「時計の一本で、お前の家柄は決まるんだよ」—…

「時計の一本で、お前の家柄は決まるんだよ」—...

「俺と結婚したいよな」

休日の昼下がり、付き合って四年になる彼女・莉乃の部屋で、大雅は唐突にそんな言葉を落とした。莉乃はスマホから顔を上げ、目を丸くする。

「へ、何それ? もしかしてプロポーズ? こっちが緊張してるのに、ふざけてるの? 」

「するなら真面目にしてほしい。俺は結婚したいし、別にいいんだけどさ。」

「じゃあ何が問題なの?

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「うちの母さんがなんて言うかなと思って。まだお会いしたことないけど、そんなに厳しい方なの? 」

「どうかな。莉乃の実家って農家だよな。」

「うん、そうだよ。」

「実家が農家のお前と結婚とか、親が認めるわけないと思うんだよね」

沈黙が落ちた。莉乃の顔から表情が消える。

「えっと、ごめん。意味が分からないんだけど」

「あー、簡単に言うと…うちの母親は社長じゃん。うん。だから結婚相手の家柄には厳しいんだよね」

「そう言われても、うちが農家なことはどうしようもない」

「分かってる。だから母さんに認められたら結婚してやるよ。来週、時間を作ってもらうから、親を連れて来い」

莉乃は深く息を吸い込み、静かな声で言った。

「いや、その言い方も引っかかるし、別に無理して結婚の許可をいただかなくても大丈夫です」

「はあ? 」

「今ので将来が見えたわ。私はあなたたち家族から、今後もずっと農家の娘だと見下されるんでしょ? そんな結婚はしたくないの」

「何言ってんの?

俺ら何年付き合ってきたと思ってる? 」

「四年だからがっかりしてるのよ。」

「なんでそうなるんだよ! 」

「それに気づかないところもちょっと無理」

大雅は頭を掻きながら、早口で畳みかける。

「親を連れてきて挨拶すれば、結婚の障害はなくなるんだぞ」

「もしそちらのお母さんが認めなかったら? 最初から農家の娘との結婚は認めないんでしょ?

だったらうちの親を連れて行って、わざわざ嫌な思いをさせたくない」

「いや、それはさ、たとえ農家でも、小奇麗にしてたり、いい時計をしてたりしたら、母さんも見直すと思うんだよね」

「何それ? 持ち物で判断するってこと? 悪いけど、そんなもので判断されるのは真っ平御免だわ」

「持ってないなら、俺の時計を貸してやるよ」

「時計一つで決まる結婚なら、しなくていいよ」

大雅はようやく自分が大きく間違えたことに気づいたようだった。

「分かった。謝る。俺が悪かった。調子に乗りすぎたかもしれない」

「もういいよ」

「いや、だめだ。確かに莉乃の言う通りだよ。親なんて関係ないよな。俺らの気持ちが大事なのに」

「本当にそう思ってる? 」

「もちろんだよ。どうしても莉乃と結婚したいんだ。でも、そのためにはご両親とうちの親を合わせてほしい」

「私、まだプロポーズもされてないんだけど」

「それはおいおいちゃんとやるから。こんなことで、今二人の関係が終わるのは嫌だ」

莉乃はしばらく黙って彼の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「そこまで言ってくれるなら、分かった。本当に、父と母に聞いてみる」

