雨の日、大雪の間に響き渡る怒声。磨き上げられたグランドピアノの前で、若い運転手が立ち尽くしていた。
「申し訳ありません。でも、触ってはいませんので」
「同じことだ。お前のような者が近づいていいものではない」
だが、家の春は許さなかった。大股で部屋を横切り、運転手の腕を掴んで引き剥がす。
「本当に申し訳ございません。お暇いたします。今日限りで」
「首だ。当然だ。約束を破った」
一礼して都口へ向かおうとしたその時だった。
「待って」
矢主の娘がその前に立ちふさがり、父に向き直った。
「お父さん、聞いて。この人はね――」
「なんだと?まさか、ありえない」
誰も引かないのに毎日磨かれ、調律されるピアノ。この後、ただの運転手にその封印は破られてしまうことになる。やがてこの家に鳴るはずのない音が鳴る。たった1曲が会長一家を慄然とさせ、閉じ込められていた長い歳月が動き出す。見下された運転士の指先が、全ての謎を解く鍵だった。
人生劇場。
朝5時半。築40年のアパートの台所に味噌汁の匂いが立っていた。田村金出、30歳。都内の運転手派遣会社に勤めて今年で12年になる。
「ばあちゃん、味噌汁は俺が見るから、座ってなよ」
「いいの?あんたのお弁当だけは私の仕事」
田村義子、78歳。小柄な背中を丸めて卵焼きを巻いている。金の育ての親であり、たった1人の家族だった。
「膝、まだ痛むんだろう」
「もう治ったから、大丈夫」
嘘だと金は思う。夕べ、一人で痛さに耐えているのを見ていた。早く楽をさせてやらないと。
高校を出る時、進学の話も出た。成績は悪くなく、担任は惜しがった。だが家計を知っている金は、求人表の中から一番給料のいい道を選んだ。運転手派遣の会社に入り、21歳で2種免許を取ってからも無事故無違反を通してきた。引き継いだ先が役員送迎の専属運転手だった。
会社での評判は少し変わっている。
「俺さ、田辺に雑談したこと一度もねえんだけど」
「ああ、俺も挨拶と引き継ぎの連絡だけ。多分、お客さんともあんまり喋ってないんじゃねえの」
「そんで指名は営業所で一番。なんかすげえよな」
車内で自分から話しかけない。聞かれれば短く答える。堀際の客に「次も君がいい」と言われても、金は理由が分からず頭を下げるだけの男だった。
その金にある朝、署長が声をかけた。
「明情ホールディングスの会長付きが空いた。先方のご指名。いや、指名というか、何というか……『お宅で一番口の硬いのをよこしてくれ』とさ」
橋谷川誠一郎。新聞の経済面でしか見たことのない財界の重鎮だった。
引き継ぎの日、定年を迎える先代の運転手は車の鍵を渡しながら妙なことを言った。
「いいか、田村君。あの家ではな、見ない、聞かない、触らない。それさえ守れば、悪い家じゃない」
「触らない?」
「そうだ。そのうち分かる。いや、分からんままの方が幸せかもしれんな」
翌日、金は初めて長谷川の門をくぐった。手入れの行き届いた庭、磨き込まれた車寄せ、そしてこれだけの豪邸に人の気配の音が一つもしない。車の脇で待っていると、玄関から若い女性が出てきた。
「あの、新しい運転士さんですね。娘の美です。父がその、気難しい人に見えるかもしれないんですけど、よろしくお願いします」
「はい」
美は小さく会釈して玄関へ戻っていった。その日の帰り道、バックミラーの中で遠ざかる屋敷を、金はもう一度だけ見た。大きな窓の奥で、夫人らしき人影が黒く大きな何かを拭いている。昨日も今日も、おそらくは明日も、毎日磨かれ続けている。それが何なのか、金はまだ知らない。
会長付きの仕事は、ハンコで押したように始まった。朝7時50分に前に車をつける。8時ちょうどに玄関が開き、誠一郎が出てくる。脳裏のスーツに撫でつけた白髪。63歳という年齢を感じさせない切れ者だった。
「出してくれ」
「はい」
車内で誠一郎が口を開くことはほとんどない。だが行き先を告げる声は明瞭で、金の運転に注文をつけたことも一度もなかった。
「悪い家じゃない。先代の言った通りだ」
見送りには毎朝必ず妻が立つ。
「あなた、今日はお薬よ」
「分かっている」
「もう分かってらっしゃらないから、鞄に入れておきましたよ」
「やれやれ。お前には敵わんな」
ミラー越しに見える老夫婦は穏やかで仲が良かった。
