「首になりました。40年務めましたが、今日で契約満了だそうです」——エレベーターの中で、私は社長にそう言った。ダンボール1つに詰めた40年の仕事人生。窓際の席に追いやられ、手帳はゴミ箱に捨てられ、最後は全員の前で契約更新しないと読み上げられた。それでも私は、お客様との約束だけは守り続けた。そして迎えた1000億の説明会。私は会長の隣に座っていた。あの日、私を切り捨てた者たちは、何も知らなかっ…
エレベーターの中で、社長が声をかけた。 「明日の1000億案件の企画書はできたか?」 相手はダンボールを抱えた62歳の社員、青木だった。 「首になりました。40年務めましたが、今日で契約満了だそうです。私はもう部外者ですので」 「首って誰が?」 1階に着いた。閉まりかけた扉の前で、青木は半身だけ振り返った。 「社長、40年の信用ってのはね、ダンボール1つには収まらんのですよ」 深々と一礼して、男は去った。 何も知らないまま、たった1人の男を切り捨てた会社。だが翌日、1000億の商談の席で、人を内輪で始末した者たちの世界は音を立てて崩れ始める。 これは1人の男が、その信念を貫き通した物語。 — 朝8時前の堂々電気システム事業部。フロアはまだ静かで、青木は今日も一番乗りだった。湯呑みの茶を一口すすると、黒皮の手帳を開く。角が擦り切れ、ゴムで止めたページは倍近くに膨らんでいた。 そこへ、コンビニの袋を下げたナオが出社してきた。契約社員の案件アシスタントだ。 「おはようございます。青木さん。あの、先週の議事録、直してみたんですけど」 「おはよう。どれどれ。うん、いいね。決まったことと決まらなかったこと、ちゃんと分けて書けている」 「青木さんの手帳の真似です。私、青木さんの仕事全部盗むって決めてるんで」 「盗まれるほど大したもんじゃないよ」 「体操です。だから、東部近魚の糞やらせてもらいます」 2年前、配属されたばかりのナオに誰も仕事を教えなかった時、手帳を開いて1つずつ教えたのが青木だった。40年分の段取りを盗めるだけ盗む。契約社員が正社員になるための、彼女なりの戦略でもあった。 デスクの電話が鳴った。受話器を取った青木の声が、少しだけ柔らかくなる。 「はい、青木です。ええ、ええ。停り伺いますよ。会長によろしく」 受話器を置くと、ナオがニヤニヤしていた。 「大和田さんですよね。青木さん、大和田さんの電話の時だけ笑い方が違うんですもん」 「そんなに違うかね」 「もう全然違います。恋人かなと思うくらい」 「そうか。長い付き合いのお客さんでね、もう腐れ縁だな」 昼休み。青木は屋上のベンチで弁当箱を開いた。2段のアルマイトの弁当箱だ。ここで1人で食べるのが40年来の習慣だった。 「お疲れ様です。お隣、開いてますか?」 「ここは年寄りの特等席なんだがね」 青木が渋い顔をしても、ナオはこの2ヶ月、勝手に隣に座ってくる。理由を聞けば「昼休みの雑談に仕事のコツが一番聞けるから」と真顔で返された。 「それにしても渋いお弁当箱ですよね」 「新婚の頃に家内が買ったのと同じ型でね。へこんでためになるたびに探して。これで3代目だ」 「3代目?今時売ってるんですか?」 「探せばあるもんだよ。40年中身を詰めてくれた。今は自分で作ってるがね。卵焼きだけはどうも同じ味にならん」 「奥さん、お料理上手だったんですね」 「いや、新婚の頃の卵焼きは真っ黒でな。本人は焼き加減の研究だと言い張ってたが」 ナオが吹き出した。青木も目尻にしわを寄せる。3年前に妻の和子を見送ってから、青木の楽しみはこの屋上の昼飯と仕事だけになった。 「仕事はね、ナオちゃん、人と人との約束だ。約束が残ってるうちは、年寄りにも居場所があるのさ」 午後、エレベーターホールの掲示板前に人だかりができていた。新しい張り紙に太い文字が並んでいる。 「構造改革第2フェーズ実施のお知らせ 担当:奈良崎専務」 「第2フェーズって何ですかね?」 「さあなあ」 青木は答えなかった。手帳を胸ポケットにしまい、自分の席へ戻った。 奈良崎は1年前、大手証券からヘッドハンティングでやってきた専務だ。仕立てのいいスーツに、大きな腕時計。口癖は「数字で話せ」。社内では「改革の奈良崎」と呼ばれ、この1年で3つの部署を潰した。その奈良崎が連れてきたのが、井上部長だった。 張り紙の翌朝、その井上がシステム事業部のフロアに現れた。 「ああ、皆さんおはようございます。本日から第2フェーズということで、配置の見直しです」 若手社員たちがざわついた。井上はタブレットを見ながら軽い足取りでフロアを歩き、青木の前で止まった。 「青木さん。あなた、あそこの窓際の島に移動です」 井上が指したのは、資料の影になった古い机だった。午後は西日が画面を直撃して、モニターがまともに見えなくなる。フロアの誰もが知っている、いわゆる厄介払いの席だ。 「あの、その席で画面が見えないんですけど」 「派遣さんは黙っててもらえるかな?」 井上は青木の机の上に目を落とした。黒皮の手帳を2本の指でひょいっとつまみ上げる。 「うわ、何これ?神、神の手帳とか受けるんですけど。昭和の遺物じゃないですか」 「返してもらえるかね。私なんだが」 … Read more