授業参観の教室。磨き上げられた床の上で、ブランドバッグを抱えた母親たちが、まるで値踏みするように、地味な父親を見つめていた。教壇では、幼い少女が緊張した顔で作文を読んでいる。
「パパは無職のフリーターです。」
その瞬間、教室がどっと湧いた。
「やだわ。あんな風にヘラヘラして、奥さんに養ってもらってる無職の方がねえ…」
嘲笑の渦の中で、少女は必死に涙をこらえていた。父親は何も言わない。ただ静かに、娘を見つめていた。
数日後、学校の応接室。机の上に広げられた一枚の地図。膝から崩れ落ちる母親たちの前で、「無職のフリーター」と笑われた父親が、静かに告げた。
「あなた方の土地、売却します。」
地味な父親の本当の顔を知った時、傲慢な者たちが見下していた世界は、足元から音もなく崩れ始める。
まだ夜の色が残る早朝。霧谷修三は台所で味噌汁の鍋を火にかけていた。色褪せた紺色のエプロンに、グレーのスウェットパーカー。五十六歳の手は節くれ立っているが、手慣れた手つきで卵を割る。玄関で支度を整えた妻の尚が、子供服の生地が詰まった大きなトートバッグを肩にかけた。町の片隅に小さなアトリエを構える、子供服のデザイナーだ。
「行ってきます。留守番よろしくね。うちの無職のフリーターさん。今日もスウェットが似合ってるわよ。」
「はいはい。気をつけてな。」
くすくすと笑い合う二人には、この冗談にちょっとした思い出があった。いつだったか、尚が一人でいるところを、娘の学校の保護者の一団に囲まれたことがある。先頭にいたのは戦国マリ子。尚の仕事や住まいのことを、笑顔の裏で根掘り葉掘り聞いてきた。特に、いつもスウェット姿の夫の仕事に関しては、年収まで聞いてきた。しかし尚は全てをのらりくらりとかわしていた。やがてマリ子はわざとらしくため息をついた。
「夫のお洋服って、本当に悩みの種よね。お休みの日でも品格を持たないといけないから。ああ、でも、最近の方って、立派なお仕事をされている方でも、見た目が無職のフリーターみたいな方が多いんですって。」
取り巻きが口元に手を当てて囁くように笑う。だが尚は眉一つ動かさなかった。
「あら、うちの夫はいつだってスウェットですよ。本物の無職のフリーターだったら、どうしましょう。」
さらりと笑い飛ばされて、マリ子の作り笑いが固まった。怒鳴るでもなく、媚びるでもなく、ただ飄々とかわす。それが尚という人だ。以来、「無職のフリーター」は霧谷家の、ささやかな笑顔の合言葉になっている。
そこへ、寝癖のついた小さな頭がひょっこり顔を出した。
「パパ、おはよう。ママ、もう行っちゃった?」
「ああ、たった今な。ほら、顔洗ってこい。」
七歳の一人娘、日向。父にとっては、目に入れても痛くない宝物だ。卵焼きを焼きながら、日向が思い出したように口を開く。
「ねえ、パパ。今度の参観日で読む、家族の作文を書いてくださいって、先生に言われたの。パパのこと、書いてもいい?」
「お、パパのこと書いてくれるのか?嬉しいな。ただし、パパの秘密だけは書くんじゃないぞ。」
「秘密?あ、パパがママのこと世界で一番好きってこと?」
「う、こ、こら。ま、まあ、そういうこともだな。」
「へへ。パパ、すぐ逃げる。」
照れくさそうに台所へ引っ込む父の背中に、日向は声を立てて笑った。朝食を終えると、修三は古びた自転車の後ろに日向をひょいと乗せた。高級車が列をなす門のそばを、親子は風を切って進んでいく。
「日向、見てみろ。あの桜、もう葉っぱになってきたな。」
「本当だ。この前までピンクだったのに。」
「過ぎた時間は二度と戻ってこない。だから、よく見ておくんだぞ。」
すれ違う人に、修三は誰にでも軽く頭を下げる。店先を掃く商店の主人にも、犬を連れた年寄りにも。日向もそれを真似て、小さな声で「おはようございます」と続く。
門の辺りでは、ブランドバッグを下げた母親たちが、修三のスウェット姿と年代物の自転車を、値踏みするように眺めていた。
「あそこのお父さん、また自転車で送ってきてるわ。奥さんに食べさせてもらってるんですって。ねえ、ねえ。」
囁きは修三の耳にも届いている。だが彼は気にするそぶり一つ見せず、日向の背中が校舎に消えるまで見送った。家に戻り、奥の小さな部屋に入ると、太い字で書かれた短い言葉が、古ぼけた額縁にかけられている。修三はそれに目をやり、ほんの少しだけ目尻を緩めた。
「先生に拾ってもらえなけりゃ、今の俺はいなかったな。」
参観日を一週間後に控えた午後。駅前の高級ホテルのラウンジに、ブランドで身を固めた母親たちが集まっていた。中央のソファーに深く身を沈めているのは、戦国マリ子。保護者たちの頂点に君臨する女だ。ブランドの新作バッグを皆に見せるようにテーブルへ置き、紅茶のカップを傾けながら、マリ子はゆっくりと切り出した。
