「俺と結婚したいよな?」
彼が急にそんなことを言い出したのは、いつものように二人で食事をしている時だった。
「へ?何それ、もしかしてプロポーズ?冗談でしょ?」
「するなら真面目にしてほしい。俺は結婚したいと思うけどさ。うちの母さんが何て言うかなって思ってさ」
「まだお会いしたことないけど、そんなに厳しい方なの?」
「どうかな。リノンち農家だよな?」
「うん、そうだよ」
「実家が農家のお前と結婚とか、親が認めるわけないと思うんだよね」
私は箸を止めた。
「えっと、ごめん。意味が分からないんだけど」
「あー、簡単に言うと、家柄が違うっていうか」
「はい?」
「うちの母親は社長じゃん。だから結婚相手の家柄には厳しいんだよね」
「そう言われても、うちが農家なことはどうしようもない」
「うん、分かってる。だから母さんに認められたら結婚してやるよ。来週時間作ってもらうから、親連れて来い」
その言い方に、私は冷めた気持ちになるのを感じた。
「いや、その言い方も引っかかるし。別に無理して結婚の許可をいただかなくても大丈夫ですけど」
「はあ?」
「今ので将来が見えた。私はあなたたち家族から、今後もずっと農家の娘だと見下されるんだよね。そんな結婚はしたくないの」
「何言ってんの?俺ら何年付き合ってきたと思ってる?」
「四年。だから余計にがっかりしてる」
「なんでだよ!どこでそうなった?」
「それに気づかないところもちょっと無理」
「はあ…。親を連れてきて挨拶すれば、結婚の障害はなくなるんだぞ」
「もしそちらのお母さんが認めなかったら?」
「それは…」
「そもそも農家の娘との結婚は認めないんでしょ?だったらうちの親を連れて行って、わざわざ嫌な思いをさせたくない」
「いや、それはさ。たとえ農家でも、小綺麗にしてたり、いい時計つけてたりしたら、母さんも見直すと思うんだよね」
「何それ?持ち物で判断するってこと?」
「悪いけど、そんなもので判断されるのは嫌」
「持ってないなら、俺の時計貸してやるよ」
「時計一つで決まる結婚なら、しなくていいよ」
彼はようやく自分が失言を重ねていることに気づいたようだった。
「分かった。謝る。俺が悪かった。調子に乗りすぎたかもしれない」
「もういいよ」
「いや、だめだ。確かにリノの言う通りだよ。親なんて関係ないよな。俺らの気持ちが大事なのに」
「本当にそう思ってる?」
「もちろんだよ。どうしてもリノと結婚したいんだ。でもそのためには、ご両親とうちの親を合わせてほしい」
「私、まだプロポーズもされてないんだけど」
「それはおいおいちゃんとやるから。こんなことで今、二人の関係が終わるのは嫌だ」
「そこまで言ってくれるなら…分かった」
「本当?」
「父と母に聞いてみる」
「ありがとう。俺も母さんにちゃんと話しておくから」
一週間後、私たちは彼の実家を訪ねた。
応接間に通されると、彼の母親である明美さんは、最初から私たち家族を値踏みするような目を向けていた。
「あなた、よくもあんな田舎くさい父親を我が家に連れてこれたわね」
私は唇を噛んだ。父は緊張しながらも、農家としての誇りを持って挨拶をした。それなのに。
「お母さん、昨日はお時間をいただきありがとうございました」
「まだあんたの母になったわけじゃないの。気安く呼ばないでほしいわ」
「…すみません」
「いかにも農家の親父って感じだったわね。母親の方も、見すぼらしいことこの上ないって感じ」
そして彼女は笑った。
「底辺一家とか笑えるわ」
私は両親を見た。父は俯き、母は困ったような顔をしていた。タイガは何も言わなかった。
「私はタイガさんに言われたので、父を呼んだんですが」
「そうよ。嫁にするには、まず親を見ないとだからね」
「それで、わざわざ呼び寄せておいて、ここまでボロクソに言うのが目的だったんですか?」
「別に、正直な感想を言ってるだけでしょ」
私はゆっくりと息を吸った。
