「ねえ、なんで家族ぐるみの付き合いなんて始めたの?お互い知り合いだなんてリスク高すぎない?」
ハワイの高級ホテルのバルコニーで、俺は部下の妻とシャンパンを傾けていた。彼女は不安そうな顔で俺を見る。
「バカだな。逆だよ」
「どういうこと?」
「近すぎると疑わないもんだよ。灯台下暗しってやつ」
彼女はくすっと笑った。確かに、俺たちは完璧だった。俺は部下のり介に大量の仕事を押し付け、彼が残業で家を空けている間に、その妻ユナと会う。り介は俺を尊敬し、兄のように慕っている。ユナの夫のみさも、俺の妻も、何も気づいていない。
「あの人、本当におめでたいやつだよな。おかげでこっちはやりたい放題だけどさ」
「でも可愛いんだぜ。俺の言うことなら犬みたいに何でも聞いてくれるし」
「私にとっては文句も言わない最高のATM君」
俺は笑った。彼女は俺よりひどいことを言っている。
「みささんは大丈夫なの?疑ってない?」
「全然。『頑張ってね』って送り出してくれたよ」
俺たちは2年間、4人で食事をしながら、テーブルの下で足を絡め合っていた。それでも誰も気づかない。
「早く達さんを独り占めしたい」
「そのうちな。時期を待つんだ」
翌日、俺の妻みさが突然、り介を連れて家に現れた。
「どうしても伝えなければいけないことがありまして」
り介の顔は青ざめていた。
「課長は今、ハワイにいます」
俺は凍りついた。
「そんなはずないよ。だって達也は沖縄に出張中だって言ってたし、さっきも『沖縄は暑い』ってLINEが来たし」
「それ全部嘘です。僕の妻も一緒にハワイにいるからです」
みさは信じられないという顔をした。
「ゆうナちゃんが女子旅で大阪に旅行中だってインスタにアップしてたの見たし」
「あの写真は以前の旅行の使い回しです。2人は今、間違いなくハワイにいます」
り介は、1ヶ月前から妻の様子がおかしいことに気づき、探偵を雇っていた。空港で一緒に写っている写真も、ハワイでの行動も、すべて証拠を掴んでいた。
「僕は課長に期待されてるんだと思って、振られた仕事を全力で頑張っていました。でも違った。ある日、早めに残業を終えて家に帰ると、家にいるはずの妻がいなかったんです」
みさは震える声で言った。
「私もよ。4人で過ごす時間は楽しかった。でも全部僕らの思い込みだったんです」
り介は続けた。
「課長が僕に『お前を一人前にしたい』と言って、毎日深夜まで残業を押し付けていたのは、僕の妻と会うためだったんです」
みさは涙を拭い、決意を固めた。
「私も戦うわ。あの2人を地獄の底まで叩き落としたい」
「僕もです」
3日後、俺は沖縄から帰ってきた。家は空っぽだった。
「おい、なんだこれ?みさ、どこにいるんだ?」
「全部私が持って出たからに決まってるじゃない」
「ふざけるな。早く戻ってきて元に戻せ」
「戻せないわね。あなたが壊した私たちの関係と同じでもう無理よ」
俺は言い訳を並べた。
「待て、みさ、これは違うんだ。魔が差しただけなんだ」
「魔が差してハワイに行くのはやりすぎなんじゃない?」
「ユナが誘ってきたんだよ。それで仕方なく」
みさはスマホを取り出した。
「『り介を社畜にしてユナを抱きすするのが最高』。これ、あなたがゆうナちゃんに送ったLINEだけど、『仕方なく』って感じには見えないわね」
俺は言葉を失った。
「去年の秋、私の母が亡くなった夜のこと覚えてる?あの時は確か仕事が忙しくて」
「そう。プロジェクトが佳境だと言って、お通夜にもお葬式にも来なかったわよね」
「それは本当に抜けられない仕事が」
「嘘はやめて。あの夜、あなたはり介君に仕事を押し付け、ユナと箱根の温泉に泊まってたことはLINEの履歴から判明してるの」
俺は謝ろうとしたが、みさは冷たく言い放った。
「安っぽい謝罪はいらない。弁護士には証拠を全て送ったわ。会社にも報告が行くから覚悟することね」
「会社は関係ないだろう。プライベートの話だぞ」
「ハワイ旅行の費用を出張費名目での横領。部下への残業代の不払い。時間外労働の黙認。アウトね」