「ねえ、皆さん。今度の参観日、霧谷さんのお宅はいらっしゃるのかしら?」
「日向ちゃんのとこですよね。お父さんが、ぼろい自転車で送ってきてるんですよ。平日の昼間からお家にいるみたいですから、奥さんに養ってもらってるってことですよね。」
「あら、そういうご家庭、増えてるみたいだし。流行りに乗ってるご家族なのかしらねえ。」
わざとらしく首をかしげる。その仕草が合図だった。くすくすと笑い声が一段大きくなった。
「でもね、運転手もつけず自転車で送り迎え。家族のあり方は最先端でも、中身は昭和で時間が止まっていらっしゃるの。この学校にふさわしいのかしら?」
テーブルの端に座っていた一人の母親が、カップを持つ手を止めた。
「でも、霧谷さんのお嬢さん、とても優しい子ですし。ご事情があるのかも…」
言いかけた声がふっと途切れた。マリ子が笑みを浮かべたまま、その母親を見たからだ。氷のように冷たい目だった。
「あら、随分肩を持つのかしら。」
母親は目を伏せ、残りの紅茶を味も分からぬまま喉へ流し込む。誰もマリ子には逆らわない。逆らったものが次にどうなるか、この場の全員が肌で知っていた。マリ子は隣に座るママ友に、優しく顔を向けた。
「ねえ、あなたはどう思う?あなたも、随分お世話になっているものね。」
ママ友の頬がわずかに強張った。喉の奥で言葉を探すように一瞬詰まり、それから貼り付けたような笑顔を作る。
「え?ああ。えっと、自転車で送り迎えとか、普通じゃありえないかと。この学校にはふさわしくないと思います。」
「あら、そう。皆さん、この方は霧谷さんがこの学校にふさわしくないと思ってるんですって。私は何も言ってないわよ。どうなのかしらと思っただけよ。」
マリ子は満足そうな笑みを浮かべていた。数日のうちに、囁きは学校の中にも浸み出していった。下校の時刻、門の前では迎えに来た母親たちが子供を待ちながら立ち話に花を咲かせていた。新人教師の水島しおりは、児童を見送りながらその輪のそばに立っている。声も潜めない噂が耳に流れ込んできた。
「…無職のフリーターだって。」
その言葉が、しおりの胸をちくりと刺す。
「こんなのおかしい。子供たちだって聞いてるのに。」
言わなければ、と喉まで出かかった言葉を、しおりはそっと飲み込んだ。この学校に来てまだ半年だが、もう十分すぎるほど思い知らされていた。ここでは、正しさなど何の力も持たない。声を上げた教師がどんな風に潰されていくのかも。握りしめた指先だけが、居場所をなくして冷たくなっていく。教育の場であるはずの場所で、「品格」を語る人たちが、一つの家族を笑っていた。
参観日当日。教室の窓の外には、磨き上げられた高級車がずらりと並んでいた。廊下に立つ母親たちは、誰もがブランドの新作バッグとアクセサリー、洋服で身を固めている。その列の一番端に、シンプルな紺のジャケットを羽織った修三が、目立たぬよう静かに立っていた。担任の水島しおりが、緊張で明るい声を作って進行する。
「それでは、『私の家族』の発表です。次は、霧谷日向さん。はい。」
元気よく立ち上がった日向の、両手で握った原稿用紙は、緊張で少し丸まっている。教壇の前に立ち、息を吸い込むと、小さな声で読み始めた。
「私の家族、霧谷日向。私のパパは、いつもお家にいます。ママがお仕事に行った後、パパはママのお手伝いをします。」
何人かの母親が口元を緩めた。たどたどしい、子供らしい声。微笑ましい空気がわずかに流れた。
「パパのお仕事は、ママのお手伝いってママに聞いたら、ママが『パパは無職のフリーターだよ』って言ってました。なので、私のパパは無職のフリーターです。」
え、フリーター?教室が一瞬静まった。次の瞬間、教室がどっと湧いた。母親たちの肩が揺れ、こらえきれない笑いがあちこちから吹き出す。「無職のフリーター」。その一言が引き金だった。後方の修三は、ふっと目尻を緩めた。
「全く。またママの悪ふざけが、こんなところで炸裂したな。」
それは妻と娘への愛しさが、つい顔に出ただけの笑みだった。だが、その横顔を最前列のマリ子が、勝ち誇った目で見つめていた。いつだったか、日向の父親の仕事を探ろうとした自分を、妻の尚は「本物の無職のフリーターだったらどうしましょう」と笑ってかわした。あの時マリ子はこう決めつけていた。肩書きを張って、無職であるのを隠しているんだろう、と。それが今、幼い娘の口から、あんな簡単に言われた。ほら、やっぱり。散々見栄を張っておいて、子供が正直にばらしてくれたわ。
