「あなたの分なんてないわよ」。高級和食店の個室で、婚約者の母親が笑いながらそう言った。四人なのに、料理は四皿しか運ばれてこなかった。私の前だけ、何も置かれなかった。「だって、中卒なんですよね」。婚約者まで笑った。私は五十八歳。夫を亡くしてから一人で息子を育て、必死に働いてきた。その隣で、息子が静かに箸を置いた。「母さん、帰ろう」。でも私は帰らなかった。その時、私は決意していた。この人たちが知…

「あなたの分なんてないわよ」。高級和食店の個室で、婚約者の母親が笑いながらそう言った。四人なのに、料理は四皿しか運ばれてこなかった。私の前だけ、何も置かれなかった。「だって、中卒なんですよね」。婚約者まで笑った。私は五十八歳。夫を亡くしてから一人で息子を育て、必死に働いてきた。その隣で、息子が静かに箸を置いた。「母さん、帰ろう」。でも私は帰らなかった。その時、私は決意していた。この人たちが知...

あの日、私は高級和食店の個室に座っていた。息子の直樹の婚約が決まり、今日は両家の顔合わせ。私は少し緊張しながら、テーブルの上でそっと指を組み合わせた。夫を亡くしてから、こんな華やかな席に座る機会などめったになかったからだ。

向かいには婚約者のかおりさん、その両親である正さんとまり子さんが並んでいる。皆、にこやかで、最初のうちは和やかな雰囲気だった。かおりさんは「みささん、今日は本当にありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。直樹の前ではいつもそうだ。本当に感じのいい女性に見える。

やがて中井さんという仲居さんが、ゆっくりと運んできた。一皿、二皿、三皿、四皿。私たちは四人なのに、五皿目はなかった。私の前だけ、何も置かれない。小さなお椀ひとつ、香の物ひとつさえも。

しばらく待っても、やはり私の前には何も来ない。私は小さく手を挙げた。

「すみません。私の分は、まだでしょうか」

すると、かおりさんの母であるまり子さんが、口元を押さえて笑い出した。

「あら、あなたの分なんてないわよ。だって、四人分しか頼んでないんだもの」

え、と思っているうちに、今度はかおりさんまでが肩を震わせて笑う。

「だって、中卒なんですよね」

私はその言葉の意味を飲み込むのに数秒かかった。中卒。それが何だというのだ。

「そんな人に高級料理を出しても、味なんてわからないでしょう?」

正さんまでもが、私を値踏みするように見て、鼻で笑った。

「中卒に出したら、店の格式まで下がりそうだな」

三人の笑い声が、静かな個室に響いた。私は膝の上で握った拳を、そっと開いた。その時、隣で直樹がゆっくりと箸を置いた。

「母さん、帰ろう」

その声は、静かで、低く、わずかに震えていた。私は頷いた。

「そうね。でも、その前に少しだけお話ししてもいいかしら?」

まり子さんが間抜けな顔で尋ねる。

「何のお話?」

私は静かに、しかしはっきりと答えた。

「あなたたちがさっきから馬鹿にしている、中卒の貧乏人についてよ」

まり子さんは鼻で笑った。私は構わず続けた。私の名前はみさ、五十八歳。二十六年前に夫を病気で亡くし、女手一つで一人息子の直樹を育ててきた。高校一年のとき、学校に馴染めず退学した。そう、私は中卒だ。それは隠さない。若い頃は仕事を転々とし、両親には随分心配をかけた。

そんな私を変えてくれたのが、夫の工事だった。結婚して、直樹が生まれて、ようやく家族三人でこれからだという時、夫は病に倒れた。直樹はまだ三歳だった。家のローンは保険で消えたが、生活費も、教育費も、老後の蓄えも、すべて私が働いて積み立てなければならなかった。

