まさか学校の授業参観であの女に会うなんて思わなかった。ゆいの母親が、まさか私の親友・あかりの母親だとは、あの瞬間まで気づかなかったのだ。
「まさか学校で会うなんてね。久しぶりじゃない?負け犬さん」
あの口調は忘れられない。夫を奪った女の、勝ち誇った笑顔。私は挨拶を無視したわけではない。人目のある場所で、昔の恨みを表に出すのはみっともないと思っただけだ。
「無視してないわ。挨拶はしたでしょう。授業参観だし、人の目もあるもの」
「いや、それにしても、まさかあなたの娘があかりちゃんで、うちのゆいの親友だったなんてね。世間って狭いわ」
「そうみたいね。私も驚いたわ。というか、元親友ね。もうあなたのことは親友だと思ってないから」
「あっそ。私ももう思ってないわよ。それにしても、今日は期待外れだったわ。なにかこっちを見てくる人がいるから、誰かと思ったら、私に夫を奪われた負け犬じゃない。そう思ったら笑いをこらえるのが大変だったわ」
私は平静を装った。別れた男のことは、もうどうでもよくなっていた。それよりも、なぜこの女が私の連絡先を知っているのか、なぜわざわざ連絡をしてきたのか。その方が気になった。
「それで、何のために連絡してきたの? 私はあなたに連絡先を教えた覚えはないんだけど」
「ゆいとあかりちゃんは友達だからね。ゆい経由で教えてもらったのよ」
「そう。それで、いったい何の用?」
「いやあ、ちょっと釘を刺しておこうと思って」
「何の話?」
「どうせあなたのことだから、シングルでしょ? 貧乏暮らし、大変でしょ? うちが羨ましいからって、嫌がらせしないでよ」
「別に、そんなことしないわ」
「強がらなくていいのよ。私の夫は弁護士で、年収一千万はあるの、知ってるわよね? あなたの元夫なんだから」
「ええ、あなたが浮気して駆け落ちしたんだもの。経済能力は知ってるわ」
「あなたみたいな普通の会社員とは違うの。うちはお金があるけど、あなたはそうじゃない。だから、警戒しておかないと」
「そう。言いたいことはそれだけ? もういいかしら。時間の無駄だもの」
「はあ? なによ、その態度。むかつくわね。嘘だと思ってるの? 言っておくけど、うちの娘は優秀だし、大学だって良いところに通うの。あなたの娘は、どうせしょぼいところでしょ。かわいそうに」
ここで、私は一言だけ返した。この女が大きな勘違いをしていることを、教えてやらなければならなかった。
「何か大きな勘違いをしているようだけど、私は再婚してるわよ。あなたと違って、シングル家庭じゃないの」
「はあ? あっそ。だからって、貧乏と決めつけないでもらえないかしら」
「でも、愛のない家庭でかわいそうね」
「どういう意味?」
「あなたが再婚って、どう考えてもおかしいじゃない。夫を他の女に取られるような人間よ。そんなのが再婚できたってことは、どうせ子供ができたから結婚したに決まってるわ。愛のない家庭のくせに」
「そう思うなら、それでいいわ」
「やっぱりね。あなたみたいな貧乏人は、子供ができないと結婚できないのよ。うちは違うわよ。愛があって結婚したんだから。あなたとは運の差ね」
私はこれ以上話す価値もないと感じ、切り上げた。許す気はないが、子供たちにまで余計な影響を及ぼしたくなかったのだ。
「そう。つまり、自慢話をしに来たわけね。もういいかしら。あなたのことは許してないし、これ以上近づかないで。でも、子供たちのことまで口出しはしないで。あの子たちには関係ないんだから」
数時間後、家のリビングで、あかりがソファに縮こまりながら、突然切り出した。
「ねえ、お母さん。私さ、高校卒業したら、家を出ようと思う」
「え? どうしたの? いきなり」
「うち、もうめちゃくちゃなの。正直、限界」
「何があったの?」
「父さん、借金してるの。弁護士事務所も、倒産寸前らしい」
「借金? それ、やばいじゃない」
「うん。しかも、それだけじゃなくて。父さんも母さんも、浮気してるの」
「はあ? え、マジで? 何それ、地獄じゃん。離婚協議中なんだけど、どっちが慰謝料を払うかで揉めてるの。毎日怒鳴り声が聞こえるし、子供のことなんて、何も考えてない」
「ゆいは大丈夫?」
「大丈夫かな。今は、高校卒業したら家を出るって決めたら、色々諦めがついて楽になったけど」
「そうなんだ。辛かったら、何でも言ってよ。なんなら、うちに泊まってもいいし」
