診察室を飛び出した瞬間、医者の言葉が頭から離れなかった。「ご主人の余命は、あと三ヶ月です」。あまりに突然で、私はその場にいられなくなった。でも夫は驚くほど落ち着いていて、緩和ケアを選ぶと言い切った。私は必死に説得したが、彼の決意は固かった。五時間後、息子の安明が「父さんがこんなことに」と涙をこぼした。私も同じ気持ちだった。ところが夜、夫から電話が鳴る。「実は、俺にはずっと愛人がいたんだ」。そ…

診察室を飛び出した瞬間、医者の言葉が頭から離れなかった。「ご主人の余命は、あと三ヶ月です」。あまりに突然で、私はその場にいられなくなった。でも夫は驚くほど落ち着いていて、緩和ケアを選ぶと言い切った。私は必死に説得したが、彼の決意は固かった。五時間後、息子の安明が「父さんがこんなことに」と涙をこぼした。私も同じ気持ちだった。ところが夜、夫から電話が鳴る。「実は、俺にはずっと愛人がいたんだ」。そ...

「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい。これからのことを話し合わなければならないだろう」

裕子は診察室を飛び出していた。医者から夫の工事に残された時間が三ヶ月だと告げられた瞬間、どうしてもその場にいられなかったのだ。

「ごめんなさい……でも、そこまで裕子が取り乱すとはな」

「あなた、どうしてそんなに落ち着いていられるの? あなたが三ヶ月だって言われたのよ」

工事は静かに、しかし確かな覚悟を込めて言った。

「どこかで覚悟していたところがあるんだ。ずっと命を削って会社を大きくしてきた。おかげでたくさんの社員を抱える大きな会社に育った。でも、こんな生き方をしていたら長くはないだろうなと思っていたんだ。ずっとけだるさが取れなかった時、いよいよお迎えが来たかと思った」

「でも私も安明も、あなたともっと一緒にいたかったわ」

「そう思ってくれるのはとても嬉しいよ。俺は素敵な家族に恵まれたと思っている」

「やめてよ。まだ諦めちゃだめよ。胃癌で末期なんでしょ」

「悪あがきはしたくない。医者からは延命治療か緩和ケアか、どちらかを選べと言われている。俺は緩和ケアを選ぼうと思う。これから数ヶ月、寿命が伸びたところで意味はない。残された時間をゆったりと、大切な人と共に過ごしたい」

「どうしてそんなに諦めてるのよ」

「お前の気持ちは分かるよ。立場が逆だったら、俺も同じように感じたはずだ。でも、これは自分のことだ。自分でけじめをつけるつもりだ。これから先は、残された人たちのために時間を使いたい。お前には苦労をかけるかもしれないが」

「そんなこと言わないでよ。私はずっとあなたの妻なんだから。苦労なんてあるはずがないわ」

「ありがとう。それじゃあ、会社のことやこれからのことを話し合う必要があるな」

「今から安明を病院に呼ぶわね」

「いや、あいつは仕事が忙しいだろう。こんなことでわざわざ呼ぶ必要はないよ」

「こんなことじゃないわよ」

「LINEでいい。できれば俺も、あいつの辛そうな顔を見たくないからな。それに俺から直接伝えるよ」

「いいの?」

「安心しろ。男同士でゆっくり話をするさ」

「わかった。それじゃあ早く診察室に戻ってきなさい。これからのことをちゃんと話し合いましょう」

五時間後。裕子は階下から声をかけた。

「安明、ご飯ができてるわよ。早く下で一緒に食べましょう。お父さんは?」

「それが、用があるって言って出ちゃったんだよ。心配だから一緒に行くって言ったんだけど、まだまだ元気だから心配するなって」

「そう……」

「母さん、俺、辛いよ。どうして父さんがこんなことになるんだ?」

「安明……それは私も同じ気持ちよ。神様って本当に残酷なことをするわね」

「俺は父さんに親孝行の一つもしてあげられなかった。孫の顔も見せられなくて」

「あなたはお父さんの後継ぎになれるように仕事を頑張っていたからね。結婚どころじゃなかったのは、お父さんだって分かっているわ。あなたを責めるような人じゃないって、分かってるでしょ」

