式場のトイレの個室で、私はスマホの画面をにらんでいた。スーツにビールの匂いが染みついている。あの瞬間の衝撃と怒りが、まだ体の中に残っていた。
「太田さん、どうしてあんなことをしたんですか?」
「おい、どうして俺の連絡先を知ってるんだ?」
「波から聞きました。どうしても確認したいことがあったので」
「確認することなんて何もないだろう」
「あるに決まってるでしょ。いきなりビールをぶっかけられたんですから」
式の最中、義理の兄になるはずだった太田さんが、私にビールをかけた。しかも「お前みたいなもんが式に来てるのが我慢ならなかったんだよ。エリート一家の結婚式に底辺が来るんじゃねえ」と言ってのけたのだ。
確かに私は中卒だ。でもそれは私が選んだ道じゃない。両親が事故で亡くなり、まだ高校生だった私が妹の波を養うために働き始めた結果だ。波に大学に行かせてやりたかった。それだけだった。
「お前みたいな奴が来られると迷惑なんだよ。中卒の底辺がどんな面下げてきてるんだ?」
「散列するのにエリートも何もないと思います。私には後ろめたいことは何一つありませんから」
「嘘をつくな。お前の本書はこっちはもう聞いてるんだぞ」
本書と言われても心当たりがない。何かの誤解だと思った。
「まさかまだ場内にいるのか?」
「当たり前でしょう。ビールでびしょびしょなのに外に出られるわけないです。今はトイレの個室にいるんですよ」
「そうか。じゃあ良いところで帰ってくれ。2度と式場内に戻ってくるんじゃないぞ」
私は拒否した。まだ式は終わっていない。波の晴れ姿を見るために来たのだ。
「妹のことを思うのなら欠席するべきだったんだ」
「どうしても私を排除するつもりなんですね」
「当たり前だ。これは我が家にとっても大事な式だからな」
私は言い返した。そんなに品格を大事にするなら、仕事で成果を出す方がいいんじゃないかと。すると彼は「黙れ。そんなこと言われなくてもやってる。今は大事な取引の最中なんだ」と怒鳴った。さらに「そんな大事な時だからこそ、お前のような底辺にうろつかれると困るんだよ」と続けた。
腹が立ったが、冷静さを保とうとした。電話で波に連絡を入れ、お色直しの後で話すことにした。
波と電話で話した。彼女は「お姉ちゃんのわがままなら私は聞くから」と言ってくれた。私は仕事の話をするとだけ伝えた。結婚式の日にこんな話を持ち込むのは気が引けたが、他に相談できる相手がいなかった。
その後、私は波の新郎である達也くんにも話をした。彼に義父が私を追い出そうとしていることを伝え、説得してほしいと頼んだ。
「お父さんを説得して欲しいの。私に式場から帰れって言ってて話を聞いてくれないのよ」
「やっぱりそうなりましたか。お父さんって昔からああいう人なの?」
「父は肩書きを大事にしてますからね。中卒なんて単なるどうしようもない生き物だと思ってるんですよ。だからお姉さんみたいな人が許せないんでしょうね」
「うちの事情は知ってくれてるでしょ? それを説明してくれないかしら?」
「それはちゃんと説明してますよ。これなりにやれるだけのことはやりました。でも残念ながら結果は変わらなかったみたいです」
「このままだと私、式に散列できないの」
「正直、すごく残念だと思います。波はお姉さんと仲良しですから悲しみますね。ただ私としては何よりも式を問題なく終わらせたいんです。変な揉め事は勘弁して欲しいというのが正直な気持ちです」
その言葉に私は絶望した。達也くんも義父と同類だった。彼は最後にこう言った。「中卒なんてろくでもないと思ってます。そんな人間が波の姉でいてほしくないです」
血の気が引いた。これ以上何を話しても無駄だと悟った。
私はもう一度、太田さんと対峙した。
「太田さん、もうすぐ妹がお色直しを終える時間なので戻りたいと思います。どうかおかしなことはしないようにお願いします」
「俺の言い分が守れないっていうのか」
「私の気持ちは変わりません」
「そんなことをする姉と親族になるのは無理だよ。今回の結婚はなかったことにするしかないと言ってるんだ」
