなさい。立花家の人間にふさわしいか、私が見極める」
立花家の広い座敷に通された蒼井を待っていたのは、ずらりと並ぶ立花の親族たちだった。座敷の真ん中に座布団が一つだけポツンと置かれている。そこに座らされると、無数の視線が一斉に突き刺さった。
「あれが随分地味な子ね」「七瀬なんて家、聞いたこともないわ」
ひそひそと、わざと聞こえるように囁きが飛び交う。逃げ場はどこにもなかった。
「単刀直入に言う。あなたとの話は、なかったことにしてもらいたい」
蒼一郎の言葉に、蒼井は唇を噛んだ。
「立花は三百年続く家だ。七瀬などという家は聞いたこともない。どこの誰とも知れない家の娘を、立花に迎え入れるわけにはいかんのだよ。分かったら、皆の前で言いなさい。『私には過ぎたお話でした。どうか忘れてください』とな。それで丸く収まる」
わざとらしいほど穏やかな声だった。その近くで孝志がニヤニヤと笑っている。
「ほら、早く身を引きますって。悠人さんを困らせないで。聞こえてるの? この子」
蒼井は膝の上でワンピースの裾をぎゅっと掴んだ。それでも必死に顔だけは上げていた。
その時、孝志の言葉がとどめを刺した。
「お前には何にもないんだよ。分かるか? 後ろのない女なんか、この世界じゃいてもいなくても同じなの。誰がお前なんか本気で愛するかよ」
その言葉が、蒼井の一番深いところで固く閉じていた扉をこじ開けた。
耳の奥で座敷のざわめきが遠のいていく。あの日の玄関の冷たい空気。荷物を下げた父は、追いすがる母に吐き捨てた。
「誰がお前なんか本気で愛するかよ。俺が欲しかったのはお前じゃない。お前の家の金と力だ」
そして父は、玄関の隅で震えていた幼い蒼井に目を向けた。
「さあ、お前も覚えておけ。俺の言うことも聞けないようなら、誰にも愛されねえよ」
父は笑いながら家を出て行った。頭を下げたまま、動けなかった。
「ほら見ろよ。何も言い返せない。やっぱりその程度の女さ」
勝ち誇った笑い声が座敷に満ちた。
その時——
「いい加減にしてくれ」
悠人が立ち上がり、蒼井の前に盾のように進み出た。いつも穏やかなその声が、今は低くまっすぐで、少しも揺らがなかった。
「この人が、いてもいなくても同じ? 誰も見ていない? 冗談じゃない。父さんも兄さんも、あなたたちは彼女の何を見たんですか? 地味な服、聞いたことのない家の名前。その先は、何一つ見ちゃいない。俺は見てます。この人がどれだけ素晴らしい人か。傷ついても、誰かのために顔を上げようとする人だ。あなたたちが一度も見ようとしなかった、この人自身を、俺は見てるんです」
座敷が一瞬にして静まり返った。
「お前は三百年の家に泥を塗る気か。その娘を選ぶというなら、お前はもう立花の人間ではない。この家の籍は二度と入れさせんぞ。それでもいいのか?」
「はい、結構です。人を見もせずに見下すことがこの家にいる条件なら、俺の方から出ていきます。母さんを最後までよそ者扱いしたこの家に、もう未練なんてありません。親も兄弟もいなくて結構です。俺はこの人と生きていきます」
悠人は一瞬の迷いもなく蒼井の手を取った。
「行きましょう。こんなところ」
その夜、大滝の家に帰ってきた蒼井は、祖父の顔を見た途端、その場にしゃがみ込んで声を殺して泣いた。現造は何も聞かず、孫娘の震える背中に皺だらけの手を添えていた。
蒼井が泣き疲れて眠った後、現造は一人、書斎に立っていた。古い手帳をめくり、長いこと使っていなかった番号にダイヤルした。
「夜分にすまんな。わしだ。一つ頼みがある。例の件を再開してくれ。徹底的にな」
立花孝志は上機嫌だった。弟を家から追い出してやった。週末はレイカと行きつけの高級ホテルのラウンジでシャンパンを傾けた。
その翌日だった。専務室にいた孝志のもとに、二十年近い大手取引先の担当役員から電話が入った。
「誠に申し上げにくいのですが、御社との来期の取引は、一旦白紙にさせていただきたく」
