午前十時を回った頃、定営銀行第一支店のロビーに、古びた鞄を抱えた老人が静かに足を踏み入れた。皺の深い顔、くたびれた上着、磨り減った靴。新人の窓口担当・篠崎水希は、そんな神郎の姿を見ても、いつも通り深く頭を下げた。
「様、本日もお越しいただきありがとうございます」
その一言が、藤堂課長代理の逆鱗に触れた。藤堂は以前から、貧相な身なりの神郎を「低所得の老人客」と見下し、窓口対応を後回しにするよう水希に指示していた。しかし水希は、その指示に従わなかったのだ。
「篠崎さん、あなたは新人の分際で、私の指示に従わないのですか」
藤堂の声は低く、しかしロビーに響いた。水希が反論する間もなく、藤堂は同期の神崎蒼太に目配せした。神崎は以前から、支店内の写真や客の姿をSNSに投稿する趣味を持っていた。藤堂はその裏アカウントの存在を知った上で、今この場で切り札として使おうとしている。
「神崎君、明日は本店会議で店長が不在だ。その間に篠崎の本人面談を済ませる。立ち合い人を頼む」
「マジっすか? 了解です。エリート課長代理の右腕として、しっかり締め上げますよ」
藤堂は左手で業績資料を掲げながら、さらに続けた。
「業績資料は私の方で揃えておく。本店人事部に上げれば、配置換えは確実だ。それと、例の老人客の件、何か後から問い合わせが来た場合は、全て篠崎の窓口対応の不備だったということで揃えておけ」
「ああ、そっか。あの貧乏じじいの件も篠崎のせいにしとけば、課長代理は無傷っすね」
「当然だ」
電話を切ると、藤堂の口元に薄い笑みが浮かんだ。新人の女一人を切り捨てれば、全てが丸く収まる。藤堂はそう信じて疑わなかった。
翌朝、支店の空気はこれまでとは違う張り詰めた色を帯びていた。本店月会議で大沢店長は朝から不在。窓口運営の采配は藤堂が握っていた。通勤バッグを置いた水希の手がわずかに震えている。昨夜、自分自身に誓った覚悟が、今試されようとしている。
その時、回転扉の事務室で神崎の携帯に立て続けに着信音が響いた。何気なく画面を見た神崎の顔が、みるみる青ざめていく。
「あ、あれ? 嘘でしょ?」
「神崎君、どうした?」
「やばいです、課長代理。俺の裏垢、特定されました」
藤堂は神崎の手から携帯をひったくった。タイムラインには、神崎が投稿していた支店内の写真と、客を罵る言葉が何百件ものリツイートと共に並んでいる。コメント欄には、すでに支点名と神崎の本名らしき情報が書き込まれ始めていた。
「バカ者。顧客情報の流出だ。店内の備品配置から、うちの支店だと特定されているじゃないか」
「す、すみません。課長代理、でもこれ全部、俺一人でやったことで」
「当たり前だ。私が指示した記憶など一切ないぞ。業務改善の議論とSNS流出を一括りにするな」
藤堂の口元に冷たい笑みが戻った。
「いいか神崎。これはお前の独断専行だ。それから、同期の篠崎がお前を止められなかった教育不届きが真の原因だ。そういう筋書きで上申書に書き加えておく」
神崎の脳裏に一瞬、あの日の光景が蘇った。両手で自分の手首を掴み、必死に投稿を止めようとした水希の顔――しかし神崎はその記憶を奥歯で噛みつぶした。
「そうっすね。全部篠崎が悪い。あいつが俺を止めてくれなかったから」
こびるような笑顔の裏で、神崎は自分が今嘘をついたことを痛いほど自覚していた。通路の影で立ち止まった水希の耳に、その会話の断片が届いていた。水希は両手を強く握りしめた。
その時、自動扉が開く音が響いた。古びた鞄を抱えた神郎が支店へ足を踏み入れる。通路から戻ろうとしていた水希の足が一瞬止まった。あの方だ。
神郎は藤堂と神崎には目もくれず、一直線に水希の窓口へと歩み寄った。
「様、本日もお越しいただきありがとうございます。私の力不足でご不快なお気持ちにさせてしまい、申し訳ございませんでした」