「妹たちは関係ないでしょ」
「結婚ってのは親族同士の繋がりを作るものでもあるんだ。お前のようなろくでもない奴が家族にいるとなれば、結婚をなしにするのもありだと思ってるよ。お前のような中卒の姉と、まともに子供も育てられなかった親なんてゴミ以下の存在だからな」
私は堪えた。親のことを悪く言われたのが一番辛かった。しかし、太田さんは止まらなかった。このまま黙って帰るなら結婚を受け入れてやっても構わないと言ってきた。
「私がここから帰ればいいんですね」
「ああ、そうだ」
「じゃあ帰ります」
私はその場を離れた。波の晴れ姿を見ることは叶わなかった。
三時間後、太田さんの家では、波が父親に詰め寄っていた。
「お父さん、どういうつもりですか?」
「なんだ、どうかしたのか」
「お姉ちゃんを式場から追い出したんですって」
「姉から聞いたのか?」
「違いますよ。姉は答えてくれませんでした。ただ私の友人が見ていたんですよ。あなたが私の姉にビールをかけるところを。そのまま姉は式場出て戻ってこなかったと言ってました」
太田さんは平然と言った。
「家族を大切にする君の気持ちは素晴らしいと思う。ただこれから先のことを考えると、姉とは縁を切るべきだよ。君はエリート一家に嫁いだんだ。そうなると周りから見られる目も変わってくる。そんな時に中卒の姉という存在は、必ず君を苦しめることになるよ。だから私はそうなる前に彼女を排除したんだ。君のことを家族だと思ってるからだよ」
波は怒りをあらわにした。
「ふざけないで。お姉ちゃんだって私の大事な家族よ。誰よりも大切な家族だわ」
「あんな中卒のどこが?」
「お姉ちゃんは私のために進学を諦めて働いてくれたの。両親が亡くなって、誰かが働かないと私たちは生活ができなかった。だからお姉ちゃんが就職をして私を養ってくれたのよ」
波はさらに言い放った。
「中卒だとしても私にとっては大切な家族であることに変わりはないわ。もう私に食ってかかるのはやめなさい」
しかし太田さんは脅しをかけた。
「まだ籍を入れてないだろう。だったら破棄してもいいんだ」
「あなたの意思でそれができますか?」
「できるよ。私が言えば達也はそう動く」
「なるほど」
「お姉さんの気持ちも考えてあげてほしい。彼女は君の幸せのために身を引いたんだ」
「もしかして姉にも同じ脅し文句を?」
「そういうことだ。彼女は素直に引き下がったよ。だったら君もお姉さんの気持ちを大事にするべきだ」
その言葉を聞いて、波の心は完全に離れた。
「よくもそんなことをしてくれましたね。もういいです。あなたとは話になりません。これから先のことは私たちで話し合って決めます。私はあなたと家族にはなりたくないと言ってるんですよ」
翌日、今度は太田さんが声を震わせて電話をかけてきた。
「太田さん、みっともないことをしないでください。いきなり泣いてるあなたの留守電が入っててびっくりしましたよ。私たちはもう何の関係もない赤の他人のはずです。変なことをしてくるのはやめてください」
「ふざけるな。お前のせいでこっちは大変なんだぞ」
「何が大変なんですか? 立派に息子さんが式をあげて順風満帆でしょ」
「お前のせいで取引が白紙に戻されたんだ」
太田さんは、自分の出世の賭けだった取引の相談先が、私が長年お世話になっている篠塚社長の会社だと知ったと言う。篠塚社長が私から式での出来事を聞き、太田さんの会社に抗議したのだ。その結果、取引は失敗し、彼は出世レースから外れた。
「こうなったのも全部お前のせいだ。お前の妹と達也の婚約を破棄すると言ってるんだ。それが嫌なら今すぐ私に謝りに来い。そして篠塚社長に考え直すよう説得をしろ」
私は笑った。
「そんなことするつもりはないですよ。波から結婚は考え直すと言われてるんでしょ? 昨日波から連絡がありましたよ。波からすごく怒られました。黙って帰ったことが許せなかったみたいです。だからそんな脅しは私に通用しませんよ」
私は続けて言った。
「そうやって子供の結婚をコントロールしようとするから、こんなことになるんですよ」