「会社としては、次の社長を決めることになるよな」

「そうね。お父さんはあなたを後継にすると思うわ。昔から息子に継がせたいって話していたから」

「俺なんかに、父さんの後釜が勤まると思う?」

「あなたなら大丈夫よ。だって、そのために勉強も仕事も頑張ってきたんだから。あなたなら絶対になれるって、私は確信してるわ」

「そうか……」

「分かったら、早く降りてきなさい。お父さんにも私から連絡して、帰ってくるように言うから。家の中ではあまり暗い顔をしないようにしましょう。できるだけ明るく送ってあげるのがいいと思うから」

「そうだな。分かったよ」

三十分後、工事は会社から裕子に電話をかけていた。

「あなた、気分が悪いとかない?」

「いや、大丈夫だよ。何かあったのか?」

「いや、もう晩御飯の時間だから、早くお家に帰ってきてよ。今日はあなたの好きなビーフシチューにしたから」

「悪いが、今日はちょっと帰らないでおくよ」

「え、何かあったの?」

「本当は大事なことだけ伝えて帰るはずだったんだけど……俺が余命三ヶ月だと伝えたら、泣かれちゃってな」

「もしかして、お友達か何か?」

「実は……俺にはずっと愛人がいたんだ」

「え?」

「ずっと隠し通すつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった。だから正直に話すから、落ち着いて聞いてほしい」

「どういうことなのよ」

「ナツキという人と、ずっと愛人関係だったんだ。ナツキは俺が既婚者だと知った状態で関係を迫ってきた。それで俺は受け入れて、ここまで続いていた」

「ちょっと待って……混乱してて、分からないわ」

「頼むから、今は話を聞いてくれ。実は俺とナツキの間には子供がいるんだ。直と言って、今年で二十六歳になる」

「二十六の子供なの?」

「そうなんだ。大切な俺の息子だ。直とはうちの子会社に入社させて、実務経験を積ませてある。その直を社長に据えることにするよ。本当はもっと時間をかけて実績を積ませて、誰にも文句を言わせない状態で引き継ぎたかったが、こうなっては仕方がない。多少は強引な方法を使わないとな」

「信じられない……そんなに長い間、私たちのことを裏切ってたの?」

「怒る気持ちは当然分かる。どう考えても悪いのは俺だからな」

「それで、余命を愛人に伝えに行ったら泣きつかれて、帰れないってこと?」

「そうだな。だから今日はナツキと一緒にいてあげたい」

「ふざけないでよ。どうしてそんなことを今更言うの? そんなに長い間裏切られ続けてたなんて、知りたくなかったわ」

「悪い。でも、いつかは話さないといけないと思っていたんだ」

「はあ……なんで会社のこれからのことを話すと言っていたの?」

「ええ、俺はもう長くない。そこで会社の後継は直に任せることにした」

「何を言ってるの? なんでそっちなのよ。普通は安明でしょ。なんで愛人の子供になるのよ」

「俺は愛人だとか、そんなのは気にしていない。出会ったタイミングがお前よりも後だったというだけだ。どちらかを贔屓なんてしたくないんだよ」

「じゃあなんで、愛人の子供なのよ」

「お前たちは俺の家族として、どれだけ甘い汁を吸ってきた。ナツキたちはずっと日陰にいて、苦しい生活をしてきたんだぞ。だからせめて俺の死後は、いい暮らしをさせてあげたいんだ」

「それでバランスを取るって言ってるの?」

「そうじゃないと、ナツキたちがかわいそうだろうが」

「私たちのことは、何も考えてくれてないってわけ?」

「十分、お前たちの世話はしてきた。お前にはいい生活を与えて、安明にはいい教育と仕事だって与えてきた。あいつがうちに入れたのだってコネだよ。そうやって世話をしてきたことを忘れるな」

