ショッピングモールのベビー用品売り場で、私は足を止めた。ピンクの小さな服を手に取り、笑い合う男女がいた。男は、私の夫だった。隣の妊娠した女性のお腹に優しく手を添え、新生児用の肌着を選んでいる。夫は、私にはもう五年も見せたことのない顔で、その女に微笑んでいた。震える手でスマホを構えた。すると夫が財布から取り出したカードに、息が止まった。私名義の家族カードだった。私の金で、知らない女の子の服を買…

ショッピングモールのベビー用品売り場で、私は足を止めた。ピンクの小さな服を手に取り、笑い合う男女がいた。男は、私の夫だった。隣の妊娠した女性のお腹に優しく手を添え、新生児用の肌着を選んでいる。夫は、私にはもう五年も見せたことのない顔で、その女に微笑んでいた。震える手でスマホを構えた。すると夫が財布から取り出したカードに、息が止まった。私名義の家族カードだった。私の金で、知らない女の子の服を買...

ショッピングモールのベビー用品売り場で、私は足を止めた。ピンクの小さな服を手に取り、笑い合う男女がいた。男の方は、私の夫だった。トルは、妊娠した女性のお腹に優しく手を添えている。二人は寄り添いながら、新生児用の肌着を選んでいた。夫は、私にはもう五年も見せたことのない顔で、その女性に微笑んでいた。

私は棚の影に隠れ、震える手でスマートフォンを構えた。写真を撮らなければ。証拠を残さなければ。なぜか、考えるより先に指が動いていた。二人がレジに向かい始めた時、我に返った。気のせいかもしれない。けれど、夫が財布から取り出したカードを見て、息が止まった。それは、私名義の家族カードだった。緊急時の支払いに必要だと言われ、私はそれを夫に渡していた。夫は、私の金で、知らない女の子供の服を買っていた。

私はその場から逃げ出し、実家へ向かった。母に写真を見せると、母は黙って一枚ずつ確認した。

「この女性、妊娠しているのね」

「うん。トルの子みたいだった」

「今すぐ電話するわ。全部問い詰める」

立ち上がろうとした私の腕を、母が強く掴んだ。

「だめよ」

「でも」

「今問い詰めても、お金が戻ってくるだけよ」

母は私の目をまっすぐに見た。そして静かに言った。

「知らないふりをしなさい」

私はあ子、三十五歳。病院で栄養士として働いている。夫のトルは三十八歳。大手保険会社で営業部長を務めていた。結婚して十年。最初の五年間は、穏やかで幸せな夫婦だったと思う。子供を望んでいたが、なかなか授からなかった。落ち込む私に、トルは何度も言ってくれた。

「二人でも十分幸せだよ」

私はその言葉を信じていた。

ところが、五年前からトルの帰宅は遅くなった。休日出勤、接待、泊まりの出張。理由はいくらでもあった。

「最近顔色が悪いよ。食事はちゃんと取れてる?」

「営業部長は忙しいんだ。お前は心配すぎだよ」

私は栄養を考えて食事を作り、毎朝弁当を持たせた。スーツにアイロンをかけ、シャツをクリーニングに出した。トルの仕事が成功することが、夫婦の幸せにつながると信じていた。

でも、その裏で夫は別の家庭を作ろうとしていた。

ショッピングモールでトルを見た夜、私は何も知らない妻の顔をして、いつも通り夕食を並べた。

「お帰りなさい」

「おお。今日は仕事だったの?」

一瞬だけ、トルの箸が止まった。

「得意先に顔を出していただけだ」

「そう。お疲れ様」

私は笑った。トルは私の顔をまともに見ようとしなかった。この人は、私が何も気づいていないと思っている。そう思うと、悲しみよりも寒気がした。

翌日、私は母に付き添われて弁護士事務所を訪れた。カードの利用履歴を確認すると、見覚えのない支払いが次々と出てきた。高級レストラン、宝飾店、二人分のホテル代、ベビー用品。それらは半年ほど前から急激に増えていた。弁護士の助言を受け、カードはすぐに止めた。

私名義の預金も確認した。そこで、さらに大きな異変が見つかった。夫婦の将来のために、私が十年間貯めてきたお金。そのうち八百万円が、知らない口座へ送られていた。銀行に確認すると、以前トルに書かせられた委任状が使われていた。保険の見直しに必要だと言われ、私は内容をよく確認せず署名していた。信じていたから。夫を、家族を、そして自分の結婚生活を。

数日後、夫婦で使っていた古いタブレットに、トルのメッセージが同期された。画面に表示された相手の名前は、マリカ。ショッピングモールにいた女性だった。

私はメッセージを保存しながら、一つずつ読んだ。

「マンションどうする?頭金がまだ足りない」

「あ子の貯金から八百万は動かせた。あと一千万くらい出させる。投資の話をすれば信じるよ」

マリカからの返事。

「あ子さん、大丈夫なの?」

トルはこう答えていた。

「大丈夫。あいつは俺を疑わない」

私は画面から目を離せなかった。裏切られたことよりも、私が信じていたことを夫が笑っていたことが、苦しかった。

さらに、別の日の会話にはこう残されていた。

「赤ちゃんが生まれる前に離婚してくれ。分かってる?子供を産めない妻といても仕方ないだろ」

指先が冷たくなった。私たちは何年も子供を望んできた。病院へ通った日も、辛い検査を受けた日も、トルは隣にいた。二人でも幸せだ。あの言葉まで、全部嘘だったのだろうか。

