黒沢が立ち上がった瞬間、会場の空気が変わった。おい、静かにしろ。マイクを手にした政作部長が、五十人の社員の前で若い女性社員を指さした。貸し切りのレストランに笑い声はない。グラスを持つ手が止まり、誰もが息を潜めた。中卒の小娘がデザイナーぶってんじゃねえよ。お前みたいなやつはな、便所掃除でもしてろ。黒沢はにやりと口元を歪めた。誰も声を上げられない。ただ気まずそうに姿勢をそらすか、俯くだけだった。指を刺された女性社員、千夏はゆっくりと立ち上がり、静かに黒沢を見つめた。怒りでも悲しみでもない。どこまでも透明な眼差しだった。黒沢部長、この件については祖父に相談させていただきます。はあ? ふっ。千夏は深く一礼すると、そのまま会場を出た。黒沢は鼻で笑った。じいさんに泣きつくのか。笑わせるな。しかし会場の端で、一人の男が無表情のまま黒沢を見つめていた。創業期からこの会社を支えてきたベテランデザイナー、藤堂圭一。その視線の意味を、この場で理解できた者はまだ誰もいない。千夏の祖父が誰なのか、黒沢はまだ知らなかった。
桜が散り始めた三月のある夜のことだった。宗介の自宅に、一人の若い女性が訪ねてきた。千夏、二十三歳。宗介の孫娘である。リビングのソファに並んで腰を下ろした千夏は、膝の上に封筒を一つ置いた。なんだそれは? フリーランスの仕事、全部断ってきた。既存のクライアントにも連絡して、引き継ぎも終わらせた。どういうことだ? 千夏は顔を上げ、真剣な表情で口を開いた。おじいちゃんの会社で働かせてほしい。でも、宗介の孫としてじゃなくて、一人のデザイナーとして入りたい。だから名前はお母さんの旧姓を使う。勘定者として試験を受けたい。宗介は孫娘の顔をじっと見つめた。その目に迷いはない。幼い頃から何度も見てきた、あの眼差しだ。病室のベッドの上で、細い指にペンを握り、もっとうまくなる、と呟いていた。あの頃と同じだった。フリーの仕事を全部整理してきたのか。それは後戻りができないぞ。なぜそこまでする? 千夏は窓の外に目をやった。それから宗介を見て、少し笑った。それはまだ内緒。でも、ちゃんと理由はあるから。お前がそう決めたなら、俺は何も言わない。ありがとう。ただ、一つだけお願いがある。私が会長の孫だということは、絶対に誰にも言わないでほしい。そういう立場で入ったと思われたくない。自分の仕事で居場所を作りたいから。分かった。ただし、無理だけはするな。うん。約束する。千夏が帰った後、宗介は一人でソファに座り、しばらく動かなかった。宗介は二十六歳の時、大学にも行けず、金もない状態から一人でデザイン事務所を立ち上げ、四十年かけて大手にまで育てた。学歴で人を測る風潮を底から嫌った。自分も同じ道を歩んできたからだ。千夏は体が弱く高校を中退したが、病室でペンを握り続け、独学でフリーランスとして自立した。そして今夜、その道を全部畳んで、新しい戦場に飛び込んできたのだ。
宗介は、千夏という新入社員と自分の関係を一切公表しないと厳命した。そして、信頼できる側近である藤堂圭一にだけ、静かに告げた。千夏が政作部に配属されたら、影から見守ってくれ。ただし、千夏には絶対に悟られるな。あの子は自分の力で立ちたいんだ。俺が動いていると知ったら傷つく。承知しました。任せてください。千夏は翌月、一般の試験を経て正式に劇場クリエイトに採用された。宗介は会長室から、孫娘の奮闘を静かに見守るつもりでいた。だが、その穏やかな日々は長くは続かなかった。
千夏が配属されたのは政作部だった。部長は四十五歳の黒沢竹志。有名美術大学を主席で卒業した経歴を持ち、学歴こそがデザイナーの実力の証明だと公言してはばからない男だ。政作部を任されている立場を盾に、気に入らない部下には容赦なく高圧的な態度で当たる。それが黒沢の日常だった。千夏は初日から黙々と働いた。与えられた仕事はコピーや資料整理ばかりだったが、文句一つ言わずこなした。黒沢からどれだけ冷たい態度を取られても、頭を下げて次の仕事に取りかかった。なんだ、この資料。書き方が違う。やり直せ。申し訳ありません。すぐにやり直します。それから会議室の予約も間違えたぞ。使えないな。申し訳ありません。謝る。頭を下げる。次の仕事をする。それだけだった。言い訳もしない。反論もしない。ただやめなかった。部下の宮原巧もそれに同調し、千夏を見下した態度を隠そうともしなかった。千夏への資料共有をわざと遅らせ、会議では無視して失敗を指摘する。それでも千夏は頭を下げ続けた。