「お母さん、今日も仕事?」

幼い直樹にそう聞かれるたび、胸が痛んだ。それでも働いた。昼は事務、夜は在宅の内職。休日には少しでも給料を上げるために資格の勉強をした。直樹だけは、お金のために何かを諦めさせたくなかった。その背中を見て育った直樹は、優しい青年になった。大学を卒業し、今では大手企業で企画の仕事をしている。

そんな直樹が、嬉しそうに言ってきたのが、かおりさんだった。初対面では、本当にしっかりした女性に見えた。言葉遣いは丁寧で、直樹の前ではいつも笑顔だった。

しかし、ある日、直樹に仕事の電話が入り、三十分ほど家を空けた瞬間、かおりさんの顔が変わった。私が焼いたパウンドケーキを一口も食べず、そのままゴミ箱に放り投げた。入れたての紅茶も、シンクに流した。

「ちょっと、何をするの?」

私が声を上げると、かおりさんはさっきまでとはまるで別人のように冷たい目を向けた。

「こんな手作りのお菓子、無理なんですけど」

「直樹の前では食べてたでしょ?」

「あれは演技ですよ」

そう言って、彼女は家の中を見回した。

「それにしても、狭いですよね。うちの実家、この家の四倍くらいありますよ」

そしてスマホを取り出し、勝手にリビングを撮影し始めた。「ママに見せようと思って」。私は呆然と立ち尽くすしかなかった。

後日、今度は母親のまり子さんまで連れてきた。「庶民の家って、一度見てみたかったの」と言って、二人は勝手に風呂場を覗き、庭を見て笑った。「これが庭? うちのペットスペースより狭いわ」

腹は立った。でも、私は言い返さなかった。直樹が幸せなら、それでいいと思っていたからだ。

そんなある日、顔合わせの日程が決まった。私は悩んだ末、直樹にすべてを話した。

「かおりさんは、あなたの前と私の前では別人よ」

直樹はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「やっぱりか」

私は驚いた。直樹も、かおりさんに違和感を覚えていたのだ。婚約後、同じ会社の後輩からかおりさんが何度も食事に誘われていると相談されたらしい。断ったら、「直樹さんよりあなたの方が趣味が合うの」と言われたのだという。後輩は困り果てていた。