「は? 急に何を言うんですか?」
「上の判断です。ご検討、よろしくお願いします」
電話が切れた。嫌な予感は続いた。翌日にはメインバンクの担当者が青い顔で飛んできて、融資の一部見直しと過去の取引の資料提出を求めてきた。
同じ頃、大滝の家の書斎で、現造はとある会社の不正の証拠が記された分厚い資料をめくっていた。
「これはひどいな」
現造の目がすっと細くなった。資料を引き出しにしまい、鍵をかけた。全ての情報が集まりつつあった。
その頃、悠人と蒼井は借りた小さなアパートで寄り添っていた。肩書きも財産も失ったはずの悠人の横顔は、なぜか晴れやかだった。
蒼井はずっと喉の奥で塞がれていた言葉を、ついに口にした。
「悠人さん、聞いて欲しいことがあるの」
「ん? どうしたの?」
「あなたがお守りみたいに持ち歩いてるその本。驚かないで聞いてね。それを書いたのは、実は私なの。塔堂トオルは私のペンネーム」
悠人の目が本を何度も何度も往復した。母が最後に撫でていた本。眠れない夜に自分を何度も救ってくれた物語。それを書いた人が目の前にいる。
「私の母も、お母さんと同じだったの。誰にもちゃんと見てもらえないままだった人。私はその母のために、その本を書いたの。母が確かにここにいたって、ちゃんと生きた素晴らしい人だったって、世界のどこかに残したくて。母が亡くなって何も残らないのが怖くて、気づいたら書き上げてた。まだ学生だった」
そして、蒼井は一番言えなかったことを口にした。
「それに、私、嘘をついてた。あの商店街であなたが助けてくれたおじいちゃん。あの人が私の祖父なの。大滝現造。あけぼの通商グループの会長。おじいちゃんに勘当されたまま、母は亡くなったの。私が引き取られたのはその後」
「父はね、母じゃなくて、大滝の家のお金が目当てだったの。でも母は勘当されても、実家に頼らなかった。お金を引き出せないと分かったら、父は出て行った。出ていく時、幼い私に言ったの。愛されるのはお前じゃない。お前の後ろにある金と家柄だ。それがなきゃ、お前は誰にも選ばれないって」
「だから怖かったの。会長の孫だと知られたら、父の言葉通りになるんじゃないかって。寄ってくる人が、私を見てるのか、私の後ろのお金を見てるのか、一生分からなくなる。だから隠して。それを知る前の私を見てくれる人を、ずっと探してた。あなたは何も知らないまま、私を見て、家まで捨ててかってくれた。だから、あなたにだけは、全部本当のことを話したかったの」
蒼井はぎゅっと目をつぶった。これでこの人の私を見る目も変わってしまうかもしれない。そうなることを覚悟していた。
しかし——
「いや、驚いた。正直頭がまだ追いつかないや。でもさ、俺が好きになったのは、有名な作家さんでも大会社のお孫さんでもない。あの料亭で俺のしょうもない葉っぱの失敗した話を聞いて、ぷって笑ってくれた、目の前のあなただった。だから俺は何も変わらないよ」
蒼井のつぶった目から涙がこぼれた。全てを打ち明けた後で、それでもこの人は私自身を見ていると言ってくれた。選ばれたのだ。お金でも家柄でもなく、私自身が。
悠人の胸に体を預けて、蒼井は子どもみたいに泣いた。
だが、その穏やかな夜のすぐ裏側で、立花産業は坂道を転げ落ちていた。主力取引先は次々と手を引き、銀行は融資を引き上げにかかった。
「原因を調べろって言ってんだろ! なんでこんな一斉に」
専務室で孝志は青ざめた部下を怒鳴りつけていた。
「調べがつきました。手を引いた取引先は、どこも同じ噂を聞いています。立花産業には重大な不正がある。近く公になる、と」
「噂の出所は?」
「出所は分かりません。ただ、あけぼの通商グループが、うちとの取引記録を洗い直しているらしいんです」
「あけぼの通商って、あのあけぼの通商か? なんであんな雲の上の大企業が、うちみたいな中堅を」
