「母さん、こっちだ」
背後から聞こえた声に、私は手にしていたものを落としそうになった。母さん、今すぐ家を出よう。その声は、今も病院にいるはずの息子・優太のものだった。三日前に交通事故に遭い、少なくとも一週間は入院すると聞いていた。ところが優太は青ざめた顔で、玄関に立っていた。
「説明は後でする。父さんが戻る前に逃げないと」
「逃げるって、どういうこと?」
優太は震える手で一枚の書類を差し出した。そこには私の名前と、見覚えのない高額な生命保険の契約が記されていた。受け取り人は夫の高広。保障額は三千万円。
「母さんは父さんと離婚しようとしてるんだろ。父さんは気づいてるんだよ」
優太は唇を噛みしめた。
「俺、聞いたんだ。慰謝料を払うくらいなら、保険金を受け取った方がいいって、誰かと話してたんだよ」
その瞬間、足元が崩れるような感覚に襲われた。夫が私の命を狙っている。そんなこと、簡単には信じられない。けれど、息子が嘘をつく子ではないことも、私は誰より知っていた。
私の名前は高橋さち子。五十二歳。夫の高広とは大学時代からの付き合いだった。私は昔から心配性で、何をするにも何度も確認しなければ落ち着かない性格。反対に高広は、細かいことを気にしない人だった。「大丈夫、大丈夫。なんとかなるって」それが高広の口癖だった。大学の行事で失敗して落ち込んだ私に、「失敗したって人生が終わるわけじゃないだろ」と言った。当時の私には、その明るさが眩しく見えた。私にはないものを持っている。そう思って、交際から四年後に結婚した。
最初の数年は本当に幸せだった。ただ一つ、結婚してから気になったのは、高広のお金に対する考え方だった。「家計は俺に任せてよ」そう言って通帳を預かったものの、引き落とし前に何度も残高が足りなくなる。理由を聞いても、「少しくらい足りなくても、給料日に入るから大丈夫だ。細かいことを気にしすぎだよ」と笑うだけ。私が自分の貯金から補うことで、どうにか支払いは滞らずに済んでいた。
結婚して五年が経った頃、私は妊娠した。待ち望んでいた子供だった。しかし、報告を聞いた高広は喜ぶどころか、深いため息をついた。
「もう少し貯金してからって話だったよな」
でも、去年から二人で話し合ってたし——そう思っていると、高広は私の肩を軽く叩き、いつものように笑った。
「まあ、できたものは仕方ないか」
その言葉は、とても無責任に聞こえた。それでも優太が生まれた日、高広は誰よりも喜んでいた。何枚も写真を撮り、「俺も父親になったんだな」と笑っていた。その顔を見て私は安心した。きっと、妊娠を伝えた日の反応は、突然のことで驚いただけだったのだ。これから三人で温かい家庭を作れる。そう信じていた。
けれど現実は違った。夜中に優太が泣いても、高広は起きなかった。休日もソファーでスマホを見たまま。私が「少しだけ抱っこを変わって」と頼んでも、「赤ん坊は泣くのが仕事だろう。母親なんだから、気にしすぎるなよ」と笑われた。睡眠不足が続き、私は次第に小さな失敗を繰り返すようになった。洗濯物を干し忘れることもあれば、冷蔵庫の扉を締め忘れることもある。その度に高広はため息をついた。
「一日中家にいるのに、こんなこともできないのか。俺は外で働いてるんだぞ」
私は何も言い返せなかった。母親なのだから、もっと頑張らなければならない。そう自分に言い聞かせた。
ある日、ひどい頭痛と吐き気で、立っていることさえできなくなった。私は高広に頼んだ。「三時間だけでいいから、優太を見ていてほしいの」。高広は面倒そうな顔をしたが、仕方なく頷いた。私は寝室に入り、布団に倒れ込むように眠った。目を覚ますと、家の中が妙に静かだった。不安になってリビングへ行くと、優太を抱いていたのは高広ではなかった。そこにいたのは義母の笑美子さんだった。
「お母さん、どうして――」
「高広から連絡があったのよ。急な仕事が入ったから、代わりに来てくれって」
義母は昔から口調が厳しく、私は少し苦手だった。しかし義母は私の顔を見るなり、眉をひそめた。
「あなた、ちゃんと食べてるの?」
「すみません」
「謝るんじゃないよ。あのバカ息子、何もしてないんだろ。仕事が忙しいのはかわいそうに思う必要はないのよ」
義母はそう言うと、私を寝室へ戻した。「あと三時間は私が見てるから。母親が倒れたら、子供が一番困るんだよ」。再び眠った後、リビングへ戻ると、テーブルには温かい味噌汁が置かれていた。一口飲んだ瞬間、安心して涙がこぼれた。義母は何も言わず、泣いている私の向かいに座っていた。