「君が謝ることは何もない」
藤堂と神崎が薄笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「クオン様、他の銀行へのお手続きなら、本日もどうぞどうぞ」
神崎の嘲笑に、藤堂も肩を揺らして吹き出した。ロビーが息を飲んだように静まり返った。
神郎は古びた鞄をゆっくりとカウンターの上に置き、低く落ち着いた声で告げた。
「では、そうさせてもらおう」
神崎の笑みが一瞬だけ止まった。神郎がその言葉を口にした直後、支店内のどこかで電子音が小さく鳴った。
ピン。短く済んだ音。5秒後、もう一度ピン。さらに5秒後、ピン。
業務端末の画面に、入金通知が次々と映し出されていく。100万、500万、1000万、3000万、5000万、1億。容赦なく桁が膨れ上がっていく。全て他行からの振り込みだった。
「待て、これ、どれもうちの大口口座だ」
藤堂が画面を覗き込んだ瞬間、その表情が固まった。クオン神郎。クオンホールディングス株式会社。クオン不動産、クオン流通サービス、クオンフードチェーン。経済誌の見出しでしか目にしない大企業群の名前が、画面いっぱいに並んでいた。水希の目も、自分の窓口の端末画面に釘付けになっていく。
クオンホールディングス。地元商工会の広報誌で何度か目にした名前。県内最大の食品流通グループ。その会長が、毎月のように、あの穏やかな老紳士が――
「クオン様が、まさか」
水希は思わず両手で口を覆った。神崎の顔が一気に青ざめていく。
その時、ロビーの電話がけたましく鳴り響いた。受付の公引が震える手で受話器を取り、藤堂に差し出す。
「課長代理、遠取からです」
遠取から――藤堂が受話器を耳に当てた瞬間、相手の怒声が漏れ聞こえてきた。
「藤堂、今誰を相手にしているか分かっているのか? 私はこちらで向かっている。全ての記録を保全しておけ」
「え? あ、はい」
電話が切れた。藤堂の手から受話器が滑り落ちる。
神郎は表情を変えず、鞄から一枚の名刺をカウンターの上に置いた。『クオンホールディングス株式会社 代表取締役会長 クオンカザブロ』
「ご希望通り、他の銀行への切り替えを進めてもらっている。クオンホールディングス全会社の口座も、私個人の預金も、全て別の銀行へ移すつもりだ」
「お、お待ちください。クオン様。これは何かの行き違いかと」
「行き違いではない。私は正式に、銀行を変えるつもりで来ている」
藤堂は返す言葉を見つけられなかった。
「様、もしかして最初から、こうなることを――」
「いや。こうなる前に君たちが気づいてくれることを願っていた。残念ながら、間に合わなかった。それだけだ」
支店のスピーカーから、天井の放送が流れる。クオンホールディングスグループ全社並びにクオンカザブロ名義の個人口座、同行との取引契約解除の届け出を、本店が正式に受理した――という内容だった。ロビーの若手行員が思わず口を抑える。
「当店の本年度業績見通しは、たった今、そこまで吹き飛んだ」
「ま、待って。違います。これは俺のせいじゃ――」
「神崎、お前が貧乏なじいさんだなどと軽々しく口にしたから、こうなったんだ」
「いや、課長代理が振り分けの判断を全部指示していたじゃないですか」
「お、お前、逆らうのか」
責任の押し付け合いが、ロビーに響き渡る。神郎は二人を見ようともしなかった。
「篠崎さん、明日からも誇りを持って、この窓口に座っていなさい。君の正しさは、この私が証明する」
「クオン様――」
神郎は鞄をゆっくりと閉じた。窓口の中で、水希の目から涙がぽろりとこぼれ落ちる。もう誰も笑ってはいなかった。
直後、自動扉が勢いよく開いた。
「申し訳ございません。遅くなりました」
ロビーに駆け込んできたのは、本店月会議に出席していたはずの大沢孝志店長だった。会議の途中で本店から緊急連絡を受け、座してタクシーで駆けつけてきたのだ。大沢はその場に膝をつき、深く頭を下げた。