「信じたくなかった。でも、母さんにまでそんなことをしているなら、ちゃんと確かめる」

そうして迎えたのが、今日の顔合わせだった。

私は話し終えて、直樹の顔を見た。直樹は静かに頷き、スマホをテーブルに置いた。そこから流れたのは、会社の後輩の声だった。

「かおりさんに何度も旅行へ誘われました。婚約中ですよね、と言ったら『結婚するまでは自由でしょ』って」

かおりさんの顔色が変わった。

「ち、違う」

さらに別の男性の声が続いた。

「妻がいると断ったんです。でも『気分転換くらい、いいじゃない』って」

「やめて」

直樹は再生を止めた。そして静かに、短く言った。

「婚約は解消する」

かおりさんが固まった。まり子さんは娘よりも慌てた。

「ちょっと待ってちょうだい! 若いんだから、少しくらい遊ぶでしょ!」

正さんまでが口を挟んだ。

「直樹君、そんなことで感情的になるな」

そして、得意げに笑った。

「かおりと結婚すれば、いずれうちの会社を任せるつもりだったんだぞ。君は優秀なんだろう? 娘婿なら、本部の幹部にしてやってもいい」

まり子さんも続けた。

「そうよ。中卒のお母様と暮らす人生より、うちの一族に入った方が直樹さんのためでしょ」

私は思わず、笑ってしまった。乾いた笑い声が、静かな個室に落ちた。

「その会社、そんな余裕があるんですか?」

正さんの眉がぴくりと動いた。

「どういう意味だ?」

「ここ二年、既存店の利益率がかなり落ちていますよね。新店舗も三軒続けて赤字。それだけじゃない。本部経費が不自然に増えている」

空気が変わった。まり子さんの顔色が、さっと青ざめた。

「な、なぜあなたが……」

私はまり子さんを見た。

「会社のカードで、個人的な買い物をしていますよね。ブランド品、高級ホテル、美容関係。全部、接待費として処理されている」

正さんが妻を向いた。

「まり子、どういうことだ?」

「知らないわよ!」

私は続けた。

「経理処理に、かなり無理がありますよ。数字を見れば、すぐにわかる」

まり子さんが立ち上がった。

「中卒のくせに、経営の何がわかるのよ!」

私は少しだけ笑った。

「中卒だからわからない、と言いたいの?」

「当たり前でしょ!」

私は静かに頷いた。

「そこが、あなたたちの一番の間違いね」

私は語り始めた。若い頃、私は少ない給料からわずかなお金を貯めた。直樹の学費を作るため、そして自分の老後を息子に背負わせないため、簿記を勉強し、決算分析を覚え、資産運用を始めた。最初は月に五千円、一万円。本当に小さな金額だった。失敗もした。それでも、三十年近く続けた。

やがて、知人の会社から「数字を見てほしい」と相談されるようになった。今では複数の中小企業に、経営と資金面の助言をしている。顔は出していない。仕事では仮名を使っているから、まり子さんたちが知らなくても無理はない。

正さんが私をじっと見た。

「まさか……」

「三年前から、御社にも出資しています」

正さんの顔から笑みが消えた。

「店舗整理を進めたのも、仕入れ先の見直しを提案したのも、新規出店を止めたのも、すべて私です」

静まり返った。まり子さんが掠れた声を出した。

「嘘。中卒のあなたが……」

「中卒なのは本当ですよ。でも、中卒だから何も学べないなんて、誰が決めたんですか?」

正さんが急に立ち上がった。さっきまでの態度とはまるで別人の、低く丁寧な声だった。

「みささん、誤解があった。今日は改めて、しっかりと……」

「結構です」

私は切り捨てた。

「それと、今日限りで御社への追加支援はしません。資金だけじゃない。今後の助言も、すべて終了します」

まり子さんが叫んだ。

「そんな! 会社がどうなってもいいの?」

私は首をかしげた。

「さっきまで、私のことは高級料理の味もわからない中卒の貧乏人でしたよね。そんな人に頼らなくても、大丈夫でしょう」

誰も答えなかった。私は立ち上がった。

「直樹、今度こそ帰りましょう」

かおりさんが直樹の腕を掴んだ。

「待って! 私、直樹のこと、本当に好きなの!」

直樹は、その手を静かに外した。

「俺が好きなんじゃない。俺の肩書きと将来が好きだったんだろう」

かおりさんは、何も言えなかった。

それから半年。私はかおりさんと二度と会っていない。彼女は会社で複数の男性社員に対する言動が問題になり、退職したと聞いた。まり子さんも、会社資金の不正使用が発覚し、役職を外された。正さんの会社は倒産こそしなかったが、採算の悪い店舗を整理し、規模を縮小したそうだ。私はもう、彼らに関わっていない。

直樹は、しばらく落ち込んだ時期もあった。でも今は、また仕事を頑張っている。先日、二人で小さな和食店へ行った。席に着くと、直樹がメニューを開いた。

「母さん、何でも好きなの頼んで」

「そんなに食べられないわよ」

「いいから」

直樹は少し笑った。

「あの日、母さんの前だけ料理がなかったの。まだ腹立ってるんだ」

私も笑った。

「もういいのよ。高級な料理を食べることが、豊かな人生ではありません。立派な学歴があるから、人として立派なわけでもない。大切なのは、誰と同じ食卓を囲みたいか。そして、目の前にいる人を大切にできるかどうか」

中卒の私は、五十八歳になってもまだ勉強中だ。でも、ひとつだけ胸を張って言えることがある。私はこれからも、人を肩書きだけで判断するような人生だけは送りたくない、ということだ。

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