その日から、義母は時々家へ来るようになった。「近くまで来たついで」と、いつもそう言った。けれど、優太の世話を手伝い、私に食事をさせるために来ていることは分かっていた。優太が成長すると、義母は家事も教えた。「男らしくできなくてもいいなんて時代じゃないからね。自分のことは自分でできるようになりなさい」。包丁の使い方、洗濯物の畳み方、掃除の仕方。言葉は厳しくても、できるようになるまで義母は決して優太を見放さなかった。
やがて優太は十五歳になり、私が仕事から帰ると、夕食を作って待ってくれることもあった。
「母さん、最近疲れてるだろ」
ある日、優太はカレーを作りながら言った。
「今日は俺が作るから、休んでて」
その時、高広はリビングのソファーでテレビを見ていた。優太が「父さん、サラダをお願いしていい?」と聞くと、高広は笑った。
「俺、料理は苦手なんだよ。お前がやった方が早いって」
「そっか」
優太はそれ以上何も言わなかった。ただ、少し寂しそうに包丁を握り直した。夕食後、優太はぽつりと言った。
「俺、早く大人になりたいな」
「どうして?」
「母さんを楽にしてあげたいから」
私は込み上げてくるものを感じて、思わず背を向けた。涙を見られたくなかった。息子に気を使わせるような家庭を作ってしまった。そんな自分が情けなくなり、涙が止まらなかった。
その頃から、高広の帰宅はさらに遅くなった。急な打ち合わせ、取引先との会食、出張。理由はいくらでもあったけれど、気になったのは、高広が身だしなみを気にするようになったことだった。夫婦の会話もほとんどなくなった。浮気しているかもしれない。でも、その前に夫婦としてどうなのか。私は離婚を考え始めた。優太を育てながら生活することは簡単ではない。それでも、父親が母親を見下し、何もしない姿を見せ続ける方が、優太にとっては良くないのではないか。私は弁護士に相談し、少しずつ準備を始めた。
そんなある日、職場に病院から電話が入った。
「高橋優太さんのご家族の方で間違いありませんでしょうか?」
「そうです。優太に何かあったんですか?」
「先ほど交通事故に遭われて、救急搬送されました」
頭の中が真っ白になった。病院へ駆けつけると、優太はベッドに横たわっていた。幸い命に別状はなかったが、背中を強く打ち、足には傷が複数あった。
「母さん」
優太が目を開けた瞬間、私はその手を握りしめて泣いた。
「よかった。本当に良かった」
そして夫へ何度も電話した。けれど出ない。事故のことをメッセージで送ると、しばらくして返信が届いた。
「分かった」
それだけだった。優太の容体を尋ねる言葉も、私を気遣う言葉もなかった。三十分後、病室へ駆け込んできたのは夫ではなく、義母だった。
「優太」
義母は険しい顔でベッドへ近づいた。
「心配かけるんじゃないよ。全く」
怒っているような声だったけれど、優太の手を握る義母の指は震えていた。結局、高広はその日、最後まで病院へ来なかった。私は病室の隅で弁護士事務所へ連絡した。もう迷いはなかった。夫婦関係はとっくに終わっていたのだ。
翌日、さらにおかしなことが起こった。義母が誰にも告げず病室へやってきて、私に言った。
「仕事に戻った方がいい。今日は私が優太についている」
優太も、「母さん、俺は大丈夫だから」と笑った。私は二人の言葉を信じ、一度自宅へ戻った。その日の夕方、高広は珍しく早く帰ってきた。
「優太は病院よ。お母さんがついてくれてる」
「そうか」
高広は安心したように息を吐いた。その表情に、私は小さな違和感を覚えた。息子を心配している顔じゃない。何かを確認し、安心した顔だった。
翌朝、高広は大きなバッグに荷物を詰めていた。
「三日間、出張になった」
「どこへ?」
「急だから、まだ詳しく決まってない」
高広は私と目を合わせず、家を出ていった。その二時間後のことだった。
「母さん、今すぐ家を出よう」
病院にいるはずの優太が、突然帰ってきた。
「退院したの?」
「違う。ばあちゃんが先生に事情を話して、数時間だけ外出の許可をもらったんだ」
事情が呑み込めない私に、優太は事故の翌日起こった話をした。高広は見舞いには来なかった。でも、病院には来ていた。優太が窓の外に目を向けると、父親が真下の駐車場で誰かと電話をしていたのだという。窓を開けると、声が響いていた。
「妻は離婚する気だ。家も金も取られるくらいなら、先に動く。保険はちゃんと降りるんだろうな」