「会長、本当に本当に申し訳ございませんでした。窓口運営を藤堂課長代理に任せきりにしていた、私の責任です」
「大沢君、久しぶりだな。君が若かった時代に、地元の小さな工場への融資を、頭取の反対を押し切って通してくれた。その出来事を、私は今でも覚えている」
「会長……」
大沢の口元がわずかに震えた。同じ支店にいながら、一人だけ神郎に温かく迎えられている大沢の姿を、藤堂と神崎は信じられない思いで見つめていた。
その時、支店の前に黒塗りの高級車が滑り込むように止まった。降り立ったのは、銀髪に白い口髭を整えた紳士。定営銀行の頭取・ハ義明だった。本店から駆けつけたまま、ネクタイの緩みも直さずにロビーへ飛び込んできた。
「会長、本当に本当に申し訳ございません」
頭取はそのままロビーの中央で深々と頭を下げた。銀行のトップである頭取のその姿勢に、藤堂と神崎の表情が完全に凍りついた。
ちょうどその時、ロビーの柱時計が十時を告げた。自動扉が再び静かに開き、グレーのスーツに身を包んだ秘書がロビーに足を踏み入れる。
「会長、お迎えに参りました。十時きっかりでございます」
その一言で、ロビーの空気が変わった。全ては神郎の事前の指示通りに進んでいた。神崎の手から業務端末が滑り落ち、乾いた音を立てる。
「クオン会長、何か誤解があるかと。私は現場の混乱を納めようとしただけで――」
藤堂の額から油汗が滝のように流れ落ちる。神郎は視線を藤堂に移した。
「現場の混乱を作ったのは、君だ。客の振り分けに私的なラベルをつけ、新人の篠崎さんに責任を押し付けようとした。その上、支店員のSNSの問題まで、彼女のせいにしようとした」
「い、いえ、これは――」
「藤堂君に言っておく。本店で保全した支店内の防犯カメラ映像と、神崎行員のSNS投稿履歴。そこには、篠崎水希行員が神崎行員の投稿を体を張って止めようとしていた場面が、はっきりと記録されている」
藤堂の顔がみるみる青ざめていく。
「篠崎行員は新人として、止めるべきものを止めようとしていた。それを『教育不届き』と書き換えて上申書に上げる。その筋書きを、私は許さない」
神崎の顔が青ざめた。
「嘘で塗り固めた筋書きで、新人の若い行員さんを貶めている。それが君たちの『業務改善』だったのか」
藤堂は返す言葉を見つけられなかった。
「藤堂、今お前が口を開くたびに、この銀行の信用が失われていくんだ。黙りなさい」
ロビーの隅で様子を見ていた行員たちから、小さく息を吐く音が漏れた。
神郎はゆっくりと神崎と藤堂を見た。
「私も若い頃は、何度も見下されてきた。この鞄も、古い上着も、長い間一緒に働いてきた大事なものだ。見た目だけで人を判断する人間に、本当の信用は築けない。金はな、使ってこそ意味がある。そして、何を目的として使うかが重要なのだ。人の価値を決めるためのものじゃない」
ロビーは水を打ったように静まり返っていた。
「会長のお言葉で、銀行として一番大切なことを改めて思い出しました。立場の強いものに流されれば、判断を誤ることもあります。本日あったことを、どうか忘れないでください」
ハ義明の声に、ロビーにいた全員が深く頭を下げた。
「会長、お願いします。もう一度だけ、私にチャンスを」
藤堂は声を震わせながら、必死に言葉を続ける。神崎も青ざめた顔のまま、床に手をついて頭を下げた。
「会長、すみませんでした。俺、ただフォロワーが欲しくて――」
神郎は二人を黙って見つめていた。やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「君たちは、途中で人を見下すのをやめることもできたはずだ。改善する時間も十分にあった。しかし、何も変わらなかった。傲慢な行員のままだ。君たちのような行員がいたのでは、この支店に未来はないよ」