日向の発表は、またとない獲物だった。娘に微笑みかけている修三を見て、マリ子はわざと周りに響く声をあげた。
「やだわ。自分の娘に『無職だ』なんて言わせて、恥ずかしくないのかしらねえ。」
マリ子は隣にいるママ友に視線を送る。
「奥さんに養ってもらってるのに、ヘラヘラと平気でいられるなんてねえ。」
くすくすという笑いが、今度ははっきりと嘲笑の色を帯びていく。微笑ましさはもうどこにもなかった。壇の上で、日向の背中が小さく強張った。なぜみんなが笑っているのか、自分の何がおかしいのかわからないまま、原稿を持つ指にぎゅっと力がこもる。しおりがたまらず一歩踏み出した。
「あ、あの、皆さん、どうかお静かに。」
だがその声は震えていて、誰の耳にも届かない。笑い声に飲み込まれ、虚しく宙へ消えていく。しおりはそれ以上何も言えなかった。やはり自分の言葉など、保護者たちの前では何の力も持たないのだ。日向の瞳が潤み始めていた。それでもまだ、読み終えていない一文が残っていた。最後まで読まなくては。日向は震える唇を懸命に動かした。
「パパは、自転車の後ろに私を乗せて、雨の日も晴れの日も、いろんな道を通りながら、たくさんお話をしてくれます…」
けれどその声は、もう誰の耳にも届いていない。けたたましい笑いの底に、小さな声は沈んでいくばかりだった。マリ子はハンカチを口元に当て、さもおかしそうに肩を揺らした。そして自分では決して言わず、隣の取り巻きへ目配せを送る。
「やだ、まだ続けるの?もういいんじゃない?かわいそうに。ねえ、自転車でいろんな道を通るんですって。連れて行ってあげるお金がないだけじゃないの。」
新たな笑いがどっと起きた。教壇の上で、日向の手が止まった。原稿用紙の上に、ぽつり、ぽつりと雫が落ちる。一粒、また一粒。濁った文字が読めなくなっていく。それでも日向は、一番伝えたかった最後の一文を読もうとした。
「パパは、私の世界で一番好きな、自慢の…」
その先は、もう声にならなかった。押し寄せる笑いの波が、幼い少女の一番大切な一言を、痕跡もなく飲み込んでしまった。日向は教壇の前で、ただ立ち尽くしていた。なぜみんなが笑うのか。パパのことを書いただけなのに。自分の何がおかしいのだろう。たまらず、しおりが声をあげた。
「皆さん、いい加減にしてください。これは、子供の発表の場ですよ。」
一瞬、教室が静まる。だがマリ子はゆっくりとしおりを振り返り、口角だけを釣り上げた。
「あら、新人の先生が保護者に意見なさるの?ご自分のお立場、お考えになった方がよろしくてよ。」
その一言で、しおりの顔がひゅっとなった。この学校で誰が力を持っているのか。突きつけられた現実の前に、彼女の正義は居場所をなくす。そして、教室の一番後ろにいた修三は、娘の震える手をじっと見つめていた。
修三は一歩踏み出した。ざわめく母親たちの間を、修三は誰の顔も見ずにまっすぐ娘の元へ歩いていく。靴が床を踏むその音だけが、笑い声の中にやけにはっきりと響いた。立ち並ぶ保護者たちが、避けるように左右へ道を開ける。教壇の前で膝を折り、修三は震える娘と目線を合わせた。涙でくしゃくしゃになった頬を、節くれだった手でそっと拭う。
「日向、素晴らしい作文だったぞ。」
「パパ…。」
「みんな笑ってるけど、おかしいことは何もない。」
それから修三は立ち上がり、初めて教室を見回した。怒鳴りはしない。声を荒げもしない。ただその目だけが、まっすぐ一人を捉えていた。
「人を偏見で笑うこと。お子さんたちは、今日それを学ばれたでしょうね。」
一瞬、教室が静まった。だがマリ子はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふうん。お説教?平日の昼から仕事もせず家に引きこもって、社会との関わりもろくにない。そんな無職の方に、人の親の何たるかを教えていただけるなんて、ありがたいわねえ。」
「本当にねえ。ふふふ。」
取り巻きのママたちがくすくすと笑った。青ざめた顔で立ち尽くす担任のしおり。修三はほんの少しだけ頭を下げた。庇おうとしてくれた、その気持ちへの礼のように。しおりは唾を飲み、小さく頭を下げた。修三は日向の手を取った。
「先生、今日はこのまま娘を連れて帰ります。お騒がせしました。」
二人が教室を出ていく。残された母親たちはまだ笑っているけれど、その笑いはどこか座りが悪かった。
門を出ると、春の風が二人の頬を撫でた。修三はいつものように自転車の後ろに日向を乗せる。ペダルを踏み出すと、こらえていたものが切れたように、日向が泣き出した。
「パパ、どうしてみんな笑ったの?日向、明日学校行きたくないよ。」