「世話って……なんでそんな上から目線なのよ。私たちは家族なのよ。支え合うのは当然じゃない。子供のために親が尽くすのなんて当然でしょ」

「だったら直だって、同じようにいい思いをしてもいいはずだ。あの子は俺の後を継ぎたいと思って、仕事を頑張っていたんだ」

「そんなのは関係ない。俺の会社なんだから、俺の好きなようにしていいはずだ」

「それ、本気なのね」

「別にお前たちをないがしろにしているわけじゃない。俺はただ、どちらも大切にしたいと思ってるんだ」

「それが大切にしてるって、本気で思ってるの? それに相続も、裕子たちには一銭もやらんってこと?」

「分かってくれ」

「私たちがずっとお金をもらってたからってことね」

「そういうことだ」

「そう。分かったわ。素直でありがたいわね」

「それじゃあ、今日は帰らないのね」

「ああ。頼むよ」

「それなら、今日だけと言わず、ずっとそっちにいてもいいわよ」

一時間後、玄関のチャイムが鳴った。裕子が扉を開けると、見知らぬ女が立っていた。

「あんたのせいだからね」

「え……どちら様ですか?」

「あんたのせいで、私の大好きな工事さんがあの世に行っちゃうじゃない。どうしてくれるのよ」

「もしかして、ナツキさんですか?」

「そうよ。あんたがしっかりと工事さんを見てあげてれば、癌にも気づけたはずよ。それなのに、バカみたいに暮らしてるから」

「勝手なことを言わないでください。私だって気づけるものなら気づきたかったですよ」

「工事さんのお金でぬくぬくと暮らしてたはずなのに、こんな大事なことにも気づけないなんてね」

「あなたは愛人として、苦しい生活をされていたんですってね」

「何をバカにしてるの?」

「そうじゃないですよ。ただ、既婚者である夫に近づいた時点で、そうなることは想像できなかったんですか?」

「うるさいわね。でもこれからは立場が逆転よ。直が会社の社長になるんだから」

「それを受け入れてるんですね」

「当たり前でしょ。うちの子は優秀なんだから。会社でも、みんなからすごく頼られてるのよ」

「それは素晴らしいことだと思いますが」

「うちの息子が社長になったら、真っ先にあんたの息子を首にしてやるからね。親子揃って路頭に迷いなさい」

「随分な逆恨みをしているようですね」

「私はあんたのことがずっと大嫌いだったんだから、当然でしょ。地獄を見せてあげるからね」

一週間後、工事の元に裕子から連絡が入った。

「ねえ、ナツキさんの家の住所を教えてよ」

「裕子、おかしなことは考えないでくれよ。殴り込みなんかしても、何も変わらない。できれば俺は穏やかに最後を迎えたいんだ」

「勝手に波風を立てておいて、よくそんなことが言えるわね。でも安心してよ。そんな乱暴なことはしないわ」

「じゃあ、何をするつもりだ?」

「そっちの家に離婚届を送らせてもらいたいのよ。私はもうサインしてるから、早めに出しておいてね」

「裕子、離婚なんて俺は考えてないよ」

「バカ言わないで。あんたの妻なんて、今すぐにやめたいの。あんたがあの世に行く前には離婚したいから、早くして」

「ちょっと待ってくれ。俺のやったことが悪いのは分かってるよ。だけど離婚なんて、そんなことはしなくていい。俺があの世に行ったら、別れたことになるから」

「あんたの死亡届での最後の妻が私ってのは嫌なのよ。ナツキって人にしてよ。だから別れてちょうだい」

「離婚なんかで、俺の貴重な時間を奪うなよ」

「弁護士にお願いすれば、あんたは何もしなくても勝手に離婚することができるわよ」

「別にしなくてもいいだろう」

「あんた、どうせ遺言書とかで、私たちには一円も遺産は渡さないとか書くつもりでしょ。まあ、そんなのは無理だけど、もらえる額が少なくなるのよね。だったら財産分与と慰謝料をもらった方がマシだと思って」

