「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい。これからのことを話し合わないといけないだろう」
妻の目は涙で腫れていた。医者から余命三ヶ月と告げられた直後、夫は診察室を飛び出してしまった。私はその背中を追いかけた。
「ごめんなさい。でも、そこまで取り乱すとは思わなかった」
戻ってきた彼は、意外なほど落ち着いていた。それがかえって辛かった。
「あなた、どうしてそんなに落ち着いていられるの? 余命三ヶ月よ。私には耐えられない」
「どこかで覚悟していたんだ。ずっと命を削って会社を大きくしてきた。おかげで大勢の社員を抱える大きな会社になった。でも、こんな生き方をしていたら長くはないだろうなと思っていたんだ。ずっとけだるさが取れなかった時、いよいよお迎えが来たかと思ったよ」
「私も、安明も、あなたともっと一緒にいたかった」
「そう言ってくれるのは本当に嬉しい。俺は素敵な家族に恵まれたと思っている」
「やめてよ。まだ諦めないで」
「末期だ。悪あがきはしたくない。医者からは延命治療か緩和ケアか、どちらか選べと言われている。俺は緩和ケアを選ぶつもりだ。数ヶ月延びても意味はない。残された時間をゆったりと、大切な人と過ごしたい」
「どうしてそんなに達観してるのよ」
「お前の気持ちは分かる。立場が逆なら同じように感じただろう。でも、自分のことは自分で決めたい。残された人たちのために時間を使いたい。お前には苦労をかけるかもしれないが」
「そんなこと言わないで。私はずっとあなたの妻なんだから。苦労なんてあるはずないわ」
「ありがとう。それじゃあ、会社のことやこれからのことを話し合う必要があるな」
「今から安明を病院に呼ぶわ」
「いや、あいつは仕事が忙しいだろう。こんなことで呼ぶ必要はない。LINEでいい。できれば俺も、あいつの辛そうな顔は見たくないからな。俺から直接伝える」
「いいの?」
「安心しろ。男同士でゆっくり話をするさ」
五時間後。家に帰ると、安明がキッチンで待っていた。
「安明、ご飯ができてるわよ。早く下で一緒に食べましょう」
「父さんは?」
「それが、用があるからって出かけたの。一緒に行くと言ったんだけど、まだまだ元気だから心配するなって」
「母さん、俺、辛いよ。どうして父さんがこんなことになるんだ?」
「安明……私も同じ気持ちよ。神様は本当に残酷なことをするわね」
「俺は父さんに親孝行の一つもしてあげられなかった。孫の顔も見せられなくて」
「あなたはお父さんの後継ぎになれるように仕事を頑張ってきた。結婚どころじゃなかったのはお父さんだって分かってる。そんなことを責めるような人じゃないでしょ」
「会社としては、次の社長を決めることになるよな」
「そうね。お父さんはあなたを後継にすると思うわ。昔から息子に継がせたいって話してたから」
「俺なんかに父さんの後釜が務まると思う?」
「あなたなら大丈夫よ。そのために勉強も仕事も頑張ってきたんだから。絶対になれると私は確信してる」
「そうか……分かったら、早く降りてきなさい。お父さんにも連絡して帰ってくるように言うから。家の中ではあまり暗い顔をしないようにしましょう。できるだけ明るく送ってあげるのがいいと思うから」
「そうだな。分かった」
それから少しして、夫の携帯が鳴った。出た瞬間、彼の表情が曇る。
「あなた、気分が悪いとかない?」
「いや、大丈夫だよ。何かあったのか?」
「もう晩御飯の時間だから、早くお家に帰ってきてよ。今日はあなたの好きなビーフシチューにしたから」
「悪いが、今日はちょっと帰らないでおくよ」
「え? 何かあったの?」
「本当は、大事なことだけを伝えて帰るはずだったんだ。だが、俺が余命三ヶ月だと伝えたら泣かれちゃってな」
「もしかして、お友達か何か?」
「実は……俺にはずっと愛人がいたんだ」
一瞬、言葉が出なかった。
「ずっと隠し通すつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった。正直に話すから、落ち着いて聞いてほしい」
「どういうことなのよ」
「ナツキという人と、ずっと愛人関係だった。ナツキは俺が既婚者だというのを知った状態で関係を迫ってきた。それを受け入れて、ここまで続いた」
「ちょっと待って。混乱してて、分からない」