「確かにおっしゃる通りかもしれません。こんなに価値観の合わない家に嫁ぐのは、かなりのリスクがあると思いました」
「はあ?」
「タイガさんには、私の方から結婚をお断りしておきます。あなたの母親のせいで、って言っておきますね」
「ちょっと待ちなさいよ」
「何でしょうか?」
「息子には、違う理由で断ってちょうだい」
「嘘をつけとおっしゃるんですか?」
「そうしなさい」
「私、嘘がつけないんです。失礼します」
私は両親を連れて、その場を後にした。
数分後、タイガから電話がかかってきた。
「母さんが失礼な態度を取ったのは悪かったよ。だからって別れる必要はないだろう」
「あるわ」
「は?」
「あなたはあの席で、一度も私を守ろうとしなかった」
「それは…」
「娘を侮辱されて腹を立てて席を立ったのは、父と母よ」
「俺だって、母さんがあそこまで非常識だとは思わなくて」
「お金を持ってることが、そんなに偉いの?」
「母さんはそういう考えみたいだけど、俺は違う」
「『実家が農家のお前と結婚とか親が認めてるわけない』って、あなたが言った言葉なんだけど覚えてる?」
「…言ったっけ?」
「私はあの瞬間に、この人との結婚はないなと思った」
「え?じゃあなんで今日来たんだよ?」
「私が四年間好きだった人の親が、どんな人なのか確かめたかっただけよ」
「本当にそれだけか」
「あとは父の希望」
「なんで?」
「さあ、お母さんに聞いたら?とにかく私たちはもう終わり。さようなら」
「待ってくれよ!」
私は電話を切った。
その後、タイガは家に帰ると、母親と言い争いになったようだった。
「母さんのせいでリノに振られたんじゃん」
「はあ?あんなひどいこと、よく言えたわね。あの子に言うなって言ったのに」
「いや…なんでもない」
「でもあなただって見下してたわよね」
「そんなことはない。俺は農家の娘だろうと構わないのに」
「母さんが相手の親とか家柄にこだわったんだろう」
「ああ、そう。じゃあ好きにすれば」
「振られたんだよ。じゃあ諦めなさい。あんな貧乏臭い家と親戚になったって、何の得もないわよ」
「俺の幸せはどうでもいいのか?」
「結婚は二人だけのものじゃないの。どうせなら、うちの役に立つような結婚相手を連れてきなさい。この役立たず」
「なんだよそれ。俺は母さんの仕事の道具じゃない」
「あんただって最初は同じようなこと言ってたじゃないの」
「そういう考えをしてる親に育てられたから、それが正しいのかと一瞬思ったよ。でも間違ってた。失って初めて気づいたんだ」
「若いわね。女なんて腐るほどいるんだから」
「もういい。俺は母さんの会社をやめる」
「はあ?あんたは後継ぎでしょ?」
「知らねえよ」
「今度始める新しいプロジェクトは、あんたに任せようと思ってたのよ」
「自分でやってくれ」
「なんてことを言うの?あんたみたいなポンコツが、よその会社に行ったところで何ができると思ってんのよ」
「言いたい放題だな。最初から息子も、その結婚相手も、あんたの駒かよ」
「まあ、あんな育ちの悪い女と付き合ったせいで、チンピラみたいなことを言うようになっちゃったわ」
「違う。全部あんたのせいだ」
「いや、俺も悪い。でも根源はお前だな」
「親に向かって、なんてことを言うの?」
「父さんが亡くなって会社を大きくしたのは立派だよ。でも俺は、こんな社長についていけない」
「勝手にしなさい。どうせ一人じゃ何もできないくせに。すぐに泣きついてくるに決まってるんだから」
「二度と合わないよ」
「ああ、あんたなんて産むんじゃなかった」
「すごいこと言うんだな」
「こんな使い物にならないとは思わなかったわ」
「もう何とでも言ってくれ。じゃあな」
タイガは家を出た。
一週間後、実家で農作業をしていると、父が声をかけてきた。
「リノ、今ちょっといいか」
「お父さん、どうしたの?」
「タイガ君とは別れたんだよな」
「うん」
「…今、うちに来てるんだが」