修三は自転車をそっと道の端に止めた。振り返り、娘の目を覗き込む。
「日向、よく聞きなさい。お前は変なことなんて何一つ書いていない。笑われるようなことも、何ひつなかったんだ。」
「本当?」
「ああ。パパはな、あの作文を聞いて、すごく嬉しかったんだぞ。日向がパパのこともママのことも、こんなに大好きでいてくれること。それがちゃんと伝わってきたからな。」
日向の目からまた涙がこぼれるけれど、今度のそれはさっきとは違う涙だった。
「だからな、たとえ誰に笑われても、日向は恥ずかしがることなんて何もないんだ。胸を張っていい。明日もまた、パパとこの自転車で行こうな。」
「うん。」
日向は修三の背中にぎゅっと顔を埋めた。さっきよりもずっと強い力で。修三はゆっくりとペダルを踏み込む。春の道を、古い自転車が二人を乗せてまっすぐに進んでいった。
参観日から数日後、夕暮れの校舎。その日、日向は教室に連絡帳を忘れてきていた。持ち物の管理はいつも修三の役目だ。夕方、それを取りに学校へ立ち寄った。門脇の守衛室に忘れ物のことを告げ、受付の名簿に名前を記す。顔馴染みの守衛は軽く頷いて、修三を通した。人のいない廊下を抜け、日向の教室の扉を開ける。夕暮れの光が、机の列をオレンジ色に染めていた。その教室の真ん中に、しおりが一人で立っていた。修三が来たことにも気づかぬまま、見慣れた机の一つ一つを、まるで別れを告げるように緩やかに見回している。その手には一通の封筒。辞表だった。人の気配に、しおりがはっと振り返った。とっさに封筒を持つ手を背に隠す。
「あ、霧谷さん。どうされたんですか?こんな時間に。」
「ああ。いや、娘が連絡帳を忘れたみたいで、それを取りに…」
言いかけて、修三はふと言葉を止めた。努めて笑おうとするしおりの、その顔が泣き腫らした後だと気づいたからだ。
「先生こそ、どうかなさいましたか?」
その一言で、しおりの作った笑みが崩れていく。言葉を選ぼうとしても、選べない。背に隠した封筒の角が、握りしめた指の中でしきりに折れた。俯いた横顔は、もう教師のものではなく、ただ一人の、しおり自身の顔になっていた。
「ああ…いえ。その、先日は本当に申し訳ありませんでした。私、あの日、日向ちゃんを守ってあげられなくて。」
「え?とんでもない。あの中で、先生がたった一人、声をあげてくださった。娘もちゃんと見ていましたよ。」
その優しさに、それまで張り詰めて我慢をしていた気持ちが溢れ、しおりの頬を涙が止めどなく伝う。
「私、子供の頃から先生になるのが夢で。何度も試験に落ちて、それでも諦めきれなくて。やっと、やっとこの壇に立てたんです。なのに、何もできない。目の前で子供が傷つけられているのに、正しいことを言う人間ほど、いらなくなる。声をあげれば煙たがられて、立場をなくすだけで。私、何のためにここにいるんだろうって。」
しゃくり上げながら、しおりは自分を責めるように首を振った。
「結局、私の力が足りないんです。きっとそう。こんな学校でも、ちゃんとやれる先生はいるのに。夢なんて見た私が、いけなかったのかな。もう、どうでもいいんです。私なんて。すみません。こんなこと、日向ちゃんのお父さんに言うことじゃないのに。」
封筒を握る手が、力なく落ちた。修三はしばらく黙って、その姿を見ていた。そして口を開いた。
「あなたの人生を、あなたが捨ててはいけない。」
しおりがはっと顔をあげた。
「昔、私もこの学校に通っていました。今とは違って、当時はごく普通の学校だったんですけどね。私は父のいない、貧しい家で育ちました。何もかも投げ出していた、そんな私に、ある先生が同じことを言ってくれた。その一言で、私は救われたんです。」
「霧谷さんが…」
修三は小さく頷いた。
「先生、さっきおっしゃいましたね。正しいことを言う人間ほどいらなくなると。この学校は、いつからそんな場所になったんでしょうね。」
しおりは迷いながらも、ぽつりぽつりと打ち明けた。理事長が変わってから、何もかもがお金で決まるようになったこと。設備や備品ばかりが豪華になり、その裏で囁かれている噂。裏口入学の噂まであるんです、誰も口にはしませんけど、と。
修三はしばらく言葉を失っていた。かつてこの学校は、父のいない貧しい少年を、誰よりも分け隔てなく扱ってくれた場所だった。だからこそ、恩師への恩を胸に、日向を同じ門をくぐらせた。本業に追われ、保護者の世界に関わることもないまま、あの頃のままの学校だと信じて疑わなかった。それが、いつの間にか、子供の作文を笑い、金で人を値切り分ける場所になり果てていた。
「先生が守った、あの学校は、もうどこにもないのか。」