そんなある日のことだった。午後の業務中、千夏は突然その場に倒れ落ちた。貧血だった。持病が出たのである。どれだけ気をつけていても、体が限界を超えると止められない。周りの社員が驚いて駆け寄ろうとしたその瞬間だった。おっと、大げさだ。社員たちが足を止めた。黒沢は千夏を一瞥し、鼻を鳴らした。だから体の弱いやつは使えないんだ。倒れるぐらいなら最初から来るな。誰も動けなかった。千夏は床に手をついたまま、しばらく動かなかった。それからゆっくりと自分で立ち上がった。壁に手をつき、息を整え、椅子に座った。ご迷惑をおかけしました。それだけ言って、千夏は再び画面に向き直った。黒沢は何も言わず自分のデスクに戻った。その場の全員が、黒沢ではなく千夏の背中を見ていた。
翌日、千夏は通常通り出社した。まだ来たのか。おはようございます。千夏は深く頭を下げ、自分のデスクに向かった。それだけだった。その日の昼休み、千夏は給湯室の前で足を止めた。中から黒沢と宮原の声が聞こえてきたのである。あの新人、昨日倒れたそうですね。無理してうちのようなところに入るからですよね。いや、履歴書を見たか。あいつは高校中退だぞ。中卒の人間がデザイン会社で何ができるって言うんだ。雑用でもやらせておけばいいですよね。学歴もない奴が同じにいるだけで迷惑ですよ。まあ、どうせすぐ辞めるだろう。昨日みたいなことが続けば、自分から出ていくさ。千夏は扉に手をかけて、そのまま動けなくなった。笑い声が扉の向こうから漏れてくる。千夏はゆっくりと手を下ろし、踵を返した。自分のデスクに戻り、椅子に座り、画面を開いた。それだけだった。ただ、その日から千夏はスマートフォンのボイスレコーダーアプリを常に起動するようになった。
一方、藤堂からこの一件を聞いた宗介は、会長室の椅子に深く腰を沈め、長い時間目を閉じていた。会長、千夏さんは倒れた翌日も出社してきましたよ。黒沢に何を言われても、ただ頭を下げていました。そうか。お気持ちは分かります。ですが、千夏さんは強い子です。今はまだ見守りましょう。分かってる。分かっているんだ。だが、俺はいつまで我慢すればいいんだ? 千夏さんが助けを求めた時、その時が会長の出番です。宗介は深く息を吐き、重く頷いた。その拳は膝の上でじっと握られたままだった。
千夏に与えられた仕事は相変わらず雑用ばかりだった。コピー、資料の整理、会議室の予約管理、来客への茶出し。本来であれば、新入社員にもデザインの実務を経験させるのが会社の方針だ。しかし黒沢は意図的にそれを無視し、千夏をデザイン業務から徹底的に排除していた。千夏は何も言わなかった。ただ与えられた仕事を一つ一つ丁寧にこなし続けた。そんなある日、急の案件でデザイナーが足りなくなったため、藤堂が黒沢に進言した。部長、人手が足りません。神田さんにもデザインを一つ担当させてはいかがでしょう。好きにしろ。どうせ使い物にならないだろうがな。それは結果を見てから判断すべきでは。結果なんて分かりきってる。中卒の素人に何ができる? 嘲笑を浮かべたまま黒沢は席を立った。藤堂は拳を握りしめたが、何も言わずに千夏のもとへ向かった。神田さん、任せたい案件がある。やってみる気はあるか? はい、やらせてください。無理はするな。ただ、あなたのデザインを見てみたい。千夏は深夜まで作業を続けた。体調を崩しかけながらも、画面に向かい続けた。提出したデザインは、クライアントから予想をはるかに超える評価を受けた。洗練されたレイアウト、大胆な色遣い。見る者の心を掴む温かみのある世界観。クライアントの担当者は藤堂に直接連絡してきた。この完成度は素晴らしい。次回も是非同じデザイナーに担当してほしい。承知しました。必ず伝えます。電話を切った藤堂は、千夏のデスクへ向かった。神田さん、クライアントから指名が入った。次回も君に担当してほしいと。千夏は一瞬言葉を失った。それからゆっくりと、静かに笑った。ありがとうございます。諦めなくてよかった。その声が微かに震えていた。藤堂は何も言わず、ただ深く頷いた。
しかし黒沢は違った。たまたまだ。クライアントの趣味が悪かっただけだ。次はないですよね。まぐれ、まぐれ。実力と勘違いされたら困りますよ。黒沢は千夏の評価シートに、協調性に欠ける、基礎的なスキルが不足、と記載し、最低評価をつけた。さらに、その案件のクレジットを自分の名前で登録し、千夏の実績をそのまま横取りした。千夏がそれを知ったのは、社内システムを確認した時だった。画面に表示されたクレジット欄に、自分の名前はない。代わりに黒沢竹志の文字が並んでいる。千夏は画面をじっと見つめた。指先がキーボードの上で止まった。私の仕事なのに。声にならない言葉が唇からこぼれた。千夏は給湯室に向かった。冷たい水で顔を洗い、鏡を見た。目が赤い。それだけ確認して戻った。デスクに座り、スマートフォンで画面を撮影してファイルに保存した。
