結婚式当日の朝、目を覚ますとスマホに一通のメッセージが届いていた。送り主は、今日結婚式を挙げるはずの婚約者・健太からだった。
「悪いけど、やっぱり離婚してくれ。」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。ドレスも決めて、招待状も出して、式場にはもうゲストが集まり始めている。そんな日に、よりによって。
「え、ちょっと待って。何言ってるの?今日だよ?」
電話をかけ直すと、健太はけだるげな声で答えた。
「いやさ、なんか考えたんだけど。結婚ってめんどくせえだろ。早い方がいいと思って。」
「冗談でしょ。招待客ももう来てくれてるのよ。」
「マジだって。本気で言ってる。」
「式まであと3時間しかないのに、どうして今なの?」
「だから、今のうちに片付けたいんだって。」
片付ける。それが私たちの結婚の話だとは、到底信じられなかった。今日離婚届を出せば、いちばん早く終わる。そう言い放つ健太の声には、迷いが一切なかった。
私は必死に理由を求めた。どうして急にそんなことを言うのか、何かあったのか、どこが合わないと思ったのか。だが、健太の答えはどれも要領を得なかった。
「このまま結婚生活を続けても、お互い不幸になるだけだと思うんだよ。」
「今まで何も言わなかったのに、急にそんなこと言われても分かんないよ。」
「気づいてなかったのは、お前が鈍感だからだろう。」
「じゃあ、どうして式の準備をしている時に言わなかったの?半年かけて準備してきたのに、もうすでにたくさんのものを失ってるのよ。」
「まあ、そういう細かいことはいいじゃん。」
細かいこと。結婚を白紙に戻すことを、細かいことと呼んだのだ。私は怒りと悲しみで頭が真っ白になった。それでも健太は、離婚届はもう書いてあるから、お前も書いてくれと畳みかける。私がごねずに、早く現実を見ろと。
式場はどうするのか、キャンセル費用はどうなるのか、お祝いをくれた人たちには何と連絡するのか。私がそう尋ねると、健太は「それは適当にやればいいじゃん。なんとかなるって」と答えた。
つまり、式場に残されている私に全部を押し付けて、自分は何もせず逃げるつもりなのだ。私はもう、何も言い返す気力がなかった。かける言葉を失って、たった一言だけ返した。
「分かった。いいけど。」
「本当に後悔しない?」
「全然。むしろすっきり。」
その瞬間、私は決めた。この男とは、これで終わりだ、と。
私はすぐに親友のちひろに連絡をした。彼女は今日の式のために、すでに式場に来ていると言っていた。
「ちひろ、どうしよう。健太が急に離婚したいって。」
「え?離婚?どういうこと?結婚式、今日でしょ?」
「式当日の朝に、いきなり離婚届を書いてくれって。もう離婚届は書いてあるからって。」
「は?何それ?ひどすぎる。ありえないんですけど。ゲストも来てくれてるのに、何て言えばいいの?」
「ひなは悪くないよ。私は味方だから。」
その言葉に、私は救われた思いがした。理由を聞かれて、健太が「合わないから、早く決断した方がいい」と言ったこと、今まで何も言ってなかったこと、私は至らなかったのかもしれないとこぼした。ちひろは「ひなは悪くない。健太さんがおかしいだけだよ」と強く言ってくれた。
「もしかして、他に好きな人ができたのかな。」ちひろがぽつりと言った。「推測だけど、他に本命の女性ができて、その人と結婚したいとか。」
そんなはずはないと思いたかった。でも、式当日に突然離婚を切り出す行動を説明できる理由が、他に思い当たらなかった。
私はもう一度だけ、健太と話をすると決めた。まだ好きだったから。諦めたくなかったから。ちひろは「頑張ってね」と送り出してくれた。
30分後、私は健太と直接話した。最後の話し合い。
「もう一度だけ聞くけど、本当に離婚でいいの?」
「しつこいなあ。もう決めたって。」
「私は、あなたと一緒にいても幸せじゃないなんて思ったことなかったけど。」
「まあいいじゃん。離婚届、書いてよ。早くしないと面倒なことになるし。」
面倒なこと。健太は、自分の両親が離婚の時に財産分与で揉めた話をし始めた。結婚生活が長引けば、共有財産が曖昧になって泥沼になる。だから早く別れた方が傷が浅いのだと。
「それなら、なんでそもそも結婚なんて考えたのよ。」
