パシン――乾いた音が放課後の教室に響いた。体育を終えたばかりの相沢蓮は、汗を拭きながら自分の席へ戻ろうとしただけだった。その瞬間、学年一の美少女、立花麗花の平手が彼の頬を打った。
「汗臭いのよ、この肥満。近寄らないでくれる?」
床に膝をついた蓮を見下ろし、麗花とその取り巻きたちが声を上げて笑った。蓮は何も言い返せなかった。ただ熱を持った頬を押さえ、唇を噛むことしかできなかった。
それから10年。都内のホテルの宴会場で開かれた中学の同窓会。かつて学校一の美女だった立花麗花が、勝ち誇った笑みを浮かべ、一人の男に体を預けるようにもたれかかった。その瞬間――パシン。乾いた音が会場に響き渡った。男の平手が麗花の頬を打ったのだ。
「これは10年前、お前が俺にしたことだ。忘れたのか?」
絶句する麗花を、男は静かに見下ろした。引き締まった体、揺るがない眼差し。かつて「肥満」と罵られ、この女にビンタされて泣いていた、あの惨めな少年の面影はどこにもなかった。かつて教室の隅で俯くことしかできなかった少年は、何を胸にここまで成長したのか。10年という月日が、二人の間の全てを塗り替えていた。これはその逆転の物語。
朝6時、蓮は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。年数の経ったマンションの一室は、必要なものだけが置かれた質素な部屋だった。今の蓮ならもっと広い部屋にも住める。それでもここを離れるつもりはなかった。蓮は床に手をつき、ゆっくりと腕立て伏せを始めた。引き締まった背中が朝の光の中で静かに動く。決められた回数を終えたところで、スマートフォンが短く震えた。師匠の黒田からだった。
「おお、起きてるか。今日だろ?蓮の同窓会。」
「はい。さっきトレーニングを終えたところです。」
「大会前でもないのに相変わらずだな。雑誌の表紙まで飾るようになった男が、俺の集まりなんかにわざわざ顔を出すのか。」
「顔を出したいわけじゃないですよ。確かめに行くだけです。あの頃の人間が10年で何か変わったのか、それだけ。」
「ふうん。昔のことを引っかき回しに行くんじゃないだろうな。」
「違います。もう泣いてた頃の俺じゃないんで。」
「ならいい。胸を張って行ってこい。」
「はい。ありがとうございます。」
通話を切ると、蓮はクローゼットを開けた。派手なブランド物は一着もない。それでも丁寧に袖を通したのは、仕立てのいい紺のジャケットと、ノリの効いた白いシャツだった。鏡の前でゆっくりと襟を正す。鍛え上げられた体が、その質素な装いをいやらしくなく着こなしていた。清潔感と真の通った眼差し。誰かに媚びるためではなく、自分を立てるためだけの静かな品がそこにはあった。
デスクの上には一通の封筒が置かれていた。同窓会の招待状である。出席者をまとめる係の欄に見覚えのある名前があった。立花麗花。
その名を口にした瞬間、古い記憶が一人でに蘇ってきた。サイズの合わない制服、教室の片隅に響いた乾いた音、床に散らばった弁当のおかず。あの頃、蓮の世界の全てはあの教室の中だけで完結していた。逃げ場のない灰色の三年間。そしてもう一つ、あの灰色の日々の中でたった一度だけ自分をかばってくれた一人の少女の横顔。
「みんな、あれからどうしてるかな?」
窓の外には目覚め始めた町が広がっていた。蓮は冷えた水を一口飲み、静かにその日に備えた。
蓮の地獄が始まったのは、高校に入って間もない頃だった。立花麗花――学校一の美女と誰もが認める少女が、最初に蓮へ目をつけた。父親が地元で手広く事業を営む裕福な家の娘で、整った容姿と家柄を傘に着て、クラスの空気を支配していた。誰もが麗花の顔色を窺い、誰一人として逆らわなかった。
「ねえ、見てあの子。お弁当、いつも同じおかずなんだけど、貧乏臭くない?」
教室の中央で、麗花が蓮を指さして笑った。その隣で取り巻きの水原さやかが、加減を入れずに追従する。
「やだ、本当だ。っていうか、あの子の家ってお父さんいないんでしょ?片親なんだって。」
「なるほどね。だからお金ないんだね。かわいそう。」
蓮は言い返せなかった。喉の奥で言葉が固まって、どこにも出ていかなかった。母が朝早く起きて作ってくれた弁当を「貧乏臭い」と罵られる。その理不尽さに、蓮は机の上で手を握りしめることしかできなかった。
「なんで?なんで俺ばっかりこんなこと言われるんだ?」