「頼むから、今は話を聞いてくれ。実は……俺とナツキの間には子供がいるんだ。直と言って、今年で二十六歳になる」
「二十六歳の子供? ずっと、あなたの子供だったの?」
「そうなんだ。大切な俺の息子だ。直はうちの子会社に入社させて、実務経験を積ませてある。その直を社長に据えることにする」
「何を言ってるの?」
「本当はもっと時間をかけて実績を積ませて、誰にも文句を言わせない状態で引き継ぎたかった。だが、こうなっては仕方がない。多少強引な方法を使わないとな」
「信じられない……そんなに長い間、私たちを裏切ってたの?」
「怒る気持ちは当然だ。どう考えても悪いのは俺だからな」
「それで、余命を伝えに行ったら泣きつかれて、帰れないってこと?」
「そうだな。だから今日はナツキと一緒にいてあげたい」
「ふざけないでよ。どうしてそんなことを今更言うの? こんなに長い間裏切られ続けてたなんて、知りたくなかったわ」
「悪い。でも、いつかは話さないといけないと思っていた」
「会社のこれからのことを話すと言ってたのは、そういうことなのね」
「ああ。俺はもう長くない。会社の後継は直に任せることにした」
「何を言ってるの? どうしてそっちなのよ。普通は安明でしょ。どうして愛人の子供になるのよ」
「俺は愛人だとか、そういうのは気にしていない。出会ったタイミングがお前より後だっただけだ。どちらかを贔屓したいわけじゃない」
「じゃあどうして愛人の子供なのよ」
「お前たちは、俺の家族としてどれだけ甘い汁を吸ってきた。ナツキたちはずっと日陰にいて、苦しい生活をしてきたんだ。だからせめて俺の死後は、いい暮らしをさせてあげたい。それでバランスを取るんだ」
「私たちのことは、何も考えてくれてないってわけ?」
「十分お前たちの世話はしてきた。お前にはいい生活を与えた。安明にはいい教育と仕事を与えた。あいつがうちに入れたのだってコネだ。そうやって世話をしてきたことを忘れるな」
「世話って……どうしてそんな上から目線なのよ。私たちは家族でしょ。支え合うのは当然よ。子供のために親が尽くすのは当然じゃない」
「だったら、直だって同じようにいい思いをしてもいいはずだ。あの子は俺の後を継ぎたいと思って、仕事を頑張っていた」
「そんなの関係ない。俺の会社なんだから、俺の好きなようにしていい」
「それ、本気なのね」
「別にお前たちをないがしろにしているわけじゃない。ただ、どちらも大切にしたいと思っているだけだ」
「それが大切にしてるって、本気で思ってるの? それに、相続も私たちには一銭もやらないんでしょ」
「分かってくれ。お前たちがずっとお金をもらってたから、バランスを取らないといけないんだ」
「そう、分かったわ。正直ありがたいわよ」
「素直で助かる」
「それじゃあ、今日は帰らないのね」
「ああ、頼むよ」
「それなら、今日だけじゃなくて、ずっとあっちにいてもいいわよ」
一時間後。玄関のインターホンが鳴った。出てみると、見知らぬ女性が立っていた。目の縁が赤く腫れている。
「あんたのせいだからね」
「え? どちら様ですか?」
「あんたのせいで、私の大好きな工事が、あの世に行っちゃうじゃない。どうしてくれるのよ」
「もしかして、ナツキさんですか?」
「そうよ。あんたがしっかりと工事を見てあげてれば、癌にも気づけたはずよ。それなのに、バカみたいに暮らしてるから」
「知りもしないくせに、勝手なことを言わないでください。私だって気づけるものなら気づきたかった。工事の金でぬくぬくと暮らしてたはずなのに、こんな大事なことにも気づけないなんてね」
「あなたは愛人として苦しい生活をされていたんですってね」
「何をバカにしてるの?」
「そうじゃないですよ。ただ、既婚者である夫に近づいた時点で、そうなることは想像できなかったんですか?」
「うるさいわね。でも、これからは立場逆転よ。直が会社の社長になるんだから」
「それを受け入れてるんですね」
「当たり前でしょ。うちの子は優秀なんだから。会社でもみんなから頼られてるのよ」
「それは素晴らしいことだと思いますが」
「うちの息子が社長になったら、真っ先にあんたの息子を首にしてやるからね。親子揃って路頭に迷いなさい」
「随分な逆恨みをしているようですね」
「私はあんたのことがずっと大嫌いだったんだから、当然でしょ。地獄を見せてあげるからね」
一週間後。夫から連絡があった。