「そ、そんな……」
その言葉に、藤堂と神崎は何も反論できなかった。神郎は窓口の中で立ち尽くす水希へ、ゆっくりと歩み寄った。
「篠崎さん」
「はい」
「君は何も間違っていなかった。今日のことを、生涯誇りに思いなさい」
「会長……」
「君のような行員さんがいてくれて、私は救われたよ。その当たり前のことができない人間も、多いのだよ」
「会長、ありがとうございます」
水希の喉の奥がぐっと詰まった。涙が堰を切ったように溢れ出す。
ロビーの隅で見守っていた行員たちが、誰からともなく深く頭を下げた。窓口で立ち尽くす新人行員に向かって、支店中の頭が一斉に下がっていった。
「篠崎さん、今日のことは本店も含め、必ず正式に評価させていただく」
「うむ。では、私はこれで失礼する」
神郎は鞄を抱え直した。秘書がロビーの扉の前で静かに頭を下げて待っていた。外に出ると、午前の柔らかな光が街並みを淡く染めていた。神郎は鞄を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。
事件からわずか数時間後、大手地方銀行・定営銀行第一支店の新人行員によるSNS顧客情報流出事件として、全国のニュースが一斉に報じた。SNSでは神崎の本名、出身大学、実家の住所までもが特定され、さらされていった。地元有力者として知られた神崎の父親は、その夜のうちに地域の役職という役職すべてから辞任を申し出た。長年築き上げてきた家の信用は、息子のたった一日の所行で地に落ちた。
神崎の自宅には、翌日から報道陣と嫌がらせの電話が鳴り続けた。翌朝、本店人事部から神崎蒼太の懲戒解雇が通知された。同日、クオンホールディングス法務部より、肖像権・名誉毀損・個人情報保護法違反の疑いで刑事告訴、さらに信用毀損による民事訴訟も提起された。
「お前は本当に、何てことをしてくれたんだ」
「お父さん、ごめんなさい。お父さん……」
父親はもう、息子の言葉に答えなかった。金融業界はもちろん、どの業界も神崎の名前を採用するものはいなかった。23歳の未来が、たった一日で完全に閉ざされた。藤堂の末路も、神崎と同じく容赦なく訪れた。
当初、藤堂への処分は三階級降格とされたが、調査が進むにつれて客の振り分けや水希への責任転嫁の画策が業務端末の操作ログから明るみに出た。頭取は藤堂への処分を即日、懲戒解雇に変更した。不正並びに業務上の重大な背信行為、その認定だった。クオンホールディングス法務部は、信用毀損による損害賠償請求訴訟を正式に提起した。請求額は、グループ全社が他行へ口座を移したことで生じた事務処理コストを含めて、億単位に上るとされた。藤堂の卒業した大学の同窓会は、藤堂の名前を会員名簿から除名した。エリートのコミュニティは、落ちた一人を容赦なく切り捨てた。
その夜、藤堂の自宅には妻からの一通の手紙が置かれていた。中には署名済みの離婚届と、子供を連れて実家に戻るとの短い書き置きが記されていた。
「私のキャリアが、家族が……」
帰ってくる声は、もう誰からもなかった。33歳のエリートは、たった一日で全てを失った。
事件の波紋は、神崎と藤堂二人だけで終わらなかった。翌週、金融庁による定営銀行への立ち入り検査が正式に発表された。クオンホールディングスのメインバンク変更を受けて、関連企業や他の大口顧客も次々と他行への口座移動を申し出る連鎖解約が起きた。定営銀行の株価は、事件発覚から三日で過去五年で最大の下落幅を記録。頭取は引責辞任を自ら申し出た。第一支店の存続そのものが危ぶまれる事態となった。
それでも、支店の窓口で水希はいつもと変わらず、目の前のお客様一人ひとりに深く頭を下げていた。