声にならない問いだけが行き場をなくして、胸の中をぐるぐると回った。その日の昼休み、蓮が席を外している隙に、弁当箱の中に消しゴムのカスがまかれていた。
「だ、誰がこんなこと?」
戻ってきた蓮が気づいて固まると、麗花が親切を装って声をかけた。
「あら、どうしたの?もしかして誰かにいじめられてるの?かわいそうに。」
その白々しさに教室はまた笑いに包まれた。蓮は消しゴムのカスを取り除き、それでも母の作った弁当を一粒残さず食べた。母が一生懸命に作ってくれた弁当を捨てることだけは、どうしてもできなかった。
それからは毎日だった。教科書が消え、机に落書きがされる。体育の授業では組まされた相手が露骨に顔をしかめた。
「え、俺、こいつと組むの?勘弁してくれよ。」
蓮は同級生の中でも一際太っていた。それは貧しい食卓で安いものばかりを食べ、日々の辛さを食べることでしか紛らわせなかった結果でもあった。痩せる方法も、その余裕も当時の蓮は知らなかった。
誰も助けようとはしなかった。助ければ次は自分が標的になる。それをみんな知っていたからだ。そんな教室の隅に、もう一人息を潜めている生徒がいた。藤井美緒――蓮と同じように体型をからかわれ、誰とも目を合わせずに過ごしている女子だった。言葉を交わしたことはまだ一度もない。それでも、麗花に何か言われて俯く美緒の横顔を見るたび、蓮は自分自身を見ているような気がした。
ある日の昼休み、麗花は退屈しのぎのように蓮の机に頬杖をついて顔を覗き込んだ。
「あんたさ、生きてて楽しい?貧乏で肥満で父親もいなくて、私だったら恥ずかしくて学校来れないけどな。」
周りの取り巻きがどっと湧いた。蓮は何も言えず俯いたまま、ただ机の目を見つめていた。
家に帰れば、痩せた母が工場帰りの疲れた顔で出迎えた。
「お帰り、蓮。今日はどうだった?」
「うん。普通だよ。」
それ以上は言えなかった。自分のために働き詰めの母に、これ以上の心配はかけられない。
「もう嫌だ。こんな毎日。」
蓮は家では笑顔を作り、夜になると一人暗い部屋で膝を抱えて泣いた。灰色の高校生活は、出口の見えないままただ過ぎていった。
二年生になっても蓮の状況は変わらなかった。むしろいじめは陰湿さを増していった。そんなある日、思いがけない方向から手が差し伸べられた。声を上げたのは、あの教室の隅でいつも息を潜めていた少女、美緒だった。昼休み、麗花が蓮の弁当を取り上げ、床にぶちまけようとしたその時――
「やめてあげなよ。」
震える声だったが、確かにそう言った。美緒は蓮の前に立ちはだかり、まっすぐに麗花を見た。
「はあ?何?あんた、肥満同士で可哀想がり合ってるわけ?」
「うわあ、臭い。」
「ちょっと、カップル関係ないでしょ。相澤君が何をしたって言うの?」
「口ごたえするんだ。」
麗花たちが立ち去った後、美緒は床に落ちかけた弁当を蓮と一緒に拾い集めた。
「ごめんね。私が口を出したせいで、余計に目立たせちゃったかも。」
「謝るのは俺の方だよ。今まで誰もかばってくれなかったのに。」
「私たち、似てるね。一人で耐えるより、二人の方がちょっとはマシかもしれないよ。」
それが二人が初めてまともに言葉を交わした瞬間だった。その日から、蓮と美緒はお互いを意識するようになった。それでも美緒は廊下で蓮とすれ違うと、小さく頷いてくれた。たったそれだけのことが、蓮にとっては灰色の日々に差したわずかな光だった。
その出会いが蓮を動かした。このままではいけない。せめてかばってくれた美緒に胸を張れる自分になりたい。下校途中、蓮は勇気を振り絞って一軒の個人ジムの扉を叩いた。フェニックスジム。トレーナーの黒田剛史は、金がないと口ごもる蓮をただ一言で迎え入れた。
「なんだ、強くなりたいのか、坊主。金の話は後でいい。本気で変わりたいなら来な。」
「はい。よろしくお願いします。」
こうして蓮はジムに通い始めた。だが体というものはそう簡単には変わらない。一ヶ月通っても、鏡の中の自分はほとんど変わらなかった。そしてその変化のなさを、麗花たちは見逃さなかった。ある体育の授業の後、汗だくになった蓮が廊下で麗花の脇を通り過ぎようとした。その時だった。
「ちょっと、汗が飛んだんだけど。」
パシン。乾いた音が響いた。麗花が蓮の顔を平手で打ったのだ。ただ近くを通っただけ。それだけのことで、理不尽な暴力が振るわれた。
「うわあ、最悪。臭いんだよ、太っち。」
「ねえ、聞いたよ。あんたジムに通い始めたんだって。」
麗花は打たれた方を抑える蓮を見下ろし、深く嘲笑うように笑った。
