夕方、仕事帰りの電車の中で父から電話が鳴った。「ゆい、今すぐ戻ってきてくれ。母さんの容態が急変した」。一週間前、病室で母は元気に笑っていた。なのに、電話越しの父の声は震えていた。私はすぐに夫に電話した。「お母さんが危ないの」。返ってきたのは、思いやりでも心配でもなく、「母さんに連絡はしたのか?俺が叱られるから、勝手なことはするな」だった。義母にも電話した。「今帰ったら、もう家には戻ってこなく…

夕方、仕事帰りの電車の中で父から電話が鳴った。「ゆい、今すぐ戻ってきてくれ。母さんの容態が急変した」。一週間前、病室で母は元気に笑っていた。なのに、電話越しの父の声は震えていた。私はすぐに夫に電話した。「お母さんが危ないの」。返ってきたのは、思いやりでも心配でもなく、「母さんに連絡はしたのか?俺が叱られるから、勝手なことはするな」だった。義母にも電話した。「今帰ったら、もう家には戻ってこなく...

電話が鳴ったのは、仕事帰りの夕方だった。画面には父の名前。嫌な予感がした。出る前から、胸がざわついていた。

「ゆい、今すぐ実家に戻ってきてくれ」

「え、どうしたの? もしかして、お母さんに何かあったの?」

「そうだ。母さんの容態が急変したんだ」

「嘘……だって、この前お見舞いに行った時は、すごく元気そうだったのに」

「本当に綱渡り状態だったんだよ。とにかく、今すぐ病院に来てくれ」

「助かるのよね?」

「わからない。でも、二人で祈ろう」

「わかった。すぐに行くから」

タクシーを呼びながら、夫のたけやに電話を入れた。仕事中であることはわかっていたが、放っておくわけにはいかなかった。

「たけや、ちょっと話があるの」

「なんだよ。こっちは仕事中だぞ。仕事中の私的な連絡は禁止だって言われてるんだ。これがもし母さんにバレたら」

「お願い。大事な話だから聞いてよ」

「何?」

「お母さんの容態が急変したの」

「え? この前元気だったとか言ってなかったか?」

「そうなの。とても元気そうだったのに。さっきお父さんから連絡があって……ずっと入院してたんだよ。白血病になっちゃってね。それでも治療を受けて、ちゃんと元気になってるはずだったのに」

「それで、話って何だよ」

「今から実家に帰るから、夜はなんか自分でご飯を買ってくるなりなんなりしてって言いたかったの」

「ああ、そういうことか。俺は別にいいけどさ」

「じゃあ、お願いね」

「ちょっと待てよ。これは母さんには伝えてるのか?」

「いいえ。あなたに伝えておけば、別にいいでしょ」

「だめに決まってるだろう。母さんはお前に家事を任せてるんだから。急になくなったら、怒るに決まってる」

「前に実家に帰った時は、お母さんも普通に許してくれたじゃない」

「それはたまたまだよ。さすがにこんな連続で帰るってなったら、母さんだって怒るはずだ。だから、その前に母さんにも事前に連絡をしておけよ」

「私はすぐにでも実家に帰りたいんだけど」

「軽く連絡をするだけでいいんだよ。とにかく、母さんを怒らせるようなことはするな。事情が分かれば、理解してくれると思うけど」

「ちゃんと筋は通せよ。お前のせいで、俺が母さんに叱られるんだぞ」

「あなたいくつなのよ」

「俺たちの生活を支えてるのが母さんだって忘れるな。母さんは化粧品メーカーを一人で大きくしたんだ。だから俺たちは母さんの立てた家で生活をして、母さんの会社で俺は働けてるんだぞ。その母さんに見捨てられたら、大変なことになるって考えたら分かるだろう」