「うちの筆頭株主は、三十年前からあけぼの通商なんです。うちの経営は最初からあそこに握られていたんです。そして、そのオーナー会長の大滝という方が、じかに動いていると——」
大滝現造。あの大滝。
孝志の背筋を冷たいものが這い上がった。名前だけは知っていた。だがそれだけだ。メディアに一度も出ず、写真の一枚も出回らない。政財界が“最後の獣”と呼ぶ伝説のオーナー。その顔を知るものはほとんどいない。
一ヶ月も立たなかった。あれほど誇った立花産業。三百年の家には、今や誰も振り向かなくなっていた。一之瀬レイカはあっさり姿を消した。金の切れ目が縁の切れ目。会社が傾いた途端、連絡先が消えた。
追い詰められた孝志は、父の蒼一郎と共にあけぼの通商グループ本社へ向かった。全ての鍵を握る姿なきオーナー会長に面会し、事の次第を正して事態の収束を願い出る。それ以外にもう道はなかった。
重厚な会長室の扉が開く。窓いっぱいに広がる街並みを背に、特注の椅子に一人の老人が腰かけていた。
その姿を見た瞬間、孝志の顔が青ざめた。忘れていたはずだった。取るに足らないことだと、覚えるつもりもなかったけれど。
「あ、あんたは——あの商店街の、あの日、肩で突き飛ばした、あの地味な老人」
「久しぶりだな、立花産業の専務さんよ」
現造は机の上に分厚いファイルを滑らせた。
「中身はもう分かっておろう。架空の発注、水増し請求、実態のないペーパーカンパニー。抜いた金はこの数年で十数億。全ては立花孝志さん、あんたの懐に入っとる。業務上特別背任、偽造。立場の弱い下請けを踏み台にして、潰れた会社もあった。その家族がどれだけ泣いたか、あんたは考えたこともあるまいな」
「な、なんで、あんたが」
「調査はとっくに数字を掴んでおった。わしは泳がせておっただけよ。調べを進めさせたのは、あんたがわしの一番大事なものを傷つけた。あの日にな」
「大事なもの?」
その時、会長室の奥の扉が開いた。背筋をまっすぐ伸ばして、一人の女性が入ってきた。
「は、な、何だよ。なんでお前が?」
その瞬間、孝志の記憶の底からもう一つの光景が競り上がってきた。商店街で、追い越した老人の隣にいた地味な女。何度もすれ違ってた。それなのに、自分はいつもこの女をただの地味な女と決めつけ、まともに見ていなかった。
衝撃を受けたのは蒼一郎も同じだった。お見合い写真の女。針の筵の真ん中で親戚たちと一緒になって笑ったあの女が、今目の前に立っている。
蒼井は這いつくばった孝志の前まで歩み寄り、口を開いた。
「孝志さん、あなたにまだ私が何者なのかお伝えしていませんでしたね」
「な、何を?」
「実は私は、ここにいるあけぼの通商会長、大滝現造の孫娘です」
「は?」
「それからもう一つ。あなたが気持ち悪いと笑った方、あなたのお母様が死の間際まで最後まで抱えていらした『母さんの椅子』。あれを描いた著者は、私です」
一気に言葉が遅れて、孝志の顔から表情というものがこそげ落ちた。
「嘘だ。嘘だろ。そんなお前、地味な何の取り柄も——」
「う、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」
孝志は頭を抱え、髪を掻きむしった。あの時一目で地味ブスといらないと投げ捨てた女が、死の間際の母がすがった本を書き、日本を泣かせた作家で、自分の会社の経営権を握る大企業の会長のたった一人の孫娘だったという事実。
崩れ落ちた孝志は、床に両手をついて現造にすがった。
「違うんです! あれはほんの冗談で。知らなかったんです。俺を許してください。何でもします。だから——」
蒼井はその無様な姿を見下ろしていた。かつてこの男の前で固まって、一言も言い返せなかった。台所の隅で俯く母の背中に自分を重ねた。でも今は——。