「あんたのその体型で運動したところで、肥満は肥満でしょ。無駄なことやめなよ。みんな言っておくけど、あんたみたいな片親の貧乏は、見下されて当然でしょう。生まれが違うのよ。生まれが。」
その言葉はビンタよりも深く蓮の胸に突き刺さった。もがき始めたばかりの人間を頭から否定する。その姿勢に、蓮の中でこれまで感じたことのない感情が芽生えた。
「笑え。今はいくらでも笑え。」
それは無力感とは違う、確かな熱を持った何かだった。麗花に背を向けて歩き出した蓮の足取りは、いつもよりほんの少しだけ早かった。
その日の放課後、打たれた方を一人で冷やしていた蓮の元に、そっと美緒が近づいてきた。手には駄菓子屋で買ったらしい冷たいペットボトルがあった。
「これ、当てて。少しは楽になるから。」
「ありがとう。」
「あの子の言うこと、信じちゃだめだよ。無駄なんかじゃない。変わろうとしている人を笑う人の方が、ずっと見苦しいんだから。」
その言葉に、蓮の胸の奥で火が小さくはぜた。悔しさと怒りと、まだ名前のつかない何か。蓮は打たれた方の痛みを噛みしめながら、固く拳を握った。
努力はすぐには報われなかった。蓮はジムに通い続けた。それでも目に見える変化は乏しく、いじめは止まなかった。心が折れそうになる夜が何度もあった。ある日の放課後、蓮はとうとう限界を迎えた。教室で受けた仕打ちを思い出しながら、暗い部屋で一人ただ天井を見つめていた。
「体重、全然変わらないなあ。」
何のために頑張っているのか分からなくなっていた。いっそ何もかも消えてしまえたら――そんな考えが頭の隅をよぎった夜だった。その時、部屋の扉が静かに開いた。母だった。
「蓮、あんた最近ご飯の量が減ってる。何かあったんじゃないの?」
蓮はとっさに笑顔を作ろうとしたけれど、できなかった。母の顔を見た瞬間、長い間堪えていたものが、堰を切ったように目から溢れ出した。
「母さん、ごめん。俺、学校でずっといじめられてて。」
全てを打ち明けた。貧乏だと笑われ、片親だと馬鹿にされ、殴られたことも。母は黙って最後まで聞き、それから蓮を強く抱きしめた。
「そうだったの。辛かったね。よく一人で耐えたね。いい?蓮。あんたがどんな姿でも、何を言われても、母さんにとっては世界で一番大事な息子だよ。お前が生きてるだけで、母さんは報われてるんだ。それだけは忘れないで。」
その言葉が、暗闇に沈んでいた蓮の心に静かに明かりを灯した。前を向く力がもう一度戻ってきた。自分は一人じゃない。母がいる。かばってくれた美緒がいる。本気で向き合ってくれる黒田がいる。
翌日から蓮は変わった。打ち込む覚悟がまるで違った。その胸にあったのは、たった一つの誓いだった。
「見返してやる。あいつらが二度と俺を見下せないところまで、絶対に這い上がってやる。」
朝は誰より早く起きて走り込み、放課後は閉店間際まで黙々と器具と向き合う。必死に打ち込むその姿に、黒田は目を細めた。
「随分いい目をするようになったな。何か火がついたか?」
「はい。あいつらを見返したいんです。俺を馬鹿にしてきた連中を全員。」
「いいだろう。その怒りを熱量にしろ。絶対に諦めるな。お前のその継続力は立派な才能だ。」
「才能なんて、ただ他にやり方を知らないだけです。」
「ふっ、世間じゃそれを才能って呼ぶんだよ。ただな、一つだけ覚えておけ。今はそれでいい。だがいつか、これは誰かを見返すためじゃなかったって気づく日が来る。」
その言葉の意味はまだ蓮には分からなかった。今はただ湧き上がる闘志のままに前へ進むだけだった。
変わり始めたのは蓮だけではなかった。いつからか、美緒と二人で下校の道を並んで歩くようになっていた。
「相澤君、最近すごいね。背筋が真っすぐになった。」
「藤井さんのおかげだよ。あの時声を上げてくれたから、俺、変わろうって思えたんだ。」
「私もね、実は走り始めたの。あんな風に笑われたまま終わるの悔しいから。いつか見返したくて。」
「俺と同じだな。」
「うん。同じだから、一緒に見返してやろう。」
同じ痛みを知る二人は、別々の場所で同じ方を向いて歩き始めていた。
「ねえ、約束しよう。お互い途中でやめないって。」
「ああ、約束する。」
たった一つの約束が、灰色だった蓮の毎日にはっきりとした色を与えた。家までの道を話しながら歩くその時間だけは、いじめの痛みも貧しさの引け目も、不思議と遠ざかった。