「あなただって仕事を頑張ってるんだし、そこまで怖がらなくてもいいと思うけど」

「俺たちがいい暮らしをできてるのは、母さんのおかげだって感謝をしてるんだよ。だからお前も、ちゃんと母さんに話をしてくれ。それは最低限の礼儀だって」

「わかったわよ」

三十分後、私は義母に電話をかけていた。ある程度覚悟はしていた。しかし、その覚悟を遥かに超える言葉が、向こうから返ってくることになる。

「お母さん、突然の連絡申し訳ありません」

「何? 忙しいから手短にして。こっちは今、大型プロジェクトの準備をしてるの。あなたにかける時間はないのよ」

「実は、母の容態が急変したので、実家に帰らせてもらいます」

「あなたの母親は、確か白血病だったわよね」

「はい。そうです」

「それだけ重い病気なら、容態が変わることもあるでしょう。なのに、それでいちいち帰ってたら、我が家のことがおろそかになるでしょ」

「それは……帰るなってことですか?」

「そうよ。この間帰ったばかりなんだから、今回はだめよ」

「ですが、危険な状態なんですよ」

「それだけ重たい病気なのよ。それくらいのことは、これからいくらでもあるわ」

「あなたは医者か何かですか?」

「はあ?」

「どうして何も知らないのに、そんな偉そうに言い切れるんですか?」

「私に向かうの? 誰のおかげで生活ができてるか、分かってる?」

「お母さんには感謝してますよ。でも、私をここまで育ててくれたのは、私の母ですから。その母が危険な状態なら、私はそばにいてあげたいと思ってるんです」

「それこそ、あんたは医者かなんかなの? そばにいて、病気が良くなったりするのかしら?」

「もしかしたら、もう会えないかもしれないんですよ。それでも行くなと言うんですか?」

「私は、仕事をおろそかにするなと言ってるの。あなたの仕事は、我が家の家事よ。専業主婦ってことは、家事をきちんとしないといけないの。それをサボるなんて、許されることじゃないわ」

「帰ってきたら、ちゃんとやりますから」

「これが、あなたのわがままを聞く最後だと思いなさい。そして、ことが済んだのなら、すぐに帰ってきなさいよ。今日一日だけ、特別に休みにしてあげるから」

「できるだけ早く帰りますよ」

五時間後。母は、息を引き取った。私は最後に母の顔を見ることができた。その手はまだ温かかった。

そして、私はまた義母に電話をした。今度は、告げなければならないことがあった。

「お母さん、先ほど母が天国へと旅立ちました」

「あら、そう。なんとか最後に会えてよかったです」

「何それ? 私が止めてたら、それもできなかったって嫌味を言ってるの?」

「そんなつもりはないですよ」

「それで、明日になったら帰ってこれるんでしょ?」

「ちょっと、そんなわけないじゃないですか。明後日には母の葬儀が執り行われます。私はその準備を父とやりますので、お母さんたちにも参列して欲しいと思って、連絡をしたんです」

「はあ? ふざけるな。こっちは忙しいのよ。葬儀なんて行けるわけないでしょ」

「そんな……せめてたけやだけでも」

「たけやもうちの社員として忙しくしてるの。そんなことで休ませるわけないわ」

「それは、たけやが決めることだと思います。あなたが決めることじゃないです」

「確か、忌引みたいな制度がありましたよね」

「そんなものを、私が認めるわけないでしょ。たけやがいつ休むのかは、私が決めるの。あの子は私の息子で、うちの社員なんだから」

「たけやは、あなたの操り人形じゃないですよ」

「私が手塩にかけて育てたんだから。あの子の意思決定権は私にあるのよ」

「そんなのおかしいですよ」

「それよりも、あんたは何を普通に家事をサボろうとしてるのよ。一日だけしか休みは与えないって言ったはずよ。もしかして、帰ってこいと言ってるんですか?」

「当たり前でしょ。約束は守りなさい」

「私はそんな約束をした覚えはありません。あなたが勝手に押し付けてきただけですよ。それに、大事な母が亡くなった葬儀なんですよ。どうしてそれをほっぽり出して帰れるんですか?」

