母さんの職場に電話をかけたのは、たしかに俺の方からだった。でも、かかってきた通知はうるさいし、仕事中に連絡してくるなよと思ったのは事実だ。
「緊急事態だから電話したの。し太、すぐに帰ってきなさい」
「はあ? 緊急事態ってなんだよ」
「泥棒よ。私の部屋が荒らされてて、服もアクセサリーも持ってかれたの。あの人の片身の指輪も」
「親父の片身の指輪か」
「え? どういうこと? し太、あなた何か知ってるの?」
「ミカがブランド物のバッグ欲しがっててさ。金もねえし、母さんの部屋のものを売って買えばってな」
「嘘でしょ……じゃあ、あの指輪はミカさんがもう質屋で売って、ブランドバッグになったっていうの?」
「そういうこった。母さんがパートに行ってる間にな」
「本当に最低よ。あれは私とお父さんの思い出の指輪だったのよ」
「思い出で飯が食えるか。むしろ感謝してほしいわ。断捨離だろ。古臭いゴミを持っててもしょうがないし、部屋も片付いて嫁も喜ぶ。SDGsってやつだな」
「あなたって子はどこまで……これは窃盗犯罪よ」
「はいはい。そうですね。俺が警察に行けば捕まるの? 行く気もないくせに何言ってんだか」
「あなたはお父さんの遺体に言ってたわよ。これからはお父さんの分も自分がし太を見守るって」
「確かに言ったな。見守ってる息子が警察のお世話になるとか。母さんの不甲斐なさに親父もあの世で泣くわ」
「だとしても盗みはないでしょ。普段から事を言うしか脳がないんだから黙ってなさいよ」
「事を言うだけのババアに支えられてるのは誰だ? 俺たちの借金含めて毎月五十万払ってるのは俺だぞ」
「そうね。ご苦労さん」
「ご苦労さんって、あなたたちのせいで払ってるのよ。あなたたちが泣きつくから仕方なく払ってるの。これが支えてもらってる側のすること?」
「LINEでもうるさいババアだな。借金返済ももう来月で終わりだろ。ならもういいじゃん」
「そういう問題じゃないでしょ」
「そんなに嫌なら家から出てけばいいだろ」
「この家は私とお父さんの家よ」
「親父はもういないし、母さんももう六十手前だろ。すぐに俺のものになるんだから、俺の家だよ。借金返済が終わったらもう用済みだしな」
「もういいわ。話にならない」
「あ、出てってくれるの? 助かる」
「少しの間、親戚の家にでも泊まります。今あなたたちと顔を合わせたら手が出そうですからね」
「ババアのへなちょこパンチとか怖くねえよ。ま、その間は広々使わせてもらうわ」
「二度と帰ってこなくてもいいからね」
数日後、母さんが親戚の家に行ったあと、俺とミカは少しだけ反省した。流石に親父の遺品を売ったのはやりすぎだったかもしれない。そう思って、俺は母さんに電話をかけた。
「母さん、この間はごめん」
「は? し太が私に謝罪? 何に? 明日は空から槍でも降ってくるの?」
「勘繰るなよ。母さんが親戚の家に行ってから、俺たちも反省したんだ。ミカもさすがに親父の遺品を売ったのはやりすぎだったって言っててさ。母さんが怒ったのも無理ないと思う」
「それで、謝って終わりにする気? お父さんの遺品はもう帰ってこないのよ」
「分かってる。けど、このままってのも後味悪いだろ」
「後味の悪さが分かるの? そこまで立派には見えないけどね」
「そういうトゲトゲした態度やめろよ。こっちが歩み寄ろうとしてるんだから」
「随分と上からなお言葉ありがとう。それが反省してる人の態度なの?」
「悪かったよ。だから罪滅ぼしをさせてほしい」
「罪滅ぼし?」
「母さんの将来のことを、ミカと真剣に話し合ったんだ。母さん、もうそろそろ限界だろ。還暦間近なのにパートして家のことも全部やって、無駄に広い家の世話までしてる。しんどいんじゃないか」
「あなたたちが老費を一切出さないし、家事も全く手伝ってくれないからね」