聞き終えた修三の横顔から、穏やかさがすっと引いていった。これは、もう日向一人だけの問題ではない。
「そうですか。」
その夜、自宅の小さな部屋で、修三は電話を取った。
「相沢か。少し調べて欲しいことがある。」
窓の外には、星が一つまたたいていた。
数日後、霧谷家の奥の小さな部屋。机の向かいに、秘書の相沢が分厚いファイルを置いた。
「お調べした通りです。想像よりずっと、根が深いようで。」
ファイルには、修三の知らなかった、この学校の「今」が並んでいた。
「現理事長の右海正義は、先代から引き継いだ学校を、金儲けの道具に変えていました。設備も備品も不自然なほど豪華に。その裏で、霧谷さんが亡き恩師への恩義で長年続けられてこられた寄付金のかなりの額が、右海の懐に消えています。」
修三の指が、ファイルの上で止まった。
「そして、保護者の戦国マリ子と手を組み、裏口入学を斡旋していました。必ず合格させると、高額な成功報酬を受け取って。入れた後は、親の弱みを握る。逆らえば裏口入学のことをばらす。そうやって、言いなりに従わせていたんです。」
「それで、誰もあの女に逆らえなかったのか。」
「ええ。詐欺、恐喝、共謀。そして右海の着服。証拠は全て抑えてあります。」
修三はしばらく目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、貧しかった少年の自分を、分け隔てなく見てくれた恩師の顔。『お前の人生をお前が捨てるな』。その一言に救われた、あの日の教室。
「先生、あなたが守ろうとしたものを、この男たちは金で汚したのか。」
目を開けた修三の顔から、いつもの穏やかな温度は消えていた。
修三は一人で、理事長室の扉を叩いた。グレーのスウェットパーカーの男を一瞥して、右海は露骨に眉を潜め、すぐパソコンの画面に視線を落とした。
「ああ、無職の方ですか?アポイントは取ってないんでしょう。私も暇ではないのでね。」
「霧谷と申します。」
「はあ、霧谷さんね。」
「霧谷修三と申します。」
「はいはい。霧谷修三さんね。」
その名前を聞いた瞬間、右海の背筋が強張った。学校を支える最大の寄付者。その名前だけは、片時も忘れたことがない。だが、本人の顔をこれまで一度も見たことがなかった。
「き、霧谷…修三さん。お、おお、お名前は存じ上げております。いつもありがとうございます。多大なるご寄付を、感謝申し上げます。えっと、あの、ご寄付はいつも秘書の方を通してで。えっと、私はいつぞやお顔を存じ上げず、大変失礼いたしました。あ、まさかご本人様とお会いできるとは。何かご用件でしょうか?」
「ええ。寄付は、亡くなった恩師への恩返しのつもりでしたが。」
右海の額に、じわりと汗が滲む。修三は一枚の書面を机に置いた。
「本日付けで、寄付を全て停止します。それと、会計の全面的な開示。そして、第三者による監査を要求します。」
「ああ、それは、ご冗談でございましょう?え?今、なんと?」
霧谷の寄付は、この学校が名門でいられる、たった一本の太い命綱だった。その金があってこそ、特別な教育も、推薦の枠も保たれる。右海の顔がみるみる青ざめていった。
「いやいやいやいや、冗談を。いや、もう驚きすぎて汗が。」
「冗談ではありません。」
「お待ちください、霧谷様。なぜ?あの、えっと、お考え直しいただけないでしょうか?急にそんな。何か手違いでもありましたでしょうか?」
「手違いですか。詳細は追って連絡いたします。」
修三はそれだけ言って、踵を返した。追いすがる右海の声を、背中で断ち切るように。その頃、戦国マリ子はまだ何も知らなかった。
「ねえ、聞いた?霧谷さんのご主人、理事長に何かかけ合っていたみたいよ。その後から、理事長が体調崩されたみたいで。」
「やだわ。あの無職の人に何ができるって言うの?理事長にお小遣いでもせびりに行ったんじゃないの?」
くすくすと笑いが起きるけれど、ちょうどその頃から、保護者たちの間に一つの奇妙な噂が流れ始めていった。この一帯の土地は、近々土地開発で更地になる。資産価値が暴落する。その鍵を握っているのが、たった一人の資産家らしい、と。
数日後、学校の応接室。中央の革張りのソファー。その上座に、修三と一人の男が静かに腰を下ろしていた。向かいには戦国マリ子と、彼女が引き連れてきた取り巻きのママ友が三人。そして窓際には、青ざめた理事長の右海と、担任のしおりが、座ることもできず硬い表情で立っている。
呼び出されたマリ子は、なぜあの無職の父親が上座に、見知らぬ男と並んでいるのか、いぶかしんだが、すぐに興味なさげに視線を外し、窓際の右海へぶっきらぼうな声を向けた。