「あなたに言われた言葉、一生忘れません。『お前には何もない。後ろのない女なんか、いてもいなくても同じ。誰がお前なんか本気で愛するか』。でもね、いたんです。何も持っていない私を、一人の人間として見て選んでくれた人が。あなたこそ、最後まで何も見ていなかった。家柄と肩書きの向こうにある人間を、ただの一度もいや、失うまで見ようとしなかった」
それは勝ち誇りでも、嘲笑でもない。ただ静かな強さだった。
床にうずくまる孝志を見下ろしながら、現造が静かに口を開いた。
「それとは別にうちは、立花産業の筆頭株主であり、最大の取引先だ。年間二百八十億の取引。三十年の信用保証は、本日付けで全て白紙にさせてもらう。加えて臨時株主総会の招集を請求する。総会では、現経営陣の総解任を発議する。無論、専務あんたの解任もな」
孝志の膝が力を失って折れた。二百八十億。それは立花産業の心臓そのもの。それがたった今、止まった。
「おおお待ちください! それではうちは——三百年続いた立花の名が!」
「勘違いをしなさんな。あんたらを潰すのは、わしじゃない。わしはただ、罪を犯した会社と同じ卓にはつけんと言っておるだけだ。世間も同じ目をしておるよ。人も金も、信用を失ったものから静かに離れていく。今あんたの会社で起きておるのは、それだけのことだ」
現造は立ち上がり、窓を背にした。
「そちらの家にはな、縁がほんの少しだけ欠けた古い湯呑みが一つある。娘が子供の自分にかけさせて、『これが一番手に馴染む』と言って、最後まで使った湯呑みだ。器にしちゃ傷物だ。だが、あれで飲む茶が一番うまい。人の値打ちはな、器の方には宿らんのだよ。あんたは家柄だの格式だのと、ばかに磨き上げた器の中身を見ようとせんかった。あんたが『もう一人の方』と呼んで追い出した息子よ。あれはわしが会ってきたどんな人間より、真っすぐな男だ。あんたは三百年の器と引き換えに、一番うまい茶を自分の手で流しに捨てたんだよ」
蒼一郎は言葉もなく立ち尽くした。失って初めて、自分が何を手放したのかを思い知った顔だった。
「ま、待ってください。今一度チャンスを——」
「あんた、何か勘違いしてるな。糸と失った親友は、二度と戻りゃせんわ。それとも、わしの娘に対する所業の件も、始末をつけるか?」
「——話は以上だ」
現造が頷くと、側近が扉を開けた。
「お引き取り願おう」
その日の午後、立花産業の本社は音を立てて崩れ始めた。あけぼの通商グループが立花産業との全取引を停止、臨時株主総会への招集を請求、との速報が流れた瞬間、株価は売り気配のまま張り付いてストップ安。取引先からの解約通知はバケツの受け皿から床へ溢れた。総務の電話は全回線が鳴りっぱなしになり、やがて誰も取らなくなった。メインバンクは融資の一括返済を通告。社内では若い社員が私物のダンボールを抱えて裏口へ走っていく。
夕方、本社に戻った孝志を待っていたのは、正面玄関を埋め尽くした報道陣だった。三百年誰もが誇りにしてきた立花の名は、その日のうちに日本中の晒し物になった。二百八十億という血流を断たれた会社が倒産するまで、もう一ヶ月もかからなかった。
あの騒ぎからしばらく経った夕方、あの小さな定食屋に三人の姿があった。現造と蒼井、そして悠人。かつて蒼井が気の進まない見合いをぼやいた時と同じ席だった。
「悠人君、一つだけ礼を言わせてくれ。あの日、お前さんは何の得にもならぬのに、見ず知らずのわしに頭を下げてくれた。蒼井のことも、誰もが地味だと笑う中で、一人の人間として見て守ってくれた。そういう人間に会えたのは、久しぶりだったよ」
「あ、そんな大したことをしてません。母にそう言われて育っただけで。人を見た目や肩書きで測る人間にだけは、なるなって。だから、どうしても見捨てられなかったんです」
現造がふっと目を細めた。亡き妻の口癖が耳の奥で蘇る。
「人はね、心を見てやらなきゃ」
「おじいちゃん、私、もう隠れるのやめる。ちゃんと私のまま生きていく。だって、こうしてちゃんと見ててくれる人がいるから」
「ああ、そうしなさい」
現造は深く頷いた。窓の外で夕日が街を優しく染めていく。