「ありがとう。あかりにしか、言えないから」
その夜、あかりは私に、さっきスマホの画面に見えたものを見せてきた。リビングに置きっぱなしにされていた、ゆいの母親からのLINEだった。そこには、私に対する罵詈雑言ともいえる言葉が並んでいた。
「お母さん、さっきLINEが見えちゃったの。見るつもりはなかったんだけど、あからさまだったから。ゆいのお母さん、ひどいこと言ってたね」
「大丈夫よ。あなたは気にしなくていいの」
「いや、それがね。ゆいのお母さん、めちゃくちゃ自慢してたけど、実際はそんなにうまくいってないらしいよ。ゆいの家、借金あるって。弁護士事務所も倒産寸前らしい」
私は詳しい話を聞いた。ゆいから聞いた話として、あかりは話してくれた。両親が互いに浮気をし、離婚協議中で、家の中は修羅場と化していること。ゆいは家にいづらくてたまらないこと。
「ゆいちゃんも本当に大変なのね」
「うん。私、ゆいと仲がいいから、余計にそう思う。卒業旅行だって、二人で行く約束してるんだ」
私はそう言うあかりを見て、決意した。この子を守らなければ。だから、私はあかりに伝えた。
「そう。私も、あなたに言っておかないといけないことがあるの」
「え? 何それ?」
「今はまだ言えないわ。でも、近いうちに話すことになると思う」
数日後、私は学校から帰ってきたあかりから、悲しそうな顔で報告を受けた。
「お母さん、ゆいのお母さんが、私に『ゆいには近づかないで』って言ってきたの」
「はあ? それはおかしいわ。それは子供たち同士で決めることよ。親がとやかく言うものじゃないわ」
「でも、あの人、すごく怒ってて。私が『ブス』だから、ゆいに相応しくないって言ったの」
私はその言葉を聞いて、頭に血が上った。言っていいことと、悪いことがある。一度は堪えた。だが、向こうが先にラインを越えてきたのだ。
翌日、私はあの女に電話をかけた。もはや遠慮は必要なかった。
「あなたに言っておくわ。あかりにこれ以上近づいたら、容赦しないから」
「はあ? なによ、その言い草。私に旦那を取られた負け犬のくせに」
「いいえ。そっちこそ、大きな勘違いをしているみたいね。貧乏なのは、そっちでしょ? 家庭の事情、聞いたわよ。あなたの家、借金があるんでしょ? 弁護士事務所も倒産寸前って。それに、夫婦揃って浮気をして、離婚協議中だってね。そんな状態で、よく他人の家庭にマウントが取れるわね」
「な、何のことよ。誰から聞いたの!」
「それは、今は関係ないでしょう。それにしても、笑っちゃうわね。年収一千万? 旦那が弁護士? その実態が、借金まみれで倒産寸前の事務所だったなんて、笑いが止まらないわ」
あの女は動揺した。鼻息荒く反論してくるが、私にはもう何も響かない。自分が積み上げてきた嘘の上に立っていたことに、やっと気づいたのだろう。
「あなた、私に嫉妬してるんでしょ」
「はあ? 嫉妬? してないわよ」
「あかりが言ってたわ。前にあなたが一瞬あかりを見た時、『いい服を着てるわね。育ちがいいのね』って言ったんですって。内心、焦ってたんでしょ。あかりを見て、いい暮らしをしてると思ったから、私にマウントを取りに来たんでしょ?」
あの女は「違う、違う」と否定するが、私は知っている。彼女はずっと私に劣等感を抱いていたのだ。自信がなくて、愛されていても不安で、だから浮気を繰り返す。今の生活も、いつ崩れてもおかしくない。
「その上、あなたの浮気相手は、うちの夫の職場の人なのよ。営業先でいつも会ってるらしいわね。証拠写真もあるの。夫がね、社内で問題になってるって教えてくれたのよ」
「な、なぜあなたがそれを!」
「偶然ね。見せてもらったら、あなただったってわけ。本当、驚いたわ」
そして、私は満を持して、最後の一撃を放った。
「あ、そうだ。この写真、あなたの旦那に渡すわね」
「うっ、それはやめて!」
「どうして? あなたの夫は、浮気相手が誰か知らないんでしょ? 知ったら、さすがに動くと思うわよ。今、離婚協議中なんだから」
あの女は青ざめた。これで、自分が不利になることを理解したのだ。彼女は「それだけはやめて」と懇願する。しかし、私は聞く耳を持たない。
「自業自得よ」
翌日、我が家の電話が鳴った。あの女だった。泣き叫んでいた。ゆいに問い詰めたところ、あかりに話したのはゆいだったらしい。
「あなたのせいで、全部バレたじゃないの!」