ある雨の日、金は初めて屋敷の中に入った。届いた美術品の木箱を大雪の間に運ぶ手伝いを頼まれたのだ。言われた場所に箱を置き、頭を下げて下がろうとした時、それが目に入った。グランドピアノだった。窓越しに見えていた黒い影の正体。大雪の間の奥の一番いい場所にそれは鎮座していた。黒い塗装は鏡のように磨き上げられ、指紋一つない。だが妙だった。譜面台には楽譜が一冊もない。鍵盤の蓋は硬く閉じられたままだった。遠目には昨日届いたばかりの新品のようにさえ見えた。
「あら、ご苦労様です」
いつの間にか妻が立っていた。手には白い布。
「もう古いものなんですけどね。誇りだけはどうしても許せなくて」
「失礼します」
何も聞かない。引き継ぎの時の約束を金は守った。大雪の間を出て廊下を歩きながら、金は見てはいけないものを見た気がしていた。
「詮索はしないでおこう。自分はただの雇われ運転手だ。この家の事情に立ち入る立場ではない」
金は昔からそうやって一歩引いて生きてきた。踏み込まなければ傷つくことも傷つけることもない。あの時の言葉が今になって腑に落ちた。見ない、聞かない、触らない。きっとそれはこの家族へのせめてもの礼儀なのだ。
その後も妙なことは続いた。大雪の前を通る時、誠一郎は決してピアノの方を見ない。あれほど仲のいい夫婦が、ピアノに関わる話になった途端、申し合わせたように黙り込む。一度だけ、美が大雪の間の掃除を手伝おうとして断られているのを見た。
「ここはいいの。お母さんの仕事だから」
「はい」
慣れた調子で引き下がる美は、それを不思議とも思っていないようだった。
決定的だったのは来客のあった日だ。玄関ホールで帰りの挨拶を待っていた金の耳に、大きな声が届いた。
「ほう、見事なピアノですな。奥様が弾かれるのかな?是非一曲」
その次の瞬間の空気。
「妻は弾きません」
低く短い声だった。来客が続きの言葉を飲み込むのが、廊下にいても分かった。誰も弾かないピアノが毎日磨かれている。なぜとは誰も聞かない。聞いてはいけないことだけが、この家の空気で分かった。
その日、金は美を百貨店へ送り、車寄せで戻りを待っていた。ふと車の先で立ち往生している老夫婦が目に入った。外国人の観光客らしい。タクシーの運転手に地図を見せては困り顔で首を振られている。金は車を降り、二人に歩み寄った。
「いかがなさいましたか?」
流れるような英語だった。老夫婦の顔がパッと明るくなる。予約しているホテルに行ったら予約されていないと言われ、似た名前のホテルであったこと。その場所を教えてもらったが、タクシーの運転手に伝わらないこと。金はすぐに聞き取り、調べ、タクシーの運転手に日本語で行き先を告げた。走り出すタクシーの窓から老夫婦は何度も手を振った。
いつの間にか戻っていた美が、鞄を下げたまま目を丸くしていた。
「すごい、英語お上手なんですね」
「はい。少々」
「少々って、ペラペラでしたけど」
「戻りましょうか。お荷物を」
「何なのこの人?全然会話にならない」
その日から美は、父の使わない休日に金の車を頼むようになった。
「そういえば、私お名前もちゃんと伺ってなくて。運転手さんて呼ぶのも失礼ですし」
「田村です」
「田村さんですね」
信号待ちの間、美はよく話しかけた。帰ってくるのはいつも短い答えだ。しかも会話が続かない。
「なんであんなにぶっきらぼうなのかしら。今日こそは長く会話できるようにしてみせるわ」
美のいたずら心に火がついた。
「田村さんって、お休みの日は何してるんですか?」
「祖母とお買い物に」
「え、おばあちゃんと一緒に?優しいですね。え、それでは出発します」
会話はまた途切れた。それでも美はめげなかった。
「聞いてくださいよ。この前、散歩中の犬が私の前で急に立ち止まったんですよ。飼い主さんが引っ張っても全然動かなくて、ずっと私を見てるから、犬に好かれるタイプなのかなって思ってたら、私の後ろの焼き鳥屋を見てました」
「あ、今ちょっと笑いました」
「いえ、笑いましたよ。絶対」
気を許したのか、金は少しずつ、聞かれれば二言三言返すようになった。不思議だった。会話が弾むわけでもないのに、この車の中は心地いい。初めて会った気がしないのはなぜだろう。お互いがそう感じていた。
ある夕暮れ、渋滞の車内でラジオがクラシックを流した。ピアノの独奏曲だった。
「あ、消しますか?」
「ううん、そのままにしてください。私、ピアノの音って苦手なんです。なのに変ですよね。この曲だけは昔から聞けるの。それだけじゃなくて、眠たくなっちゃうんです」
「子守歌、作品57」
ラジオの声が曲名を告げる。ふと美は気づいてしまった。ハンドルの上の金の指が、旋律をなぞるように微かに動いている。