この一件を報告された宗介は、会長室で静かに拳をデスクに叩きつけた。厚い鉄板が鈍い音を響かせ、万年筆が床に転がった。しかし宗介はすぐに立ち上がり、窓の外を見据えた。怒りを顔に出したのは、その一瞬だけだった。翌日、藤堂が分厚いファイルを抱えて会長室を訪れた。会長、重大な問題が見つかりました。黒沢部長が、政作部の部下のデザインデータを自分の名義で外部企業に売り払っています。確認できただけで三十件以上。不正な利益は少なくとも五百万円を超えます。なんだと? それだけではありません。社内の機密情報が競合他社に流れている痕跡もあります。データの受け渡しには、営業部の宮原が絡んでいるようです。証拠はメール、入金記録、取引履歴。言い逃れできないものが揃いつつあります。続けてくれ。確実なものを全て抑えろ。まだ動く時ではない。だが、その時が来たら、一つも見逃さない。承知しました。二人の間に、四十年の信頼が流れた。宗介が窓の外に目を向けた。曇り空の下で、街は灰色に沈んでいる。戦う覚悟は着実に固まりつつあった。
千夏が入社して二ヶ月が経った週末の昼下がり、宗介の自宅に千夏が尋ねてきた。顔色が優れない。目の下に薄い隈ができ、痩せたようにも見える。宗介は何も問いたださず、温かい茶を入れて孫娘の前に置いた。千夏はしばらく湯呑みを見つめていたが、やがて口を開いた。おじいちゃん、相談があるの。私のことじゃなくて、同じ部署の柊さんっていう人のこと。聞かせてくれ。柊さんは黒沢部長から、会議中に執拗に絡まれたり、腕を掴まれたりしてる。ずっと一人で我慢してたみたいで、先日やっと私に打ち明けてくれたの。宗介の目が鋭くなった。湯呑みをテーブルに戻し、声を低くして続けた。それだけじゃない。黒沢部長は柊さんに、俺は会長の身内だから、訴えても無駄だって脅してるの。だから柊さんはどこにも相談できなかった。俺の身内だと。宗介は声を落とした。黒沢は宗介の身内でも何でもない。完全な虚偽で、被害者の口を封じていた。怒りが胸の奥から込み上げ、腕が微かに震えた。宗介は深く息を吸い、孫娘の目をまっすぐ見つめた。千夏、お前はどうしたいんだ? 柊さんを助けたい。でも、私が動いたら、素性がバレるかもしれない。それ自体は別に構わない。ただ、柊さんが逆恨みされるのが怖い。あいつが告げ口したって思われたら。千夏、私、ずっと一人でやれるって思ってた。でも、正直もう限界に近い。体も気持ちも。初めて出た言葉だった。千夏の目に涙が浮かんだ。宗介は孫娘の肩にそっと手を置いた。よく言ってくれた。それだけで十分だ。おじいちゃん。人を守るために動くことは、決して間違いじゃない。お前が正しいと思う道を進め。困った時は、俺が全力で盾になる。ありがとう。あと、一つ聞きたいの。証拠を残したいんだけど、社内の監視カメラが届かない場所って、どこか分かる? 宗介は少し目を細めた。孫娘の目にもう迷いはない。しかし宗介は直接教えなかった。少し待ってろ。その夜、宗介は藤堂に電話をかけた。千夏が監視カメラの死角を知りたがっている。千夏には悟られないように、さりげなく教えてやってくれ。あの子が自分で気づいたように見える形で。承知しました。うまくやります。頼んだ。それから、人事部の神崎にも内密に動いてもらえ。女性社員への不適切行為の被害者を全員把握したい。証拠の方はあと一手、揃えます。取引先の裏帳簿まで押さえました。頼んだ。会長、一つだけ確認を。千夏さんの素性は、本人が自分で判断する。俺からは明かさない。ただし、あの子を守るために必要になった時は、話は別だ。了解しました。電話を切った宗介は、窓の外に目を向けた。夕暮れの空に、一筋の飛行機雲が伸びている。負けるわけにはいかなかった。
それから数日後の昼休み、千夏は社内の小さな会議室に柊奈美を誘った。二人きりになると、千夏は静かに口を開いた。柊さん、無理に話さなくていい。ただ、私はここにいるから。柊はしばらく黙っていた。それからぽつりと言った。信じてもらえると思わなかった。黒沢部長が会長の身内だって言うから、誰に言っても無駄だって。それ、嘘なんです。黒沢部長は会長とは何の関係もない。だから、柊さんは何も悪くない。声をあげる権利がちゃんとある。柊の目に涙が浮かんだ。千夏はそれ以上何も言わず、ただ隣に座っていた。同じ頃、宗介は人事部長の神崎と対談していた。調査はどこまで進んでいる? 女性社員への不適切行為について、匿名で三件の証言が集まっています。柊さん以外にも二人の被害者が確認されました。全員が、黒沢の「会長の身内」という嘘を信じていたようです。宗介は目を伏せた。自分の名前が、人を苦しめる道具に使われていた。その事実が深く胸に刺さった。三人か。分かった。証言者を守る体制を先に整えてくれ。動くのはそれからだ。承知しました。面談を終えた宗介は、会長室に戻り、窓の外を眺めた。決戦の準備は着実に整いつつあった。