「母親の葬式とか関係ない。あんたはこの家の嫁。葬儀に出てる暇があるのなら、家事をやれ。今すぐ帰ってこい」

「あなたには、人の心ってものがないんですか? 親の葬儀を無視して帰れるわけがないでしょう」

「私に口答えをするな。これ以上、私の言うことが聞けないなんて、嫁失格よ」

「それとこれとは別ですよ。私はたけやと結婚してるんです。あなたにとやかく言われたくありません」

「全く、どうしてこんなわがままになったのかしら。両親から相当甘やかされて育ったようね。もっと、たけやのように素直な子なら良かったわ」

「たけやを素直とは言いませんよ。それに、私の親は決してただ甘いだけの人ではなかったですから」

「だとしても、あんたの親は本当に迷惑な人よ。あんたは我が家に嫁いだのよ。それなのに、何度も何度も実家に帰るなんて」

「病気だったんだから、仕方ないですよね」

「そんなの関係ない。我が家でお世話になってるんだから、私たちのことを最優先にするべきよ」

「そんなの、変ですよ」

「変じゃない。まあでも、これで足かせが一つなくなったんだから。これからはより私たちのお世話に集中できるでしょ。そういう意味では良かったじゃない」

「何を言ってるんですか? もしかして、母が亡くなったことを、そう言ってるんですか?」

「そうよ。決まってるじゃない」

「あんたの父親の時は、絶対にお見舞いにも葬式にも参加させたりしないから。その覚悟は、今のうちからしておきなさい。それが、私の下につくってことだから」

「ふざけないでくださいよ。そんなことが許されるわけないでしょう」

「口答えをするな。さっさと帰ってきなさい。じゃないと、我が家での立ち位置がどんどん悪くなるわよ」

「もういいです」

電話を切った。涙は出なかった。代わりに、冷たい決意が胸の底から湧き上がってきた。

その夜、たけやに電話をした。

「たけや、母が亡くなったの。葬儀が明後日にあるから、来れるわよね」

「母さんには、その伝えたのか?」

「ええ、来ないと言われたわ」

「だったら、俺も無理だよ」

「お母さんには、逆らえないってこと?」

「そうだよ。お前だって、それは分かってるだろう」

「あなたがお母さんのことを大事にしてると、私は思ってた。そこも素敵だなと、最初は思ってたわ。でも、結婚してみて、全然違うって分かった。あんたは大事にしてるんじゃない。ただ顔色を伺ってるだけだって、分かった。もう三十超えてるのに、本当に情けない人ね」

「うるさい。お前も母さんの言う通りにしろよ。お前のせいで、俺まで叱られるんだぞ」

「もう、そうなることもないわ」

「頼むよ。早く帰って来てくれよな」

電話を切った後、三十分ほどして、義母からまた電話がかかってきた。今度は、決定的な言葉を聞くことになる。

「お母さん、最後の確認です。葬儀には来られないでいいですか?」

「だから、そうだって言ってるでしょ。上から偉そうに何なのよ」

「そうですか。わかりました」

「それで、あんたはいつ帰ってくるのよ」

「帰るわけないでしょ。母が亡くなったんですよ。どうして帰ると思ってるんですか? ちょっと頭がどうかしてるんじゃないですか?」

「なんですって?」

「私はそちらの家に嫁いだかもしれませんが、私にとって母の存在は何よりも掛け替えのないものです。その母の葬儀の準備などがあるので、帰ることはできません。とても悲しいですが、しっかりとお見送りしたいと思います」

「どこまで私のことをコケにするのかしら」

「自分の親としっかりお別れができないなんて、おかしいです」

「私のおかげであんたは生活ができてるのよ」

「一緒に住み出して一年間だけですけど、そのことに関しては感謝してますよ。ですので、私なりに家事でお返ししてたつもりです」

「そんなの、誰でもできることよ。あんたである必要はないの。家政婦を雇ったっていいんだから。あんたの仕事は、家事をやることじゃないのよ」

「どういうことですか?」

「私の指示通りに動くのが、あんたの仕事。家事をやれと言えば家事をやって、帰ってこいと言ったら帰ってくるのが、あんたの仕事」

「私の意思は関係ないってことですか?」

「当然でしょ。あんたは私の駒。私の指示に従っていればいいだけよ。だって、私のおかげであんたは食えてるんだから」

「なるほど。それと同じことを、たけやにもさせてたんですね。たけやは確かに、あなたに従ってましたから」

「そうよ。だって、あの子は私が女手一つで育てたの。私がいなければ、今のたけやはいないんだから。だから、私の言いなりになるのは当然よ。まあ、それなりにいい駒に育ってくれたわ。なのに、まさかこんな女と結婚するなんてね」

「もしかして、私たちだけじゃなくて、社員の人たちのことも酷い扱いしてるんですか?」

「そうよ。決まってるじゃない。私の会社なのよ。私が売上を出してるの。そのおかげで社員たちは生活ができてるんだから。だったら、駒として動くのは当然よ。私の思い通りに動けない人間なんて、我が社にも我が家にもいらないからね」

「やっぱり、あなたはおかしいです。変ですよ」

「どこがよ。間違ってないわ。私はそうやって成功を収めたんだから。とにかく、あんたは今すぐにこっちに帰ってこい。じゃないと、もう二度といい暮らしは送れなくなるわよ。あの豪邸での暮らしをなくしていいと思ってるの?」