「田村さんもこの曲お好きなんですか?」
「ああ……」
指が止まった。
「よく分からないんです。ただ、昔聞いていたような気がして」
「昔って、子供の頃ですか?」
車の中に沈黙がしばらく続いた。そして金がぽつりと話し始めた。
「私には、子供の頃の記憶がないんです」
「え?」
「小さい頃、海外で事故にあったそうです。気がついたら、知らない国の知らない人の家にいました。当時その外国の現地にいた日本人の女性が引き取って育ててくれました。その人が私の祖母です」
「祖母と言っても血の繋がりは全くなくて、年が離れているので祖母ということに……」
「ごめんなさい。私、無神経なこと」
「いえ」
信号が青に変わり、車はまた流れ出した。それきり二人とも黙っていたが、気まずさはなかった。
その頃からだ。車で待機する時、気づけばピアノがある大雪の間の窓へ目をやっている自分がいた。理由は金自身にも分からなかった。
その日は朝から雨だった。誠一郎を送り出した後、金は妻に頼まれ、届いた荷物を屋敷の中へ運び入れていた。最後の箱を置いて廊下を戻る。その途中だった。大雪の間の扉が開いていた。今日も蓋が閉められたままのグランドピアノ。
「戻らないと」
そう思ったはずだったのに、足が止まらない。廊下ではなく部屋の中へ、足は勝手に動いていた。心臓が嫌な速さで打っている。指先が冷たい。怖い。なぜか分からないが怖い。それなのに目が離せなかった。磨き上げられた黒い蓋に自分の顔が映っている。気づけば右手が持ち上がっていた。蓋まであと数センチ。
「そこで何をしている?」
振り向くと、都口に誠一郎が立っていた。忘れ物でも取りに戻ったのか。コートの肩が雨に濡れたままだった。その目を見て、金の背筋が凍った。
「運転手がピアノに触るな」
大雪の間に響き渡る怒声だった。誠一郎は大股で部屋を横切り、金の腕を掴んでピアノから引き剥がした。63歳とは思えない力だった。
「申し訳ありません。でも、触ってはいませんので」
「同じことだ。お前のようなものが近づいていいものではない」
「お父さん!」
怒声を聞きつけた美が戸口で立ち尽くしていた。
「どうしたの?そんな大声」
「この人はお母さんの荷物を運んでくれてただけよ」
「お前は黙っていなさい」
「でも――」
「黙っていなさい」
取り付く島もなかった。金は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。二度と近づきません」
言い訳はしなかった。できるはずもなかった。なぜあの部屋に足が向いたのか、自分でも説明がつかないのだから。廊下に出る時、金は見た。誠一郎がピアノに背を向けて立っている。握りしめた拳が微かに震えていた。それは怒りというより、何かに耐えているように見えた。戸口の妻は何も言わなかった。夫を責めるでもなく、金を構うでもなく、ただ悲しい目で閉じられた黒い蓋を見ていた。
その夜、金は夢を見た。広い部屋、高い天井。誰かの大きな手が、自分の小さな手の上にそっと重なっている。目が覚めると、頬が濡れていた。なぜなのか理由は分からなかった。
誠一郎の態度は翌朝には元に戻っていた。
「出してくれ」
何事もなかったようないつもの声だった。それが却って、あの日の怒声の異様さを際立たせていた。
数日後の夕方だった。買い物帰りの美を乗せた車が屋敷に着く頃、空は茜色に染まりかけていた。車寄せに止まり、エンジンの音が消える。車の影が長く伸びて砂利の上に横たわっていた。後部座席の美はすぐに降りようとしなかった。膝の上の紙袋に目を落としたまま、ドアの取っ手に手を伸ばしては引っ込める。それを二度ほど繰り返してから、ようやく口を開いた。
「この前は父がごめんなさい」
「いえ、私が悪いんです」
「ねえ、田村さん、あの時どうして大雪の間に?」
「あ、責めてるんじゃないんです。ただ、その……変な話をしてもいいですか?」
え、初めて金の方から話し始めた。自分でもなぜ話す気になったのか分からない。あの怒声の日から一人で抱えてきたものが、この車の中でだけ口をついて出た。
「私はピアノが怖いんです。見ると心臓が変な音を立てる。なのにこの前は、気がつくと近づいているんです。弾いたこともないのに、弾きたい気になるというか……」
美はそれを聞いても笑わなかった。胸の奥で何かが小さな音を立てていた。ピアノが怖い。その感覚がどういうものか、この世で自分だけが知っているものだとずっと思ってきた。誰にも言えなかった。言っても伝わるはずがなかったから。
