61歳で定年を迎える直前、私は銀行の残高を見て初めて現実を直視した。32年勤めた会社の支社長という肩書きも、7着のオーダースーツも、17階からの夜景も、すべては借金で作られた見せかけだった。毎月3万円の赤字をリボ払いで誤魔化し続け、貯金は42万円。そんな時、10年前に会社を追われた同期が突然私にこう言った。「それ、全部誰のためにやってきたんですか?」その言葉に答えられないまま、私は彼の助言を…
61歳の誕生日の夜、黒川竜平は手に汗を握りながら、スマートフォンの残高表示をじっと見つめていた。何度確認しても数字は変わらない。普通預金は42万円。マンションのローンはまだ3200万円以上残っている。手取り月収は61万円なのに、毎月の支出はそれを上回っていた。その差額を、彼はリボ払いでごまかしてきた。 妻の千鶴は小さなケーキを用意してくれたが、竜平には祝う気持ちなど微塵もなかった。息子の剣士は大学の課題があると言って早々に自室へ引き上げ、食卓には夫婦二人だけが残された。千鶴が赤ワインを勧めたが、竜平の頭の中は数字のことでいっぱいだった。 7月で定年を迎えれば給与は止まる。再雇用の給与は現在の3分の1以下になる。年金がもらえる65歳までの4年間、この差をどうやって埋めるのか。彼は考えることを避けてきた。見て見ぬふりをしてきた。 その夜から、竜平は眠れなくなった。日中は変わらず支社長として振る舞った。部下の前では決して難しい顔を見せなかった。しかし昼休みにトイレの個室に入ると、壁に背をもたれ、目を閉じた。頭の中では数字だけが動いていた。 6月下旬のある夜、竜平は引き出しの奥から古いスマートフォンを取り出し、一人の男の名前を検索した。宮島誠治。10年前、大阪本社で同期だった男だ。宮島は役員との確執から左遷され、最終的には会社を去った。竜平は当時、内心では「うまくやれなかった側の人間」だと思っていた。それが今、宮島が起業したという話を思い出し、連絡を取ろうとしている。 翌日、古い名刺に印刷された携帯番号にメッセージを送った。10年ぶりの突然の連絡だと詫びながら、「近いうちに一度会いたい」とだけ書いた。その夜、返信が来た。「いいですよ。来週の水曜日、浜松町でどうですか? 」 水曜日の夜、浜松町の居酒屋で二人は向かい合った。宮島はユニクロのTシャツに無地のスラックス、靴はスニーカーというラフな格好だった。10年で体格はがっしりし、顔つきは穏やかになっていた。緊張した様子がまるでない。ビールを一杯ずつ頼み、当たり障りのない話をした。竜平が話し、宮島が短く応答する。それだけの時間がしばらく続いた。 会話が一度途切れた時、宮島が静かに言った。「突然連絡してくるからには、何かあったんでしょう。」 竜平は否定しようとした。「いや、ただ懐かしくなって」と言いかけたが、宮島の目がそういう言い訳を受け付けない落ち着きを持っていた。竜平は言葉を飲み込み、低い声で言った。「資金の流れが、少し苦しくなっている。」 宮島は黙って聞いた。頷きもしなかった。竜平は言葉を選びながら話した。定年まであと少しだということ。再雇用の条件が想定より悪いこと。ローンがまだ残っていること。金額の具体的な数字は出さなかった。プライドがそれを許さなかった。しかし宮島は数字を聞かなかった。「それは全部、誰のためにやってきたんですか? 」と聞いた。 竜平は答えに詰まった。仕事のため、と言いかけたが、言葉が喉で止まった。宮島はそれ以上は掘り下げなかった。「何か方法を探しているなら、選択肢はある。」そう言って、財布から現金を出し始めた。竜平が反射的に自分が払うと言うと、宮島は少し笑い、「でも半分は出させてください」と言って、使い込まれた旧札を2枚テーブルに置いた。その財布の厚みは、竜平のそれとは比較にならなかった。 