「理事長、こんな席まで用意して、何のお話?まさか、参観日のことで、この私をとめようとでも?」
右海は答えられなかった。やがて全てを諦めたように、深く息を吐く。もう逃げきれない、と観念した顔だった。
「いえ、戦国さんのことではなく。本校は、これまで支えていただいた唯一の大口のご寄付を失うことになりまして。」
「なんですって?」
足を組んでいたマリ子の背筋が伸びた。大口の寄付。その存在くらいは彼女も知っている。この名門が、何によって支えられているのかも。
「ちょっと、どうしてあの寄付が?それがなくなったら、この学校どうなるのよ?」
「それは、そのお金がなくなれば、大学への特別な推薦の枠も、その維持が…」
歯切れの悪い口ぶりだった。だが意味ははっきりしている。この学校が名門でいられた、たった一つの看板。有名大学への連携の枠。それは、純粋な金があってこそ保たれてきたもの。金が尽きれば枠も消える。残るのは、ごく普通の学校だ。
「そんな。じゃあ、この学校に通わせる意味なんてないじゃない。大体、なんでいきなりそんなことになるのよ。」
弁明を求めるように、マリ子が声を荒げた。その時、隣の男が一枚の大きな地図をテーブルへゆっくりと広げた。
「ご説明いたします。寄付をなさっている方は、この灰色に塗られた一帯の主です。」
街の地図だった。駅前の一等地、高級住宅街、立ち並ぶタワーマンション。そのほとんどが、灰色に塗られている。
「あなた方のタワーマンションも、ご主人の会社のビルも、この学校の敷地も。全て、その方の土地の上に立っています。」
マリ子の眉が不快そうに寄った。さっきから高飛車に垂れ流すこの男は何なのか。
「はあ。ねえ、ちょっと、あなた。さっきから何なの?保護者でもないでしょ。いきなり地図なんか広げて。」
「失礼いたしました。私は、霧谷の秘書です。」
「はあ?秘書?霧谷?」
その名が、ゆっくりと頭の中で繋がっていく。霧谷修三。地主。資産家。そして、その視線が吸い寄せられるように、上座のグレーのスウェットパーカーの男へと向いた。
「え?う、嘘。だって、その人は、無職のフリーターじゃ…」
言葉が続かない。その時、修三が初めて口を開いた。低く、しかし部屋の隅々まで届く声で。
「あなた方の土地、売却します。」
「え?」
一拍、言葉の意味が宙に浮いた。その沈黙へ、相沢が言葉を継ぐ。
「皆様のタワーマンションも、ご主人の会社のビルも。その地代は毎月、霧谷の口座へ。もう十年も欠かさず。」
ようやく頭の中で像が結んだ。勝ち組の城と誇ったあの高級住宅。その床も壁も、初めから一寸残らず、この地味な男の地面の上に乗っていた。見下してきた「無職のフリーター」へ、毎月頭を垂れるように金を払っていたのは、自分たちの方だったのだ。組んでいた足がほどけた。マリ子が身を乗り出して、地図を覗き込む。
「再開発の話が来ています。古い建物から順に。」
「いつ、いつなの?」
「いつとは言いません。」
言わないことが、返って応接室の温度を奪っていく。次に自分の番が来るのかどうか。それを決めるのは、茶にも手をつけずにいる、目の前のこの男一人なのだ。マリ子の額から、冷や汗が止めどなく流れ出した。
「ついでに申し上げます。右海さん。あなたはこの三年で、霧谷からの寄付金およそ二億を、ご自分の口座に入れておられますね。そして、高級車を複数台。」
壁際で、右海が力なく膝をついた。
「うっ…」
「理事長の席は、今日この時を持って辞していただきます。先代が残したものを、これ以上あなたには預けておけない。」
右海は、床についた手をあげることもできなかった。
「そして、戦国さん。」
相沢がテーブルに、小さなICレコーダーを置いた。スイッチが軽く触れる。
『ご心配なく。面接の点数はこちらで二十点ほど加算しますし、調査書の志望理由も私が手を入れますから。そのまま出してくだされば結構です。お礼はいつもの口座で。今回は八百万。安いものでしょ。お子さんの一生がかかっているんですから。』
部屋の空気が固まった。紛れもない、マリ子自身の声だった。
「面接点数の操作、調査書の改ざん、現金の受領。五つのご家庭から、合わせて数千万。それだけの成功報酬を騙し取った。そして、入れた後はその弱みを握る。逆らえば裏口入学を暴くと。そうなれば、お子さんは入学を取り消され、不正入学の経歴だけが、どこへ移ってもついて回る。だから親たちは口を噤むしかなかった。気に入らない相手は、根も葉もない噂で追い出され。全て、記録に残っています。」
マリ子の顔から、表情が抜き落ちた。