「裕子、お前さんの家の住所を教えてくれ」
「何の用?」
「離婚届を送らせてもらいたいの。私はもうサインしてるから、早めに出しておいてね」
「裕子、離婚なんて俺は考えてないよ」
「バカ言わないで。あんたの妻なんて今すぐにやめたいの。あんたがあの世に行く前には離婚したいから、早くして」
「ちょっと待ってくれ。俺のやったことが悪いのは分かってる。だけど、離婚なんてしなくてもいい。俺が死んだら別れたことになるんだから」
「あんたの戸籍上の最後の妻が私ってのは嫌なのよ。ナツキって人にしてよ。だから別れてちょうだい」
「離婚なんかで、俺の貴重な時間を奪うなよ」
「弁護士にお願いすれば、あんたは何もしなくても勝手に離婚できるわよ」
「別にしなくてもいいだろう」
「あんた、どうせ遺言書で私たちには一円も遺産は渡さないとか書くつもりでしょ。まあ、そんなのは無理だけど、もらえる額が少なくなるわね。だったら財産分与と慰謝料をもらった方がましだと思って」
「結局は金か」
「裏切られた分の罪滅ぼしをしてもらいたいだけよ。それがお金しかないから、仕方なくこの方法を取ってるの。私たちを裏切り続けたことを後悔してほしいからね」
「俺はどちらも愛していたんだ」
「そんな理屈が通じると思わないで。いいから離婚しなさい。揉めたら揉めただけ長くなるのは分かってるでしょ?」
「本気なのか?」
「そうだって言ってるでしょ。それに、息子を後継にするなら、正式な妻との間の息子っていう方が良くないかしら?」
「それは確かにそうかもな」
「だったら、直君のためにも離婚した方がいいわよ」
「お前が直のことを考えてくれるなんて……子に罪はないからな。分かった、離婚に応じるよ。でも俺はお前たちのことを大切に思ってるからな」
「そう。私たちはもうあなたのことなんて何とも思ってないから、そっちの家族と仲良くやったらいいわ。二度と私たちとは関わらないで」
一週間後。会社の役員室で、安明が父と向き合っていた。
「今までお疲れ様でした。これからは会社のことは俺たちに任せて、家族との時間を大切にしてね」
「これはお前の仕業か? 何が?」
「俺は直を社長にする予定だったのに、取締役たちが俺の意見を無視して、勝手に別の者を社長にしやがった。お前、知ってるだろう」
「お父さん、残念だけど、それは無理な話だよ。この会社は大きい。普通に考えて、本社の社員でもない人間に経営なんてできるわけがない」
「それは周りの人間が支えればいいだけのことだろう」
「でも、それを取締役の人たちが許すわけがない。彼らも生活がかかってるんだから、そんな無謀なことはするわけがないんだよ」
「俺は直を社長にするために、裕子と離婚して高い慰謝料を払うことに同意したんだぞ」
「そうだね。でも母さんだって、そのことは分かってたよ」
「何?」
「偉そうに話していたけど、俺も父さんと同じで、社長が取締役に決められるというのは知らなくてさ。俺が次期社長になるのかなって本気で思ってたんだ。それを先輩に相談したら、ありえないって言われてね。そこで、俺もそのルールを教えてもらったんだ。だから俺は専務や常務に事情を伝えて、すぐに緊急の取締役会を開いてもらった」
「お前、そこまで読んでいたのか?」
「普通に考えて、取締役たちが納得すると思えないからね。何か作戦があるんだろうとは思ってたよ。強引な方法を使うとか、母さんに言ってたみたいだしな」
「お前がそんな風に動いてると分かっていたら、離婚なんてしなかったぞ」
「ああ、でも、そんなのこっちには関係ないよ。不倫したんだから、離婚したいと言われるのは当然だし、慰謝料を払うのだって普通だ」
「直のために社長のポストを用意しようと思ったのに」
「俺は心から父さんのことを尊敬していたよ。だから父さんが長くないと知って、本当に辛かった。でも、そんな気持ちはもうなくなってしまった。あんたのここ最近の立ち振る舞いは、愚かだし惨めだよ」
「お前、誰に口を聞いてるか分かってるのか?」
「分かってるよ。家族を長い間裏切ってた不貞野郎に言ってるんだ」
「お前、これ以上無粋なことをしない方がいい。できるだけ多くの人に尊敬されてあの世に行きたいだろう。だったらこの先は何もせずに家で大人しくしていてくれ」
「俺の力を使ってこの会社に入った人間が、偉そうに」