「ありがとう。俺も母さんにちゃんと釘を刺しておくから」

大雅との電話を切った後、莉乃は両親に話を通した。父は「そんな男、やめとけ」とは言わなかったが、浮かない顔をしていた。母は「一度会うくらいなら」とだけ言った。

当日、莉乃の両親は普段着のまま、大雅の母親・明美が経営する都内の高級和食店に向かった。明美は着物を着飾り、応接室で足を組んで待っていた。

「あなたが莉乃さんね。よくもあんな田舎丸出しの父親を、我が家に連れてこれたわね」

莉乃は一瞬言葉を失ったが、それでも挨拶をした。

「お母さん、昨日はお時間をいただき、ありがとうございました」

「まだあんたの母になったわけじゃないのよ。気安く呼ばないで欲しいわ」

「すみません」

「いかにも農家の親父って感じだったわね。母親の方も見すぼらしいこと、この上ないって感じ。底辺一家とか、笑えるわ」

莉乃の手がわずかに震えていたが、それでも声は落ち着いていた。

「私は大雅さんに言われたので、父を呼んだんですが」

「そうよ。嫁にするには、まず親を見ないとだからね」

「それで、わざわざ呼び寄せておいて、ここまでボロカスに言うのが目的だったんですか?

あなたは」

「別に、正直な感想を言ってるだけでしょ」

莉乃はゆっくりと立ち上がった。

「確かにおっしゃる通りかもしれません。こんなに価値観の合わない家に入るのは、かなりのリスクがあると思いました」

「はあ? 」

「大雅さんには、私の方から結婚をお断りしておきます。あなたの母親のせいで、って言っておきますね」

「ちょっと待ちなさいよ」

「何でしょうか? 」

「息子には、違う理由で断ってちょうだい」

「嘘をつけと? 」

「そうしなさい」

「私、嘘がつけないんですよ。失礼します」

莉乃はそう言い残して、部屋を出た。

数分後、大雅から電話がかかってきた。

「母さんが失礼な態度を取ったのは、悪かったよ…だからって、別れる必要はないだろう」

「あるわよ」

「え?

「あなたはあの席で、一度も私を守ろうとしなかった。それは、娘を侮辱されて腹を立てて席を立ったのは、父と母よ。あなたはただ黙って、自分の母親が言いたい放題言うのを聞いてただけ」

「俺だって、母さんがあそこまで非常識だとは思わなくて…」

「お金を持ってることが、そんなに偉いの? 」

「母さんはそういう考えみたいだけど、俺は違う」

「『実家が農家のお前と結婚とか、親が認めるわけない』って、あなたが言った言葉なんだけど、覚えてる? 」

「言ったっけ? 」

「私はあの瞬間に、この人との結婚はないなと思ったのよ」

「え…じゃあなんで今日来たんだよ?

「私が四年間好きだった人の親が、どんな人なのか確かめたかっただけよ」

「本当にそれだけか? 」

「あとは父の希望よ。じゃあね」

「待ってくれよ! 」

その電話を最後に、莉乃は大雅の連絡先を全てブロックした。

一方、大雅の家では、明美が烈火の如く怒っていた。

「母さんのせいで、莉乃に振られたじゃん! 」

「え、あんなひどいこと、よく言えたよな」

「大雅には言うなって言ったのに」

「はい…や、なんでもない」

「でも、あなただって見下してたわよね」

「そんなことはない!

俺は農家の娘だろうと構わないのに」

「母さんが、相手の親とか家柄にこだわったんだろう」

「あ、そう。じゃあ好きにすればいい」

「振られたんだから、諦めなさい! あんな貧乏臭い家と親戚になったって、何の得もないわよ」

「俺の幸せはどうでもいいのか? 」

「結婚は二人だけのものじゃないのよ。どうせなら、うちの役に立つ結婚相手を連れてきなさい。この役立たず」

大雅はふっと笑ったといった悲しげな顔で、

「なんだよそれ…俺は母さんの仕事の道具じゃない」

「あんただって、最初は同じようなこと言ってたじゃないの」

「…そういう考えをしてる親に育てられたから、それが正しいのかと一瞬思ったよ。でも、間違ってた。失って初めて気づいたんだ」

「若いわねえ。女なんて、腐るほどいるんだから」

「もういいよ…俺は、母さんの会社をやめる」

「はあ? あんたは後継ぎでしょ?