「ちょっと変わってますよね」
「一緒だ」
「え?」
考えるより先に言葉がこぼれていた。
「私もピアノの音が怖いの。この前車の中でピアノの音が苦手って言ったけど、本当は怖いの。聞くとわけも分からなく不安になるっていうか。子供の頃からずっと。コンサートも音楽の授業も全部ダメなのに、変ですよね。この前車の中で聞いたあの曲だけは平気なんです」
夕闇の車内で二人はしばらく黙っていた。気まずい沈黙ではなかった。長い間一人で持て余してきた変なものを、初めて誰かの隣に置けた安心感の余韻に浸るような時間だった。鋼色は屋根の向こうに沈み、フロントガラスの先で屋敷の窓に一つまた一つと明かりが点っていく。あの大雪の間の窓だけが暗いままだった。
「うちのピアノも変なんですよ。誰も弾かないのに、年に一度だけ調律師さんが来るの。不思議でしょ」
「田村さん、いつか弾いてみたらいいのに」
言ってから美は自分で驚いた。それでも取り消すにはなれなかった。この人が弾いたら、何かが変わる気がする。根拠のない確信だった。
「いえ、約束しました。二度と近づかないと」
「じゃあ、父には内緒で、なんてね」
冗談めかして美は笑った。夕闇の中で金は何も答えなかった。二度と近づかない。そう約束したのに。膝の上の自分の指を、金はじっと見下ろしていた。指の奥がまだ微かに震えていた。
その日曜日、金は夕方の送りを言いつかっていた。約束の時刻にはまだ間があり、車寄せに止めた車の中で待っていた。窓がコンコンと叩かれた。美だった。
「田村さん、ちょっと来てもらえますか?」
理由は言わなかった。お嬢様の頼みを断る理由もなく、金は車を降りた。廊下の奥へ、奥へ。先を歩く美の足がある扉の前で止まる。開けられたその先を見て、金の足がすくんだ。大雪の間だった。午後の光の中にピアノが黒く光っていた。
「ここですか?」
あの日の怒声が耳の奥で蘇る。二度と近づかないと頭を下げた。あの約束を破るわけにはいかなかった。
「ごめんなさい。騙すみたいに呼んで。あのね、変なことを言いますけど」
美は少しだけ笑って見せた。
「田村さんはピアノが怖い。私はピアノの音が苦手。だったら二人でちょっとだけ触ってみたら、その理由が分かるかも、なんて。一人で触る勇気がなくてね。一回だけ、お願い」
軽い調子で言った。言えるように何日も前から練習してきた。あの車の中の話を聞いてから、この考えが頭を離れなかったのだ。明確な理由があるわけではないけれど、この人と自分の中にある怖いものを、このまま放っておきたくなかった。
「ですが、旦那様が――」
「父は書斎、母は奥の間。無駄に広いんですよ。ポンって鳴らすくらい、聞こえやしません」
金は動けなかった。断るべきだった。断る言葉ならいくらでもあった。それなのに目はピアノに吸い寄せられていた。一歩近づく。遠くから見ればそれは新品のように光っていた。だが間近に立って初めて金は気づいた。鍵盤の蓋の縁、ちょうど手をかける場所だけ塗りがわずかに曇っている。ペダルには靴先の形に擦り減った跡。何百時間、いや何千時間、誰かがここに座り弾き続けた痕跡だった。
「新品じゃない。これはずっと誰かが――」
美が蓋に手をかけ、ゆっくりと開けた。白い鍵盤が光を浴びる。美自身、この蓋が開いているところを見た記憶がなかった。
「どうぞ」
心臓が早鐘を打っていた。指先が冷たい。耳の奥で、どこか遠くの水の音がした気がした。怖い。逃げ出したい。それなのに足は椅子へ向かっていた。金は腰を下ろした。鍵盤の上に手を置く。いや、置いたのではない。無意識のうちに左手が低い方の鍵盤のある一点に吸い寄せられていた。まるで何百回もそうしてきたかのように、指は迷わずその場所を知っていた。
ポンと一つ低い音が鳴った。その瞬間だった。何か温かいものが指先から腕へ、腕から体中へぶわっと駆け上がった。ずっと金の胸の底に張り付いていたあの水のように冷たい恐怖が、嘘みたいに溶けていく。代わりに溢れてきたものを、金は名前で呼べなかった。懐かしいとは違う。嬉しいとも違う。強いて言うなら、帰ってきたという感覚に一番近かった。長い間迷子だった自分が、ようやく知っている場所にたどり着いたような。喉の奥が熱くなる理由も分からないのに、泣きそうになっている自分がいた。
「なんだこれ?俺はこの場所を知っている」
気がつくと両手が動いていた。
「え?あ、ちょ、田村さん――」