「お前とはいい感じになれるかと思ったんだけど、なんかダメだなって。」
具体的な理由を言わずに、ただ「ダメだな」と感じたから離婚したいのだと言う健太。それは、わがままとしか思えなかった。だが、「これはお前のためでもあるんだよ。俺は優しいだろう」とまで言い出した時、私は完全に愛想が尽きた。
「意味分かんない。でも、分かった。あなたの気持ちが変わらないなら、私もこんな人とは一緒にいたくない。離婚届に書くよ。」
「お、やっと分かってくれたか。さすが話が早い。」
私はそれ以上、何も言わなかった。
同じ頃、ちひろから「大丈夫?話し合いはどうだった?」と連絡が来た。私は式場の控え室で、彼女にすべてを話した。結局離婚することになったこと、健太が「離婚は私のため」と言い出したこと。ちひろは「本当に信じられない」と怒ってくれた。
「ねえ、ちひろ。確か式場に来てるよね。ごめん、話聞いてくれないかな?」
「大丈夫。すぐ行くね。控え室に行ったらいい?」
「ごめんね。無理しないでね。あなたも大事な時期なのに。」
ちひろはお腹に赤ちゃんがいる。シングルマザーになることを彼女から聞かされていた私は、気を使わせてしまって申し訳なかった。だが、ちひろは「いいってことよ。私も参考にさせてもらうし」と笑った。
「参考?」
「もしかしたら、今彼とは結婚できるかもしれないからさ。もし浮気されたら、どう動くかの予習みたいなものよ。だから気にしないで。」
ちひろはそう言って、すぐに控え室へ向かうと言ってくれた。
その30分後。ちひろは、健太と会っていた。式場の裏手、人目のつかない場所で。
「健太、向なと会ってきたよ。」
「は?何してんだよ、一体。俺らの関係がバレたらどうすんだよ。」
「だって、話を聞いてほしいって呼び出されたら、親友として行かないわけにはいかないでしょ。」
「怪しまれなかったか。」
「完全に落ち込んでてさ。全然気づいてないみたい。ちょろいよね。」
「まじか。それならいいか。」
ちひろは、健太の浮気相手だった。私の親友でありながら、私の婚約者と関係を持っていた。そして二人は、私が彼らの関係に気づいていないのをいいことに、離婚が成立するのを待っていたのだ。
「健太ちゃんと約束してくれてよかった。」
「当たり前だろう。責任は取るって。」
「にしても私って天才かも。演技力すごいでしょ。ひな、私のこと完全に信じてるし。」
「あいつばっかだよな。俺らの脇にも気づかなくて。」
「あとは離婚届を出すだけだね。楽しみ。」
「俺もお前と堂々と一緒にいられるし。やっと俺たちの時代が来るな。」
「うん。待ってたよ、この日を。」
翌日、健太は離婚届を出してきた。「これでお互い自由だな」と、晴れやかな顔で言った。
「そうだね。ところで、一つ確認したいんだけど。」私は冷静に切り出した。「離婚届の婚姻日、見た?」
「婚姻日?何それ?」
「結婚した日よ。法的にね。」
「え?そんなの昨日だろ?」
「式を挙げる予定だったのは昨日。でも私たち、1年前に婚姻届を出してるよね。式はちゃんとしたいからって、入籍だけ先にしたの。忘れてない?」
健太の顔色が変わった。私は続けた。
「一緒に出したのに、忘れるなんてひどいわ。でも、そういえばあなた、結婚式を挙げて初めて夫婦だとか言ってたわね。書類一枚じゃ結婚した感じがしないって。それで忘れてたのかしら?」
つまり、私たちは法的にはすでに1年間、完全な夫婦だったのだ。離婚する時に結婚期間が長いと面倒だから、早く終わらせたかった。その健太の計画は、最初から崩れていた。
「そして、私はそのことを覚えていたのに、あっさり離婚届にサインした。おかしいと思わなかった?」
健太は言葉を失った。私は続けた。
「あ、ごめんなさいね。私もあなたに嘘をついてたの。実は私も同じだったのよ。早く離婚したかった。だから承諾したの。」
「は?どういうこと?お前も離婚したかったのか?」
「ええ。でも、ただ離婚するだけは嫌だったから、色々と考えていたの。でも、まさに最高のタイミングであなたが離婚を言い出してくれて、助かったわ。」
私は笑った。健太は目の前が真っ暗になるような思いで、私を見つめていた。
「一応、最後の情けで本当に大丈夫かって聞いたけど、あなたが大丈夫って言うから、そのまま進めたのよ。式場のキャンセル費用とか慰謝料のこと、心配だったけど。でも大丈夫そうで安心したわ。」