「結局は金か」

「裏切られた分の罪滅ぼしをしてもらいたいだけよ。それがお金しかないから、仕方なくこの方法を取ってるっていうだけ。私たちを裏切り続けたことを後悔してほしいからね」

「俺はどちらも愛していたんだよ」

「そんな理屈が通じるなんて思わないで。いいから離婚をしなさい。揉めたら揉めただけ長くなるのは分かってるでしょ?」

「本気なのか?」

「そうだって言ってるでしょ。それに、息子を後継にするのなら、正式な妻との間の息子っていう方が良くないかしら?」

「それは確かに、そうかもな」

「だったら直君のためにも、離婚した方がいいわよ」

「お前が直のことを考えてくれるなんてな……子供には罪がないからね。分かった。離婚に応じるよ。でも俺は、お前たちのことを大切に思ってるからな」

「そう。私たちはもう、あなたのことなんて何とも思ってないから。そっちの家族と仲良くやったらいいわ。二度と私たちとは関わらないようにしてね」

一週間後、取締役会が開かれた。安明は工事の前に立っていた。

「今までお疲れ様でした。これからは会社のことは俺たちに任せて、家族との時間を大切にしてね」

「これはお前の仕業か?」

「何が?」

「俺は直を次期社長にする予定だったんだぞ」

「お父さん、残念だけど、それは無理な話だよ。この会社は大きい。普通に考えて、本社の社員でもない人間に経営なんてできるわけない」

「それは周りの人間が支えればいいだけのことだろう」

「でも、それを取締役の人たちが許すわけがない。彼らも生活がかかってるんだから、そんな無謀なことはするわけがないんだよ」

「あいつら、俺の意見を無視して勝手に別のやつを社長にしやがって」

「そうなるのは当然だよ。俺は直を社長にするために、裕子と離婚をして高い慰謝料を払うことに同意したんだぞ」

「そうだね。でも、母さんだってそのことは分かってたよな」

「何を言ってる?」

「偉そうに話していたけど、俺も父さんと同じで、代表取締役は取締役会で決まるというのは知らなくてさ。俺が次期社長になるのかなって本気で思ってたんだ。それを先輩に相談したら、ありえないって言われてね。そこで俺もそのルールを教えてもらったんだ。だから俺は専務や常務に事情を伝えて、すぐに緊急の取締役会を開いてもらった。どうせあんたのことだから、金でも使って取締役たちを買収でもしようとしていたはずだからね」

「お前、そこまで察していたのか?」

「普通に考えて、取締役たちが納得すると思えないからね。何か作戦があるんだろうとは思ってたよ。強引な方法を使うとか、母さんに言ってたみたいだからな」

「お前がそんな風に動いてると分かっていたら、離婚なんてしなかったぞ」

「ああ……でも、そんなのこっちには関係ないよ。不倫したんだから、離婚したいと言われるのは当然だし、慰謝料を払うのだって普通だ」

「直のために、社長のポストを用意しようと思ったのに」

「俺は心から父さんのことを尊敬していたよ。だから父さんが長くないと知って、本当に辛かった。でも……そんな気持ちはもうなくなってしまった。あんたのここ最近の立ち振る舞いは、愚かだし惨めだよ」

「お前、誰に口を聞いてるか分かってるのか?」

「分かってるよ。家族を長い間裏切ってた不貞野郎に言ってるんだ」

「お前、これ以上、無駄なことをしない方がいい。できるだけ多くの人に尊敬されてあの世に行きたいだろう。だったらこの先は何もせずに、家で大人しくしていてくれ」

「俺の力を使ってこの会社に入った人間が、偉そうに」

「一応俺は頑張って勉強もしたし、働きもしたつもりだったよ。でも、父さんのおかげで入れたのも事実かもね。それでも俺は父さんの後を継ぐように、会社で成果を上げようと頑張ったよ。周りからは親の七光だと馬鹿にされることもあった。でも、そういう人たちも黙らせるくらいに、俺は結果も残してきたつもりだ。お父さんは知ってるだろうけど、来月から俺は課長に昇進することが決まっている」

「ふ……それがなんだ? 大したことないぞ」

「かもしれないね。でも俺は着実に目標に向かって前進してる。あんたのような経営者になることが前までは目標だったけど、今は違うよ。あんたを超える経営者になるのが俺の目標だ。まあ、家族を裏切るようなやつを超えるなんて、簡単すぎる目標かもしれないけどね」