いじめに耐え続けた日々が、蓮に耐える力を授けていた。皮肉にも、その力こそが肉体を作り替える上で何よりの武器になった。体は少しずつ、しかし確実に変わり始めた。脂肪が落ち、輪郭が引き締まり、筋肉の形が浮かび上がってくる。鏡を見るのが初めて怖くなくなった。
卒業間近に控えたある日、蓮は黒田に告げた。
「黒田さん、俺、肉体美を競う大会に出ます。いつかてっぺんを取ります。」
黒田はにやりと笑って蓮の肩を叩いた。
「おう、やってみせろ。お前ならできる。」
灰色だった少年の物語は、ここで一度幕を下ろす。そして10年後、全く違う色をまとって再び動き出すことになる。
10年の歳月は全てを塗り替えていた。蓮は肉体美を競うフィジーク大会で次々と結果を残し、ついには国内の頂点に立った。その期待を超えた体と、誠実で真面目な人柄は競技の枠を超えて注目を集め、今では多くの人が名前を知る存在になっていた。
一方、立花麗花は蓮の活躍を知っていた。雑誌の表紙に載った蓮を、テレビの特集で語られる蓮を目にしていたのだ。
「ねえ、見た?この人。あの相沢蓮なんだって。」
「え、嘘。あの蓮が?信じられない。」
「同窓会も来るらしいわよ。」
「ふふ、楽しみね。」
「楽しみって、何する気なの?」
「決まってるでしょ。あれだけ成功してるんだもの。私の隣に立つ男としてちょうどいいわ。私がもらってあげるのよ。」
「で、でも麗花、学生の頃彼に結構ひどく当たってなかった?」
「覚えてるわけないでしょ。男なんてみんな、綺麗な女に笑いかけられたら、過去のことなんて全部忘れるの。それに――」
麗花は唇の端を釣り上げた。
「もし覚えてたって関係ない。私に愛されるなんて、彼にとっては最高の名誉でしょ。」
「でも、どうせ元彼みたいにすぐに飽きて捨てちゃうんでしょう。」
「その時はその時で、別の男に乗り換えるわ。」
「あんたって本当に男好きよね。」
麗花の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。かつて見下していた相手が、今や成功者になっている。その事実は麗花にとって、尊敬の対象ではなく、近づくべき獲物に変わっていた。自分の容姿があれば、相手がどんな立場になろうと手に入れられる。麗花はそう信じて疑わなかった。その本質は10年前と何一つ変わっていなかった。
そして同窓会の夜が来た。都内のホテルの宴会場に、かつての同級生たちが集まっていく。蓮はいつもと変わらぬ質素なジャケットを羽織り、静かにその扉をくぐった。会場に足を踏み入れた瞬間、10年前の空気がかすかに肌に蘇った。だが、もう足はすくまなかった。あの頃とは立っている場所も、抱えているものも、何もかもが違う。
蓮はゆっくりと会場を見渡した。視線の先に見覚えのある横顔があった。壁際で誰に媚びるでもなく、静かにグラスを傾けている女性。派手さはないが、不思議と目を引く佇まい。蓮の胸が小さく跳ねた。10年前、たった一度だけ自分のために声を上げてくれたあの少女。
「藤井さん、来てたのか。」
その中央には、すでにあの二人がいた。立花麗花と水原さやか。10年という時を経てもなお、二人は寄り添うように同級生たちの中心に立っていた。
美緒もまた、この10年で随分印象が変わっていた。すらりと痩せ、物腰には穏やかな落ち着きが宿っている。それでも装いは至って控えめだった。派手なドレスも高価なアクセサリーもない。シンプルで飾らない品のいい服。華やかな会場の中では、むしろ目立たない一人だった。その地味な装いを、麗花たちは見逃さなかった。
「あら、藤井さんじゃない。相変わらず地味ね。せっかくの同窓会なのに、その格好?もしかしてそれしか持ってないの?」
「ええ、これしか持ってないの。でも私は気に入ってるんだ。」
「やだねえ。覚えてる?この子、昔ね、太っててさ、いつも教室の隅で一人でお弁当食べてたんだよ。」
クスクスと周りで笑いが起きた。それでも美緒は動じなかった。
「うん、覚えてる。あの頃の私もちゃんと私だったから、恥ずかしいとは思わないよ。」
言い返すでも、卑屈になるでもない。その落ち着いた態度が、かえって麗花の神経を逆撫でしたようだった。
「何よ、その余裕。中身のない子に限って、分かったような顔するのよね。」
「余裕じゃないよ。ただ、あなたの言葉でもう傷つかなくなった。それだけ。」
その一言に、麗花の表情がすっと険しくなった。手にしていた赤ワインのグラスを見せつけるようにゆらりと揺らした。