「でさ、母さん、施設に入ったらいいんじゃないか」
「は? 施設?」
「将来を考えてみろよ。これから先、母さんの介護が必要になるかもしれないだろ。俺たち素人がやるより、プロに任せたほうがいい」
「だからって施設? 私はまだ病気もないし、健康なのよ」
「そういう人のほうが危ないんだって。いつも健康で元気だったのに、急に……みたいな話は聞いたことくらいあるだろ」
「だとしても早すぎるでしょう。いずれ入るにしても、今じゃなくてもいいはずよ」
「俺は母さんが心配なんだよ。この提案だって、母さんのためにしてるんだぞ」
「単純に私を家から追い出したいだけでしょ」
「そんなわけあるか。今回もそうだけど、今まで母さんには迷惑かけてきた」
「そうね。数えきれないわね」
「だからこそ、今のうちに親孝行がしたいんだ」
「その施設代はどこから出るの?」
「それは母さんだろ」
「親孝行なのに私が払うの?」
「その代わり、施設を見つけたり手続きはこっちでやる。ほら、親父の親友だった健一さんを覚えてるか?」
「ええ、確か不動産を経営されてるのよね」
「その健一さんが、うちを売るのを手伝ってくれるんだ。土地や家込みで一億以上の値がつくらしい」
「ああ、そういうこと」
「なんだよ」
「つまりお金が欲しいってことね」
「違う。俺は母さんを心配してるだけだ」
「家の名義人は母さんなんだから、金は母さんのものだろう」
「それはそうね。健一さんなら信用できるし……分かったわ。少し考える時間をちょうだい」
「了解。前向きに検討してくれよ。あ、そうそう。ミカが仲直りに三人で食事したいってさ」
「それも検討しておくわ」
「オッケー。伝えとく。じゃあな」
数日後、また母さんに電話をした。
「母さん、施設と家の件なんだけど、そろそろ前向きな答えがほしい」
「まだ考えてるわ。というか、どうして前向きな答え限定なの?」
「あ、いや、限定ってことじゃないけど……いくら何でも時間かけすぎだろう」
「まだ数日よ。人生の一大事を決めるんだから、短いわよ」
「急いだほうがいいんだって。健一さんが言ってたんだけど、早めに売らないと家の価値が下がるんだって」
「すぐにどうこうって話じゃないでしょう」
「健一さんが急げって言ってるんだぞ。不動産のプロが言うことを疑うのか」
「私は直接健一さんと話してないからね」
「そのプロから俺は直接アドバイスをもらってるんだ。素人の母さんは俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ」
「それが反省して親孝行しようとしてる人の態度?」
「母さんが話を聞かないから熱くなっただけだよ。とにかく今すぐに決めないとダメなんだ」
「何それ? 怪しすぎるでしょう」
「実の息子が母親のために意見してやってんだぞ。そうやってひねくれた見方するなよ」
「してやってる、ね。じゃあ質問してもいい?」
「ああ、なんだよ」
「どうしてさっきから家を売ることばかり気にしてるの?」
「それは家を売った金がないと、施設に入れないだろう」
「ありますよ」
「え?」
「家だけがうちの資産じゃないのよ。そもそも月に五十万も払ってるんだもの。それをやめれば十分出せるわ。私は安い施設でも構わないわ」
「ふざけんなよ。こっちが下手に出てりゃ調子に乗りやがって」
「あら、優しい息子ごっこはもうおしまい? 空想の息子を見れて楽しかったんだけど」
「そっちがその気なら、俺ももう遠慮しねえ。いいからさっさと施設に入れ」
「いやよ。怖いわね」
「あのな、こっちはもう限界なんだよ。生活態度や金の使い方にいちいち文句言われて」
「私の家で、私の出したお金だもの。私が決めるに決まってるじゃない」
「ミカも言ってたぞ。お母さんと暮らすのは私も限界だって」