「は?」
「うちの仕事を手伝いたいと言ってる」
「ちょっと待って。どういうこと?」
「自分と母親が何も知らずに馬鹿にした職業が、どれだけ大変なのか経験したいって」
「何それ?今更なんだけど」
「母親と縁を切ったらしいぞ」
「え、なんで?」
「それはよくわからんが、しばらくは住み込みで働いてもらうことになった」
「なんでよ。やめてよ」
「お前もずっと帰ってこないんだから、いいだろう」
「私が帰れないのは、お父さんのせいだよね」
「俺は人と会うのは苦手なんだ。営業はお前の仕事だろ」
「だから手伝ってるのに、帰ってこないなんて言わないでよ」
「帰省する時は連絡しろ」
「意味が分からない」
「母さんも、ご飯お代わりを三倍もされて、作りがいがあるって喜んでるんだ」
「タイガは少食なんだけど…」
「とんでもない。一日中汗だくで働いてるから、めちゃくちゃ食うぞ」
「本当に…」
「まあ、彼なりに色々思うことがあるんだろう。会社もやめて、家も出て、行くところがないんだ。しばらく預かってみるよ」
「え、ちょっと待って。会社もやめたの?お母さんの会社で後継ぎとして修行してたはずよ。それすらも捨てたってこと?何があったのよ?」
「本人に聞けよ。俺が言うことじゃない」
翌日、私はタイガに会いに行った。彼は畑で汗を流していた。
「ねえ、なんでうちの実家にいるの?」
「分からない。気がついたら来てた」
「お母さんの会社やめたらしいね」
「うん」
「…何があったの?」
タイガは鍬を置き、真っ直ぐに私を見た。
「まず謝罪させてほしい。よりを戻したいとか、そういうのじゃなくて。家柄のこととか、ご実家を見下すような発言をして、本当に申し訳ありませんでした」
「今更言われても」
「分かってる。許してくれなくていい。ただ、遅すぎるかもしれないけど、間違った価値観になってたんだって今になって気づいた。別にそれを母親のせいにするつもりもない」
「反省してるのは分かったけど、実家にいることの理由になってない」
「俺が見下した農家ってものが、実際にどういう仕事を日々やっていて、その先にどんなものができていくのか。自分の目で確かめたかったんだ」
「小学校で習ったでしょ。種を植えて、水と肥料やって、育てるのよ」
「そういうことじゃない。そこにどれだけの労力がかかって、苦労があるのかは、体験しないと分からないと思ったんだ」
「悪いけど、私にはパフォーマンスにしか見えない」
「それでも構わない」
「きっと一ヶ月も持たないわ。夏が来れば暑くて嫌になるし、冬も同じよ」
「そうだな。今は過ごしやすいからなんてことないけど、その時になってみないと分からないよな」
「その程度の覚悟で、何を理解できると思ってるの?」
「分からないけど、やってみたいんだ」
「…あなたがいたら、私は実家に帰れないじゃない」
「その時は教えてくれたら出ていく」
私はため息をついた。そして、彼が本当に変わろうとしているのか、疑いながらも見守ることにした。
数日後、両親と話をした。
「ねえ、タイガの実家のお店と取引があること、気づいてた?」
「もちろんだ。俺たちの野菜がどの店に卸されてるかくらい把握してる」
「私、顔合わせするまで気づかなかった」
「お前に任せる前から取引があったからな。仕方ない」
「でも、お母さんはなぜ気づかなかったの?」
「俺がやり取りしてるのは料理長さんだ。生産者へのリスペクトがある素晴らしい人だよ。お母さんとは会ったことないんだよね」
「なのになんで分かったの?」
「ホームページくらい見て、経営者の顔くらい覚えるよ。営業周り任されてたけど、私まだまだだったわ」
「俺はな、あのタイガの話を毎晩聞いてるんだ」
「え?」
「あいつさ、母ちゃんの作った飯を食いながら泣くんだよ。『こんな温かくてうまい飯、食ったことねえ』って」
「そうなの?」
「五歳くらいで父親がいなくなって、母親が忙しくなったのは仕方なかったんだろうが。毎日千円札が何枚かテーブルに置いてあったんだとよ」