「何よ。人生悟ったような言い方して、むかつくわね。ああ、なんだか手が滑っちゃいそう。」
次の瞬間、グラスが傾いた。パシャ。赤い液体が美緒の淡い色のワンピースにパシャリとかかった。胸元から裾にかけて、みるみる赤黒い染みが広がっていった。
「あら、ごめんなさい。でも良かったじゃない。そんな安物がついたところで、誰も気づかないでしょ。」
「うわ、最悪。ねえ、これ撮ってもいい?」
さやかが当然のようにスマホを向けた。会場中がざわざわと音を立てた。美緒は濡れたワンピースを手のひらでそっと抑えた。
「拭くなら、払えば落ちるから大丈夫。」
声も荒げず、涙も見せない。ただまっすぐに背筋を伸ばしたまま、その理不尽を静かに受け止めていた。その姿は、恥ずかしめられているはずなのに、麗花よりもずっと気高く見えた。その一部始終を、蓮は少し離れた場所から見ていた。隣では数少ない当時からの友人が、苦々しげに口を開いた。
「あの二人、全然変わってねえな。卒業してから、何人泣かされたか。あの頃はみんな、麗花の家が金持ちだからって、怖くて何も言えなかったんだよな。」
「そうか。」
10年前、自分をかばって自分まで標的になった女性。その身が、今もなお同じ人間に同じやり方で踏みにじられている。蓮の中で、あの日くすぶり始めた火がはっきりとした熱を取り戻した。蓮は手にしていたグラスを静かに置き、まっすぐ二人の方へ歩き出した。
「おおおい、相澤!」
その時、麗花が蓮に気づいた。瞬間、彼女の表情が下品な笑みへと鮮やかに切り替わった。
「あらやだ。もしかして、蓮君?違う?」
麗花はすぐに蓮に近づき、体を預けるように笑いかけた。
「すごいじゃない。テレビ見たわよ。昔はパッとしなかったのに、やればできるじゃない。」
褒めているようで、上から目線が抜けない言葉。蓮は表情を変えず、穏やかに応じた。
「ああ、久しぶり。元気そうだね。」
内心で蓮は試していた。この10年で、麗花という人間が少しでも変わったのかどうかを。もし心から悔いて、人として変わったのなら、過去は過去として水に流してもいいと思っていた。しかし、美緒へのこの態度で答えはすぐに出ていた。
「本当に変わってないな、こいつは。」
蓮の視線の先で、麗花はちらりと美緒を一瞥し、はしゃぐように鼻を鳴らしたのだ。隣のさやかも、美緒に聞こえるように陰口を続けている。蓮を持ち上げながら、美緒への嫌がらせは何ひとつやめていなかった。
「ねえ、相澤君、今彼女とかいるの?いないなら、私、あなたと付き合ってあげてもいいわよ。」
麗花は勝ち誇った顔で蓮の腕に手を伸ばした。自分の容姿があれば、この成功者も簡単に手に入る。そう信じきった傲慢な笑みだった。
その瞬間――パシン。乾いた音が宴会場に響き渡った。蓮の平手が麗花の頬を打った。10年前、蓮が受けたのと全く同じ音で。
「なんで――」
会場が水を打ったように静まり返った。麗花は頬を押さえ、信じられないという顔で蓮を見上げた。蓮は絶句する麗花を静かに見下ろしていた。怒鳴りもせず、声を荒げもしない。ただまっすぐに彼女を見て口を開いた。
「10年前、お前は俺に同じことをした。汗が飛んだってだけで、俺の頬を張った。覚えてるか?」
「そ、そんな昔のこと、覚えてないわよ。」
「ああ、昔のことだ。だから俺は今日まで黙ってた。人は変われるかもしれない。そう思って、確かめに来たんだ。」
蓮はすぐそばで立ち尽くす美緒に一度だけ目をやった。
「でも、お前は何も変わってなかった。たった今、藤井さんのドレスにワインをぶちまけて笑い物にしたな。成功した相手にはすり寄って、弱いと思った相手は10年前と同じように踏みつける。」
蓮の声は静かだったが、会場の隅々まで届いた。
「お前はさっき俺に言ったよな。昔も言った。『あんたみたいな片親の貧乏は、見下されて当然でしょ』って。人を見下されて当然の存在だと思ってる。その考え方が、何ひとつ変わってないんだよ。」
麗花の顔が曇っていった。周囲の同級生たちがざわめき始める。その視線はもはや蓮ではなく、麗花に集まっていた。
「ち、違う。私は――」
「人を見下すものは、いつか自分に帰ってくる。今日のこれはその報いだ。」
かつて麗花が放った「見下されて当然」という言葉が、今、全く逆の意味を持って彼女自身に帰っていた。麗花はそれでもまだ立場が分かっていなかった。頬を押さえたまま、必死に笑みを作り、声を上ずらせる。
「待って。誤解よ、相澤君。私、あなたのことずっと気になってて。ねえ、二人で話しましょう。お店予約するから。」