「バレたから何? 嘘をついていたのは、あなたの方でしょ?」
「あんた、親に向かって、なんてことを言うの!」
「親? 私のことを娘だと思ったことなんて、一度もないくせに」
そう言って、ゆいは家を出て行ったらしい。祖母の家に行くと置き手紙を残して。あの女は慌てふためいて追いかけようとしたが、ゆいは振り返らなかった。
「私の部屋の荷物がなくなってるの、気づかなかったでしょ。そういうところだよ」
そして数週間後、あの女は、もはや泣きもせず、震える声で電話をかけてきた。
「もう限界なの。慰謝料を請求されるし、親戚からは責められるし。娘は出て行くし、もう本当に無理なの」
「あなたが私にしたことを思えば、これくらい当然よ」
「お願い、許して。私はもう十分苦しんだわ」
「十分? まだ足りないわよ。あなたは私を散々貶めて、私の娘を馬鹿にした。その代償がこれよ」
「ひどい。こんなの、あんまりだわ」
「ひどいのは、あなただよ。自分が被害者だなんて、二度と言わないで。これから先、どんなに貧乏で苦しもうと、私があなたを気の毒に思うことは、もう二度とないから」
数日後、あかりがリビングで、自分のスマホを見つめながら私に尋ねてきた。
「お母さん、話があるの」
「どうしたの?」
「ゆいちゃんのことなんだけど」
「ゆいが何かあったの?」
「違うの。ゆいちゃんは、私の腹違いの妹なんでしょ?」
私は一瞬、言葉を失ったが、大きく頷いた。
「……ええ。ゆいの父親は、私の元夫。つまり、あなたの実の父親よ。ごめんね。今まで言えなくて」
「うん。大丈夫。びっくりしたけど。私がお母さんの連れ子だってことは聞いてたけど、こんなことあるんだね」
「ええ。あなたの立場だと、複雑よね。ごめんなさい」
「でもまあ、私のお父さんは、今のお父さんだし。正直、産みの親のことなんてどうでもいいっていうか、なんていうか。あの人、私のこと、一度も見に来なかったしね。お母さんが妹の存在を隠してたのも、無理はないよ。あの人たちは、二人ともクズだったんでしょ?」
私はあかりの言葉に、胸が熱くなった。この子は、私の育て方を間違えていなかったと確信した。
「あかりは、ゆいとこれからどうするの?」
「どうもしないよ。親友だし。姉妹って言われると、なんか変な感じだけど。ゆいは、大切な子なの」
「そうね。あなたがゆいちゃんの話をたくさんしてくれていたから、仲がいいのは知ってるわ。私がゆいちゃんを『浮気相手の子供』だから嫌うなんてことは、絶対にないわよ。あなたが好きな人なら、私も大事にしたいと思うもの。それに、あの子は娘のあなたにずっと優しくしてくれていたんでしょ? 私からしたら、もう感謝しかないわ」
あかりは安心した顔で微笑んだ。
「そっか。それ聞いて安心した。お母さんに『ゆいに会うな』って言われたらどうしようかと思った」
同時刻。ゆいのスマホに、あかりからメッセージが届いていた。
「ねえ、ゆい。聞いた? うちら、姉妹らしいよ」
「は? あの話、マジなの? お母さんから聞いたけど、冗談かと思ってた」
「私もびっくりしたわ。親友だと思ってたら姉妹だったとか、ドラマみたいだよね」
「なんか、嬉しいかも」
「私も。ゆいが妹でよかった」
「私も、私も。あかりが姉ちゃんでよかった」
「というわけで、これからもよろしくね。妹」
「よろしく、姉ちゃん」
「なんか、姉妹って変な感じだね。ていうか、私がお姉ちゃんなの? 誕生日、あかりの方が早いじゃん」
「だから、あかりがお姉ちゃんでしょ。だったら、私が姉でもいいよ?」
「いや、それも変だし。じゃあ、お互い様ってことで」
それから、あの女と元夫は、たがいに慰謝料を請求し合い、泥沼の裁判を繰り広げた。結局、二人とも財産を失い、社会的にも孤立し、私はその知らせを遠くから聞くだけだった。私がひそかに願ったとおり、二人はお互いに地獄を見ていた。
一方、家を出たゆいは、祖父母の家で平穏に暮らしている。そして、あかりとゆいは、今も変わらず親友として、そして腹違いの姉妹として、支え合いながら生きている。時々二人で笑い合う姿を見ると、私はあの時、大切なものを守る選択をして本当に良かったと思う。
子供たちは、もうすぐ成人を迎える。親の手を借りずに生きようとする彼女たちの背中を、私はこれからもそっと押してあげることしかできないけれど、二人が自分らしく、幸せに生きていくことを願わずにはいられない。