新人歓迎会は、千夏が入社して三ヶ月が経った金曜日の夜に開かれた。歓迎会の当日、千夏は朝から体温が三十七度五分あった。本来なら欠席すべき数字だ。それでも千夏は解熱剤を飲んで支度をした。ここ数日、柊の様子がおかしかった。黒沢が今夜、何かをするかもしれない。その予感が千夏を動かした。都内のレストランを貸し切りにした会場には、制作部を中心に五十名ほどの社員が集まっている。宗介は会長という立場上、歓迎会には参加しないのが通例だった。しかしその夜、宗介のスマートフォンに短いメッセージが届いていた。今夜、何かあるかもしれない。それだけだった。宗介はコートを羽織り、レストラン近くの喫茶店に向かった。コーヒーカップを手にしながら、宗介は窓の外を眺めていた。嫌な予感がする。四十年間、経営者として培ってきた勘がそう告げている。
案の定、事態は起きた。乾杯も終わり、料理が運ばれてきた頃、先ほどまで笑っていた黒沢が突然立ち上がり、マイクを奪った。おい、ちょっとええか。会場の視線が一斉に千夏へ向かう。黒沢はにやりと笑い、千夏を指さした。中卒の小娘がデザイナー気取ってんじゃねえよ。お前みたいなやつはな、便所掃除でもしてろ。会場が凍りついた。グラスを持つ手が止まり、笑い声が消えた。誰もが言葉を失う中、宮原だけが下卑た笑いを浮かべて立ち上がった。部長の言う通りですよ。大学も出てない人間にデザインなんて無理でしょ。会社の恥ですよ。調子に乗った宮原はさらに続けた。そもそも採用した人事が悪いんですよ。履歴書ちゃんと見てたんですかね。こういう人を入れると、優秀な社員のモチベーションが下がるんですよ。部長みたいな有名大学出身の方が割を食うっていうか。会場の空気がさらに重くなった。何人かのベテラン社員が、明らかに不快そうな表情で宮原を見ている。しかし宮原はそれに気づかない。黒沢だけを見て、媚びるように笑っていた。千夏はゆっくりと立ち上がった。その目に、怒りも悲しみも浮かんでいない。ただ静かに、どこまでも透明な眼差しで黒沢を見つめた。会場の全員が息を飲んだ。黒沢部長、この件については、祖父に相談させていただきます。あ、祖父? え? 千夏は深く一礼すると、何も言わずに会場を出た。黒沢は一瞬、呆然とした顔をしたが、すぐに鼻で笑った。祖父に相談だと。中卒のガキがじいさんに泣きつくのか。笑わせるな。しかし会場の空気は笑いとはほど遠かった。ベテラン社員たちが互いに目を見合わせ、ざわめきが広がっていく。藤堂が無表情なまま黒沢を見つめている。その視線の意味に気づいた者はまだ誰もいない。
藤堂はすぐに席を立ち、会場の外へ出た。宗介のスマートフォンが震えたのは、その直後だった。会長、黒沢が全員の前で千夏さんに「中卒は便所掃除でもしてろ」と。そうか。千夏さん、今会場を出たところです。急いでください。宗介は電話を切り、代金をテーブルに置いて喫茶店を飛び出した。冷たい夜風が、六十六歳の体に走る鈍い痛みも、今は気にならない。一方、会場の外で、千夏はレストランの廊下に立っていた。扉が閉まった瞬間、会場の喧騒が遠くなった。廊下は薄暗く、冷たい空気が頬を刺す。熱がある体に、その冷たさがじんわりと染み込んでくる。千夏は歩きながら、自分の震える手を見た。泣くな。今じゃない。入社してから今日まで、ずっと耐えてきた。怒鳴られても、雑用だけを押し付けられても、倒れても、実績を横取りされた時も、歯を食いしばって記録を残すことだけを考えた。それでも今夜は違った。五十人の前で、マイクを通して全員に聞こえる声で言われた。中卒は便所掃除でもしてろ。あの言葉が頭の中でまだ響いている。千夏は足を止め、廊下の壁に手をついた。喉の奥が熱い。目の奥が痛い。おじいちゃん、私、今夜だけは、少しだけ弱くていい。目を閉じ、深く息を吸った。吐いた。もう一回。病室の天井が浮かんだ。あの白い天井を、何百回見上げただろう。動けない体で。それでもペンを握って、いつか絶対に自分の力で立つと決めた。あの頃の自分。あの時も立ち上がれた。千夏は壁から手を離し、背筋を伸ばした。顔を上げると、廊下の奥に人影が見えた。柊奈美。その腕を黒沢が掴んでいる。千夏の目がすっと細くなった。