「そんなのは必要としていません。私にも実家がありますから」

「貧乏な家での生活がそんなにいいの? しょうもない父親の稼ぎで暮らすのなんて、嫌でしょ」

「あなたの暴言は、父にも伝えてあります」

「ええ、そうなんだ」

「父がガチギレしてますが、大丈夫ですか?」

「はあ? だから何よ。あんたの父親なんて、底辺の人間でしょ。そんな人間が私に怒れる資格なんてないのよ」

「そうですか。わかりました。おそらく、父から連絡があると思いますので」

「そんなの、無視するに決まってるでしょ」

「とにかく、私の気持ちは変わりませんので」

その五日後。私はたけやに、最後の電話を入れた。

「たけや、もう限界よ」

「なんだ? 家にはもう帰ったのか?」

「帰るわけないでしょ。葬儀の準備があるんだから」

「おいおい、母さんに反抗するなって」

「あんたは、一度も私の味方にはなってくれないのね」

「俺はお前の味方だよ。けど、母さんに逆らったっていいことなんて何もないんだ。だから、反抗するなんてアドバイスはしてるだろう」

「母親の葬儀から帰ってこいなんて命令、聞けるわけないでしょ」

「そんなことしたら、とんでもないことになるぞ」

「別にもう、何でもいいわ。あなたたちとこれ以上関わる気はないから」

「どういうことだ?」

「もう、あんたとは離婚するから」

「え? 何を言ってんだ? 離婚?」

「そうよ。決まってるでしょ」

「ちょっと待てよ。母さんにむかついてるのは分かるよ。でも、どうして俺と離婚なんだよ」

「それじゃ、あなたは私の味方になってくれるの? 私はその家を出て、二人だけで暮らしたいわ。仕事も当然やめてもらうことになるけど、それを聞き入れてくれる?」

「いや、それはさすがに金銭的にやばいだろう」

「私も働くわ。それならいいでしょ」

「無理だよ。母さんに何て言われるか」

「ほらね。あんたは結局、お母さんの言いなりなの。そんな人と結婚生活なんて続けられないわ」

「だって、俺は母さんにここまで育ててもらったんだぞ。その恩返しをしないとだめだろう」

「私は両親と離れて暮らしてたけど、それは親不幸ってことになるの? そんなわけないでしょ。元気に幸せに生活してたら、それが一番の恩返しよ」

「母さんには逆らえないって。母さんはとても厳しい人なんだ。母さんの要求に答えられないと、俺はもう息子でいられない。父さんからは捨てられて、母さんからも見捨てられたら、俺はもう立ち直れないよ」

「お父さんから捨てられたの? そんな話は聞いたことないわ」

「母さんから、そう言われたんだよ。俺がいられるのは、母さんが見捨てないでいてくれたからなんだ。だから俺は、そんな母さんのためにも、従順な息子でい続けないといけないんだ」

「そうだったら、そうしてたらいいわ。でも、私は別にお母さんのおかげで生きてこられたわけじゃない。だから、あなたに付き合う必要はないわよね」

「待ってくれよ。俺はお前のことを愛してるんだ」

「愛してるのなら、味方になってよ。私が最愛の母の葬儀から引き離されようとしてるのよ。愛してるというのなら、こんな時くらい味方になってよ」

「それは……」

「ほら、それがあんたの答えよ。別に間違ってるなんて言わないわ。あなたの選択だから。でも、私は付き合ってられない。だから、さようなら」

一週間後。実家のリビングで、私は父と向かい合っていた。電話が鳴った。父が出ると、その声はいつもより低く、丁寧だった。どうやら、例の人物かららしい。

父は電話を切ると、私に言った。

「たけやの母親からや。ゆいから連絡先を聞いて、葬儀のことを謝りたいと言ってきた」

「何を今さら……」

「だが、わしは引き下がらんぞ。あの女に、娘を侮辱されたんだ。それに、会社の取引の話もあった。劇場火星という会社なんだが、知ってるか?」

「劇場火星? 化粧品の原料を取り扱ってる、あの大手?」

「そうや。わしが社長をやっておる」

「えっ……父さんが?」

「かつて、わしは一度会社を潰してどん底を味わった。その時、支えてくれたのはお前の母さんやった。肌が弱くて、市販の化粧品が使えなかった母さんのために、肌に優しい原料を作ろうと思って、この会社を立ち上げたんや。全ては、母さんのためやった。それなのに、あの女はお前のことも、母さんのことも侮辱した。そんな人間と、二度と取引をする気はない」

父の口調は静かだったが、その瞳は燃えていた。そして、その日のうちに、劇場火星から義母の会社への契約破棄の連絡が入った。さらに、調査の結果、義母の会社では長年にわたるパワーハラスメントが蔓延していることが明らかになり、その事実が社内で噂され始めていた。