「そう、あの子って頭空っぽだからね」
「俺もミカとどう協力して暮らしていくか考えてるんだ。ていうか、施設にはすでに話をつけてある。明日からそこへ行け」
「今日はし太、仕事休みだもんね。大事な休日を使って、そんなことをしてたの?」
「これは決定事項だ」
「私が納得してないのにできると思う?」
「無理やりにでも連れて行って、叩き込んでやる」
「親心が分からない子に育てたのは、親心よ。あなたたちがいつまでも子供で、だらしないから、私は心配で施設なんて入ってる余裕がないのよ。それとも何? 抵抗する私を無理やり連れて行って、警察沙汰にしたい? あなたは警察を呼べないだろうし、施設の方は他の入居者の方もいるから、抵抗する私を見て一切止めないとでも思ってる?」
「母さんは警察を呼ばないだろ」
「呼ばないわね。でも、そもそも私の同意もなく施設側が了承するはずないわ。どうせまだ確定にはできてないんでしょう? 私を連れて行って、なし崩し的に同意させようって魂胆ね。見え見えよ。出直しなさい、バカ息子」
三十分後、俺は健一さんの事務所にいた。
「おい、健一さん、どうなってんだよ」
「どうなってるって、何がかな?」
「あんた言ってたよな。母親思いの息子のふりをすりゃ簡単だって」
「ああ。もしかして施設への入居のことかい?」
「そうだよ。あのババア、全然言うことを聞かないんだ」
「まあ、一旦落ち着きなさい」
「これが落ち着いてられるか。このままじゃ俺の億万長者の夢が……」
「ミカさんから聞いてるよ。君たちが安代さんに残した遺品を売ったって」
「親父の片身の指輪を売ったけど、それが何だっていうんだ」
「冷静に考えなさいと言ってるんだ。自分の亡くなった夫の遺品を勝手に売られたんだぞ。いくら息子相手とはいえ、許せることじゃない」
「それはもう謝ったし。実際に指輪を買い戻して返したのか?」
「もう売れちゃってて無理だったんだよ」
「謝罪の言葉だけで許されると思うのかい?」
「どう言っても、これに関しては終わったことだ。私が君に話を持ちかける前の話だしね。今さら言ってもどうしようもない」
「ちょっと待ってくれ。俺の金は億万長者になれるんじゃなかったのかよ」
「だから落ち着けと言ってるんだよ。その点については、まだ手がある」
「本当か?」
「忘れたのかい? 私は君の父親、幸介の親友なんだ。安代さんとの交流だって深い。私の言葉なら、きっと安代さんも聞いてくれるはずだ」
「そっか。そうだよな。俺が直接、安代さんと話をしよう。施設へ入ったほうが彼女にとっても得だと伝えるよ」
「健一さん。それで本当に一億以上の金額になるんだよな」
「し太君、私はこれでも不動産会社の社長だ。物件を見る目には絶対の自信がある。あの家と土地なら、間違いなく一億を超える売りがつくよ」
「そっか。よっしゃ。あとは、母さんに代理人カードを作らせれば」
「それも私のほうから安代さんに言っておこう。年齢や将来のことを考えて、管理を任せたらどうかとね」
「そうなりゃ、家の金が全部俺の自由に……今から興奮が止まらなくなってきた」
「まだ安心するのは早いよ」
「え? まだ何かあるのか?」
「私が説得すると言っても、君たちの態度も重要だ。今のうちに安代さんに反省している様子を見せておくんだ。無理のない範囲でね」
「了解。健一さん、マジで頼むな。うまくいったら分け前くらいは用意するからさ」
「それはいい。楽しみにしておくね」
一週間後。
「健一さんから話を聞いたわ」
「お? やっとか。てことは母さんも心を決めたってことか」
「そうね。健一さんの話を聞いて決めたわ。あなたの言う通り施設に入って、家は売るわ」
「やっぱりプロの言うことは聞くべきだもんな。母さん、いい判断だと思うぞ」