母は私の背中をさすった。

「あ子、今は泣きなさい。でも、この人の言葉で自分の価値まで疑ってはだめ。子供を授からなかったことと、トルが裏切ったことは別の話よ」

私は母の肩に顔を押し付け、声を上げて泣いた。

一ヶ月後、トルが上機嫌で帰宅した。

「あ子、いい知らせがある」

「何?」

「今度、会社で表彰されることになった。営業成績が過去最高だったんだ」

トルは誇らしげに招待状を差し出した。役員会主催の表彰式。会場は都内のホテルだという。

「スピーチで家族への感謝も話すつもりだ」

その言葉を聞いた瞬間、腹の底が冷たくなった。けれど、私は笑った。

「すごいじゃない。もちろん出席するわ」

その夜、母に電話した。

「表彰式へ行くの」

「そこで全部話すつもり?」

「いいえ。大勢の前で怒鳴ったりはしない」

私は答えた。

「ただ、トルが嘘をついたまま表彰されるのを、黙って見ていたくない」

弁護士を通じて、トルの会社には事前に資料を送った。勤務時間中に営業へ行くと偽ってマリカと会っていた記録。妻の財産を架空の投資話で引き出そうとしたメッセージ。金融と保険を扱う会社の管理職として、確認が必要な内容だった。私がトルを失墜させるのではない。トルが自分で積み上げた嘘を、会社へ知らせただけだった。

式当日、会場にはトルの上司や同僚、取引先の人々が集まっていた。壇上でトルの名前が呼ばれる。

「山田徹部長は、年間目標を大きく上回り、過去最高の成績を納めました」

大きな拍手が沸き起こる。トルは胸を張って壇上へ上がった。そしてマイクを握った。

「この結果は私一人の力ではありません。日々支えてくれた部下と、家庭を守ってくれた妻のおかげです」

トルが私へ笑いかけた。会場の視線が一斉に私へ集まる。司会者が気を利かせ、私にもマイクを渡した。

「奥様からも一言いただけますか?」

私は立ち上がった。足が震えていた。母が客席の後方から、私を見ている。私は一度だけ深呼吸をした。

「おめでとうございます」

トルが笑った。

「私は十年間、夫の仕事を支えてきました。毎朝食事を作り、体調を考えた弁当を持たせ、スーツを整えました。帰りが遅くても、仕事だからと信じて待ちました」

会場が静かになる。

「でも、今日、私は夫を祝福するためにここへ来たのではありません」

トルの笑顔が消えた。

「夫婦として、最後の話をするために来ました」

「あ子、何を言ってるんだ」

私はバッグから一枚の写真を取り出した。妊娠中のマリカと、ベビー用品を選ぶトル。

「この赤ちゃんの服を買ったカード、私名義のものよね」

ざわめきが起こった。

「やめろ」

「愛人との新居へ使った八百万円も、私が十年間働いて貯めたお金です。会社には、すでに必要な資料を送付しました」

会場の端にいた役員が立ち上がった。

「山田部長、確認したい事項があります。表彰については、一旦保留とします」

「待ってください」

トルの声が裏返った。私は、持っていた封筒をトルへ差し出した。

「離婚届です。私はあなたを支えたことを後悔していません。でも、私が支えたかったのは夫です。妻の貯金で愛人との家庭を作る男ではありません」

式の後、トルはホテルの廊下で私の腕を掴んだ。

「あ子、待ってくれ。マリカとは別れる。子供ができて、俺も混乱していたんだ。仕方なかったんじゃないか」

私はその手を振り払った。

「あなたが選んだのよ。私に嘘をつくことも、私のお金を使うことも、別の女性との家庭を作ることも。全部、あなたが自分で選んだ」

「俺はお前を嫌いになったわけじゃない」

その言葉に、私は思わず笑った。

「嫌いじゃなければ、何をしてもいいの?私は妻であって、あなたの生活を整える道具じゃない」

トルは何も言い返せなかった。

「あなたが今日失ったのは、表彰ではないわ。十年間あなたを信じた妻よ」

それだけ告げて、私は母の元へ歩いた。母は何も言わず、私の手を握ってくれた。

その後、私は正式に離婚した。使われたお金については、弁護士を通じて返還を求めた。トルの財産も整理され、私名義の預金は守られた。会社では調査が行われ、トルは管理職を外されたそうだ。マリカとのマンション購入も、白紙になったと聞いた。

けれど、その後の二人がどうなったかは知らない。もう、私の人生には関係がないから。

私は実家の近くへ引っ越し、栄養士の仕事を続けている。以前より小さな部屋。一人分の食卓。けれど、誰かの帰りを疑いながら待つ夜は、もうない。

ある朝、母が私の部屋へ来て、二人で朝食を食べた。

「あ子、寂しくない?」

私は少し考えてから、首を振った。

「一人になったわけじゃないよ。私を大切にしない人との生活を、終わらせただけ」

母は静かに笑った。

夫を信じた十年間が、全て無駄だったとは思わない。私は人を信じ、支え、愛することができた。間違っていたのは、その愛情を利用した人だ。だから、もう自分を責めない。誰かの妻でなくても、子供がいなくても、私は私の人生を幸せにすることができる。

今度は、誰かの健康だけではなく、自分の心も大切にしながら。私はこれからを、自分のために生きていく。

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