「知らねえよ」

「今度始める新しいプロジェクトは、あんたに任せようと思ってたのよ」

「自分でやってくれ」

「なんてことを言うのよ! あんたみたいなポンコツが、よその会社に行ったところで、何ができると思ってんのよ! 」

「言いたい放題だな…最初っから、息子もその結婚相手も、あんたの駒かよ」

「まあ、あんな性の悪い女と付き合ったせいで、チンピラみたいなことを言うようになっちゃったわね」

「違う。全部、あんたのせいだ」

明美はヒステリックに叫んだ。

「親に向かってなんてこと言うのよ! 父さんが泣きながら会社を大きくしたのは立派だよ…でも俺は、こんな社長についていけない」

「勝手にしなさいよ!

どうせ一人じゃ何もできないくせに、すぐに泣きついてくるに決まってるんだから! 二度と合わないよ! 」

「ああ、もう…あんたなんて産むんじゃなかった! 」

大雅はその言葉を聞いて、静かに言った。

「すごいこと言うんだな… そんな使い物にならないとは思わなかったわ」

「もう何とでも言ってくれ… じゃあな」

大雅は実家を飛び出した。行く当てはなかったが、足は自然と、かつて見下した場所へ向かっていた。

一週間後、莉乃の実家に電話がかかってきた。電話の主は莉乃の父だった。

「莉乃、今ちょっといいか」

「お父さん、どうしたの?

「大雅君とは、別れたんだよな」

「うん」

「今、うちに来てるんだが」

「は? 」

「うちの仕事を手伝いたいと言ってる」

「ちょっと待って…どういうこと? 」

「自分と母親が、何も知らずに馬鹿にした職業が、どれだけ大変なのか経験したい、ってよ」

「何それ? 今更なんだけど」

「母親と縁を切ったらしいぞ」

「え、なんで?

「それはよくわからんが、しばらくは住み込みで働いてもらうことになった」

「なんでよ! やめてよ! 」

「お前も滅多に帰ってこないんだから、いいだろう」

父の言葉に、莉乃はぐっと言葉を詰まらせた。

「私が帰れないのは、お父さんのせいだよね…人と会うのが苦手で、営業は私の仕事でしょ」

「だから手伝ってるのに…帰ってこないなんて言わないでよ」

父は飄々と言った。

「規制する時は連絡しろ。母さんも、ご飯をお代わり三杯もされて、作りがいがあるって喜んでるんだ」

「大雅は少食なんだけど…」

「とんでもないぞう。一日中汗だくで働いてるから、めちゃくちゃ食う」

翌日、莉乃はいてもたってもいられず、実家へ車を走らせた。到着すると、そこには見慣れない姿があった:長靴を履き、汗を流して、真っ黒に日焼けした大雅が、畑で作業をしていた。

「ねえ…なんでうちの実家にいるの」

大雅は鍬を置き、振り返った。日焼けした顔に、少し困ったような笑みが浮かぶ。

「分からない。気がついたら、来てた」

「お母さんの会社、やめたらしいね」

「うん」

「何があったの? 」

大雅は深く息を吸い込み、頭を下げた。

「まず謝罪させてほしい…よりを戻したいとか、そういうのじゃなくて…家柄のこととか、ご実家を見下すような発言をして、本当に申し訳ありませんでした」

「今更言われても…」

「分かってる…許してくれなくていい…ただ…遅すぎるかもしれないけど、間違った価値観になってたんだって、今になって気づいたんだ…別に、それを母親のせいにするつもりもない」

「反省してるのは分かったけど…実家にいることの理由にはなってない」

大雅は真っ直ぐに莉乃を見た。

「俺が見下した農家ってものが、実際にどういう仕事を日々やっていて、その先にどんなものができていくのか…自分の目で確かめたかったんだ」

「小学校で習ったでしょ?