「いらない。」
「お、お金なら私の家、いくらでも。」
「金で人の心が買えると思ってるところが、お前の終わってるところだ。」
蓮は静かに首を振った。
「初めはな、お前らを見返してやる。その一心で体を作り始めた。だが続けるうちに気づいたんだ。これは誰かを見返すためじゃない。10年前に俯いていた自分を、もう一度立たせるための戦いだったんだって。お前にとっての美しさは、人を踏みつけるための道具だった。でもな、本物は誰かを下に見るためにあるんじゃない。お前には一生わからないだろうな。」
そして、ここで会場に一つのざわめきが走った。同級生の一人が声を上げたのだ。
「おい、この人、相澤だろ。ほら、肉体美の大会で優勝したあの人だよ。テレビにも出てる。」
「嘘だろ?あのいじめられてた相澤が?」
蓮の正体がはっきりと知れ渡った瞬間だった。かつて教室の隅で膝を抱えていた少年が、今や誰もが知る成功者として目の前に立っている。その事実が、麗花の敗北を決定的なものにしていった。
「待って、相澤君。あれは、あの頃は私もまだ子供で――」
「28にもなって、お前は今同じことをした。人前で藤井さんにワインをかけて恥ずかしめた。あれは『子供だった』の言い訳が通る話じゃない。」
麗花はもう何も言い返せなかった。すがるように見回した先に、味方の顔は一つもなかった。
ざわめきはやがて、麗花への明確な反発に変わっていった。
「立花さん、昔から相澤や藤井さんのことをいじめてたよな。俺、見てたよ。今のだって、成功した相手にただ手のひら返ししてさ、見ててぞっとしたわ。」
これまで麗花の牽制を恐れ、口をつんでいた者たちが次々と声を上げ始めた。成功者となった蓮の前で、ようやく事実を口にする勇気を得たのだ。女子の一人が、震える声で進み出た。
「私もずっと言えなかった。あの頃、立花さんに逆らったら、次は自分が標的になるって、みんな分かってたから。藤井さんが相澤君をかばった時、本当はすごいって思ったのに、私、何もできなかった。藤井さん、ごめんね。今更だけど、ごめん。」
美緒はその同級生に静かに首を横に振って見せた。恨みはもうなかった。それを切っ掛けに、堰を切ったように声が次々と上がっていった。
「俺、ずっと後悔してたんだ。あの時、蓮がいじめられてるのを見て見ぬふりした。立ち向かうのが怖くて、逆らえなかった。でも結局、それって俺たちも同じだったんだよな。」
かつて麗花という太陽の周りを回っていた人々が、今やその引力を失っていた。
「ちょっと、やめてよ。なんで私が悪者なの?あの子たちがとろいから――」
麗花は周囲を見回したが、もう誰一人として彼女の側に立つ者はいなかった。かつて彼女を取り囲んでいた同級生たちは、今や冷ややかな目で彼女を見ている。ただ一人、水原さやかだけが麗花の隣に残っていた。だが、そのさやかも味方というより、ただ逃げ場を失って立ち尽くしているだけだった。
「どうしよう。みんなこっち見てる。」
「うるさいわね。あんたがなんとかしなさいよ。」
「なんで私が?いつも麗花が決めてたじゃない。私はただあんたに合わせてただけ。」
「今更私のせいにする気?」
長年、強いものの側につくことだけで身を守ってきたさやかは、その強いものが崩れた瞬間、立っていられなくなった。二人は会場の真ん中で孤立していた。10年前、二人がかりで蓮と美緒を追い詰めたあの構図が、そっくりそのまま立場を入れ替えて再現されていた。
その時、美緒が静かに歩み出た。そして、蓮の隣に自らの意思で並んで立った。
「相澤君。」
「藤井さん。」
「ありがとう。でも、もういいよ。これ以上は、私たちがこの人たちと同じ目線に降りることになるから。」
美緒はそこで一度だけ麗花に視線を向けた。
「立花さん、私、あなたを恨んではいないの。ただ、もう二度と誰かを見下す道具に、その綺麗さを使わないで欲しい。それだけ。」
「何を偉そうに――」
麗花はその静かな言葉にかえって打ちのめされたようだった。怒鳴られたなら言い返せた。だが、哀れみとわずかな願いだけを向けられて、麗花は何も言い返せなかった。美緒の言葉に、蓮は静かに頷いた。美緒は復讐の連鎖を望んではいなかった。
蓮は麗花に背を向けた。
「行こう、藤井さん。」
崩れ落ちるように床に座り込んだ麗花と、おろおろと立ち尽くすさやかを残して、蓮と美緒は会場を後にした。二人の背中には、もうかつての怯えはなかった。