止めようとした声は続かなかった。鍵盤が揺れるような旋律の上を、指が光の粒のように転がっていく。子守歌、作品57。あの曲だった。教わった覚えもない。楽譜も知らない。それなのに指は次の音を、その次の音を迷いなく知っていた。年に一度整えられ続けた弦は、古い埃を一つなくなった。長い眠りから覚めた音が扉を抜け、廊下を渡り、屋敷中に満ちていく。ポンどころではなかった。だが美はもう止める気にはなれなかった。気がつくと、頬に涙が伝っていた。どうして泣いているのか自分でも分からなかった。
24年もの間沈黙してきた家の中の空気が、その音で震えていた。壁も窓も、固く閉ざした扉さえも、久しぶりの旋律にそっと息を返していくようだった。
その頃、書斎では書類の上で誠一郎のペンが止まっていた。
「ピアノ?」
聞き間違いだ。そう思った。この家でピアノが鳴るはずがない。鳴っていいはずがない。だが、この旋律、この音色。ペンが書類の上に落ちた。奥の間では、妻の手から布が滑り落ちていた。畳を転がる音ももう耳に入っていなかった。彼女は駆け出していた。
大雪の間の扉は開け放たれたままだった。駆けつけた誠一郎の足が戸口で止まった。若い男の背中、鍵盤の上を舞う指。わずかに傾いた首の角度。それは遠い昔、あの男の家のリビングで幾度となく見た後ろ姿だった。
「剣一郎……」
掠れたつぶやきは演奏にかき消され、誰の耳にも届かなかった。いや、美だけが見ていた。父の唇が、知らない誰かの名前の形に動くのを。
最後の一音が長い余韻を引いて消えた。金が我に返る。振り向いた先に、蒼白の誠一郎と、両手で口を覆ったまま涙を流す妻が立っていた。誰も動かなかった。長い沈黙を破ったのは、誠一郎の震える声だった。
「離れろ」
低い声だった。
「その椅子から離れろ。早く」
金が立ち上がるより早く、誠一郎が大股で部屋を横切った。金の腕を掴み、椅子から引き剥がす。あの雨の日と同じ手だった。だが込められた力がまるで違った。
「貴様、誰の許しを得てこのピアノに触れた?」
屋敷が震えるような怒声だった。
「申し訳ありません」
「触るなと言ったはずだ。二度と近づかないと貴様は約束した。それを――」
誠一郎にとって、それは誰にも触れさせぬものだった。家族にさえ指一本。長い年月、誇りの一つも許さず、この大雪の間の奥に守り続けてきた。その理由を誰にも語らぬまま。それを今日、どこの誰とも知れぬ運転手が――。言葉が続かなかった。代わりに誠一郎の目から涙が一筋伝い落ちた。
美は見てはいけないものを見た気がした。父は怒っている。全身で怒っているのに、その目からは涙が溢れて止まらない。拭おうともしない。まるで涙が流れていることに本人だけが気づいていないかのようだった。戸口では妻が座り込んでいた。立っていられなかったのだ。両手で顔を覆い、肩を震わせている。指の隙間から漏れる声は悲鳴に近かった。
「それで、その目は顔から離れない。何かを確かめるように、何かを恐れるように」
「やめてよ。私が弾いてって言ったの。この人は悪くない」
「勝手なことを」
「なんでそんなに怒るのよ」
叫んでから美は気づいた。おかしい。何かがおかしい。
「ねえ、どうして泣いてるの?」
誠一郎の肩が揺れた。
「ねえ、何なのよ。このピアノ、何なのよ」
誰も答えなかった。答えられる者はこの部屋に一人もいなかった。事情を知る二人は言葉を持たず、知らない二人は問いだけを持て余していた。その中で金の頭の中は一つのことでいっぱいだった。
「首だ。当然だ。約束を破った」
胸にあったのはピアノの謎でもこの場の異様さでもなかった。
「ばあちゃんに何て言えばいい。せっかく掴んだ給料のいい仕事だった」
「申し訳ございません。私が悪いんです」
沈黙を破ったのは金だった。
「約束を破りました。本当に申し訳ございません。お暇いたします。今日限りで」
一礼して、金は都口へ向かおうとした。
「待って」
美がその前に立ちふさがり、父に向き直った。
「お父さん、聞いて。この人はね――」
「うるさい」
言葉に被せるような怒声だった。
「誰が何を言おうと同じだ。誰であろうと、このピアノにだけは指一本――」
「田村さんはピアノが怖いの」
「黙れ」
「私もピアノの音が苦手なの。子供の頃からずっと。だから――」
「いい加減にしろ」
「だから二人で弾いてみたら、何か分かるかもしれないって私が思ったの。私が誘ったのよ」
親子の怒鳴り合いなど、この家では一度もなかったことだった。金は立ち尽くすしかなく、妻は座り込んだまま二人を見上げることしかできなかった。