俺は必死に懇願した。
「会社だけは勘弁してくれ。首になるぞ」
「首だけで済めばいいけど。下手したら逮捕。それから横領した分の返還もあるわ」
その頃、ユナもマンションの前で立ち往生していた。
「ねえ、り介の鍵が開かないんだけど」
「そのマンションは売ることにした。鍵は変えてあるから入れない」
「ちょっと待って。なんでこんなことするの?私の荷物はどうしたのよ」
「お前の実家に送ってある。『迷惑だから庭に野ざらしの状態で置いておく』ってお母さんが言ってたぞ」
ユナは泣きながら謝った。
「お願い、許して。私、目が覚めた。あんなおっさん全然好きじゃない」
「無理だな」
「どうして?うちら仲良しだったじゃん」
「だから苦しいんだよ。俺の頭の中にはまだユナの笑顔がこびりついてる。『いつかハワイに行きたいな』ってそう言ったから、仕事を頑張ってお金を貯めて連れてってあげたいと思って頑張ってたのに、あっさり他の男と言っちゃうんだもんな」
「ごめんね。もう2度としないから」
「ユナが毎回ハンバーグを焦がして泣いてた頃が一番幸せだったかもしれないな」
「これからだって幸せになれるよ」
「悪いけど、全く好きじゃないんだ。秒で覚めた」
ユナは泣き叫んだが、り介は電話を切った。
数分後、俺はみさに電話していた。
「みさ、頼む。もう一度考え直してほしい。全て俺が間違っていた」
「今更遅いわ」
「人間ちくらいあるだろ。認めて反省するからさ」
「私ね、り介君から知らされた時、信じなかったんだよ。あなたが浮気なんかするわけないって本気で思ってた」
「そうだ。気持ちはずっとみさの方を向いてたんだよ」
「でもね、証拠を目の当たりにして、生まれて初めての感情を抱いたの。怒りと悲しみと憎しみと絶望がごちゃまぜになった感じだった」
「ごめん。本当にごめん」
「でもLINEのやり取りを全部見させてもらって、ある一文で感情が怒り一つにまとまった」
「そんなもの見ない方が良かったんだよ」
「『母親が死んだくらいで号泣して大げさな女だよ』。あなたが私に送った言葉よ」
俺は絶句した。
「人間、思っていないことは言わないものよ。あなたも今回、両親を失うことになるけど、今どんな気持ちかしら?」
「いや、俺の親は生きてるし」
「今後2度と接触しないと言ってたわ」
「え?」
「生きてても会えないなら同じことよ」
俺は必死に縋った。
「5年も一緒にやってきたじゃないか。頼むよ」
「あなたを思えば、アイロンをかけるのも、揚げ物で火傷してもなんてことなかった。子供ができなくても幸せだったよ」
「だよな。俺もだよ。だからこれからも一緒にいよう」
「もう過去形なの。私の感情を返してください」
「みさ、私だけじゃなく母まで冒涜したあんたを絶対に許さない。あって話そう。警察でも会社でも好きなところで弁明して」
「さようなら。暗い地獄で精一杯反省してね」
その後、俺は出張費名目での横領総額1200万円が発覚し、業務上横領罪で起訴された。懲役3年の実刑判決が下り、慰謝料と横領金の返済を合わせると、生涯かけても返しきれない額になった。不倫と残業代の不払いの噂は業界中に広まり、出所後の再就職も絶望的だ。実家からも絶縁され、今は住み込みのバイトで借金だけを返し続ける毎日を送っている。今の俺には100円のカップ麺すら贅沢品だ。
ユナは慰謝料500万円を背負った。最後まで協議離婚に応じず、泥沼の裁判の末に離婚が成立し、複数のバイトを掛け持ちしながら、かつてのり介のように夜遅くまで働いているようだ。
みさは景色のいい部屋に引っ越し、自分だけの趣味で揃えた新しい部屋で過ごす夜がとても穏やかだと言う。り介はそのまま会社に残り、今まで未払いだった残業代も一気に支払われたそうだ。
地獄を共に戦い抜いた大切な戦友。私たちは今もこうしてお互いの幸せを静かに祈り続けている。
あの日失ったものは多かったけれど、手に入れたのは何者にも買えない自由。そして自分を信じる強さだ。嘘にまみれた過去を捨てて、私らしく笑って生きていく。



