「もうお父さんの介護はしません」そう言ったとき、夫は本気で理解できない顔をしていた。5年間、義父の食事も着替えも通院も、すべて私がやってきた。それなのに夫は、私の妹と不倫して妊娠させ、「離婚してくれ」と言った。しかも「お前が一番適任だろう」と、介護まで押し付けてきた。私は離婚届を置いて家を出た。でも、私にはまだ言っていないことがある。妹には別の夫がいて、その夫は92歳の資産家だってこと。そし…
「もうお父さんの介護はしません」 そう言ったとき、夫の正はしばらく言葉を失っていた。 「本気で言ってるのか?」 「本気よ」 「なんで急にそんなことを言うんだ」 正は怒鳴るでもなく、困り果てたように私を見た。 「頼むよ。俺の親父なんだ」 そう言われれば、私の方が冷たい人間に見えるかもしれない。昨日までの私は、90歳になる義父の食事を作り、着替えを手伝い、病院へ連れて行き、歩くときにはその体を支えていた。義父に何を言われても、5年間一度も介護を投げ出したことはなかった。 それなのに、私は突然「もう介護はしない」と言って、夫を捨てて家を出た。 でも、それには理由があった。その数時間前、私は夫の正から、25年の結婚生活を根本から壊す言葉を聞かされていたのだ。 私は美和子、62歳。夫の正は64歳。5年前から私の義父であり、正の父である誠一郎さんと3人で暮らしていた。誠一郎さんは転倒をきっかけに足が弱り、一人暮らしが難しくなって我が家へ来た。頭はしっかりしているが、とにかく頑固。味噌汁がぬるい、茶はもっと熱くしろ、と毎日のように文句を言われた。食事、洗濯、通院、入浴の補助。一日が義父の世話だけで終わる日も珍しくなかった。 それでも続けられたのは、正が私を気遣ってくれたからだ。 「本当にありがとな。今度ヘルパーに頼んで、二人で都の実家にでも行こう」 その一言だけで救われた。 私には17歳年下の妹、えみ子がいる。45歳になっても両親にとっては末娘で、昔から人懐っこい性格の可愛い妹だった。私が正と結婚したとき、えみ子はまだ二十歳。正も「お兄ちゃん」と慕われ、会うたびにお小遣いを渡して可愛がっていた。だから私は二人の距離の近さを気にしたことがなかった。 変化が出始めたのは半年前。義父の足がさらに弱り、私が家を開けにくくなった頃、正が一人で私の実家へ顔を出すことが増えた。ある日、実家へ行く用事ができたとき、義父が微熱を出したため、私は実家へ行く予定を取りやめた。 「じゃあ俺だけでお菓子届けてくるよ」 そう言って出ていった正が帰宅したのは、夜10時を過ぎてから。 「随分遅かったのね」 「お前のお父さんが上機嫌でさ、長話に付き合ったのは俺だけで」 私は疑わなかった。後から知ったのだが、その日の夕方、両親が近所へ出かけた後、帰ろうとした正を妹のえみ子が引き止めたらしい。 「お兄ちゃん、少し飲んでいかない?」 「車で来たし、美和子が待ってるから帰るよ」 「お姉ちゃんはお父さんの介護で頭いっぱいじゃん」 そしてえみ子は笑いながら言った。 「私だったらお兄ちゃんに、あんな寂しい思いさせないのに」 本来ならそこで帰ればよかった。けれど正は、その言葉が嬉しかったのだ。私が義父の介護に追われ、外食も旅行も断ることが増えたことを、正はいつの間にか「妻が自分を大切にしなくなった」と考えるようになっていた。自分の父親の介護を私に任せておきながら。 その日を境に、二人は連絡を取り合うようになった。私はえみ子が引き止めたことも、連絡を取り合っていることも、さほど気にしなかった。最初は妹の相談に乗るだけ。次は昼食。その次は仕事帰りに一杯。えみ子は何度も正を持ち上げた。 「60代に見えない。お姉ちゃんにはもったいないよ。私、お兄ちゃんみたいな人と結婚したかった」 正も「家じゃ俺なんか後回しだからな」と、被害者のように話していたらしい。 そして二人は一線を超えた。 その頃から正の態度は露骨に変わった。帰宅が遅くなり、スマホを伏せておく。休日なのに新しいシャツを着て出かける。いつものように私が「夕飯どうする?」と聞いただけで、 「いちいち予定を聞くなよ。俺にも仕事の付き合いがあるんだ」 と苛立つようになった。それでも私は疲れているのだと思っていた。 最初に引っかかったのは、実家でのえみ子の一言だった。正が新しいネクタイをしているのを見て、 「やっぱりそれ似合うね」 と笑ったのだ。私はそのネクタイを正が締めているところを初めて見た。 「やっぱりって何?」 私が聞き返すと、えみ子は一瞬だけ固まり、「前に似たのしてたじゃん」と笑ってごまかした。 二度目の違和感は、正の車に落ちていた小さなピアス。私はピアスなんてつけない。それでも私はまだ信じたくなかった。 決定的だったのは、義父を病院へ連れて行った帰り。信号待ちの車の中から、見覚えのある二人が歩いているのが見えた。見間違えるはずがない。そこにいたのは正とえみ子だった。その日は平日で、正は朝「今日は一日会議だ」と言って出勤している。えみ子が正の腕に絡みつき、正は周囲を確認した後、その腰に手を回した。 私は声も出なかった。 帰宅した夜、私は何も知らないふりをして聞いた。 「今日、仕事忙しかった?」 「ああ、昼飯食う暇もなかったよ」 迷いなく嘘をつく顔を見て、私の中で何かが静かに壊れた。 私は夫を問い詰めなかった。介護中の義父の前で騒ぎたくなかったし、自分の目で見たものを整理する時間も必要だったからだ。 そして数週間後、正はえみ子を我が家へ連れてきた。えみ子は俯きながらお腹に手を添えていた。正はいきなり私の前で頭を下げた。 「えみ子を妊娠させた。離婚してくれ」 胸の奥が冷たくなった。それでも正は続けた。 「俺だって寂しかったんだ。お前は親父のことばっかりで、俺のことなんて見てなかっただろ」 「でも、そのお父さんの介護をしていたのは誰?」 「今はその話じゃないだろ。俺の話だろ」 さらにえみ子まで小さくため息をついた。 「お姉ちゃん、最近ずっと疲れた顔してたもんね。お兄ちゃんだって家に帰っても息が詰まってたと思うよ」 … Read more