「聞いてよ、お父さん。この人はね、小さい頃に海外で事故に遭って、気がついたら知らない国の知らない人の家にいたの。それまでの記憶が全部ないの。血の繋がらないおばあさんに育てられて、ピアノなんて一度も習ったことがない。それなのに今、あんな風に弾いたのよ。小さい頃の記憶が思い出されるかもしれないって」
「知ったことか。どこの馬の骨とも知れぬ男が――」
その声が不意に止まった。海外、事故、記憶がない。怒りで塞がれていた耳に、娘の言葉が一語届いた。
「なんだと?」
誠一郎の中で何かが音を立てて組み替わっていく。
「まさか、ありえない」
一歩、また一歩。誠一郎が金に近づいていく。さっきまでの怒りとは違う何かがその顔にあった。誠一郎の目が金の全身を辿っていく。髪を、目元を、鼻筋を、肩の線を、そしてさっきまで鍵盤の上を舞っていたその指の先まで、一つ残らず確かめるように。瞼の裏の面影と目の前の男を重ねては確かめ、確かめては重ねるように。その必死さに、金は身動き一つできなかった。
「名前は――」
「は?」
「君の名前だ。会社に報告されるのか?」
それも当然だと金は思った。
「田村です。田村と申します」
誠一郎の目が一瞬揺れた。違う。違ったのか。でも、田村……聞いたこともない姓だった。他人だ。ただの他人の空似だ。そう思うとする心と、そう思いたくない心が胸の中で攻め合っていた。その時、声は戸口から届いた。
「下のお名前は?」
妻だった。座り込んだまま顔を覆っていた手を外して、まっすぐに金を見ていた。涙の跡の残る顔で、それでも目だけはそらさなかった。金は戸惑った。なぜそんなことを聞かれるのか分からなかった。だが答えないという選択肢はなかった。
「金です」
時が止まった。
「金でると書いて金。事故の後、名乗れたのはこの名前だけだったと聞いています。育ててくれた人が、そのまま残してくれました」
誠一郎の体が傾いだ。とっさに伸ばした手がピアノの縁を掴む。あれほど目を向けることすら避けてきたピアノに、誠一郎は今すがりついていた。妻の口から言葉にならない声が漏れた。
「ああ……」
それは泣き声とも祈りともつかなかった。金にはわけが分からなかった。名前を告げただけだ。それなのに目の前で老夫婦が泣き崩れている。
「俺はそんなに取り返しのつかないことをしたのか。ピアノに触れたことが、この人たちの大切な何かを壊してしまったのか」
詫びる言葉すら見つからなかった。美はついていけなかった。
「え、何?何なの?」
名前を聞いただけで父は崩れ、母は声を失っている。分からない。おかしい。何ひとつ意味が分からない。金と美は立ち尽くすことしかできなかった。名前を一つ告げただけで、目の前の老夫婦が打ちのめされている。
「金で……」
ピアノにすがったまま、誠一郎は何度も何度もその名を口にした。もう呼ぶことは一生ないはずの名前だった。
「夢じゃない。夢じゃないな。現実だな。なあ」
誰にともなく確かめるように叫ぶ。声は震え、体はもうすがりついたピアノなしには立っていられなかった。やがて誠一郎は顔を上げ、戸口の妻を見た。長く連れ添った夫婦に言葉はいらなかった。妻が涙を拭いもせずに深く頷く。
「間違いない」
その頷きと共に、涙に濡れた顔から怒りが消えていた。
「聞いてくれるか?」
掠れた声だった。
「いや、聞いてくれ。頼む」
誰も座らなかった椅子と、誰も開けなかった蓋。この家が長い間守り続けてきた沈黙が、今終わろうとしていた。大雪の間の椅子に四人は向かい合って座っていた。誠一郎の話は24年前の海から始まった。
家族ぐるみで出かけた海外への旅。突然の高波に飲まれた船。海に投げ出された二つの家族。
「私の無二の親友だった桐健一郎。世界的なピアニストで、美のピアノの先生で、そして私と美の命の恩人だ」
その名を聞いて、美は思い出していた。さっき、父の唇が動いたあの形。健一郎。あれはこの名前だった。
「健一郎はな、お前が生まれて間もなく、奥さんを、お前の母さんを病で亡くしていてな。それからは男手一つでお前を育てた。夜、お前が泣くたびにピアノの前に座って、あの曲を弾いて聞かせていたよ。母親の代わりにな」
顔も知らない母だった。生まれてすぐに別れたのなら、覚えているはずもない。それでも毎晩父の奏でる曲が、母のいない自分を慰めてくれていた。そう思うと、知らないはずの温もりが胸の奥にぽっと灯った。自分には父も母もいたのだ。ほんの少しの間の世界に。