「ちょっと待てよ。式場費用は折半だったんじゃないのか?誰がそんなこと言ったんだよ。」
「私は一度も了承してないわ。あなたが勝手に言っただけ。結婚式が中止になったのは、あなたが一方的に離婚を言い出して、さらに式場にすら来なかったからよね。誰がどう見てもあなたが悪いし、式場もあなたにキャンセル料を請求するって。」
「いや、待てよ。金はお互い折半だったんだぞ。ならキャンセル料も折半じゃないとおかしいだろ。」
「今さらあなたの意見を聞くつもりはないわ。先にそうしたのは、あなたでしょ。」
私は健太を見つめた。彼は、私が泣いて引き止めると思っていたらしい。だから、こんな朝に突然離婚を言い出せたのだ。私をどれだけ舐めていたのか。
「これから式場費用と慰謝料、全部請求するわ。弁護士さんが計算してくれたけど、合計で八百万円くらいかしら。」
「八百万?そんな金、ないよ。」
「知らないわよ。あなたが勝手に決めたことの責任は、自分で取ってね。早い方がいいんでしょ?早く払ってもらえると助かるわ。」
「それなら、せめて分割で…」
「弁護士さんと相談してね。私はもう関係ないから。」
健太は、私が最初からすべてを知っていたのかと問い詰めた。私はあっさりと認めた。
「当たり前じゃない?まさか式当日に離婚要求してくるなんて思わなかったけど。いやあ、あなたは内心ヒヤヒヤしてたでしょ。なんせ、私が浮気相手を招待してたから。」
「あ、な、何言って…」
「ああ、彼女に弱音を吐いてたのも全部演技だったから、本気にしないでね。私が『何が悪かったんだろう』って泣いてみせたら、あなたに報告してたでしょ?」
健太は震えていた。私は畳みかけた。
「あなたがいくつか情報をくれたら、もしかしたら慰謝料を減額してあげてもいいわよ。」
「本当か?」
「話す気になった?」
「話す。全部話すから。」
こうして健太は、浮気の事実をすべて白状した。ちひろが妊娠したと言い、離婚しないと産まないと脅されたこと。三か月前から週に二回、駅前のホテルやちひろの家で会っていたこと。私はそのすべてを録音して、弁護士に渡した。
一時間後。私はちひろと会っていた。
「ちひろ、ありがとう。色々と相談に乗ってくれて。」
「どういたしまして。元気出た?」
「うん。おかげですっきりしたよ。」
「よかった。」
「ところで、一つ聞きたいことがあるんだけど。親友の私を裏切って、私の夫と浮気してた理由、教えてくれない?」
ちひろは一瞬、笑顔を凍らせた。私は構わず続けた。
「とぼけなくていいよ。探偵さんに調べてもらったの。あなたと健太が写ってる写真、ホテルに入るところ、全部証拠として押さえてあるわ。」
「そ、それは誤解よ。何かの間違い。私が浮気なんてするわけないでしょ。」
「五回。三か月前から週二回、駅前のホテルに入ってたのが五回。結婚式の準備を手伝ってくれてた時も会ってたよね。用事があるって断った日も、一緒にいたでしょ。」
「いや、待って…。全部知ってたって言うの?」
「ええ、知ってたわ。私が弱音を吐いてたのも、全部演技だったの。泳がせてただけ。」
ちひろは青ざめた。私は、彼女が言った言葉をそのまま返した。
「『ひなは悪くないよ。私が味方だから』って言ってくれたよね。親友でしょ。でも、裏では私の夫と会ってたわけだ。私が『もう一度やり直したい』って言った時、どう思った?内心笑ってたんでしょ?『気づいてないなんてバカだな』って。」
「違う。そんなつもりじゃ…」
「健太に報告してたよね。さっき、LINE全部見せてもらったよ。慰謝料に釣られて、あなたを売ったのよ。そんな男よ、あいつは。」
ちひろは涙を浮かべた。だが、私はもう彼女の涙を信じなかった。
「それにしてもひどいわね。『完全に落ち込んでてさ、全然気づいてないみたい。ちょろいよね』って、よく言えたものだわ。さすがにそこまで性格が悪かったとは知らなかったわ。」
「やめて、お願い。」
「私はね、不思議だったの。健太はそこまでバカじゃない。少なくとも、結婚式当日に離婚なんて馬鹿げたことをしたのが不思議だった。だから理由を聞いたけど、ひどいわね。子供を盾にするなんて。」
「仕方ないじゃない。赤ちゃんには父親が必要だもの。」
「あなた、本当は妊娠してないでしょ。」
ちひろは言葉に詰まった。私は続けた。