種を植えて、水と肥料やって、育てるのよ」

「そういうことじゃない…そこにどれだけの労力がかかって、苦労があるのかは、体験しないと分からないと思ったんだ」

「悪いけど、私にはパフォーマンスにしか見えない」

「それでも構わない」

「きっと一ヶ月も持たないわよ…夏が来れば暑くて嫌になるし、冬も同じよ」

「そうだな…今は過ごしやすいから、なんてことないけど…その時になってみないと、分からないよな」

「その程度の覚悟で、何を理解できると思ってるの? 」

「分からないけど…やってみたいんだ」

「あなたが居たら、私は実家に帰れないじゃない」

「その時は、教えてくれたら出ていく」

莉乃はため息をつき、頭を振った。

が、次の瞬間、大雅が畑を指さして言った言葉に、足を止めた。

「でもいいご両親だよな…俺、母さんに『役立たず』とか『生まなきゃよかった』って言われて、完全に目が覚めた」

莉乃は無言で、彼の隣に立った。

「…そんなこと言われたの? 」

「まあ、なら言いそうだけど。もういいよ…母さんは、金のことしか考えてない」

莉乃は少し黙ってから、思い出したように口を開いた。

「お母さんって、高級和食店を複数経営してるんだよね」

「うん」

「実は…うちの実家を取引してるみたいなの」

「え? 」

「野菜を下ろしてるお店は十店舗くらいあるんだけど、そのうちの一つだったみたい」

大雅は目を見開いた。

「知らなかった…」

「うちの料理長が、野菜も魚も肉も相当こだわってて…そのおかげで、売上は順調みたいなの」

「父は無農薬にこだわってるからね奏問い合わせが多いのよ」

「あれだけこだわって作ってれば、そりゃ人気も出ると思うわ」

大雅は呟いた。

「やっと…農家の大変さが分かってきた」

「大変どころじゃない…尊い仕事だよ…俺らは当たり前に食卓に並ぶのを口に入れるだけだけど、そこに至るまではとんでもない労力がかかる…ほんの少ししか手伝ってないけど、それでも分かる」

「とりあえず、お父さんと話してみるよ…お母さんのお店の件、知ってたのかどうか」

「分かった…任せる」

その夜、莉乃は父に大雅の実家との取引について尋ねた。

「ねえ、大雅の実家のお店と取引があることを知ってた?

「もちろんだ…俺たちの野菜がどの店に卸されてるかくらい、把握してる」

「私、顔合わせするまで気づかなかった」

「お前に任せる前から取引があったからな…仕方ない」

「でも、お母さんはなぜ気づかなかったの? 」

「俺がやり取りしてるのは、料理長さんだ…生産者へのリスペクトがある、素晴らしい人だよ…お母さんとは、会ったことないんだよね」

「なのになんで分かったの? 」

「ホームページくらい見て、経営者の顔くらい覚えるよ」

莉乃は笑った。

「なるほど…ごめん…営業周り任されてたけど、私まだまだだったわ」

その週、莉乃は実家に居座った。そして、大雅がそこに居ることに、次第に違和感を感じなくなっていた。日々畑仕事に精を出すその姿は、彼女が四年間知っていた男とは別人のように見えた。

ある夜、父がぽつりと話し始めた。

「俺な、あいつの話を、毎晩聞いてるんだ」

「あいつさ、母ちゃんの作った飯を食いながら泣くんだよ…『こんな温かくてうまい飯、食ったことねえ』って」

「そうなの? 」

「五歳くらいで父親がいなくなって、母親が忙しくなったのは仕方なかったんだろうが…毎日、千円札が何枚かテーブルに置いてあったんだとよ」

「え…でも私もご飯くらい作ったことあるけど…泣いたりなんかしなかったよ」

「母ちゃんと、自分の母親を重ねたんじゃねえか…知らねえけどよ」

莉乃は黙った看著真っ黒に焼けた大雅の背中を見つめながら、

「…そっか…そんな話、してくれなかったから」

「大雅は、お前が言うほど悪いやつじゃねえと思うぞ」

「そう…」

「母親の影響で歪んだだけで、ちゃんと自分で修正しようとしてる…そこは、評価してやってもいいんじゃねえか」

莉乃は小さく頷いた。

「…私も、実家を馬鹿にされて、カットしちゃったのはある」

「あいつ、すげえぞ…朝から晩までサボることもないし、弱音も吐かねえんだ」

「すごいね」

「昨日は、酔ってうとうとしながら、お前の名前を呼んでたぞ」

莉乃は顔を赤らめ、黙って湯飲みを手の中で転がしていた。

数日後、大雅が莉乃の実家を訪れてから二週間が経った頃、母・明美が莉乃の実家に現れた。

「先日はどうも」

「どちら様?