「え…でも、私もご飯くらい作ったことあるけど、泣いたりなんかしなかったよ」
「母ちゃんと、自分の母親を重ねたんじゃねえか。知らねえけどよ」
タイガは、母親に「産むんじゃなかった」と言われて、完全に目が覚めたのだという。
「母さんは、金のことしか考えてない」
「お母さんって、高級和食店を複数経営してるんだよね」
「うん」
「実はうちの実家を取引してるみたいなの。野菜を卸してるお店は十店舗くらいあるんだけど、そのうちの一つだったみたい」
「知らなかった。うちの料理長が野菜も魚も肉も相当こだわってて、そのおかげで店は順調みたいなんだ」
「父は無農薬にこだわってるからね。問い合わせも多いのよ」
「あれだけこだわって作ってれば、そりゃ人気も出ると思うわ。やっと農家の大変さが分かってきた」
「大変どころじゃない。尊い仕事だ。俺らは当たり前に食卓に並ぶのを口に入れるだけだけど、そこに至るまではとんでもない労力がかかる。ほんの少ししか手伝ってないけど、それでも分かる」
私は父にタイガのことを話した。父は言った。
「あいつは本気で農業と向き合っている」
「なんでそこまで入れ込んでんの?」
「お前も見れば分かるさ」
「まだ会う気になれない」
「お前は畑仕事は一切やらないだろう。後を継がせるにはタイガしかいないんだ」
「ちょっと待ってよ。私の感情はどうなるの?」
「元彼として割り切れ」
「でも、もし私たちが結婚するってなったら、義理の兄と妹ってことになって、障が出ない?」
「別に養子縁組しても結婚はできるが、なんでそんな心配をする必要があるんだ?」
「いや、別に意味はないし、単なる疑問だけど」
「じゃあ問題ないだろう」
「そうだけどさ」
「まあ、お前がタイガと結婚すれば無戸籍になるから、それが一番簡単だけどな」
「は?」
「例えばの話だよ」
「もう勝手に色々話を進めないでよ」
「俺は自分の畑に誇りを持ってる。それを任せられそうな若者が現れたんだ。少しくらい期待したくなる気持ちも分かってくれよ」
「…それはその通りだけど」
「相手が変わったのが分かるぞ。一度話してみろ」
数日後、私はタイガと再会した。
「久しぶり」
「うん」
「本当に畑仕事、頑張ってるんだ」
「腰が限界だよ。おじさんにいい整体師紹介してもらった」
「そっか」
「すごいよな。芽が出て、葉が大きくなって、実がなって。でも俺らが世話しないと、すぐ虫に食われるんだぜ。こんな手のかかる存在、いるかよって感じだわ」
「楽しそうだね」
「受け入れてくれた上に、飯と寝どこまで貸してくれて、感謝してもしきれない」
「そうなんだ」
「あ、もしかして帰省の予定がある?それだったら俺はホテル取るから、日程教えて」
「いや、そうじゃないんだけど」
「リノの実家なんだから、気兼ねなく帰れるように、そこはちゃんと気を使わせてもらうからさ」
「ありがとう。本当に東京には戻らないの?ちょっと体験したいだけなんじゃないの?」
「最初は俺自身が、すぐに弱音を吐くかなと思ってたんだ。でも、俺より年上のおじさんとおばさんが頑張ってるのを見て、自分の根性のなさに腹が立ってきてさ」
「確かにあの二人はすごいよ」
「うん。心から尊敬してる」
「そう言ってもらえると嬉しい。明日はそっちに行くから」
「分かった。ホテル取るよ」
「いや、取らなくていい」
「え?」
「話したい。父とも話があるの」
「いいの?」
「もちろん父のお客さんでしょ?私がどうこう言う立場にないから」
「分かった。じゃあ待ってる。気をつけて」
数日後、私は明美さんの店を訪れた。
「母親失格の明美さん、おはようございます」
「随分な挨拶ね」
「それ以外の異名が思いつかなくて」
「異名なんていらないでしょ。私忙しいんだけど」
「今回はビジネスの話です」
「はあ?あんたに関係ないでしょ」
「私は実家の野菜を飲食店と契約する窓口を任されています」