「そうかもね。それで、これからの手続きは健一さんが言うにはあなたがやってくれるんでしょ? 施設にもすぐに連絡するし、家のことも健一さんが手配してくれるはずだ」
「それだけ? 何言ってんだよ。一番忘れちゃいけないのが代理人カードだろ」
「ねえ、健一さん。代理人カードって、本当に作らないとダメかしら?」
「ダメに決まってんだろ。これは母さんのためでもあるんだぞ」
「私のためね。施設に入った後、支払いはもちろん、いろいろ用事ができることもあるだろう。それを俺が代わりに手続きしてやるんだ」
「別に施設にいても、自分でできるわよ」
「それがいつまで安心してできるんだって話だ。認知能力の確認が取れないと作れないんだぞ」
「らしいわね。代理人カードを悪用されないための予防策でしょ?」
「だからこそ、今作っとかないと後で大変だ。その時困るのは俺じゃなくて母さんなんだからな」
「つまり、し太は私のためを思って言ってくれてると?」
「何度もそう言ってんだろう」
「それじゃあ、早速明日仕事を休むから、さっさと作りに行こうな」
「最後に、これだけは聞かせて」
「最後ってなんだよ。大げさだな」
「本当にこれでいいの? この先どうなっても、後悔はしないわね」
「はあ。何を言うかと思えば。当然だろう。後悔なんてしねえよ。むしろもっと早くこうしておけばよかったわ」
「そう。それがあなたの本心なのね。母さんは施設で楽々生活。俺とミカも、あの女ババアから解放されてすっきり。まさにウィンウィンってやつだな」
「そうね。本当に残念だわ」
「ウィンウィンって言ってんだろ。新規臭い雰囲気出してないで、明日は頼むぞ。大丈夫。もう決心はついたから」
「安心したよ。じゃあよろしく」
一ヶ月後、健一さんから連絡が来て、俺は事務所に呼ばれた。
「し太君、ようやく終わったみたいだね」
「健一さん、そうなんすよ。ついにここまで来たかって感じっすわ。母さんも無事に入居したし、実家も無事に売却できた。私も肩の荷が下りた気分だよ」
「さすが健一さん。仕事が早い。で、どうだったんですか? 家の売却金額はいくらになりました?」
「非常にいい物件だったからね。細かい金額は省くけど、一億五千万で買い手がついたよ」
「一億五千万? え? それマジの話ですよね」
「マジもマジ、大マジな話だよ」
「うわあ、マジか。なんか大金すぎて実感が湧かない。これ、夢じゃないんすよね」
「ああ、間違いなくね。その金額は、きっちり安代さんの口座に振り込んであるし」
「来た。これマジで最高。これから一生遊んで暮らせるじゃん」
「それだけの金額ではあるね」
「実は俺、ついさっき自表を出してきたんすよ」
「それはまた気が早いんだね。だからこの時間に連絡がついたのかな」
「そういうことっす。いやあ、健一さんを信じてよかった。これで車の支払いもできるわ」
「車の支払い?」
「今朝、自表を出して、すぐ車を買いに行ったんすよ。どうせ今に金が入るから、一足早いお祝いで」
「さすがに少し浮かれすぎじゃないかい?」
「ミカのやつも今頃いろいろと買い漁ってますよ。あいつ、ブランド品をポチりまくってたんで」
「まあ、君たちのことだから好きにすればいいと思うけど……そんな一気にお金を使って払えるのかな?」
「いや、何言ってんすか? たった今、俺とミカは億万長者になったんすよ。車代の六百万やブランド品くらい、一括払いすわ」
「君は何の話をしてるんだい?」
「何? 一億五千万の話すけど」
「それは安代さんのお金だよね」
「けど、代理人カードがあれば実質俺の金でしょ」
「残念だけど、その代理人カードはただのプラスチックだよ。お金なんて一円も引き落とせない。ちょっと頑丈なだけのゴミだね。あ、すでに安代さんが利用停止にしてあるはずだから、ね」