「一応俺は頑張って勉強もしたし、働きもしたつもりだった。でも父さんのおかげで入れたのも事実かもしれない。それでも俺は父さんの後を継ぐように会社で成果をあげようと頑張った。周りからは七光だと馬鹿にされることもあった。でも、そういう人たちも黙らせるくらいに、俺は結果も残してきたつもりだ。父さんは知ってるだろうけど、来月から俺は課長に昇進することが決まっている」
「ふっ。それがなんだ? 大したことないぞ」
「かもしれないね。でも俺は着実に目標に向かって前進している。あんたのような経営者になることが前までは目標だったけど、今は違う。あんたを超える経営者になるのが俺の目標だ。まあ、家族を裏切るようなやつを超えるなんて、簡単すぎる目標かもしれないけどね」
「なめたことを言うな」
「とにかく、これからは新しい人たちで会社を切り盛りしていくよ。だから父さんは安心して、不倫相手とその息子と穏やかな時間を過ごしてよ。そして俺たち家族のことは忘れてくれ。俺はもう、あんたのことを家族なんて思ってないから」
一ヶ月後。裕子の携帯が鳴った。画面には、もう見たくないと思っていた名前があった。
「裕子、もうお迎えが近そうだ」
「何? 私に連絡なんてしてこないでよ。こっちはもうあなたとは無関係なんだから」
「そんなこと言うなよ。昨日から入院することになったんだ。病院の名前を送るから、お見舞いに来てくれ。お前と安明の顔を見せてほしいんだ」
「いやよ。私たちは家族でも何でもない。そんな私たちと会ってる時間なんて無駄でしょ」
「そんなことない。お前たちも俺の家族だ」
「あなたがそう思うのはご自由にどうぞ。私たちはもう、あなたのことを家族だと思ってない。だからお見舞いになんて行かない」
「頼む」
「それに、私たちが行ったらナツキさんが嫌がるでしょう。穏やかに最後を迎えたいのなら、変なことはしない方がいいわ」
「ナツキたちとは、会ってないんだ」
「はあ? どういうこと? 結婚したんじゃないの?」
「結婚はしたよ。お前と離婚してすぐにな。でも、財産分与と慰謝料でお金が半分以上なくなったこととか、社長にさせてあげられなかったことを説明すると、どんどん冷たくなっていってね。あいつらの住んでるマンションからも追い出されて、一人でずっと生活をしていたんだ」
「そうだったんだ……結局あいつらも、俺の金目当てで近づいていただけなんだ。それが今更分かったよ」
「まあ、それはかわいそうだと思うけど。でも、同情はしないわよ」
「俺にはもう、お前たちしかいないんだ」
「私たちも家族じゃないって言ってるでしょ」
「俺が間違っていた。許してくれ」
「何ですって? あんたが長年私たちを裏切ってたくせに、許せなんてよく言えるわね。あんたは癌を突きつけられたから全部をペラペラ話し出したけど、それがなかったら、ずっと黙ってるつもりだったんでしょ。最後まで私たちを騙し続けるつもりだったくせに、今更謝っても許すわけがないでしょう」
「俺はもう長くないんだ。頼むから、きついことを言うなよ」
「こっちはあんたから裏切られたという傷を抱えながら、これからも生きていかないといけないのよ。辛いのはあんただけじゃない。自分だけを被害者みたいに言わないで」
「それはそうかもしれないけどさ」
「あんたはたった一人で最後を迎えることになる。それがあんたが生きた証だと噛みしめなさい。他人を裏切るような奴が、幸せな最後を迎えられるわけないでしょう」
それからまた一ヶ月後。ナツキの自宅を訪ねたのは、安明だった。
「ナツキさん、ちょっとお話があるのですが、よろしいですか?」
「誰?」
「安明です。母から連絡先を聞きました」
「どうかしたの? もうあの人もあの世に行ったんだし。私たちは本当に何の関係もないはずよ」
「そうですね。他人で間違いないです。ただ、どうしてもお話をしないといけないことがありまして」
「何よ」
「父は、あなたたちに苦労をかけたと話していました。てっきり俺は、恵まれた生活をしていなかったんだと思ってたんですが、どうやらかなりいい暮らしをしていたようですね。高級マンションで、あなたは仕事をせずに暮らしてたそうで」
「それが何よ? それくらいは当然でしょ。私はずっと日陰者だったんだから。苦労っていうのは、正式な妻になれなかったというところよ」
「でも、正式な妻になった途端、お見舞いにも行かず別々に暮らしていたそうですね」
