「俺と結婚したいよな」
そう切り出してきたのは、4年付き合っているタイガだった。私は一瞬、プロポーズかと思った。でも、彼の口調は軽くて、真剣味がなかった。
「結婚するなら、ちゃんと真面目にしてほしい」
「俺は結婚したいよ。でも、うちの母さんが何て言うかだよな」
「まだお会いしたことないけど、そんなに厳しい方なの?」
「リノの家って農家だろ?」
「うん、そうだけど」
「実家が農家のお前と結婚なんて、親が認めるわけないと思うんだよ」
その言葉に、私は固まった。何を言われているのか、一瞬理解できなかった。
「うちの母さんは社長だから、結婚相手の家柄には厳しいんだ」
「私が農家の娘なのは、どうしようもない」
「分かってる。母さんに認められたら結婚してやるよ。来週、時間を作ってもらうから、お前の親を連れて来い」
「はあ?」と私は思わず声を漏らした。その物言いにも、彼の態度にも、引っかかるものがあった。
「ちょっと待って。その言い方、すごく上から目線だよ。無理して結婚の許可をもらわなくても結構です」
「は? 何言ってるんだ?」
「今ので、将来が見えた気がする。私はあなたたち家族から、ずっと『農家の娘』って見下されるんだろうなって。そんな結婚はしたくない」
「俺たち、何年付き合ってきたと思ってるんだ? 4年だぞ」
「だからこそ、がっかりしてるの」
「なんでそうなるんだよ」
「あなたがそういう考え方だって、今の今まで気づかなかった自分にも腹が立つ」
「親に挨拶さえすれば、結婚の障害はなくなるんだぞ」
「もし、お母さんが認めなかったら?」
「認めるように話をするさ」
「そもそも農家の娘との結婚を認めないんでしょ? だったら、わざわざうちの親を連れて行って、嫌な思いをさせる必要はない」
「大丈夫だって。農家でも身なりをきちんとして、いい時計でもしてたら、母さんも見直すと思うんだよ」
「何それ? 持ち物で人を判断するってこと? 悪いけど、そんなことで判断されるのは御免だ」
「じゃあ、俺の時計をやるよ」
「時計一つで決まる結婚なんて、こっちから願い下げよ」
私はそう言って、その場を離れようとした。すると、タイガが慌てて謝ってきた。
「分かった。俺が悪かった。調子に乗りすぎた。気を悪くしたなら謝る」
「もういいよ」
「いや、ダメだ。リノの言う通りだ。親なんて関係ない。俺たちの気持ちが大事だよな」
「本当に、そう思ってる?」
「もちろん。どうしてもリノと結婚したいんだ。そのためには、ご両親とうちの親に会ってもらいたい」
「私、まだプロポーズされてないんだけど」
「それは、ちゃんと改めてやるから」
「そこまで言うなら、分かった。父と母に聞いてみる」
「ありがとう。俺も母さんにちゃんと話しておくから」
そうして、私たちは両家の顔合わせの場を設けることになった。私は実家に帰り、両親に事情を話した。父は少し驚いていたが、「相手の親に会うのは大事なことだな」と、珍しく会合に応じてくれた。
迎えた当日。私の父はいつも通りの作業着で来たがっていたが、「せめて襟付きのシャツを着てくれ」と母が言い、地味なジャケットを着せられていた。それでも、農家で働く父の手は分厚く、日焼けした肌は隠しようがなかった。
私は隣で、少し緊張していた。母も父も、決してお世辞を言うタイプではない。でも、相手の家に失礼があってはいけないと、精一杯の身だしなみを整えてきた。
案内されたのは、都内の高級住宅街にある大きな家だった。応接室に通され、しばらくするとタイガの母親、明美さんが入ってきた。スーツを着た、隙のない印象の女性だった。
「あなたが、リノさん? まあ、座ってちょうだい」
その口調に、最初から畳みかけるような圧力を感じた。私は家族を紹介した。父が「初めまして」と頭を下げても、明美さんは軽く会釈を返すだけだった。タイガはと言えば、ソファの端でお茶を飲んでいるだけで、何も言わなかった。
「あなたのご実家は、農家さんなのよね?」
「はい。野菜を作っています」
「まあ。無農薬だとか、何だとか。こだわってるみたいだけど、あんなもの、結局は通販の業者から買えば済む話でしょう」
母が「うちは無農薬で、安心して食べられる野菜を作っております」と間に入ると、明美さんは鼻で笑った。
「田舎の方には、こういう場の作法とか、なってないのかしらね」