「ま、待って。私は何もしてないわ。裏口だって、この人たちに頼まれただけなんだから。私から言ったわけじゃない。悪いのは、この人たちよ。」
その瞬間、ママ友たちの張り付いた笑顔が剥がれ落ちた。
「はあ?よくもそんな。一番儲けてたのは、あんたでしょ。言うこと聞かないと、ご主人にばらすって脅したくせに。」
「な、大体、あんたのこのテストの点だって、不正してもらってたじゃない。」
「それに、深井さんからキックバックもらってたでしょ。」
「な、何を言い出すんだ、君たち?理事長だって、面接の点数はお金で解決できますって言ってたくせに。」
誰が誰を裏切っているのか、もう分からない。守るはずの秘密が、我先にと口から飛び出していく。責任の擦り合い。隣の罪の暴き合い。かつて町の頂点に君臨したマリ子らの王国は、今や見苦しく、そしてどこか哀れな、責任の擦り合いの渦に飲み込まれていた。
「証拠は、しかるべきところへ。近く、あなた方それぞれに、話を聞きたいと連絡が入るはずです。」
その騒ぎを、修三は一瞥もしなかった。
「本当は、ここまでするつもりはありませんでした。」
ぽつりと、相沢にではなく、部屋の誰にでもなく、修三は呟いた。
「あの日、娘が作文を読みました。『私のことを世界で一番好きな、自慢の父親だ』と。たったそれだけのことを、あなた方はそれを笑った。まだ七歳の子が、声を詰まらせて泣くまで。あの光景があまりに異様で、気になってこの学校を調べてみたら、こうなっていた。ここは昔、父もなく貧しかった私を、分け隔てなく迎えてくれた場所です。それが、いつの間にか、子供の作文を笑う場所になり果てていた。」
修三は、窓際のしおりをまっすぐに見た。
「だから、元に戻すだけです。」
それだけ言うと、修三は踵を返した。膝をついた右海にも、青ざめた女たちにも、もう目もくれない。
「ち、ちょっと、ま、待ってよ。な、なんで私がこんな目に?」
ただ一人取り残されたマリ子が、その場にへなと座り込んだ。彼女に手を差し伸べるものは、もう誰もいない。扉が静かに閉まる。その向こうでは、まだ責任を擦り合う金切り声が響いていた。
同じ頃、門の前。下校時刻の母親たちが、いつものように立ち話に花を咲かせていた。そこへ、地味なセダンが一台、滑り込むように止まる。降りてきたのは、スーツの男が二人。慣れた足取りで校舎へ消えていった。ほどなくして校舎から出てきたのは、あの二人に付き添われた、戦国マリ子だった。
「ちょっと、な、何なのよ。そんなにくっつかないでよ。逃げないから、もう少し離れて歩いてよ。」
「戦国さん、あまり騒がれない方が。お迎えの保護者の方が、集まってきてるようですし。」
その一言で、マリ子の足が止まった。金切り声に振り返った母親たちが、一斉にこちらを見ている。その中の一人が息を飲んだ。いつかの集会で「霧谷さんのお嬢さん、とても優しい子ですし」と口にし、マリ子に睨まれて目を伏せた、あの母親だった。
「あの刑事さん、うちの主人の弟なんです。どうして戦国さんが…」
「え?刑ジさん?やだ。この人、何かしたの?ちょっと、あれ撮ってグループに送っちゃおうかしら。」
ざわめきが、波紋のように広がっていく。スマホを構えるもの。顔を寄せ合って囁き合うもの。そっと一歩後ずさるもの。かつて誰もが頭を下げた女が、今、誰の助けも借りられぬまま、醜態だけを撒き散らしながら、車へと歩かされていった。
その夜、霧谷家。日向はソファーで、すやすやと寝息を立てている。修三はその寝顔をしばらく見つめてから、テーブルの上の一枚の原稿用紙をそっと手に取る。あの日、教室で笑い声にかき消された作文。修三はその続きを、最後まで読んだ。
「パパは、私の世界で一番好きな、自慢のパパです。」
声が、わずかに揺れた。あの日、日向が一番伝えたかった、たった一言。それをもう、誰にも笑わせはしない。隣で尚が、そっと夫の肩に手を置いた。
「素敵な作文よね。うちの無職のフリーターさんは、本当に世界一の自慢のパパね。」
「ああ。ママの悪ふざけのおかげで、早いうちに正体がバレるところだったかな。」
二人は顔を見合わせて、小さく笑い合った。ふと、壁の古い額縁に目をやる。恩師が残した太い文字。
『お前の人生をお前が捨てるな。』
「先生。あなたのおかげで、私は自分の人生を捨てずに済みました。今度は、私の番です。」
窓の外で、春風がカーテンを静かに揺らしていた。
数日後、かつてマリ子の一番の取り巻きだったママ友Aの家の前に、あの地味なセダンが止まった。
「け、刑事さん?私は、何も…」
事情を聞かれ、声を震わせるママ友A。うちにも聞き込みが来た、と保護者たちのグループラインが爆発した。