翌週の火曜日、宮島から「ランチでもどうですか? 」とメッセージが届いた。竜平は迷った。宮島に会うということは、助けを求めるということだ。その事実が重かった。30年以上、誰かに助けを求めた記憶がなかった。しかし、本当に困っている。それを認めることが、スーツの下の自分を丸裸にされるような感覚だった。それでも、竜平は短く返信した。「来週の火曜日でお願いします。」送信ボタンを押した瞬間、何かが小さく動いた気がした。 翌週、新橋の路地裏にある定食屋で二人は会った。宮島は日替わり定食の800円を頼んでいた。竜平は刺身定食の1100円に少し迷い、結局それを頼んだ。以前なら迷わなかったはずの差額だった。宮島が先に口を開いた。「先週の話、もう少し聞かせてもらえますか。具体的な数字でいいですよ。」 竜平は低い声で話した。住宅ローンの残債がおよそ3200万円であること。毎月の返済と生活費と諸費を合わせると、手取りをわずかに上回る支出になっていること。カードのリボ払いの残高が110万円を超えていること。定年後の再雇用では月給が大幅に下がり、年金受給までの4年間に穴が開くこと。話しながら、自分の声が思ったより安定していることに気づいた。数字を並べると、感情が少し引いていった。 宮島は最後まで黙って聞き、それからようやく竜平の方を向いた。「それで今すぐ収入を増やしたいのか、それとも支出を減らす方法を探しているのか、どちらですか。」竜平は「両方です」と答えた。宮島は小さく笑った。「そりゃそうですね。」そして言った。「今、環境関連素材の仲介をやっている業者が足りていません。特にリサイクル対応の放送資材を調達したい中堅メーカーは多いが、どこに当たればいいか分からない。黒川さんはその両方を知っているはずです。」 仲介、つまりブローカー。買いたい側と売りたい側を繋ぎ、差額をもらう。組織の肩書きなしに、個人として動く。宮島は続けた。「黒川さんには30年分の業界の顔がある。それは今の会社に帰属しているわけじゃない。黒川さん自身の財産です。」そして、一つだけ条件を付けた。「今の会社に在籍しているうちはやらないこと。退職してからやる。あるいは退職の目途をつけてから準備する。」 7月、竜平は定年を迎えた。退職式は事務的で短かった。部下たちが小さな花束をくれた。退職後の最初の2週間、竜平は何もできなかった。毎朝同じ時間に目が覚め、スーツを着ようとして、どこにも行くところがないと気づく。3週目に入った頃、彼は動き始めた。かつての取引先と個人として情報交換を続ける中で、食品メーカーが生フィルムの代替素材を探しているという話が浮上した。竜平はその素材を扱っている中部地方の中小メーカーに顔があった。双方に連絡を取り、間に立った。価格交渉に時間はかかったが、最終的に取引が成立した。竜平の取り分は契約金額の3%。振り込まれた金額は62万円だった。スーツを着て毎朝出かけていた時代の月給より少し多い額だった。 最初は純粋な驚きだった。それからすぐに別の感覚が来た。「もっとできる」という感覚だった。 8月の第1週、かつての同業者である倉田という男からメッセージが届いた。業界関係者と投資家が集まる非公式のパーティへの招待だった。竜平は最初、気が乗らなかった。今の自分は何の肩書きも持っていない。しかし、数時間後にもう一度その招待メッセージを読んだ。「投資家」という言葉が目に留まった。竜平は参加する旨を返信した。 当日の夕方、竜平は久しぶりにスーツを着て、軽自動車で港区に向かった。会場となる店は、照明が落とされた落ち着いた空間だった。すでに十数人が来ていた。倉田が愛想よく迎え、すぐに別の男を連れてきた。「柴田と言います。フィナンシャルアドバイザーをしています。」30代半ばに見えた。スーツは高そうだった。