父は何も言わなかった。ただ、拳を握りしめて、下を向いていた。母は唇を噛んでいた。その場の空気は、針のむしろのようだった。タイガは、一度も私たちを庇わなかった。ただ、自分の母の隣で、何も言わずに座っていた。
「あなたみたいな、いかにも農家の親父って感じの人が来るとは思わなかったわ。母親の方も、見すぼらしいことこの上ないって感じね。底辺一家、って笑っちゃうわ」
その言葉を聞いた瞬間、私は静かに立ち上がった。そして、口を開いた。
「タイガさんに言われて、父に来てもらったんですが。まさか、わざわざ呼び寄せておいて、ここまで侮辱するのが目的だったんですか?」
「別に、正直な感想を言ってるだけよ」
「そうですか。確かに、これほど価値観の合わない家に嫁ぐのは、リスクがありますね。結婚はお断りします。タイガさんには、『お母さんのせいで』と伝えておきますので」
「ちょっと待ちなさい」
「何でしょうか」
「息子には、違う理由で断ってちょうだい」
「嘘をつけとおっしゃる?」
「そうしなさい」
「私、嘘はつけない性分なんで。失礼します」
私は両親を連れて、その家を出た。父は車の中で、「すまなかったな」と一言だけ言った。母は「怒ったら負けよ」と、私の手を握ってくれた。
その日の夜、タイガから電話がかかってきた。
「母さんの態度が失礼だったのは悪かった。でも、別れる必要はないだろ」
「あるわ」
「なんで」
「あなたはあの席で、一度も私を守らなかった。私も、父も母も、侮辱されたのに、あなたは何も言わなかった」
「俺だって、母さんがあそこまで非常識だとは思わなかった」
「お金を持っていることが、そんなに偉いの?」
「母さんはそういう考え方みたいだけど、俺は違う」
「本当に? あなた、『実家が農家のお前と結婚なんて親が認めるわけない』って言ったわよね」
「え? 俺がそんなこと言った?」
「言ったわ。覚えてないの?」
彼が何も言い返せずに沈黙した瞬間、私は決心した。
「私はあの瞬間から、あなたとの結婚はないと思ってた」
「じゃあ、なんで今日、顔合わせに来たんだよ?」
「4年間好きだった人の親が、どんな人なのか確かめたかっただけよ。それに、自分の目で見て、あなたの言葉が本物かどうか、知りたかったの」
「本物じゃなかったって言うのか?」
「さあ、お母さんに聞いてみたら? とにかく、私たちはもう終わり。さようなら」
数分後、タイガは家に帰ると、母親に詰め寄った。
「母さんのせいで、リノに振られたじゃないか」
「え? あんなことをよく言えたわね。『大雅には言うな』って言ったのに」
「何を言ってるんだ? ……まあいい。もう終わったんだ」
「あんな家柄の相手、こっちから願い下げよ。あんたも、いささか見下してたんじゃないの?」
「そんなことはない。俺は農家の娘だろうと構わなかった」
「じゃあ、諦めなさい。あんな貧乏臭い家と親戚になるなんて、何の得もないわよ」
「俺の幸せは、どうでもいいのか?」
「結婚は2人だけのものじゃないのよ。家と家の結びつきよ。どうせなら、うちの役に立つ結婚相手を連れてきなさい。この役立たず」
その言葉に、タイガは何も言い返せなかった。ただ、長年言われ続けてきた「役立たず」という言葉が、初めて深く刺さった。
翌日、会社に行くと、タイガは決意を固めていた。そして、家族の前で宣言した。
「俺は、母さんの会社を辞める」
「は? あんたは後継ぎでしょ?」
「知らない。今度始める新プロジェクトは、自分でやってくれ」
「何を言うの! あんたみたいなポンコツが、よその会社で何ができると思ってるの?」
「言いたい放題だな。初孫も、その結婚相手も、あんたの駒かよ」
「あんな性根の悪い女と付き合ったから、ちんぴらみたいな口を利くようになったのね」
「違う。全部、あんたのせいだ」
「親に向かって!」
「父さんが会社を大きくしたのは立派だよ。でも、俺はこんな社長についていけない」
「勝手にしなさい。どうせ、一人じゃ何もできないくせに」
「俺に、二度と会うことはないだろう」
「あんたなんて産むんじゃなかったわ」
「……そうかよ。俺も、こんな母親に育てられたくなかった」
タイガは家を飛び出した。そして、行き場もなく、線路沿いを歩いた。気がつけば、リノの実家がある町に来ていた。
それから1週間後。私は実家で、父に突然呼ばれた。
「リノ、ちょっといいか」
「お父さん、どうしたの?」