レストランの裏口から廊下に入った千夏は、角を曲がったところで足を止めた。薄暗い廊下の奥で、黒沢が柊奈美の腕を掴み、壁際に追い詰めている。お前、今夜の話、誰かに喋ったりしないよな。俺が会長の身内だってこと、忘れてないよな。あ、はい。喋りません。絶対に。当たり前だ。お前が誰かに言ったところで、誰も信じないぞ。柊は声も出せずに震えていた。宗介が飛び出そうとしたその瞬間だった。千夏が二人の間に割って入った。離してください。柊さんの腕を離して。お前には関係ねえだろ。引っ込んでろ。関係あります。それから、今のやり取り、全部撮影させてもらいました。千夏はスマートフォンを掲げた。黒沢は千夏の手元を見た瞬間、顔色を変えて怒鳴り散らしながら千夏を脅した。お前、それを消せ。今すぐ消せ。嫌です。消せと言ってるんだ。俺が誰だか分かってるのか? 分かっています。だから消しません。黒沢は千夏を睨みつけたまま、しばらく動かなかった。それから舌打ちをして、足早にその場を去った。残された柊は千夏にすがりつくように肩を震わせ、声を殺して泣いた。ありがとう。ありがとうございます。柊さん、もう大丈夫。私が必ずあなたを守る。名前は出さない。約束する。
宗介は廊下の角で、その全てを見ていた。足が動かなかった。飛び出そうとした足が、千夏が動いた瞬間に止まった。二十三歳の孫娘が、たった一人で黒沢の前に立ちかかっている。その細い背中に、宗介の視界が滲んだ。経営者として、守るべきものを守れていなかった。宗介の頬を涙が伝った。待つ時間は終わりだった。その夜遅く、宗介の自宅の電話が鳴った。千夏からだった。声は落ち着いていたが、その奥に隠しきれない疲労が滲んでいた。千夏は歓迎会での出来事、廊下での録画、柊のことを一つ一つ丁寧に報告した。宗介は黙って聞いた。じいちゃん、私、歓迎会の場であの人に言ったの。「この件は祖父に相談します」って。黒沢部長、呆然とした顔してたよ。私の祖父が誰か、全く分かっていなかった。そうか。私、一人じゃもう限界なの。柊さんのことも、他の被害者のことも、全部守りたい。でも、私の力だけじゃ足りない。じいちゃんの力を貸してほしい。宗介は目を閉じた。千夏がようやく素直に助けを求めてくれた。千夏、最初からお前がその言葉を言ってくれる日を待っていた。ここからは俺の仕事だ。安心して眠りなさい。ありがとう、おじいちゃん。おやすみなさい。おやすみ。明日には片付ける。
電話を切った後、宗介はすぐに動いた。深夜にも関わらず藤堂に連絡を取り、翌朝までに証拠を全て揃えるよう指示した。神崎には早朝出社を伝え、顧問弁護士には法的手続きの準備を依頼した。会長、動かれるおつもりですか? 四十年前の創業期を思い出すよ。あの頃は毎日徹夜だった。あの頃と違って、お体に無理はなさらないでください。俺が無理をしているのに、孫が寝ていられるか。宗介は一睡もせず、書斎のデスクに向かい続けた。藤堂が集めたデータ流出の証拠、著作権の記録、三名の女性社員への不適切行為に関する匿名証言、さらに千夏から送られてきた録画データ。それらを一つ一つ確認し、時系列に整理していく。夜明けが近づく頃、全ての資料が揃った。
翌朝、宗介は通常より一時間早くオフィスに入った。会長室の椅子に腰を下ろし、窓から差し込む朝日を正面から受けながら、静かに息を整えた。それから秘書を呼んだ。黒沢部長に伝えてくれ。午前十時に会長室へ来るようにと。午前十時、ノックの音が響いた。黒沢が扉を開けた瞬間、その笑顔が凍りついた。広い会長室の応接テーブルを挟んで、宗介が静かに座っている。その隣には藤堂、人事部長の神崎、そして見慣れないスーツ姿の男。顧問弁護士だった。テーブルの上には分厚い資料の束が整然と並んでいる。会長、お呼びでしょうか? 何か御用ですか? お座りください、黒沢さん。確認していただきたいことがあります。黒沢は促されるまま、恐る恐る椅子に腰を下ろした。テーブルの上の資料が目に入り、喉がごくりとなった。宗介はその資料の上にゆっくりと手を置き、黒沢の目をまっすぐ見据えた。黒沢部長、君に確認したいことがいくつかある。まず、この三年間で、政作部の部下が手掛けたデザインデータ三十件以上が、君の名義で外部企業に販売されている件について、弁明を聞こう。それは何かの間違いだ。私はそんなこと、知らない。間違いではない。宗介はテーブルの上に証拠資料を広げた。印刷されたメールのやり取り、銀行口座の入金記録、外部企業との契約書の写し。黒沢の顔色が見る見るうちに土色に変わっていった。額に浮かんだ汗が顎を伝って、テーブルの上にポタリと落ちた。宗介は黒沢から目をそらさず、淡々と続けた。次に、フリーランス契約者が作成した作品五件を、無断で転売していた件。これらの原作者は、現在当社の社員として働いている人物だ。著作権法第百十九条に基づく刑事罰の対象になる。理解しているな。そ、その作品は、誰のものか特定できないような古いデータで。大体、フリーランスの作品なんて、どこの誰が作ったか証明できないでしょう。特定できている。え? 原作者の名前は、神田千夏。君が中卒だと馬鹿にし、便所掃除をしろと言った、あの新入社員だ。神田だと? あの小娘がそんな作品を持っていたとしても、それが何だって言うんですか? そもそも神田なんて社員、私は。宗介はそこで初めて、穏やかな笑みを浮かべた。しかし、その笑みの奥にある冷たさが、黒沢の言葉を途中で止めた。会議室の空気が、張り詰めた弦のように震えている。黒沢。千夏は私の孫娘だ。