一年後、あの立花家の堂々とした門には「売却物件」と書かれた紙が張られていた。針の筵の真ん中で蒼井を嘲った親族たちは、会社が傾いたその日から一人残らず姿を消した。ガランとした屋敷の敷地の外で、立花蒼一郎は色を失った目で荒れた庭を眺めていた。家を守るため、息子の罪に薄々気づきながら目をつぶってきた。その家は、今や誰も守る者がない。守るべきだったものが、家柄などではなかったと、全てを失ってようやく知った。だが、もう遅すぎた。
立花孝志は実名で報道された。業務上特別背任、偽造。下請けを潰した手口は世間の強い怒りを買った。初公判の法廷に、上申書を訴えてくるものは一人も現れなかった。父も親族もあの女も、人を虫けらのように見下せていた男の隣には、国選の弁護士が一人座っているだけだった。
一之瀬レイカの務める広告会社は、立花産業の広告も請け負っていた。その案件を社に持ち込んだのは、他ならぬレイカ自身。自慢の人脈で結んだ縁が、会社に大打撃をもたらした。責任を問われた彼女は、静かに退職に追い込まれた。そして、逮捕された男の元恋人の噂は、狭い業界を彼女の人脈と同じ速さで駆け巡った。あれほど鳴り響いていた彼女のスマホは、もう音を響かせることはなかった。
季節は巡り、大滝の家には近頃よく笑い声が響くようになった。悠人は立花の家を出たまま戻らなかった。現造が一度だけ「うちで働かんか」と誘ったが、悠人は穏やかに首を振った。
「ありがとうございます。でも俺は、自分の力で一からやってみたいんです。誰かの家柄や肩書きを借りるんじゃなくて」
悠人がまず動いたのは、兄の不正で潰された下請けの人たちのためだった。手当たり次第に頭を下げて回り、再起の手伝いを始めた。誰かに守られるだけでしかなかった男は、いつの間にか誰かを支える側に立っていた。
蒼井も変わった。分厚い眼鏡で自分を隠すのをやめ、塔堂トオルとして、新しい物語を描き始めている。今度の主人公は、いつもそんな役ばかりだった地味で優しい男なのだという。
「いいモデルさんがいるの。すぐそばにね」
勘当された父からは何の音沙汰もない。あの呪いはもう溶けた。何も知らずに私自身を選んでくれた人が、隣で笑っている。誰にも見えなかった人の素晴らしさを救い上げて物語にする。かつて自分がそうして救われたように。
よく晴れたある日、悠人は蒼井を連れて母の墓を訪れた。線香の細い煙がまっすぐに立ち上る。
「母さん、紹介するよ。蒼井さん。俺が人生で一番大切にしたいと思った人。それから、驚かないで聞いてよ。母さんが最後に何度も読み返してた『母さんの椅子』。あれを書いたのが、この人なんだ」
蒼井は墓石の前にしゃがんで、会ったことのないその人に語りかけた。
「初めまして。あの本を何度も読んでくださって、本当にありがとうございました。あの本は、誰にも見てもらえないままだった、私の母のために書いたんです。だから、お母さんの最後に少しでも寄り添えていたなら、私——」
生きて出会うことのなかった二人の母を、たった一冊の本が結んでいた。そして今、その縁の先で、残された子供たちがこうして寄り添って立っている。
その夜、大滝の家の縁側で、現造はいつもの欠けた湯呑みで茶を飲んでいた。庭先では悠人と蒼井が何やら楽しげに話している。蒼井の笑い声は、もうあの夜の作り物の明るさではない。心の底からこぼれる、本当の笑顔だった。
「見ておるか? 人の心を見る。お前の言う通りだったよ。それから、あの子のことをちゃんと見てくれる男も、ようやく現れた。もう何も心配はいらん」
耳の奥で、懐かしい声が聞こえた気がした。
「そうでしょ? ちゃんと人と向き合っていれば、素晴らしさを分かってくれる人は、必ず現れるものなのよ」
現造はふっと笑って、茶を一口含んだ。
穏やかな夜だった。そのささやかな団欒こそが、どんな家よりも、どんな財産よりも、この世で一番素晴らしいものだった。