「先週、SNSでお寿司を食べてるの見たわ。生ものは食べちゃダメなのよね。」
「違う。本当に妊娠してるの。生ものも少しは…」
「そうでも、決定的な証拠もあるわよ。あなた、今日のドレス、素敵だったわね。妊婦さんは、そんなにお腹を締め付けるようなデザインのドレスなんて着ないわよ。」
ちひろは何も言えなかった。私はさらに追い打ちをかけた。
「こんな分かりやすい嘘をついても、どうせそのうち『お腹の子は天国に行きました』って言い逃れするつもりだったんでしょ。違うなら、母子手帳を見せてほしいんだけど。」
「それは個人情報だから見せられないわ。」
「だって、嘘だもんね。」
ちひろは、私が親友だと思っていたと言った。結婚式の準備も手伝ってくれて、嬉しかった。でも、すべて嘘だったんだね、と。ちひろは泣きながら言い訳を並べた。
「だって、ひなはいつも私より幸せそうだったんだもん。高校の時も、私が好きだった人をひなに取られたし。」
「あれは自然に付き合っただけでしょう。私があなたの好きな人を知ってたと?」
「でも、でも今回くらい、私がひなから奪ったっていいでしょ。悪いけど、健太は私を選んだんだよ。」
「選んだ?健太はあなたに脅されたから離婚しようとしただけよ。それって選んだって言うの?その切り札がなかったら、私と結婚してたのよ。最低だね。」
私はちひろを見つめた。
「もういいわ。慰謝料を請求するから、覚悟しておいて。式場費用の半分と、精神的苦痛に対する慰謝料、合わせて五百万円くらいかしら。」
「そんな金額、払えるわけないじゃない。」
翌日。健太は私に電話をかけてきた。声は掠れていた。
「お前のせいで全部終わった。式場費用300万、慰謝料500万。お前との遊びに使った金も返せって言われてる。親からも勘当寸前だ。」
「私のせい?離婚したいって言い出したのはあなたでしょ。私は妊娠してるって言っただけじゃない。」
「妊娠も嘘だったくせに。お前が変なこと吹き込むから。」
「私はあなたに『離婚しないと下ろす』なんて言ってないわよ。あんたが勝手に焦っただけじゃない。」
「お前が妊娠してるって言ったから…」
「それで私のせいにするの?勝手に信じた方が悪い。もう連絡してこないで。」
数ヶ月後。健太はまた私に連絡をしてきた。今度は泣きそうな声だった。
「頼む。慰謝料を減額してくれないか。式場費用と合わせて800万。もう払えない。」
「弁護士さんと相談してください。私に言われても困るわ。」
「会社でも噂になって、左遷された。給料も天引きになってる。」
「そりゃ、給料天引きになってるんだから、バレるでしょうね。」
「親からも顔も見たくないって言われて。」
「結婚式に親も来てたんだから、当然でしょ。」
健太は、ちひろが自分を誘惑したのが悪いのだと、最後まで人のせいにしようとした。ちひろも同じだった。彼らは二人とも、自分が選んだ道の責任を、他人に転嫁することしかできなかった。
私がちひろに最後に言った言葉は、これだった。
「私はもう関係ないよ。あなたのこと、大嫌いだったけど、あなたは全然気づかなかった。私を見下していたけど、騙されていたのはあなただったのよ。まあ、今さら気づいても遅いけどね。」
その後、二人には高額な慰謝料請求が来た。それぞれ親や職場から見放され、助けてくれる人は誰もいなかった。健太は仕事に集中できず、職場で大きなミスを連発し、給料は天引きで手元にほとんどお金が残らず、極貧生活を強いられた。ちひろは借金をして慰謝料を返したが、返済のために夜の仕事を始めた。しかし、うまくいかず、苦しい生活の中、誰にも相手にされず孤独だと聞いた。
私はと言えば、これまで通り生活している。あの騒動の後、本当にたくさんの友人が私を心配してくれた。「大丈夫?」「何かあったら、いつでも連絡してね」って。中には、泣きながら「辛かったよね」と抱きしめてくれた子もいて、その時初めて気づいた。本当の友情とは、こういうものなのだと。ちひろとの関係は、最初から間違っていたのだと。
今は毎日が穏やかで、特別なことは何もない。でも、信頼できる人たちに囲まれて、誰にも裏切られない日々。それがどれだけ幸せなことか。
あの結婚式があったからこそ、今の私がある。本当の友達を見つけられて、本当に良かった。そう思いながら、私は前に進んでいこうと思う。