「なめたことを言うな」

「とにかく、これからは新しい人たちで会社を切り盛りしていくよ。だから父さんは安心して、不倫相手とその息子と穏やかな時間を過ごしてよ。そして俺たち家族のことは忘れてくれ。俺はもう、あんたのことを家族なんて思ってないからさ」

一ヶ月後、工事は入院していた。裕子の携帯に着信が入る。

「裕子、もうお迎えが近そうだ」

「何? 私に連絡なんてしてこないでよ。こっちはもう、あなたとは無関係なんだから」

「そんなこと言うなよ。昨日から入院することになったんだ。病院の名前を送るから、お見舞いに来てくれ。お前と安明の顔を見せてほしいんだ」

「いやよ。私たちは家族でも何でもない。そんな私たちと会ってる時間なんて無駄でしょ」

「そんなことない。お前たちも俺の家族だ」

「あなたがそう思うのはご自由にどうぞ。私たちはもう、あなたのことを家族だと思ってない。だからお見舞いになんて行かないから。それに私たちが行ったら、ナツキさんが嫌がるでしょう。穏やかに最後を迎えたいのなら、変なことはしない方がいいわ」

「ナツキたちとは、会ってないんだ」

「はあ? どういうこと? 結婚したんじゃないの?」

「結婚はしたよ。お前と離婚してすぐにな。でも、財産分与と慰謝料でお金が半分以上なくなったこととか、社長にさせてあげられなかったことを説明すると、どんどん冷たくなっていってね。あいつらの住んでるマンションからも追い出されて、一人でずっと生活をしていたんだ」

「そうだったんだ……結局あいつらも、俺の金目当てで近づいていただけなんだ。それが今更分かったよ」

「まあ、それはかわいそうだと思うけど。でも、同情はしないわよ」

「俺にはもう、お前たちしかいないんだよ」

「私たちも家族じゃないって言ってるでしょ」

「俺が間違っていたよ。許してくれ」

「なんですって? あんたが長年私たちを裏切ってたくせに、許せなんてよく言えるわね。あんたは余命を突きつけられたから全部をペラペラ話し出したけど、それがなかったらずっと黙ってるつもりだったんでしょ。最後まで私たちを騙し続けるつもりだったくせに、今更謝っても許すわけがないでしょう」

「俺はもう長くないんだ。頼むから、きついことを言うなよ」

「こっちはあんたから裏切られたという傷を抱えながら、これからも生きていかないといけないのよ。辛いのはあんただけじゃない。自分だけを被害者みたいに言うな」

「それはそうかもしれないけどさ……」

「あんたはたった一人で、最後を迎えることになるの。それがあんたが生きた証だと噛みしめなさい。他人を裏切るような奴が、幸せな最後を迎えられるわけないでしょう」

一ヶ月後、ナツキの元に一人の若い男が訪ねてきた。

「ナツキさん、ちょっとお話があるのですが、よろしいですか?」

「誰?」

「安明です。母から連絡先を聞きました」

「どうかしたの? もうあの人もあの世に行ったんだし。私たちは本当に何の関係もないはずよ」

「そうですね。他人で間違いないです。ただ、どうしてもお話をしないといけないことがありまして」

「何よ」

「父はあなたたちに苦労をかけたと話していました」

「そうよ。それが何よ」

「てっきり俺は恵まれてない生活をしてたと思ってたんですが、どうやらかなりいい暮らしをしていたようですね。高級マンションで、あなたは仕事をせずに暮らしてたそうで」

「それが何よ? それくらいは当然でしょ。私はずっと日陰者だったんだから。苦労っていうのは、正式な妻になれなかったというところよ」

「でも、正式な妻になった途端、お見舞いにも行かず別々に暮らしていたそうですね」

「それはあいつが甲斐性なしだからよ。遺産だって本当にちょっとしかなかったし」

「一応は俺と直君とで半分に分けるということになりましたからね。そのせいでこっちの暮らしは大変なのよ。ちょっとお金を私たちに恵んでよ」

「それはできません。そんなことよりも、本題に入らせてもらいます」

「本題って何?」

「父はあなたたちの生活を面倒見るために、会社のお金を流用していたことが分かりました。社長交代の時に経理関連を見直すために会計士に帳簿を見直してもらったんです。その時、不審な支出があったので全てを洗い出したところ、あなたの生活費のために多額のお金が経費として使われていたことが分かりました。ですので、あなたにはそのお金を返還してもらいます」