「それが何よ」
「私も気づかなかったのですが、お母さんが都内で経営されている三つの和食屋さんと契約をさせてもらっています」
「え?」
「今月を持ちまして、契約を終了させていただきます」
「なんで?」
「父のポリシーなんです。食材に敬意を持たない経営者とは、絶対に契約してはいけないって」
「いや、私は関係ないでしょ」
「はい。実際にうちの野菜に目をつけてくれたのは、お宅の料理長さんです。その方が退職されるそうなので、お宅と付き合いを継続する理由がありません」
「あいつ、やめるの?」
「はい。『うちの野菜が使えないなら、最高の味は提供できないのでやる意味がない』と」
「アホな男。野菜なんてスーパーに売ってあるじゃないの?」
「まともに料理をされたこともないようなのでご存知ないかもしれませんが、こだわった野菜は味から風味まで何もかも違います」
「貧乏人の客が気づくわけないわ」
「お客様まで馬鹿にするんですか?大したもんです」
「高ければそれっぽい味がするの。そういうもんなのよ」
「お父様が大きくした飲食店がここまで続いたのは、あの料理長さんがいたからだと、タイガが言ってました」
「あの子に何が分かるのよ。私の経営手腕でここまでやってこれたの。来月には銀座に四店舗目もオープンする予定なんだから」
「それは素晴らしいですね。ぜひ、頑張ってください」
「言われなくてもやるわよ」
「そうですか。一応報告しておきますが、タイガは私の実家で暮らすことになりました」
「あ、そう」
「そして、私たちは結婚することになりましたので」
「え?別れたんじゃなかったの?」
「はい。ですが、私の好きなタイガになってたので、もう迷いはありません」
「許さないわよ」
「成人同士の婚姻に、親の許可は不要です。今後はうちの苗字を名乗ることになりましたし、農家を継いでくれるそうです」
「はあ?ふざけんじゃないわよ」
「『生まなきゃよかった』とまで言ったくせに、今更何を言ってるんですか?」
「あんなの、売り言葉に買い言葉でしょ」
「タイガは何も売ってないと思いますが。まあいいです。あなたの言葉はもう彼には届かないので」
「どういう意味?」
「電話もLINEもブロックしました。完全に縁を切る覚悟をしたんですよ」
「ひどいわ」
「どっちがですか?子供の頃から毒にまみれて生きてきたんです。そろそろ解放してあげてください」
「なんだかんだ言って、戻ってくると思ったのよ」
「それにしては、ひどい言葉を投げつけすぎましたね。彼はしっかり傷ついてますから」
「そんな…」
「今のタイガはすごく素敵ですよ。すっかり毒が抜けて、心も体も健康です」
「いつか会えるのかしら」
「無理です。寂しく貧しい老後を覚悟してください」
その後、明美さんの店は半年で四店舗とも閉業した。料理長の独立後、お得意様も一斉に離れ、売上は三ヶ月で七割になったそうだ。銀座出店の頭金は前払いで没収され、借金だけで二千万円を超えたとか。自宅と店舗を担保にしていた借入れが払えず、差し押さえを受けたという。今は古いアパートで一人暮らしをしており、近所では「夜逃げ社長」と呼ばれているらしい。元従業員からの告発でパワハラ経営がネット上でも話題になった。
タイガは正式に養子になった。明美さんには継がせる会社も消え、彼は思う存分農業に没頭できると喜んでいる。
先日、明美さんから父宛てに手紙が届いた。お金を貸してほしいという内容だった。父はそれを破り捨てて、ゴミ箱に捨てていた。
肩書きやお金で人を図っていた人ほど、失った時に何も残らないんだと思う。
タイガを変えたのは、説得じゃなくて、触って流した汗だったんだよね。
人を見下した分だけ、自分も同じ目で見られる日が来るものです。
私たちは来週、結婚式をあげる予定だ。当然、明美さんの席はない。
照り付ける太陽の下、真っ黒に焼けた夫が、過去最高にかっこいいと思っている私がいる。