「うちにも聞き込みが来た。」
「やっぱり裏口の話、本当だったの?」
「っていうか、理事長のお金まで横領ですって。」
かつてマリ子の一声に怯え、競うように機嫌を取っていた女たちが、今度は競うように知っていることを吐き出していく。守られていた秘密は、もうどこにもなかった。
そして、マリ子は消えた。取り調べが続くさなか、密かに国外へ逃げようとしたのだ。それをニュースが伝えた。空港の出発ロビーで、スーツの男たちに囲まれ、俯いて連行されていく女の姿が、ワイドショーで繰り返し流れた。
「ねえ、見た?空港ですって。」
「逃げようとしたから、釈放はできないらしいわよ。」
「高知から刑務所一直線かしら。」
噂は町を駆け巡った。誰よりも世間を気にした女が、その世間の前に無様に引きずり出されていた。逃げたという事実が、彼女から最後の逃げ道まで奪った。証拠隠滅と逃亡の恐れ。保釈は認められなかった。冷たい拘置所で、裁判の日を待つことになる。それでもマリ子は認めなかった。
「悪いのは理事長よ。私は頼まれただけ。」
だが、右海もまた、全ての責任をマリ子へ押し付けた。二人が擦り合うほど、隠れていた余罪が次々と掘り起こされていく。組織的で、常習的で、悪質。情状酌量の余地は、どこにもなかった。下された判決は、実刑。執行猶予はつかなかった。理事長の右海も、着服の罪でその座を追われた。私物化した寄付金は追徴され、彼もまた法の裁きを待つ身となる。
マリ子は、夫の龍一と離婚が成立した。龍一は息子の蓮を引き取り、何も言わず、彼女の元を去った。ブランドのバッグも、宝石も、あのタワーマンションも。賠償と弁護士費用に、全て消えていった。そして、かつて町の頂点で華やかに飾っていたマリ子の取り巻きたち。互いの罪を暴き合ったあの日を境に、彼女たちが再び顔を合わせることは二度となかった。人を見た目で値踏みし、幼い子の作文さえ笑った女。その無様な末路に、同情するものは誰一人いなかった。
季節が巡った。右海の去った学校は、ゆっくりとその姿を取り戻していった。金で人を値切り分ける風潮は消え、誰もが分け隔てなく迎えられる。かつて先代が築き、恩師が守った、あの校風へ。その再建を、修三は表に出ることなく、静かに支え続けた。恩師にもらった言葉を、今度は自分が返す番だった。
ある日の放課後、しおりが修三の元を尋ねてきた。
「霧谷さん。私、もう少しここで頑張ってみます。子供たちと一緒に。」
「ええ。先生のいる学校は、きっといい学校になりますよ。」
「あの日、かけていただいた言葉。一生忘れません。」
夢を捨てかけた若い教師は、もう一度教壇に立っていた。その目には、かつての無力な涙ではない、静かな光が宿っている。日向も、変わらずあの学校に通っている。あの一件を乗り越えて、少しだけ強くなった。今では、教室の隅で一人でいる子に、真っ先に声をかける側になっている。
「大丈夫?一緒に遊ぼう。」
困っている人に手を差し伸べる。それは、いつか父が自転車の上で教えてくれたことだった。
一方、戦国龍一は、引き取った息子の蓮と、二人きりの暮らしを始めていた。だが、仕事ばかりで家庭を顧みなかった父と子の間には、まだ埋まらない距離があった。ある休日、蓮がぽつりと言った。
「ねえ、パパ。僕、日向ちゃんみたいに、パパと一緒に自転車に乗りたい。」
龍一は、しばらく言葉が出てこなかった。ゲームも、おもちゃも、ブランドの服も。欲しがるものは何でも与えてきた。だが、この子が本当に欲しかったものは、そんなものではなかったのだ。龍一は身を捨てた。蓮を、ごく普通の公立の小学校へ移す。そして、一台の中古の自転車を買った。蓮を後ろに乗せ、ぎこちなくペダルをこぐ。背中で弾ける、蓮の笑い声。それは、龍一がこれまでの人生で一度も聞いたことのない音だった。
そして、あるよく晴れた休日。近所の公園に、二台の自転車が並んでいた。私立の制服の日向と、公立に移った蓮。学校は違っても、二人はすっかり仲良しだ。
「蓮君、こっち。競争しよう。」
「待ってよ、日向ちゃん。」
子供たちの笑い声が、青い空に響く。少し離れたベンチでは、修三と龍一が並んで、その姿を見守っていた。
「霧谷さん。私は、本当に…」
「今、こうやって向き合えてることは、立派ですよ。」
修三は、眩しそうに日向を見た。お金でも、肩書きでも、土地でもない。ここに胸を張って見せられる、親の背中。それだけが、何より尊いものだ。風が二人の頬を撫でていく。過ぎていく。この今日という日も、二度とは戻らない、掛け替えのない一日。だからこそ、と修三は思う。隣で笑う、大切な人たちの姿を、しっかりと目に焼きつけておこう、と。