「さっきの曲は、健一郎の十八番だった。あの家であの曲が流れ出すと、お前たちは二人してピアノに駆け寄ってな。真横に自分たちの特等席を陣取って聞いて、そのうち決まって二人とも眠ってしまう。健一郎はいつも笑って言っていたよ。『この曲はこの子たちの本当の子守歌だな』と」
言葉が途切れた。24年、誰にも語らずに封じてきた思い出だった。語ればこうなると分かっていたのだろう。誠一郎は俯き、声を詰まらせた。その横で妻が服の袖を目に当てた。ピアノの横に並んだ二つの小さな影。もう二度と戻らないはずだった景色が、昨日のことのように蘇っていた。
「お前たち二人」
その言葉に、金と美は思わず顔を見合わせた。初めて会った気がしなかったあの感覚。二人とも何も覚えていない。それなのに、出会うよりずっと前に出会っていた。
「あの海で、健一郎は真っ先に美を助けた。自分の息子がまだ見つかっていないのにだ。美を船に押し上げて、それから戻ってこなかった」
誠一郎の声が震えた。
「最後にあいつは私を見た。荒れた波の間で、確かに目があったんだ。何か言おうとしていた。声は聞こえなかった。だが口の動きだけは、今でもはっきり覚えている。『息子を頼む』。そう言い残して沈んでいった」
その一言を背負って、誠一郎は24年を生きてきた。海の底に沈めた約束を。来る日も来る日も、探しても探しても、健一郎の息子は見つからなかった。せめて形見のピアノを引き取り、それを調律することすらできぬまま、磨き続けるしかなかった。
金は目を閉じた。顔も声も思い出せない父。その人が最後に何をしたのかを、今初めて知った。
「そういう人だったのか。私の父は」
不思議と悔しさはなかった。ただ会いたかった。一度でいいから、会って話がしてみたかった。
美の顔から色が失せた。
「私を助けて……」
「私が生きてるのは、この人のお父さんが――」
それ以上は言葉にならなかった。
「事故の直後、美、お前は記憶を失っていた。海に投げ出されたことすら覚えていなかった。私たちは何も話さないと決めた。お前に背負わせないためだ」
美が両手で口を覆った。ピアノの音が怖かった理由、あの曲にだけ心が安らぐ理由。何も知らないまま、体だけが全部覚えていたのだ。
「健一郎の息子もあの海で消えた。いくら探しても見つからず、死亡したことにされた。あのピアノは健一郎の家にあったものだ。あの家が畳まれる時、私が引き取った。命の恩人の形見に、誰にも指一本触れさせたくなかった。触れていいのはこの世でただ一人。健一郎の息子だけだと、そう決めていた」
誠一郎の声が震えた。
「そのただ一人が、今目の前に座っている。私にはもう、そうとしか思えん」
金は言葉が出なかった。父、ピアニスト、命の恩人、形見。どの言葉もまだ自分のものにならない。物心ついた時から自分には過去がなかった。生まれた場所も本当の名前も親の顔も、何ひとつ持たないまま、それでいいと思って生きてきた。持っていないものは仕方がない。欲しがったところで意味がない。そう自分に言い聞かせてきた。それが今、一度に手渡されようとしている。父がいた。名前があった。自分はどこの誰かの大切な息子だった。胸の奥がぐらぐらと揺れた。嬉しいのか怖いのか、それすらも分からない。ただ、鍵盤に触れた瞬間のあの温かさ、教わってもいないのに動いた指、夢の中で小さな手に重なっていた大きな手。バラバラだったものが一つずつ音を立てて繋がっていく。そして繋がった先で、一つの事実が金を待っていた。その父には、もう二度と会えないのだ。
「私の父……」
「もし私たちの思っている通りならば、お前の父は桐健一郎。私と美の命の恩人だ」
誠一郎は立ち上がり、背筋を伸ばした。そして金に向かって深く、深く頭を下げた。
「なってすまなかった。あれは最初から、お前のピアノだった」
「いえ」
いつもの短い返事しか出てこなかった。だがその声は震えていた。
後日、調べは静かに進められた。24年前の事故の記録。海の向こうで保護された身元の分からない幼子の記録。その子を引き取った養子縁組の書類と、たった一つの名前「金」。全てが一本の線で繋がった。書類の上で亡くなっていた桐流金は、書類の上でも生き返った。積み上がった記録の束は、あの日の確信をしっかりと支えた。
全てが書類の上でも確かめられた最初の日曜日。金と美は大雪の間に呼ばれた。妻がピアノの前に立っていた。手にはあの白い布があった。
「ずっと不思議だったでしょう。私が毎日これを磨いていたわけ」