「タイガ君と別れたんだよな?」
「うん」
「あいつ、今うちに来てるんだが」
「は?」
「うちの仕事を手伝いたいと言ってる」
「ちょっと待って。どういうこと?」
「自分と母親が馬鹿にした職業が、どれだけ大変なのか、経験したいんだと」
「何、それ? 今更」
「家も出て、会社も辞めたらしい。母親と縁を切ったんだと」
「なんで? 何があったの?」
「それは俺が言うことじゃない。本人に聞け」
「ちょっと待ってよ。なんで、うちで働くのよ」
「お前も滅多に帰ってこないんだから、いいだろ」
「私が帰れないの、お父さんのせいだよね」
「営業はお前の仕事だろ。俺は人と会うのが苦手なんだ」
「それで全部押し付けるの、やめてよ」
翌日、私は実家に帰った。すると、タイガが作業着で畑に出ていた。
「ねえ、なんでうちの実家にいるの?」
「分からない。気がついたら、ここに来てた」
「お母さんの会社を辞めたんだって?」
「うん」
「何があったの?」
タイガはしばらく黙って、土いじりをしていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「まず、謝りたい。よりを戻したいとか、そういう意味じゃない。家柄のこととか、ご実家を見下すようなことを言って、本当にすまなかった」
「今更、言われても」
「分かってる。許してほしいとは言わない。ただ、遅すぎるかもしれないけど、俺は間違った価値観で生きてたんだって、今やっと気づいた。それを母のせいにするつもりはない」
「反省してるのは分かった。でも、それがここにいる理由にはならないでしょ」
「俺が馬鹿にした『農家』ってものが、実際にどんな仕事をして、どんなものができていくのか、自分の目で確かめたかった。労働力や苦労は、体験しないと分からないと思ったんだ」
「悪いけど、私にはパフォーマンスにしか見えない」
「それでも構わない」
「農業は甘くないわよ。夏は暑いし、冬は寒い」
「そうだな。やってみないと分からない」
「その程度の覚悟で、何が分かると思ってるの?」
「分からない。でも、やってみたい」
私はその言葉を信じる気になれなかった。でも、父はタイガを預かると言い、母は「ご飯を3倍も食べてくれるから、作りがいがある」と笑っていた。
数日後、私はタイガと二人きりになる機会があった。
「お母さんの会社で、後継ぎとして修行してたんでしょ? それすら捨てて、ここに来たの?」
「まあな」
「何があったの? 本当に」
「母さんに『役立たず』って言われて、『産むんじゃなかった』って言われて、完全に目が覚めたんだ。母さんは金のことしか考えてない。俺は母さんの道具じゃない。最初は、俺も同じような考え方だった。それなりに、そういう価値観で生きてきた。でも、違うって今は分かる」
「……ひどい言い方されるんだね」
「もういい。俺が選んだ道だ」
その時、父が口を挟んだ。
「そういや、タイガの実家のお店と、うちは取引があるんだぞ」
「え?」
「うちの野菜が卸されてる店は10店舗くらいあるんだが、そのうちの1つらしい」
「知らなかった」
「俺の料理長が、生産者をリスペクトしてるいい人でな。あの店の野菜も魚も、全部そこで仕入れてたんだよ」
私は驚いた。母が経営する高級和食店が、うちの実家の野菜を仕入れていただなんて。でもそれ以上に、私は何も知らされていなかった自分に気づかされた。私は営業を任されていたのに、取引先の顔を把握していなかったのだ。
「お前は、まだまだだな」
「……ごめん」
その夜、父が言った。
「タイガは、毎晩泣いてるんだ」
「え?」
「母ちゃんの作った飯を食いながら、『こんな温かくてうまい飯は食ったことない』って言って、泣くんだ」
「そうなの?」
「小さい頃に父親がいなくなって、母親が忙しかったんだろう。毎日、テーブルに1000円札が置いてあるだけで、飯を作ってもらえなかったんだと」
「……そんな話、聞いたことなかった」
「お前は、あいつを悪く言うけど、あいつはあいつなりに変わろうとしてるんだ。ちゃんと自分で修正しようとしてる。そこは、評価してやってもいいんじゃないか?」
「私も、実家を馬鹿にされたこと、根に持ってるのはあるけど」
「あいつはすごいぞ。朝から晩まで畑に出て、サボらない」
「昨日は、酔ってうとうとしながら、お前の名前を呼んでたぞ」
私はその言葉に、何も言えなかった。