「それはあいつが不甲斐ないからよ。遺産だって本当にちょっとしかなかったし」
「一応は俺と直君で半分に分けるということになりましたからね。そのせいでこっちの暮らしは大変なのよ。ちょっとお金を私たちに恵んでよ」
「それはできません。そんなことよりも、本題に入らせてもらいます」
「本題って何?」
「父は、あなたたちの生活を面倒見るために、会社のお金を流用していたことが分かりました。社長交代の時に経理関連を見直すために会計士に帳簿を確認してもらったんです。その時に不審な支出があったので全てを洗い出したところ、あなたの生活費のために多額のお金が経費として使われていたことが分かりました。ですので、あなたにはそのお金を返還してもらいます」
「はあ? ちょっと待ってよ。私はそんなの知らないわよ」
「知らなかったのはこちらも把握しています。ですので、損害賠償などは請求しません。その代わりに、今ある財産は不当に得たものなので、全て返還してもらいます。あなたが住んでるマンションにある家具、家電、ブランド品など、価値のあるものです。それらは全てうちの経費で買われたものなので。それと、家賃も住んでいた全額分を返還してもらいます。全額って、とんでもない額になると思いますが、それは我が社のお金ですので返還をお願いします」
「ふざけるな。私は関係ないわよ。あいつが勝手にやったことでしょ。どうしてその責任を私が取らないといけないのよ。こっちだって被害者なんだから」
「被害者は我々ですよ。あなたは会社の金で甘い汁を吸っていただけです。知らなかったと言っても、それは関係ありません」
「あんた、それで私に復讐をするつもりでしょ? こんなことをしても何の解決にもならないのが分からないの? 子供みたいなことはやめなさいよ」
「何にもならないことくらい分かってますよ。もし復讐をしていいのなら、金を取り返すくらいのことで済ますかよ。こっちがどれだけあんたらのせいで傷つけられたと思ってる。俺はまだいいよ。母さんはずっと父さんのことを支えてきたんだぞ。父さんは仕事のためなら家庭を顧みないところもあった。それでも母さんは父さんのためにサポートをし続けた。父さんに相手にされない俺が寂しくならないように、いつも笑顔で接してくれたし、俺が父さんを嫌わないように、父さんがいかに素晴らしいかを話してくれた。だから俺は父さんみたいになりたいと尊敬できたんだ。それもこれも全て、家族のためだったんだ。それなのに、あんたたちのせいでこんな悲しい最後を迎えることになったんだ」
「でも、金をたくさんもらって、いい思いができたんでしょ」
「金なんて、母さんが欲したことは一度もない。あの人が欲しかったのは、幸せな家族の日常だよ。そのために毎日頑張ってくれていたんだ。でも、あんたたちはそんな日常を奪い去った。それは絶対に許されることじゃない。だからと言って、復讐なんて時間の無駄だし、俺はやるつもりはない。不当利得返還請求は、あくまで会社の人間としてやるだけだ。だからあんたも素直に返還に応じてくれ」
「そんなお金があるわけないじゃない」
「だったら、命がけで頑張るしかないだろう。じゃないと、そっちが親子揃って路頭に迷うことになるぜ」
その後、ナツキはマンションや家具などを全て取り上げられ、さらに多額の返還を請求されることになった。工事から相続したお金も返済に当てたが、それでも足りなかったようだ。
焦ったナツキは普通に働いても無理だからと言って会社を起こし、そこの社長に直を就任させた。しかし内容は単なる情報商材を高く売りつけるだけの詐欺会社で、利用者から訴えられてしまい、二人揃って逮捕されてしまった。
楽をしていい暮らしをさせてもらっていたから、苦労ができなかったようだ。ある意味ではナツキも被害者かもしれない。まあ、同情は全くしないけど。
一方の裕子は、工事と住んでいたマンションを引き払って、別のところで安明と二人で生活をしている。安明は会社でどんどん結果を残しているようで、社長という目標へ邁進している。裕子はそんな安明を支えながら、いつかは結婚してほしいと思っている。もちろん、工事のように奥さんを裏切るようなことは断じてしてはいけない。
ただ、安明にそんな心配はないかもしれない。人を裏切った人間が最後にどうなるかを間近で見ていたからね。工事のことを反面教師にしつつ、できるだけ早くその存在を記憶から消せればいいなと思っている。