電話の向こうで太田さんが吠えた。
「黙れ。お前は篠塚社長の会社で働いてるんだろ? 中卒がそんなところで働けると思ってるのか? お前のやり口はもう知ってるんだ」
その一言に、私は嫌な予感がした。後で波に連絡して、事実を確かめることにした。
三十分後、私は波から聞いた話で全てを理解した。
「あなた、本当に最低な人間ですね。お姉さん、波に何か吹き込みましたか? あいつが急に結婚は考え直すとか言い出したんですよ」
私は達也くんに会って話を聞いた。
「あなた、父親に嘘教えたでしょう」
「嘘? 私が今の会社に就職したのは体を使ったからだとか言ったみたいね。あなたのお父さんが言ってましたよ。低学歴もだけど、そんな女たらしな奴が親族にいてほしくないってね」
達也くんは平然と言った。
「あんたが邪魔だったんだよ。波は常にあんたのことを考えていた。口を開けばあんたとの思い出話とか、あんたに結婚してほしいとか、そんなことばかりを言っていた。波にとっては俺が一番であるべきだった。あんたの肩書きだけでも父さんは怒ってたぜ。でもそれだけじゃ足りなそうだから、ちょっとスパイスを足してあげただけだ」
つまり、彼は私を中卒と呼ばれただけでは済まないように、私が男と寝て職を得たという根も葉もない噂を義父に吹き込んでいたのだ。
私は怒りで体が震えた。
「最低ね。それだけ波を思う気持ちがあったなら、まっすぐその気持ちを波に伝えて愛を育んでいったらよかったのに。あんたのような人間と波の結婚を許すことはできないわ。波はあなたとの関係を考え直してるんでしょう。それならこのことも伝えてあげましょう。そうしたらきっと答えが固まるはずよ」
一ヶ月後、私は達也くんから着信を受けた。
「いつまでそうやってるつもりなの?」
「なんだよ。あんたから連絡来るなんて珍しいな」
「婚約解消された時に一応ブロックはしておいたのよ。でもあなたが変なことをしてるから連絡をしてるの。波の職場の前とか前に住んでた家の前で待ち伏せをしてるでしょ?」
「俺はまだ諦めたわけじゃない。婚約解消だってあいつが一方的に言ってきただけで、俺は認めたつもりはないからな」
私は告げた。波は会社を辞めて、私の家で一緒に暮らしていると。
「波はもうあなたに会う気はないわ。これ以上波にまとわりつくのはやめなさい」
「俺には波しかいないんだ。あんたこそ邪魔をするな」
「これ以上何かしたら、暴力的な手段でも取るつもり?」
「そうなる可能性もある。どうしても私は波を守り続けるわ。あんたの脅しに屈するつもりはない。波は私のたった一人の家族なの。親を一気に失って絶望の淵にいたわ。そんな時でも私の手を握って離さないでくれたのが波だった。私にとって波が全てだったの。そんな波を傷つけるようなことは絶対に許さない」
私は最後にこう宣言した。
「あんた、波にしつこくLINEしてたでしょう。その中で危害を加えるようなやり取りもあった。これは立派な脅迫罪よ。だから警察に被害届けを出すわ。そして警察にお願いをして接近禁止命令を出してもらうことにするから。もしこれを破るようなことがあったら、あんたは速攻逮捕されるからね」
達也くんは絶望した声で言った。
「もう近づくことすらできないのか」
それ以来、達也くんは私たちの前に現れなくなった。ただ、彼は自分の結婚が壊れた責任を実の父親に押し付け、家で殴りかかって怪我をさせたという。その後、彼は家族を全て失い、仕事にも行かなくなり、今は街中を彷徨っているらしい。警察にはすぐにでも通報してほしいと思う。
ちなみに、太田さんはあの取引の失敗で出世レースから完全に外れた。彼の代わりに出世したのは、高卒の後輩社員だったそうだ。肩書きが仕事の出来には一切関係ないことを、社会が証明してくれた。
私は今も波と二人で暮らしている。波は新しい仕事を見つけ、頑張っている。家族を失った時も、こうして二人で支え合ってやってきた。だから私たちなら、どんな困難でも乗り越えていけるはずだ。いつかまた、波が幸せをつかめる日が来ることを心から願っている。