「はあ? ちょっと待ってよ。私はそんなの知らないわよ」

「知らなかったのはこちらも把握しています。ですので、損害賠償などは請求しません。その代わりに、今ある財産は不当に得たものなので、全て返還してもらいます」

「財産って?」

「あなたが住んでるマンションにある家具、家電、ブランド品など価値のあるものです。それらは全てうちの経費で買われたものなので。それと家賃も、住んでいた全額分を返還してもらいます。多額ってとんでもない額になると思いますが、それは我が社のお金ですので、返還をお願いしますね」

「ふざけるな。私は関係ないわよ。あいつが勝手にやったことでしょ。どうしてその責任を私が取らないといけないのよ。こっちだって被害者なんだから」

「被害者は我々ですよ。あなたは会社の金で甘い汁を吸っていただけです。知らなかったと言っても、それは関係ありません」

「あんた、それで私に復讐をするつもりでしょ? こんなことをしても何の解決にもならないのが分からないの? 子供みたいなことはやめなさいよ」

「何にもならないことくらい分かってますよ。もし復讐をしていいのなら、金を取り返すくらいのことで済ませると思いますか? こっちがどれだけあんたらのせいで傷つけられたと思ってる。俺はまだいいよ。母さんはずっと父さんのことを支えてきたんだぞ。父さんは仕事のためなら家庭を顧みないところもあった。それでも母さんは父さんのためにサポートをし続けた。父さんに相手にされない俺が寂しくならないように、いつも笑顔で接してくれたし、俺が父さんを嫌わないように、父さんがいかに素晴らしいかを話してくれた。だから俺は父さんみたいになりたいと尊敬できたんだ。それもこれも全て、家族のためだったんだ。それなのに、あんたたちのせいでこんな悲しい最後を迎えることになったんだ」

「でも、金をたくさんもらって、いい思いができたんでしょ」

「金なんて、母さんが欲したことは一度もない。あの人が欲しかったのは、幸せな家族の日常だよ。そのために毎日頑張ってくれていたんだ。でもあんたたちは、そんな日常を奪い去った。それは絶対に許されることじゃない。だからと言って、復讐なんて時間の無駄だし、俺はやるつもりはないよ。不当利得返還請求はあくまで会社の人間としてやるだけだ。だからあんたも素直に返還に応じてくれ」

「そんなお金があるわけないじゃない」

「だったら、命がけで頑張るしかないだろう。じゃないと、そっちが親子揃って路頭に迷うことになるぜ」

その後、ナツキはマンションや家具などを全て取り上げられ、さらに多額の返還を請求されることになった。工事から相続したお金も返済に当てたが、それでも足りなかったようだ。焦ったナツキは、普通に働いても無理だからと言って会社を起こし、そこの社長に直を就任させた。しかし、内容は単なる情報商材を高く売り付けるだけの詐欺会社で、利用者から訴えられてしまい、二人揃って逮捕されてしまったそうだ。楽をしていい暮らしをさせてもらっていたから、苦労ができなかったようだ。ある意味ではナツキも被害者かもしれない。まあ、同情は全くしないけど。

一方の裕子は、工事と住んでいたマンションを引き払って、別のところで安明と二人で生活をしている。安明は会社でどんどん結果を残しているようで、社長という目標へ邁進している。裕子はそんな安明を頑張って支えている。ただ、いつかは安明にも結婚をしてほしいと思う。もちろん、工事のように奥さんを裏切るようなことは断じてしてはいけない。ただ、安明にそんな心配はないかもしれない。人を裏切った人間が最後にどうなるかを間近で見ていたからね。工事のことを反面教師にしつつ、できるだけ早くその存在を記憶から消せればいいなと思っている。

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