数時間後、義母から、今度は泣き声に近い電話がかかってきた。

「あんた……なんてことをしてくれたのよ」

「え、何ですか?」

「あんたの父親が、劇場火星の社長なんて。ふざけるな。そのせいで、こっちは大変なのよ」

「そうですか。ですけど、もう私には関係ありませんから」

「今から、あんたの父親を説得しなさい」

「嫌です。それよりも、あなたはもっとご自身の立場を気にした方がいいですよ」

「何よ、それ」

「私は、たけやとそのお友達と何度か遊んだことがあったんです。そのお友達っていうのは、そちらの会社の社員さんたちです。その社員さんたちに、あなたが酷い扱いをしていたと伝えました。遊んでいた時に、あなたの態度にどう対応したらいいかと相談されたことがあったんです。ですから、真実を伝えないといけないと思ったんです。そしたら、そう思われてるのは感じていたと返事が返ってきましてね。それで、良くないと思ったので、彼らに労基に行くように助言をしました。もしひどい内情が表に出たら、株主たちも黙ってないので、代表取締役を解任できるかもと伝えました」

「はあ? 解任?」

「そうです。誰かが責任を取らないといけないので」

「ふざけるな。そんなこと、誰が許すもんですか?」

「あなたに、許す許さないの権利はありません。あなたがやってきたことは、それだけひどいことです」

「で、会社は売上を伸ばしていたのに」

「あなたがひどいことをしたからではないです。優秀な社員さんたちがたくさんいたからですよ。父の教えですが、会社は社員で動いてるんです。彼らをいかに働きやすい環境で働かせるかが、社長の仕事だそうです。そして、あなたはそれをやっていなかった。だから、解任されるとしたら、それは当然のことです」

「待って……私は女手一つで、ここまでやってきたのよ」

「それはすごいと思いますよ。ですが、やり方は全然褒められたものじゃなかった。他人を酷使して利用するなんて」

「私だって、同じような経験をしたことあるわ。夫が私のことを裏切ったのよ。私を働かせて、それで金だけ持って、他の女のところに行きやがったの。私のことを利用するだけ利用して、最終的に捨てたの」

「それが、何なんですか?」

「だから、私は利用される側にならないために、利用する側になったってだけ。私は自分の身を守るためにやってたの。それが、そんなに悪いことなの?」

「自分の身を守るのは、悪いことじゃないですよ。でも、そのために他の人を傷つけたりするのは、絶対に間違ってます。利用された時に辛い思いをしたのであれば、自分はそうしないようにするべきですよ。自分がやられて嫌なら、相手にしないのは普通です。あなたは間違ってるんです。できれば、今回の経験を通して、あなたが学んでくれることを望みます」

「あんたが今から父親を説得してくれれば、会社はかなりの売上を残せるわ。そうしたら、株主や社員たちだって納得するでしょ。高い給料を払えば、黙らせられる。それに協力しようって気はないの?」

「嫌です。それに、こんなことをしている暇ありますか? パワハラの件に対して、すぐにでも対応しないと、会社での立場がどんどん悪くなってしまいますよ」

その後、義母のパワハラが明るみに出たことで、会社は信用を失い、業績が急落した。解任を免れるために必死に隠蔽を図ったが、時すでに遅く、結果的に代表取締役を解任されることになった。さらに、会社への損害賠償や社員への慰謝料を支払ったことで、長年蓄えてきた資産は底をついた。その後、生活のためにコンビニでアルバイトを始めたが、慣れない接客で店長や客から叱責を受け続け、精神的に病んでしまい、家から出られなくなったそうだ。今も、自分だけがなぜこんな目に遭うのかと恨み言を言っているらしい。

たけやの方はというと、母親の件で会社に居づらくなり、退職した。退職当初は、母親の世話をしていたらしいが、日に日に強くなる八つ当たりを受けて精神的に追い込まれたことで、ついに母親に暴力を振るってしまった。結果、義母は大怪我で入院し、たけやは警察に逮捕されてしまったという。あの二人は、お互いに依存し合っていたのかもしれない。どちらか一人でも、しっかりと大人になれていれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。

私は今、実家で暮らしている。父に甘えるのは嫌だったので、ちゃんと仕事をするようになった。別の場所で一人暮らしをするという選択肢もあったが、母を亡くしたばかりの父が心配なので、一緒に住むことにした。父は、母のために会社を起こし、家族を守り続けていた。そのことを今回の一件で知り、そんな父を私はとても尊敬している。だからこそ、父のように家族を守れる存在になりたいと思う。

父の背中は、昔と変わらず大きく見えた。しかし、その肩には、少しだけ疲れが滲んでいるようにも思えた。私は台所に向かい、父のために、母がよく作っていた味噌汁を作り始めた。

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