朝の光が古い一軒家の畳を撫でていく。仏壇の前に座った白髪の男が、線香に火をつけて静かに語りかけた。
「総一郎さん、今年であんたの会社は50年だ。早いもんだなあ。中卒の18で、行き場のなかった俺を拾って、飯を食わせて、仕事を教えてくれた。あんたがいなけりゃ、俺は今頃どこで野垂れ死んでたか分からん」
男の名は大子。68歳。水冷建設の現場管理員だ。質素な部屋に贅沢な品はひとつもないが、棚には50年分の現場の写真が所狭しと並んでいる。写真の男はシーナ総一郎。人の名友にして、水冷建設の創業者だった。当時の総一郎は駆け出しの若い一人方。その仕事場に転がり込んだのが、18の大子だった。やがて弟子は右腕となり、二人で育てた水冷建設は50年かけて地元一番の建設会社に育っていった。
「あんたの口癖、覚えてるか?『腕は嘘をつかない』。俺はその言葉ひとつで50年やってこれた。だがなあ、総一郎さん、俺はまだあんたに謝れてない。あの夜、間に合わなかったことをな」
3年前のあの夜、病室からかかってきた最後の電話で、総一郎はかれた声でこう言った。
「大子、もし会社が人を粗末にし始めたら、現場を、若い奴らを見てやってくれ」
「何を言ってる?そんな話は退院してから、酒でも飲みながら聞くさ」
大子はそう言って電話を切った。それが最後だった。翌朝、総一郎は静かに息を引き取っていた。葬式の後、弁護士から一通の遺書が手渡された。そこには短い一文だけが書かれていた。
「会社が人を粗末にし始めたら、現場を見てやってくれ」
あれから3年。水冷建設は変わった。創業者がいなくなった会社は、数字ばかりを追いかけるようになった。現場の安全を軽視し、若い職人をこき使い、ベテランの意見を無視する。大子は朝から晩まで現場を回り、若い奴らの面倒を見た。だが、限界が来た。
ある日、安全確認を怠った現場で、若い職人が足を滑らせて怪我をした。幸い命に別状はなかったが、大子は怒りで震えた。
「誰がこの足場を組んだ?こんなチェックもしてない足場で、どうして仕事をさせたんだ!」
現場の班長はうつむいたまま言った。「部長の指示だ。工期が遅れてるから、早急にやれって」
大子は歯を食いしばった。総一郎さんの会社は、こんなんじゃなかった。あの人はいつも『腕は嘘をつかない』って言って、安全を何より大事にしてた。それなのに、今の経営陣は人を粗末にし始めている。総一郎さんの遺言が、胸の中で重く響いた。
だが、大子は現場監督に過ぎない。会社の決定を覆す権限はない。現場の若い奴らを守るためには、上をどうにかするしかなかった。
そして、迎えた社員旅行の日。誰も来ない宿で朝から待ちぼけを食わされた。大子は温泉宿の静かな離れで、湯呑みを置いて息を吐いた。そこへ、部長の電話がかかってきた。
「大子さん、誰も来ない宿で朝から待ちぼけでしたか。社員旅行は明日だよ。中卒のお前にドッキリです」
スピーカーから響く部長の下卑た笑い声。大子は静かに答えた。「もう社長と一緒にいますが。社長は海外出張だぞ。妄想も休み休み言え。あんたの席なんぞ、最初からねえんだよ」
その時、大子の隣にいた背の高い紳士が電話口へ静かに告げた。「私ならここにいるよ。桜井君」
「は、し、社長?う、嘘だろ。なんで出張じゃ…」
大子の隣で電話を引き取った紳士こそ、海外出張中のはずの社長、桜井その人だった。大子は何も言わずに立ち上がった。社長が来るのは知っていた。いや、大子が呼んだのだ。
「総一郎さんは、会社が人を粗末にし始めたら、現場を見ろって言ってた。だから、俺は社長に現場を見てもらった。そして、あんたが現場で何してるかも、全部見せた」
社長は静かに電話を切った。その顔には、笑みはなかった。大子は言った。「社長。俺は中卒の現場管理員です。だが、こんな会社にしたくねえ。総一郎さんが育てた会社を、誰かの玩具にさせたくねえんだ」
「…分かった。今日から現場を見直す。全部やり直す。総一郎さんの会社に戻す」
社長はそう言って、深く頭を下げた。大子は線香の火を消して、静かに立ち上がった。窓の外では、新しい朝の光が射していた。大子は小さく呟いた。「総一郎さん、俺、やってやったぜ。あんたの遺言、ちゃんと果たしたよ」
社員旅行は、翌日に延期された。そして、水冷建設は少しずつ、昔の姿を取り戻していった。大子は今日も現場に立っている。若い職人たちに、同じ言葉をかける。「腕は嘘をつかない。しっかりやれよ」と。
総一郎さんの遺言は、会社を救った。そして、大子の50年の忠義が、それを可能にしたのだ。