電話の相手は、たまに呼ぶ名前からして、おそらく女性。優太はすぐ義母に相談した。義母が実家に届いていた高広宛ての書類を見ると、私に高額な生命保険がかけられていたことが分かったという。さらに高広には、私の知らない借金があった。高広は、私が離婚の準備をしていることにも、すでに気づいていたのだ。
「父さんは今日、母さんが家に一人だと思ってる」
優太は言った。
「それに、明日の朝まで俺は病院から動けないと思ってる」
私は大切な書類と最低限の荷物をまとめ、優太と共に家を出た。向かった先は義母の家だった。その夜、私たちが暮らしていた家で火事が起きた。火は異常な速さで広がり、家はほとんど焼け落ちたそうだ。幸い、近隣への被害はなかった。警察から連絡を受けても、高広とは繋がらなかった。スマホを自宅へ置いたまま、出張へ出たことになっていたのだ。高広は何も知らないふりをするつもりだったのだろう。
三日後、夫は期限のいい顔で義母の家へ帰ってきた。
「母さん、お土産買ってきたぞ」
リビングに入ってきた瞬間、夫の顔から笑顔が消えた。私と息子が、義母と一緒に座っていたからだ。
「なんで、お前たちがここに?」
私は静かに答えた。
「お帰りなさい。家が火事になったのよ。知らなかったの?」
高広の額に汗が浮かんだ。
「知らないよ。スマホを忘れてたから」
「私たちが死んだと思っていたのね」
「いきなり何を言ってるんだよ」
高広は笑おうとしたが、口元が引きつっていた。優太が立ち上がり、夫を問い詰めた。
「父さん、病院に一度も来なかったよね」
「仕事が忙しかったんだよ」
「でも、病院の駐車場には来てたよね」
優太はポケットからスマホを取り出した。
「電話の内容は録音してる」
部屋に高広の声が流れた。「妻は離婚する気だ。保険はちゃんと降りるんだろうな。事故なら疑われないようにできるだろう」。高広はスマホを奪おうとした。しかし義母が、その手を強く払いのけた。
「あんたは、どこまで落ちれば気が済むんだい」
義母は分厚い書類の束を高広の前へ置いた。生命保険の契約書、借金の記録、そして区役所から届いた浮気相手とのやり取り、火事が起きる直前、高広が自宅付近にいたことを示す防犯カメラの画像。
「違う。俺はただ――」
「何が違うの?」
私が尋ねると、高広は必死に言い訳を始めた。
「保険は家族のためだ。そもそも家が燃えたのは偶然だろう。お前たちは無事だったんだから、もういいだろう」
その言葉を聞いた瞬間、私の中に残っていた迷いが消えた。この人は最後まで、自分が何をしたのか理解できない。
「離婚します」
私は高広をまっすぐ見た。
「浮気の慰謝料も請求します。火事についても、警察に全て話します」
「待ってくれよ。そんなことをしたら、俺の人生が終わる」
高広は床に手をついた。
「家族なんだから、やめてくれよ」
優太が静かに答えた。
「父さんは、母さんを家族だと思ってたの?」
義母はゆっくりと立ち上がった。
「あんたの人生を終わらせたのは、さち子さんじゃない」
震える声だった。
「あんた自身だよ」
そして義母は自分の息子の腕を掴んだ。
「ほら、歩きなさい。警察へ行くよ」
「母さんまで、俺を見捨てるのか」
義母の目から、大粒の涙がこぼれた。
「見捨てるんじゃない。母親として、最後のところで責任を取るんだよ。この大バカ者」
高広は力なく項垂れ、義母に連れられて家を出ていった。その後、高広は警察の取り調べを受け、火事への関与を認めた。私たちは離婚し、優太の親権は私が持った。焼けた家に戻ることはできなかったが、優太と二人で小さな部屋を借りた。義母は「息子の代わりにはなれないけど、できることはする」と言ってくれた。
ある日の夕方、仕事から帰ると、部屋の中にカレーの香りが広がっていた。
「お帰り、母さん」
優太は少しぎこちない足取りで、キッチンに立っていた。
「まだ無理しちゃだめでしょ」
「先生が、少しくらいなら動いていいって」
優太は笑い、私の前にカレーを置いた。
「これからは、俺も母さんを守るから」
私は首を横に振った。
「優太は私を守るために生きなくていいの。自分の人生を生きて」
優太は少し考え、照れたように笑った。
「じゃあ、二人とも自分の人生を生きよう。その代わり、困った時は助け合う。家族なんだから」
それはかつて高広が自分を守るために使った言葉だけれど、優太が口にすると、その意味は全く違って聞こえた。家族とは、誰か一人が我慢し続ける関係ではない。怖い時に逃げてもいい。苦しい時に助けを求めてもいい。そして、間違った人から離れることも、自分と大切な人を守るために必要な選択なのだ。私は優太の作った、少し辛いカレーを食べながら、久しぶりに心から笑った。