沈黙。重い静寂が会長室に落ちた。黒沢の口が半開きになったまま、数秒間、動かなかった。やがて、その意味を理解した瞬間、黒沢の全身から血の気が引いた。う、嘘だ。あの子が会長の孫だと? 伊達に学歴は出せない。名前だって変えている。千夏は幼い頃から体が弱く、高校を中退せざるを得なかった。だが、独学でデザインを学び、フリーランスとして実績を積み、正規の試験を経て当社に入社した。素性を隠したのは、会長の孫としてではなく、一人のデザイナーとして認められたかったからだ。黒沢は数秒間、黙っていた。それから顔を上げ、開き直ったような目で宗介を見た。しかし、自分を見る会長の顔は、いつも社員たちに向ける仏のような顔とは違い、直視できないほど恐ろしかった。会長、率直に申し上げます。確かに、私はやりすぎた部分があったかもしれません。ですが、神田さんが会長のお孫さんだと知らなかったのは、本当のことです。知っていれば、私だって。知らなかったでは通らない。それに、データの件についても、私は会社の利益のために動いていた側面もあります。外部との連携を強化することで、劇場クリエイトのブランド価値を高めようとしていた。会長、私の功績も少しは考慮していただけませんか? 宗介は静かに立ち上がった。その動きだけで、部屋の全員が息を飲んだ。宗介はゆっくりとテーブルを回り、黒沢の正面に立った。殴るのではない。ただそこに立っている。それだけなのに、黒沢の体が小さく縮んだ。君は今、二つのことを言った。知らなかったから仕方ない。会社のためにやっていた。はい。そういうことです。聞いていて気づかなかったが、その二つの言葉に、被害を受けた社員への言葉が一つもない。君は複数の女性社員が、毎日怯えながら出社していたのを知っているか。ある女性社員は、会議中に執拗に絡まれ、腕を掴まれた。そして、俺の名前を使った嘘に、口を封じられていた。君の言う功績とやらを聞く前に、その女性たちに謝ったのか? は。答えなさい。謝ったのか? まだ。していません。それが答えだ。宗介は静かに自分の席へ戻った。それから神崎を見た。黒沢竹志さん、以下の事由により、本日付けで懲戒解雇とします。第一に、部下のデザインデータの無断転売および社内機密情報の外部流出。第二に、著作権法に基づく知的財産の侵害。第三に、複数の女性社員に対する不適切な行為および虚偽の脅迫。なお、本件については、損害賠償請求および刑事告訴の手続きに入ります。黒沢は声を失った。椅子の上で小刻みに震え、唇が何かを言おうとして、しかし言葉にならない。四十五歳の男が、膝を震わせている。かつての部下たちの前で、学歴がない奴に想像性なんてあるわけない、と公言していた男の末路だった。待ってください。お願いです。やり直させてください。家族がいるんです。住宅ローンもまだ残っていて。君が踏みにじった社員たちにも、家族がいる。将来がある。守りたい人がいる。そのこと、君は一度でも考えたことがあるのか? 黒沢は何も言えなかった。その時、会長室の扉が静かに開いた。そこに千夏が立っていた。宗介が事前に呼んでいたのである。黒沢は床に膝をついたまま、千夏を見上げた。千夏は黒沢を一瞥し、それから宗介に向かって深く一礼した。そして黒沢の方へ向き直り、静かに口を開いた。黒沢部長。私は会長の孫ですが、それ以前に、あなたに実績を横取りされたデザイナーです。私の仕事を、私の名前を返してください。黒沢は何も言えなかった。千夏も黒沢を見なかった。宗介は藤堂に目配せした。宮原巧も呼んでくる。数分後、宮原が会長室に入った。膝をついた黒沢と、大量の資料と、千夏の姿を見た瞬間、宮原の顔から一切の表情が消えた。宮原君。君が黒沢部長のデータ横流しの受け渡し役を務めていたことは把握している。弁明があるなら聞こう。宮原は床の黒沢を見た。黒沢はもはや顔を上げることさえできない。宮原の中で何かが切れた。全て、黒沢部長の指示でした。断ったら自分も潰すと言われて、逆らえなかった。