」と莉乃の父が玄関に出る。

「リノの父です…ああ、何ですか? 」

「子供ってのは、不思議なもんですね…はい? 」

「親の育てた通りになるかと思いきや、意外とそうでなかったりもする」

「何の話ですか? 」

「お子さんを追い出したそうですね」

「あなたに何の関係があるんです?

「うちで預かってるんですよ」

「ちょっと、何の冗談ですか? …都会生まれ、都会育ちのあの子が、田舎暮らしなんて耐えられるわけがないじゃないですか」

「耐えるどころか、楽しんで畑仕事をしていますよ」

「嘘でしょ? 」

「ここでの生活が楽しいようです」

明美はヒステリックに声を上げた。

「そんなわけがないわ! どうせ気まぐれよ!

「こうやって育てるのに、お金は必要です…でも、あなたはお金しか見ていなかったんじゃないですか? 」

「なぜ、あなたなんかに説教されなきゃならないんです? 」

「説教ではありません…質問です…私は、あの子を愛していました」

「…なのに、見捨てたんですか? 」

「いい年して、言うことを聞かないからですよ」

「我が子が意見を言うのも、許さないんですね…いい加減すねるのはやめて、帰ってきなさいと伝えてください」

「伝えはしますが…どうするかは、本人の意思です」

「警察に言いますよ!

「おお…私たちが連れ去ったとでも言うんですか? …立派な三十歳の男性を」

「ポコでも、一応後継としては必要なの」

「うちとしても、後継として欲しいですな…は子縁でもして、うちを継いでもらおうかと考えていたところです」

「あんたの娘とは、破局したんでしょ? 」

「ですね…でも関係ありません…これは、私と大雅との話ですから」

「うちの子を呼び捨てにするな! 」

「だったら、もっと大事にしろ…ああ、いくつになったって、親から心ない言葉をかけられりゃ、子供は傷つくんだよ…そんな当たり前のことも分かんねえような奴が、母親してんじゃねえって言ってんだ」

明美は唇を噛みしめ、絞り出すように言った。

「…まあ、貧乏な人ね…品のなさには負けるわ…あんたは下品で下劣だ!

莉乃の父は、穏やかな表情のまま言い返した。

「はっそ…あんな素人でよければ、くれてやるわ…私は百歳まで生きて、贅沢三昧な一生を送るのよ! あんたらは、土にまみれていつまでも働いてなさい! 」

「金は、あの世に持っていけないぞ」

「私は持っていけるの! 残念でした!

明美はそう言い捨てて、怒りのままに帰っていった。

翌日、莉乃の父が大雅を台所に呼び、湯飲みを差し出した。

話は、ゆっくりと本題へと向かう。

「大雅は、本気で農業と向き合っている…なんでそこまで入れ込んでんの? 」

「お前も見れば分かるさ」

莉乃は黙っていた。

「まだ会う気になれないの? 」

「…分からない」

「お前は畑仕事は一切やらないだろう…後を継がせるには、大雅しかいないんだ」

「ちょっと待ってよ…私の感情はどうなるの? 」

「元彼として割り切れ」

「でも、もし私たちが結婚するってなったら…兄と妹ってことになって、障害が出ない」

「別に養子縁組しても結婚はできるが…なんでそんな心配をする必要があるんだ?