数日後、私は都内に戻る用事があり、ついでにタイガに会うことにした。公園で待っていると、真っ黒に日焼けした彼が現れた。
「久しぶり」
「うん」
「本当に、農業頑張ってるんだね」
「腰が限界だよ。おじさんにいい整体師を紹介してもらった」
「そう」
「すごいんだぞ。種をまいて、水をやって、虫を取って。手をかければかけるほど、作物は応えてくれる」
「楽しそうだね」
「受け入れてくれた上に飯も寝る場所も貸してくれて、感謝してもしきれないよ」
その時、私は言った。
「明日、そっちに行くから」
「え? ホテル取るよ」
「いや、取らなくていい」
「いいの?」
「父と話したいことがあるの。それに、……タイガとも、話したい」
翌日、私は実家に帰り、父と話した。
「お父さん、タイガを正式に後継ぎにする気なの?」
「ああ。お前は畑仕事を一切やらないだろう? 俺は自分の畑に誇りを持ってる。それを任せられそうな若者が現れたんだ。期待したくなる気持ちも分かってくれ」
「でも、私の感情はどうなるの?」
「元彼として割り切れ」
「もし私がタイガと結婚するってなったら、私たち、義理の兄妹になるんだよ? 養子縁組してるなら」
「ぱあっとしないが、養子縁組していても、結婚はできるぞ」
「そうだけど」
父は笑って、「お前がタイガと結婚すれば、実家の仕事も継げて、一石二鳥じゃないか」と冗談を言った。私は「勝手に話を進めないでよ」と怒った。
「まずは、あいつと話してみろ。変わったのが分かるぞ」
私は翌日、タイガを呼び出した。近所の田んぼのあぜ道に二人で座った。
「本当に東京には戻らないの? ただの体験入学じゃないの?」
「最初は俺も、すぐに挫折するかもって思ってた。でも、俺より年上のおじさんとおばさんが毎日朝から晩まで畑に出て働いてる姿を見てたら、自分の根性のなさが恥ずかしくなったんだ。あの二人はすごいよ。心から尊敬してる」
「そう言ってもらえると、嬉しい」
「あ、そうだ。ホテル、取らなくていいからな」
「え?」
「父さんと話したんだ。もう、遠慮はしないことにした」
数日後、明美さんのもとに、一通の通知が届いた。それは、リノの実家の野菜を卸していた店からの契約終了の知らせだった。
リノの父は言った。
「うちのポリシーなんだ。食材に敬意を持たない経営者とは、絶対に契約しないってな。あんたの店に野菜を卸してくれてた料理長が辞めるらしいから、付き合いを続ける理由がなくなったんだよ」
明美さんは激昂した。
「なんで! うちはあんな野菜がなくたって困らない! スーパーにいくらでもあるわ!」
「まあ、そう言わずに。最高の味を提供するには、こだわった野菜が必要なんだよ。うちの野菜は、味も香りも、何もかもが違う」
「貧乏人の客が気づくわけないわ!」
「お客様まで馬鹿にするのか。大したもんだ」
明美さんはひどく動揺した。彼女が経営する高級和食店は、料理長と契約する農家の野菜で支えられていた。その料理長がいなくなり、野菜の供給も止まる。それは、彼女の店の屋台骨を揺るがす出来事だった。
それでも、明美さんは強がった。
「うちの経営手腕があれば、どこからでも調達できるわ。そう言えば、銀座に4店舗目を出す予定なんだから」
だが、その予定は狂い始めた。4店舗目の出店は、先払いした頭金を失い、立ち消えになった。そして、料理長が独立すると、常連客も一斉に離れていった。売り上げは3ヶ月で7割にまで落ち込んだ。自宅と店舗を担保に入れていた借金の返済が滞り、明美さんは、店も家も失った。
今では、古いアパートで一人暮らしをしている。近所では「夜逃げ社長」と呼ばれているらしい。
その話を知ったのは、私たちの結婚式が近づいた頃だった。
タイガは正式にリノの実家の後継ぎになり、リノもまた、実家の仕事を手伝うようになった。明美さんからリノの父宛てに手紙が届いたが、父は読まずにゴミ箱に捨てた。
「肩書きや金で人を図ってた人は、それを失った時に、何も残らないんだな」
タイガは言う。
「俺を変えたのは、説得でも何でもなくて、畑で流した汗だったんだ。誰かを下に見た分だけ、自分も同じ目に遭う日が来るって、身に染みて分かった」
「照り付ける太陽の下、真っ黒に焼けた夫が、私には過去最高にかっこよく見える。そんな私たちは来週、晴れて夫婦になる。もちろん、あの人の席は用意しない」