私は脅されたんです。お前、何を言って。黙ってください。あなたのせいで、私の人生が狂ったんだ。全部、あなたが悪い。貴様、誰のおかげで今の地位にいられると思ってる。二人とも黙りなさい。一喝で、部屋が静まり返った。宗介はゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩み寄った。膝に鈍い痛みが走ったが、背筋だけはまっすぐ伸ばした。眼下に広がるビル群と、行き交う人々を見つめながら、背中越しに告げた。宮原君。指示であろうと、違法に加担した事実は消えない。君にも追加の処分を下す。異議があるなら、弁護士を通じて申し立てなさい。はい。俺がこの会社を作ったのは、学歴も肩書きもない人間でも、実力と誠実さで勝負できる場所が作りたかったからだ。君たちはその理念を踏みにじった。宗介はゆっくりと振り返り、二人を見据えた。出ていきなさい。黒沢と宮原は、社員二名に付き添われて会長室を退出した。扉が閉まった瞬間、部屋に静寂が戻った。宗介は椅子に深く身を沈め、大きく息を吐いた。お疲れ様でした、会長。ああ。だが、まだ終わりじゃない。千夏が隣に静かに立った。宗介は孫娘の顔を見上げ、小さく頷いた。二人の間に、言葉は必要なかった。
黒沢の解雇が社内に通達された日の夕方、宗介は会長室で一人、窓の外を眺めていた。夕日が街を橙に染めている。孫娘を守り、不正を正せた。それなのに胸を占めるのは達成感ではなく、空虚な感覚だった。黒沢がいなくなっても、同じような人間がまた現れるかもしれない。黒沢を断罪したことは正しかった。だが、それは終わりではなく、始まりに過ぎない。一方、その頃、解雇された黒沢の転落は急速だった。不適切行為で刑事告訴されたニュースは業界中に広まり、どの企業も黒沢との関わりを断った。自宅に戻った黒沢を待っていたのは、妻からの離婚届だった。あなたとはもう終わりです。判を押してください。待ってくれ。話を聞いてくれ。俺はただ。話すことは何もありません。娘が部屋の入り口に立っていた。高校生の娘は、父親をまっすぐ見つめて言った。お父さん。被害者の人たちに謝った? それは、これから。謝ってから出直して。今は顔も見たくない。収入を失った黒沢は、住宅ローンの支払いが滞り、家は差し押さえされた。ワンルームのアパートで転職先を探したが、面接に行くたびに前歴を理由に断られた。かつての部下たちは、誰一人として連絡を寄越さない。宮原からも音沙汰はなかった。やがて黒沢がたどり着いたのは、清掃会社の契約社員としてオフィスビルのトイレを掃除する仕事だった。ある朝、便器を磨きながら、黒沢は天井を見上げた。あの夜、拳を握って吐き捨てたあの言葉が、今も頭の中で鳴り響いている。中卒は便所掃除でもしてろ。その言葉が、寸分違わず自分自身に返ってきていた。
その日の夕方、千夏が会長室を尋ねてきた。宗介は孫娘の顔を見た瞬間、張り詰めていた心の糸がふっとほぐれるのを感じた。千夏の表情にはまだ疲れの影が残っていたが、その目には、これまでにない強い光が宿っている。千夏は宗介の向かいに座り、口を開いた。おじいちゃん、今日ね、柊さんが初めて笑ったよ。本当に嬉しそうな顔だった。そうか。良かったな。でもね、ずっと考えてたの。黒沢部長がいなくなっただけじゃ、根本は何も変わらない。宗介の目が見開かれた。孫娘が自分と全く同じ問いにたどり着いていた。学歴がないから馬鹿にされる。体が弱いから戦力にならないと決めつけられる。そういう空気そのものを変えなきゃ、また同じことが繰り返される。だから、私、提案があるの。聞かせてくれ。劇場クリエイトに、実力だけで評価される制度を作りたい。ポートフォリオ先行試験制度。応募者の名前も年齢も学歴も伏せて、作品の質だけで採用判断する仕組み。柊さんと話しながらずっと考えてたんだ。宗介は息を飲んだ。千夏が語っているのは、宗介が四十年前にこの会社を立ち上げた時の原点そのものだった。学歴もなかった自分が、腕一本で勝負できる場所を作りたかった。いつの間にか、その理念は形骸化し、黒沢のような人間が幅を利かせる組織になっていた。宗介の視界が滲んだ。こらえようとしたが、堪えきれなかった。おじいちゃん? 千夏。お前は、俺が忘れかけていたものを思い出させてくれた。この会社の原点だ。おじいちゃんが作った会社だよ。学歴も何もなかったおじいちゃんが、腕一本で築き上げた場所。だから私はここで働きたかった。この会社をおじいちゃんが夢見た通りの場所にしたくて。ありがとう。千夏。その制度は、俺の経営者人生の集大成として、必ず実現させる。一人でやらなくていいよ。一緒にやろう、おじいちゃん。ああ、一緒にやろう。二人の間に、静かで温かい沈黙が流れた。夕日が窓から差し込み、宗介と千夏の姿を柔らかく照らしている。