「いやいやいや……今、何て言いました?」
「そもそも勘違いしているようだね。私は一度も、その金が君のものになるなんて言ってないはずだよね」
「は? どういうことだよ。なんで母さんが勝手に利用停止なんてできるんだ? これは俺のカードだぞ」
「代理人カードは、あくまで名義人の代理で使えるだけだ。口座の名義人は安代さんだろう。彼女の一存でいつでも停止できるのは、当然じゃないか」
「ちょっと待てよ。話が違うじゃねえか」
「君が勝手に勘違いして、早とちりしただけだ。違うかな?」
「でも、こんなのって……俺は仕事も辞めて車も買ったんだぞ。ミカだって、今頃どれだけブランドを買ってるか」
「君たちが買ったんだろう。なら、どうなろうと自分たちで払うのが筋だ」
「あんた言ってたよな。俺に初めて連絡してきた時、親友の家族を自由にしてやりたいって。あれは嘘だったのかよ」
「嘘じゃないさ」
「じゃあ、これは何なんだよ。俺をあの年寄りババアから自由にしてくれるんじゃなかったのか」
「私が自由にしたかったのは、安代さんだよ。彼女は、みたいな規制中に食いつぶされて亡くなった夫への誓いのせいで、自分を縛ってしまってたね」
「嘘だ。そんなの……」
「私はね、し太君。君の父親から大きな恩を受けたことがあるんだ」
「その恩を返すってのか?」
「親友から受けた恩を、私はその親友の妻に返そう。そう心に決めていたんだよ」
「俺はどうだっていいっていうのか? あんたの親友の息子だぞ」
「君はね、自分を冷静に客観視したほうがいい。恩を返す相手くらいは、私にも選ぶ権利はあるだろう」
数日後、俺は母さんに電話をかけまくっていた。
「母さん、頼むから連絡してくれよ。俺たち、このままだと……」
「本当にしつこいわね。何度も電話してきて、施設まで押しかけてきて。私はあなたには会わないと職員さんに伝えたはずだけど」
「緊急事態に息子を無視とかやめろよ」
「でもよかった。頼む。母さん、助けてくれ」
「どの口が言ってるの?」
「実は仕事を辞めちゃって。健一さんから聞いてます。手元に金が入ると勘違いして自表を出したんですってね。俺はすぐに会社に連絡したんだ。自表を取り消してほしいって。けど、まあ、一方的に取れたし、突然の自表だからね。会社としてもそんな人はいらないんじゃないかしら」
「そうなんだよ。俺があれだけ頭下げたのに……」
「どれだけ頭を下げたかは知らないけど。で、仕事がなくなったなら、次を探せばいいじゃない」
「それだけじゃないんだ。車だって買った。六百万。ミカが買い漁ったブランド品の支払いも二百万あるし」
「返品しなさいよ」
「返品無効の特約がどうとか言われて、返品もキャンセルもできないんだ」
「だったらしょうがないわね。自分たちの責任なんだから、払うしかないわ」
「それができたらこうして連絡してないだろう。実の母親に、お金の無心以外で連絡しないの? 白々しい子ね」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「まあでも、そんなものかしら。私は子しか言わないババアだもの」
「だから今はそんなことはどうでもいいんだよ。それよりも頼む。俺とミカで合計八百万の支払いがあるんだ。助けてくれ」
「いやよ」
「なんでだよ。今の母さんなら余裕で払える金額だろ。一億五千万も入ったんだから」
「払える払えないの問題じゃありません」
「もしかして、親父の遺品を売ったことまだ怒ってんのか? もう謝っただろう」
「謝罪で済むと思ってるの? そう言ったはずよね」
「今の母さんなら、あんなゴミ自分で買えるだろ。もっと高い指輪だって」
「は? 今、ゴミって言ったの?」
「あ、いや、これは……」