同窓会での一件は、麗花の人生を静かに、しかし確実に崩していった。あの夜の出来事はすぐに人に広がった。成功者となった蓮にすり寄り、平手打ちを受けた麗花。そして、彼女が長年いじめの中心にいたという事実。容姿と立場だけを頼りに築いてきた世界は、もろくも音を立てて崩れ始めた。会社では同期から距離を置かれ、彼女を持ち上げていた人間も潮が引くようにいなくなっていった。そんな麗花に最後まで付き添っていたのは、相変わらずさやかだけだった。だが、その関係ももはやかつてのものではなかった。
「ねえ、麗花、私たちこれからどうするの?最近、誰も誘ってくれないし。」
「うるさいわね。あんた、私がいなかったら何一つ決められないくせに。」
「そういうとこ、昔から何も変わってないよね。」
さやかは、麗花に寄り添いながらも、その言葉に冷めた目を向けていた。
ある日、蓮の元に同窓会で再会した友人から電話が入った。
「相澤の耳に入れるか迷ったんだけどな。立花、だいぶ参ってるらしいぞ。通ってたジムも、会費が払えなくてやめたって。」
「そうか。」
「SNSじゃ今も着飾った写真ばっかり上げてるけど、昔の連中はもうみんな静かに離れてるよ。すがる相手を変えては、その度に突き離されてるみたいでさ。」
電話を切った蓮の胸をよぎったのは、勝ち誇りではなかった。ただ静かなやるせなさだけだった。容姿が衰えることばかりを恐れ、それだけにすがって生きてきた人間の行きつく先。それを蓮は誰よりもよく知っていた。それでも麗花は負けを認めなかった。鏡の前に立つ度、自分にはもうそれしか残っていないことを思い知らされる。そして、その「それ」さえ永遠ではないことも。だが、その恐怖を彼女は誰にも見せようとはしなかった。
「藤井美緒、あの地味な女にだけは、絶対に負けたくない。」
誰もいない部屋で呟いたその執着だけが、麗花に残された最後の明かりだった。
一方、蓮と美緒はあの夜をきっかけに、少しずつ距離を縮めていった。最初は同窓会の礼を伝えるだけの短いやり取りだった。それがいつしか、夕食を共にする時間に変わっていった。飾らない店で向かい合って箸を動かしながら、二人は誰にも言えなかった過去を少しずつ分け合った。
「藤井さん、10年前、かばってくれてありがとう。あの時の優しさが、あれからずっと俺を支えてた。」
「うん。私こそ、あの時相澤君がいてくれたから、頑張れたの。」
「一つ聞いてもいいか?同窓会の時、どうして君はあんなに堂々としていられたんだ。あれだけ言われても。」
「だって、私の価値はあの人が決めるものじゃないもの。自分で決めるって、ずっと前に決めたから。」
「かっこいいな、君は。」
「相澤君に言われると、照れるな。」
その言葉に、蓮は自分の中の何かがストンと腑に落ちる音を聞いた。見下される痛みを知る者同士、二人は互いの中に、誰よりも信頼できる相手を見い出していた。やがて二人はごく自然に、生涯を共にすることを誓い合った。灰色だった少年の物語は、こうして温かな色をまとっていく。
だが、物語にはもう一つだけ用意された大きな逆転が残されていた。
それから一年後、蓮と美緒の結婚式の日が来た。親しい人だけを招いた、さやかな式だった。チャペルに柔らかな日差しが差し込む。誓いの言葉を交わした二人を、温かな拍手が包んだ。最前列では母のくみ子がハンカチを目に当て、その隣で恩師である黒田が柄にもなく鼻をすすっている。蓮は隣に立つ美緒の横顔を見た。こんなにも穏やかな時間が自分の人生に馴染む日が来るとは、かつての自分には想像もできなかった。全ては報われたのだ。会場にいる誰もがそう信じて疑わなかった。
その時だった。
バン――。会場の扉が突き破られるように開け放たれた。柔らかな空気が一瞬で凍りつく。着席していた招待客が一斉に振り返った。逆光の中に一つの人影が浮かび上がる。カツ、カツと、ヒールの音だけが静まり返った会場にやけに大きく響いた。
蓮の背筋を冷たいものが走り抜けた。
「まさか、よりにもよってこんな日に、この場所に――」
光の中から進み出たその顔を見て、蓮は思わず息を飲んだ。立花麗花だった。そしてその後ろには、相変わらず水原さやかが付き従っている。麗花はこの一年、見返すためだけに自分を磨いてきたのだろう。あの夜の屈辱を晴らすためだけに、目を覚ますようなシンクのドレスをまとい、いやらしく着こなしていた。
「おめでとう、蓮君。でも、本当にその人でいいの?」