妻は布を胸に抱いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「年に一度、調律師さんに来てもらっていたのもね。日が決まっていたの。健一郎さんの命日」
美が息を飲んだ。
「あなたは書類の上では亡くなったことになっていた。でもね、私たちは一度だって信じなかった。あの海で健一郎さんが命に変えて守ろうとしたものが、消えてしまうはずがないって。あの子は生きてる。いつかきっと帰ってくる。帰ってきたその日に、すぐに弾けるように。だって、これはあの子のピアノだもの。誇り一つ合ってはいけなかったの。磨くことは、待つことだった」
誰も弾かないピアノを毎日磨き、年に一度、狂いのない音に整え続ける。それは形見を守る作業ではなく、帰ってくる息子を迎えるための24年間の支度だった。
金は何も言えなかった。ただ、閉じた蓋の上に手を置いた。毎朝、この場所をこの人の手が往復していた。自分がどこかの空の下で生きていた。その全部の朝に、俺を待ってくれる人がここにもいたのか。消えたはずの自分なのに、この家で毎日帰りを待ってくれていた。
後日、誠一郎と妻は金の育った古いアパートを尋ねた。狭い玄関先で、二人は床に手をつくように深く頭を下げた。
「あなたが育ててくださったのは、私たちの恩人の忘れ形見です。ありがとうございます。本当にありがとうございます」
義子はしばらく呆然としていた。それから、いつもの調子で笑った。
「難しいことは分かりませんよ。私はただ、この子と暮らしたかっただけねえ」
「金」
「うん」
金は頭を下げ続ける老夫婦と、呆然としている義子を交互に見ていた。この人は何ひとつ見返りを求めなかった。世界的ピアニストの子だと知って引き取ったわけではない。ただ、行き場のない小さな子を放っておけなかった。この人はただ愛しただけだった。血の繋がらないこの小さな手が、自分をここまで育ててくれた。実の父を知った今も、その温もりは少しも色褪せない。
金は今も長谷川家の専属運転手を続けている。誠一郎の会社で働かないかとの打診もあったが、しばらくは今のままがいいと断った。あれから少しだけ変わったことがある。後部座席の誠一郎がよく喋るようになった。無口な運転手は相変わらず「はい」としか返さないが、ミラーの中の目は前より柔らかい。
そして次の命日が来た。今年も調律師がピアノの音を整えた。だが今年はそれで終わりではなかった。大雪の間のピアノの真横に、椅子が四つ並べられた。誠一郎、妻、美、そして義子。あの日の特等席だった。
金が鍵盤に手を置く。旋律が揺れ始める。24年間この家で一番悲しかった場所に、一番温かい音が満ちていく。誠一郎は目を閉じていた。妻は微笑んだまま泣いていた。美は隣で聞きながら、幼い日の自分を探していた。何も思い出せない。それでもこの音に包まれていると、体の芯だけが覚えている気がした。あれほど怖かったピアノの音。その正体が、こんなに優しいものだったなんて。
窓から差し込む午後の光が、四つ並んだ椅子と鍵盤を撫でる金の指を照らしている。かつて健一郎の傍らにあった特等席。24年の時を超えて、同じ席に同じ旋律が流れていた。
義子は目を丸くしたまま、遠い日のことを思い出していた。商店街の駄菓子屋の前で足を止めたまま動かなくなった小さな金。欲しいのかいと聞いても、怖いと首を振った子。買ってやれる当てもなかった。その子が今、こんなに大きなピアノを、こんなに綺麗に弾いている。
「長生きはするもんだね」
目尻の皺の奥で涙が光っていた。
「いやあ、大したもんだ。こうなると、うちにもピアノがいるかね」
「あの狭い部屋のどこに置くんだか」
小さな笑いが部屋にこぼれた。24年ぶりに音の戻った大雪の間に、今度は笑い声が満ちた。
「ピアノなら、ここにある。金で、これからもここへ弾きに来てくれるか?」
「はい」
褒められても咎められても、いつも「はい」と首を振ってきた男が、初めてまっすぐに「はい」と答えた。ピアノに触るなと怒鳴った男が、今、特等席でその音を聞いている。誰も弾かなかったピアノは、今この家で毎日のようになっている。その音が鳴るたび、妻の一日は明るくなり、美は少しずつピアノが好きになっていく。誠一郎が背負ってきた思いが、一つ、また一つと降りていく。
24年、悲しみを守り続けた黒いピアノは、これからはこの家の幸せを鳴らしていく。
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