「いや、別に意味はないし、単なる疑問だけど」

「じゃあ問題ないだろう」

「そうだけどさ…もう勝手に色々話を進めないでよ」

「俺は自分の畑に誇りを持ってる…それを任せられそうな若者が現れたんだ…少しくらい期待したくなる気持ちも、分かってくれよ」

莉乃はため息をつき、窓の外の畑を見た。青空の下、大雅が汗を拭いながら作業している。

「…一度話してみる」

翌日、莉乃は大雅と二人、畑の畦に座って話をした。

「大雅、ここでの生活はどう? 」

「腰が限界だよ」と大雅は笑った。「おじさんにいい整体師を紹介してもらった」

「そっか」

「すごいよな…目が出て、歯が大きくなって、身が締まって…でも俺らが世話しないと、すぐ虫に食われるんだぜ…こんな手のかかる存在、いるかよって感じだわ」

莉乃は隣で、彼が嬉しそうに語る横顔を見つめていた。

「楽しそうだね」

「受け入れてくれた上に、飯と寝るところまで貸してくれて…感謝してもしきれない」

「そうなんだ」

「あ、もしかして帰る予定がある? それだったら俺はホテル取るから、日程を教えてくれ」

「いや、そうじゃないんだけど…」莉乃は少し間を置いて、言った。「…大雅の実家なんだから、気兼ねなく帰れるように…そこはちゃんと気を使わせてもらうから」

大雅は驚いた顔をし、やがてはにかむように笑った。

「ありがとう…本当に、東京には戻らないの? ちょっと体験したいだけなんじゃないの?

「最初は、俺自身がすぐに弱音を吐くかなと思ってたんだ…でも、俺より年上のおじさんとおばさんが頑張ってるのを見て、自分の根性のなさに腹が立ってきてさ」

「確かに、あの二人はすごいよ」

「うん…心から尊敬してる」

莉乃は、小さく頷いた。

「そう言ってもらえると嬉しい…明日、そっちに行くから」

「分かった…ホテル取るよ」

「いや、取らなくていい…父とも、話があるの」

「いいの? もちろん父のお客さんでしょ? 私がどうこう言う立場にないから」

大雅は真剣な顔で頷いた。

「分かった…じゃあ待ってる…気をつけて」

翌日、莉乃は実家に戻り、大雅と父との間で交わされた話を聞いた。大雅は、明美が経営する店舗への野菜の納品を、今後も継続するよう父に頼み込んでいた。料理長が退職すること、父が納品を続けるか迷っていること、大雅が「あの料理長さんには、生産者へのリスペクトがある。俺が間に入って、必ずいい形にしてみせる」と訴えたこと。

莉乃はその話を聞きながら、大雅という人間が、確かに変わってきているのを感じていた。

そして数日後、莉乃は一人、明美の経営する本店を訪れていた。

応接室に通された明美は、相変わらず着物を着飾り、白々しい目を向けた。

「母親失格の明美さん、おはようございます」

「随分な挨拶ね…それ以外の呼び名が思いつかなくて」

「異名なんていらないでしょ…私、忙しいんだけど」

「今回は、ビジネスの話です」

「はあ? あんたに関係ないでしょ」

「私は実家の野菜を飲食店と契約する窓口を任されています…私も気づかなかったのですが、お母さんが都内で経営されている三つの和食屋さんと、契約をさせてもらっています」

明美の顔色が変わる。

「え?

「今月を持ちまして、契約を終了させていただきますね」

「なんで!? 」

「父のポリシーなんです…食材に敬意を持たない経営者とは、絶対に契約してはいけない、って」

「いや、私は関係ないでしょ! 」

「はい…実際にうちの野菜に目をつけてくれたのは、オタクの料理長さんです…その方が退職されるそうなので、オタクと付き合いを継続する理由がありません」

「あいつ、やめるの? 」

「はい…『うちの野菜が使えないなら、最高の味は提供できないので、やる意味がない』と」

明美は嘲笑を浮かべた。

「アホな男ね…野菜なんて、スーパーに売ってあるじゃないの」

「まともに料理もされたことがないようなので、ご存知ないかもしれませんが…こだわった野菜は、味から風味まで、何もかも違います」

「貧乏人の客が気づくわけないわ」

「お客様まで馬鹿にするんですか?