麗花は自信に満ちた笑みを浮かべ、自らの着飾った姿を見せつけるように美緒の前に立った。
「ねえ、見てよ。地味なその子より、私の方がずっと綺麗でしょ。今からでも遅くないわよ。」
「そうよ。麗花の方がずっと――」
会場が凍りついた。あまりの非常識さに、誰もが言葉を失った。招待客がざわめき、席から立ち上がろうとする者もいた。
「か、いい加減にしろ。ここは――」
その蓮を、美緒がそっと手で制した。
「蓮君、大丈夫だから。」
ずっと静かに微笑んでいた美緒が、ゆっくりと立ち上がった。そして、まとっていたウェディングドレスの上半身に手をかけると、その布をすっと剥がした。
「え、美緒――」
その一瞬、蓮の声が漏れ、会場から息を飲む音が漏れた。ドレスの下から現れたのは、極限まで鍛え上げられた美しい肉体だった。一切の無駄がなく、それでいて女性らしいしなやかさを称えた、芸術品のような体。それは世界の舞台でも戦えるレベルの、本物のボディだった。
「だ、何それ?」
麗花の顔から笑みが消え去った。着飾った自分の姿が、その圧倒的な本物の前でひどく安っぽいものに見えた。蓮もまた、誰よりも大きく目を見開いていた。知らなかった。妻がその服の下に、これほどのものを秘めていたなんて。美緒はいつもゆったりとした服で体を包み、自分から見せようとは一度もしなかった。だから夫となる蓮でさえ、今日この瞬間まで気づいていなかったのだ。
「黙っていてごめんね、蓮さん。」
美緒は夫に優しく微笑んでから、まっすぐに麗花を見据えた。その瞳には怒りも勝ち誇りもなかった。ただ静かな哀れみだけがあった。
「私は誰かに勝つためでも、見せびらかすためでもなく、ただ自分自身のために体を磨いてきました。だから大会にも出ないし、ひけらかしもしなかった。本当に大切なのは外見じゃなくて中身だと思っているから。着飾らなくても、自分は自分。それで十分だって、ずっと信じてきたの。」
「そんなだったら、なんで隠して――」
「あなたには分からないでしょうね。見せるために磨くんじゃない。誰に見られてなくても、自分が納得できるかどうか。それだけのために、人は努力できるの。」
麗花は何も言い返せなかった。
「立花さん、あなたは確かに綺麗。それは認める。でも、あなたは外見を飾ることばかりで、一度も本当の自分自身を見ようとしなかった。容姿でしか人を測れなかった。だから、いくつになってもあなたの心は子供のままなんだよ。」
その言葉は、どんな罵倒よりも深く麗花の胸を貫いた。麗花も、さやかも、完全に言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「う、こんなの、見た目じゃない。私は、私は――」
声は震え、最後まで言葉にならなかった。一年かけて磨いた自分の全てが、本物を前に呆気なく崩れていく。麗花にはもう、その場に立っていることさえできなかった。
「うるさい。もう――」
やがて二人は、逃げるように会場を後にした。誰もその背中を追わなかった。
静寂が戻った会場で、蓮は美緒の手をそっと握った。
「すごいな、君は。」
「本当に驚いた?」
「ああ、驚いた。」
その時、母のくみ子がゆっくりと二人のそばへ歩み寄ってきた。涙で潤んだ目で、息子とその妻を代わるがわる見つめる。
「ん、立派になったね。あんたが生きてるだけで、母さんは報われるって、あの時言ったろ。今はもう、報われすぎて言葉にならないよ。」
「母さん、美緒さん、これからは二人で支え合っていきなさい。それが一番の親孝行だから。」
「はい。必ず。」
会場の後方では、黒田が太い腕を組んだままその一部始終を見守りながら、ふっと口の端を上げた。
「よくやったな、坊主。いや、もう坊主じゃねえな。」
黒田はゆっくりと頷いた。どん底にいた、肥満と笑われていた坊主が、家族に囲まれて笑っている。それだけで、師としての心は満たされた。
蓮はふと、あの夜の母の言葉を思い出していた。「お前が生きてるだけで、母さんは報われてる。」あの一言が、どん底の自分を救ってくれた。今度は自分が、その言葉を自分の家族へと、そして次の世代へと渡していく番だ。
努力は、人を見下すためでも、誰かに勝つためでもなかった。それは、俯いていた自分自身をもう一度立ち上がらせ、自分を取り戻すためにあったのだ。そして、誠実に積み重ねたものは、必ずいつか報われる。
窓の外には抜けるような青空が広がっていた。かつて灰色だった世界は、今どこまでも明るく澄んでいた。