半年が経った。劇場クリエイトに、穏やかな日常が戻っていた。新しく着任した政作部長のもとで、会議室から怒号が消え、若手社員たちが自由に意見を交わせる環境が生まれている。千夏が提案したポートフォリオ先行試験制度は正式に導入され、第一期の採用では元フリーランスのデザイナーや、異業種からの転身者が新たに加わった。政作部はかつてないほど活気に満ちている。宗介が四十年前に掲げた理念が、孫娘の手によって新しい形で蘇った。柊奈美も、少しずつ笑顔を取り戻していた。ある日、柊は千夏に小さな封筒を手渡した。あの廊下で私の前に立ってくれたこと、一生忘れません。ありがとうございました。柊さんが声をあげてくれたから、他の人も救われたんです。勇気を出してくれたのは、柊さんですよ。柊は少し照れたように笑った。それから千夏に言った。今度、お茶に行きませんか? 私、行きたいお店があって。もちろん、絶対行きましょう。
政作部に新しい風が吹いていた。ポートフォリオ先行試験で入社した新人デザイナーの一人に、体調管理のためリモート勤務を申請してきた若い女性がいた。新しい政作部長はその申請書に迷わず承認を押した。その新人が初めて出社した日、千夏はデスクまで歩み寄り、静かに声をかけた。リモート出社、うまく使い分けるといいよ。無理しないで。何かあったら、いつでも声をかけて。あ、はい。ありがとうございます。私も最初は大変だったから。でも、ここは大丈夫な場所になったから。その言葉を廊下を通りかかった藤堂が耳にした。藤堂は足を止めず、ただ小さく目を細めて、歩き続けた。会長、千夏さんの最新の案件。クライアントからまた指名が入りましたよ。そうか。あの子は本物だからな。会長がそうだったように。俺はもう六十六だぞ。若い連中に任せるさ。そう言いながら、まだまだ引退する気はないでしょう。宗介は苦笑いした。藤堂の言う通りだった。まだやれることがある。まだ守るべきものがある。そう思える限り、自分は現役だ。
ある夕方、宗介のスマートフォンが震えた。千夏からだった。おじいちゃん、聞いて。大手メーカーのブランドマニュアルの案件、私のデザインが通ったの。そうか。よく頑張ったな。藤堂さんにもお世話になったけどね。体調見ながら、自分のペースでやれてる。それでいい。お前の人生は、お前のペースでいいんだ。うん。あのね、もう一つ言いたいことがあって。なんだ。私ね、この会社に入って本当に良かった。おじいちゃんの会社で働けて、誇りに思ってる。宗介は電話口で静かに目を閉じた。俺もだよ。千夏。お前がいてくれて、本当に良かった。宗介は少し間を置いてから、口を開いた。千夏、一つだけ聞いていいか? ずっと気になっていた。なぜ、フリーランスの仕事を全部捨ててまで、この会社に来たんだ? 千夏はしばらく黙っていた。それから、静かに答えた。フリーランスをやってると、いろんな会社の人と仕事するじゃない。劇場クリエイトの取引先の人とも、何度か一緒に仕事したことがあった。その人たちから、少しずつ聞こえてきたの。「あの会社、最近変わったよね」「学歴がないと相手にされない」「声を上げると、潰される」って。知らなかった。おじいちゃんには届かない声が、外には漏れてた。それを聞くたびに、ずっと引っかかってたの。だって、デザインを始めた時、おじいちゃんが言ってくれたんだもん。「どんな場所にいても、本物の仕事をした人間は必ず認められる」って。でも、おじいちゃんの会社がいつの間にかそうじゃなくなってた。学歴がないと門前払い。体が弱いと戦力外。私みたいな人間が、組織の中でも戦えるって、証明したかった。外からじゃできないことだから。宗介は電話口でしばらく何も言えなかった。千夏。お前は、俺が忘れていたものを、ずっと覚えていてくれたんだな。おじいちゃんの言葉が、私を作ったんだよ。電話を切った宗介は、デスクの引き出しをそっと開けた。千夏が幼い頃にクレヨンで描いた絵。小さな女の子が、おじいちゃんの手を握っている。隅に「おじいちゃん大好き」と書かれたその絵を、宗介はそっと指で撫でた。あの頃の千夏は、病室のベッドの上で、それでも笑っていた。今、あの子は自分の足で立ち、自分の力で道を切り開いている。夕日が会長室の窓から差し込み、古いクレヨン画を温かく照らしていた。宗介は絵を大切に引き出しに戻すと、穏やかな表情で小さく呟いた。まだまだ、やれることはあるな。六十六歳の経営者は、孫娘と共に、この会社をもっと温かい場所に変えていく。静かな決意を胸に、宗介は廊下に向かって歩き出した。