…大したもんです」

「高ければ、それっぽい味がするの…そういうもんなのよ」

莉乃は静かに言い返した。

「お父様が大きくした飲食店がここまで続いたのは、あの料理長さんがいたからだと、大雅が言ってました」

「あの子に何が分かるのよ! 私の経営手腕で、ここまでやってこれたの! 来月には銀座に四店舗目もオープンする予定なんだから! 」

「それは素晴らしいですね…是非、頑張ってください」

「言われなくてもやるわよ!

「そうですか…一応報告しておきますが…大雅は、私の実家で暮らすことになりました」

「そして…私たちは結婚することになりましたので」

明美は、一瞬言葉を失い、やがて金切り声を上げた。

「え? 別れたんじゃなかったの!? 」

「はい…ですが…私の好きな大雅になってたので…もう、迷いはありません」

「許さないわよ! 」

「成人同士の婚姻に、親の許可は不要です…今後は、私の家の苗字を名乗ることになりましたし、農家を継いでくれるそうです」

「はあ!?

ふざけんじゃないわよ! 」

「『生まなきゃよかった』とまで言ったくせに、今更何を言ってるんですか? 」

「あんなの、売り言葉に買い言葉でしょ! 」

「大雅は、何も買ってないと思いますが…まあいいです…あなたの言葉は、もう彼には届かないので」

「どういう意味!?

「電話もLINEも、ブロックしました…完全に縁を切る覚悟をしたんですよ」

明美は、初めて言葉を失った。

「ひどいわ…」

「どっちがですか? …子供の頃から毒にまみれて生きてきたんです…そろそろ、解放してあげてください」

「…なんだかんだ言って、戻ってくると思ったのよ」

「それにしては、ひどい言葉を投げつけすぎましたね…彼は、しっかり傷ついてますから」

莉乃は立ち上がり、最後にこう言い残した。

「今の大雅、すごく素敵ですよ…すっかり解毒して、心も体も健康です…いつか会えるのかしら…無理です…寂しく貧しい老後を覚悟してください」

莉乃が去った後、明美は応接室に一人残され、長い間無言でソファに座り続けていた。

その後の展開は、あっという間だった。

料理長の独立後、明美の店舗は、有力な客からも見放され、売上は三ヶ月で七割も落ち込んだ。銀座への出店の頭金は前払いで没収され、借金は二千万円を超えた。自宅と店舗を担保にしていた借入が払えず、差し押さえを受け、明美は古いアパートで一人暮らしを送っていたという。

大雅は正式に養子となり、莉乃の実家の後を継いだ。

莉乃はその話を父から聞いた時、言葉を失った。が、その知らせよりも何よりも、彼女の心を打ったのは、日々変わりゆく大雅の姿だった。

照り付ける太陽の下、真っ黒に焼けた腕で野菜を収穫するその背中は、かつて都会のオフィスで母親の顔色を窺がっていた男とは、まるで別人のようだった。

先日、明美から莉乃の父宛に手紙が届いた。お金を貸して欲しいという内容だった。父はそれを読み終えると、何も言わずに破り捨て、ゴミ箱に捨てた。

肩書きやお金で人を図っていた人ほど、失った時に何も残らないんだな、と莉乃は思った。そして、大雅を変えたのは、説得でも、理屈でもなかった。土に触れ、汗を流した、その体験そのものだったのだとう。

人を見下した分だけ、自分も同じ目で見られる日が来るものだ。私たちは来週、結婚式を挙げる予定だ。当然、明美さんの席はない。

照り付ける太陽の下、真っ黒に焼けた夫が、過去最高にかっこいいと思っている私である。

ご視聴ありがとうございました。動画の評価とチャンネル登録もよろしくお願いします。また次回の動画でお会いしましょう。