事件から数日後、クオンホールディングス本社・会長室。神郎は机の上に広げた一枚の書類に視線を落としていた。地域に根差して五十年。多くの家族の生活を支えてきた支店。窓の外には、一週間前と変わらない町の景色が広がっていた。
「会長、第一支店の存続が正式に俎上に上がっているとのことです」
「篠崎さんは、今日も窓口に立っているそうだな」
「はい。変わらず誠実に、お客様に向き合っておられるとのことです」
神郎はしばし目を閉じた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「潰すわけにはいかんな」
「と言いますと?」
「グループの関連企業のうちいくつかは、第一支店に口座を戻す。正しい条件付きだ」
「どのような条件ですか?」
「行員教育の徹底、シニア顧客対応の専門部署の設置。そして、篠崎さんをその中心に据えること」
「会長、それはあの新人の行員さんを、ですか?」
「あの場でたった一人、誠実に向き合ってくれた行員だ。彼女の見ているものを、銀行全体が学ぶべきだ」
倉持はしばらく神郎の顔を見つめてから、深く頭を下げた。
「承知いたしました。会長のご決断、確かに受け承まりました」
神郎は机の引き出しから一枚のペンを取り出した。
「それと、私財を投じて財団を一つ立ち上げる。シニアと若手行員の橋渡しをする組織だ。準備を進めてくれ」
「会長、その財団の名前は、いかがいたしましょうか?」
「クオン触れ合い財団、としよう。私が若い頃に教わった、人と人との触れ合いの大切さ。それを次の世代に繋ぐ場にしたい」
「素晴らしいお名前でございます」
神郎はゆっくりと頷いた。窓の外の明かりが、夕闇の中で静かに瞬き始めていた。
季節が一つ巡った。本店の研修期間を経て、篠崎水希はクオンホールディングス本社内に新設された『クオンフレアイ財団』の窓口担当として、新たな勤務先での配属を受けた。財団の最初の事業として、定営銀行との共同によるシニア顧客対応研修プログラムが立ち上がった。引責辞任を経て頭取の座を退いた後のハ義明は、自ら理事の一人として現場視察を欠かさなかった。
第一支店の窓口は、すっかり様変わりしていた。本店に異動した大沢の後任には、若手の女性支店長が着任し、ロビーには『人への敬意を忘れない』と書かれた神郎の書が飾られている。水希の母・千恵の入院費用は財団の医療支援基金から月々の補填が始まり、弟の学費にも奨学金の補助が手配された。
ある秋の日、水希は久しぶりに母の病室を訪れた。窓辺の花瓶では、淡いピンクのコスモスが控えめに揺れている。ベッドに半身を起こした千恵が、痩せた手で水希の手を握った。
「水希、新しいお仕事はどう?」
「うん。お母さんがずっと教えてくれた『誠実でいなさい』っていう言葉。それを後輩の行員さんたちに伝えていく仕事なの」
千恵の目に、ゆっくりと涙が滲んだ。
「水希、ちゃんと覚えていてくれたのね」
千恵は痩せた手で水希の頬をそっと撫でた。
「うん。お母さんのおかげだよ。ありがとう」
「あなたは、私の誇りよ」
母の手を握る水希の指先に、もう震えはなかった。
その秋の日の午後、財団の小さな応接室で水希は神郎に深く頭を下げた。
「会長、私はこれから、何をお返しすればよろしいのでしょうか?」
「お返しなどいらんよ。君は君のところに来てくださるお客様に、誠実な親切をこれからも続けてくれればいい」
「はい。一人ひとりのお客様に、誠実に向き合ってまいります」
「君のような行員さんが、これからの銀行を支えていてくれる。そう思えば、明日が来るのが楽しみで仕方ないよ」
「会長、まだまだご活躍ください。私たちがしっかり学ばせていただきますから」
穏やかな秋の午後。水希は今日も、目の前のお客様一人ひとりに、変わらず誠実に接していた。
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