「確かにあなたの言う通り、あれよりもいい指輪は買えるわ。あの指輪自体、お父さんが若い頃にくれたものだからね。今の母さんなら、もっと高い、それこそダイヤとか買えるでしょうね。けど、そういう問題じゃないのよ。あの指輪の価値は金額じゃないの」
「金額じゃないってなんだよ。綺麗事だな」
「お父さんとの思い出は、お金じゃ買えないの。あなたの言った綺麗事が、どれだけ大事なものかを」
「今はそんなのどうでも良くて……」
「良くないわよ。あなたが踏みにじったのは、私とお父さんの思い出なの」
「こんな昔の思い出と、今の息子とどっちが大事なんだ? 親父への誓いを忘れたのかよ」
「その誓いを諦めさせたのは、あなたじゃない。ああ、どんなクズでも、バカでも、息子は息子。母親にとっては可愛いのよ。だろう? でも、どれだけ可愛かろうが限度はある。それは何度も注意してきた。あなたに変わってほしかったから。でも、もう変わらないって気づかされたわ。他でもない、あなた自身にね」
「待ってくれよ、母さん。俺から変わるから。立派な息子になるから」
「ババアのへなちょこパンチは怖くないんでしょ?」
「は?」
「あなたとは今日で縁を切ります。二度と私の息子を名乗らないでください」
「そんな、待ってくれよ」
「ババアの変なちょこパンチでも、あなたをぶちのめすくらいはわけないのよ」
翌日、俺は健一さんの事務所に頭を下げていた。
「健一さん、今回はいろいろとご迷惑をおかけしました」
「いやいや、私はただ、受けた恩を返しただけです。きっと幸介のやつも天国で笑ってますよ」
「そうでしょうか。結局、し太を更正させることができなかったのに」
「幸介のやつは、バカがつくほどの愛家化でしたから。息子がしたことは息子の責任。生きてたら、むしろし太君を蹴っ飛ばしてますよ」
「それはきっとそうするんだろうなって思います」
「私は昔、会社が傾いた時に孝介に助けられました。親友のためなら金は惜しくない。そう言ってくれたことを、今でも覚えてますよ」
「夫はそういう人でしたからね」
「だから、今の安代さんを見たら悲しむんじゃないかな。安代が笑顔じゃない。し太も健一も何やってんだ、ってすっ飛んできてもおかしくありません」
「健一さん、ありがとうございます。少し元気が出ました」
「いえいえ。恩を言うなら幸介に行ってやってください。あいつへの恩で私はあなたを助けようと思った。なら、そのお礼は幸介に伝えてやるべきです」
「ええ。また夫のところへ顔を出します」
「そうしてやるのがいいでしょう。しかし、困ったなあ」
「どうしたんですか?」
「幸介が夢枕に立ちそうです。最愛の妻が俺の墓参りに来たぞって、のろけられるのが目に見えますよ」
「この時は夫によろしくお伝えください。私は今もあなたを愛していますからって」
その後、し太とミカは多額の借金を背負い、家も失った。ミカの実家へ身を寄せたそうだが、事情を知った両親は激怒。すぐに二人を追い出し、ミカは勘当されたそうだ。今は雨漏りしそうなボロアパートで二人暮らしをしているらしい。
「こうなったのはお前のせいだ」
「いいや、私じゃない。お前のせいだ」
なんて、お互いに責任を押し付け合いながら、目の前の借金という現実から目を背ける日々を送っている。
一方、俺は健一さんに言った通り、夫の墓参りへ行った。今回のことを報告し、し太を導けなかった自分の不甲斐なさを伝えに。
その翌日の朝、健一さんから連絡があった。
「本当に幸介が夢枕に立ったんですって。きっと幸介を思い出して、夢でも見たんでしょうね」
私も同じ夜、幸介の夢を見ました。でも、もしあれが本当に夢だったとしても、私はきっと夢の中で聞いた幸介の言葉を一生忘れることはありません。
「俺もお前を愛してる。どうか笑顔でいてくれ」
この言葉だけで、私はこれからも元気に日々を過ごせそうです。