顔立ちは整っていて、声はよく通った。柴田はすぐに話し始めた。「最近、脱炭素関連のプロジェクトへの資金需要が急増していますね。特に南米のバイオマスエネルギー開発は、日本から出た資金の運用先として非常に注目されています。」 そして、こう続けた。「今月末に締め切りがある案件があって、月利20%が保証されています。私のお客様の中でも、すでに大手の方が何人か参加されています。」 「月利20%」。竜平はその言葉を聞いた時、胸の中で何かが反応した。反応した後に、少しだけ警戒する気持ちも来た。しかし、その警戒はすぐに「自分は素人ではない」という感覚に押し流された。30年間ビジネスをしてきた人間だ。詐欺師には分かる。根拠のない自信があった。 翌日の午前中、竜平は宮島にメッセージを送った。詳細はぼかして、「南米の再生エネルギー関連で月利20%という案件があると聞いた。どう思いますか? 」と書いた。宮島からの返信は30分も経たないうちに来た。「やめてください。」一言だけだった。竜平が「なぜですか? 」と返すと、宮島の返信はまた短かった。「月利20%が本物なら、その人間は銀行から借りています。銀行の金利は今でも数%です。なぜ彼らは素人から高い金を集める必要があるんですか? 」 論理としては正しかった。しかし、竜平の腹のうちでは「でも自分が見た限りでは怪しくなかった」という感覚が残っていた。「もう少し詳細を聞いてみます。」竜平は返した。宮島からの返信はなかった。 3日後、柴田から詳細な資料が送られてきた。南米のある国のバイオマス発電プロジェクトのスキーム図が載っていた。図表は整っていて、リターンの試算が表にまとめられていた。竜平は資料を1時間ほどかけて読んだ。読みながら引っかかる点がないかを探した。しかし、文書の作りは丁寧で、判断の根拠がなかった。 翌週、竜平は柴田のオフィスを訪れた。銀座の小さなオフィスだった。ガラス張りのドアを開けると、受付の女性が立っていた。コーヒーが出された。柴田は資料を使いながら改めて説明した。竜平は質問した。「元本のリスクは? 」「ヘッジしています。」「プロジェクトの実態は確認できますか? 」「現地の写真と現地法人の登記書類が。あなたは。」別のフォルダーが開かれた。ポルトガル語で書かれた公的な書類に見えた。「このプロジェクトに参加できる最低金額はいくらですか? 」柴田はわずかに間を置いてから言った。「3000万円から受け付けています。ただ、今月末の締め切りに間に合わせるには、今週中にお返事をいただく必要があります。」 3000万円。それは住宅ローンの残債とほぼ同じ額だった。竜平はその日は返事をしなかった。「考えさせてください」と言い、オフィスを出た。 夜、千鶴が寝てから、竜平はリビングに一人座った。頭の中が騒がしかった。宮島の「やめてください」という言葉が何度も浮かんだ。同時に、柴田の穏やかな声と整った資料も浮かんだ。なぜ宮島の言葉に素直に従えないのか。答えは分かっていた。62万円の仲介報酬では足りない。それは金額の問題というより、速度の問題だった。このペースで仲介を続けても、ローンを返し終わるのに何年かかるか。 もう一つの感情もあった。柴田のあのオフィス、受付の女性、綺麗に製本された資料。そういうものに囲まれた時、竜平はある種の安堵を感じていた。自分がまだ「その世界」の人間として扱われているという感覚。宮島が自転車で定食屋にTシャツ姿でいるのとは、まるで違う世界だった。 夜が明けかけた頃、竜平は柴田のメールに返信を書き始めた。「詳しい話をもう一度聞きたい。来週、もう一度会えますか。」送信ボタンを押してから、竜平は目を閉じた。宮島から返信がなかったことを、もう一度思い出した。あれは怒ったのではないだろう。ただ、これ以上言っても無駄だと判断したのかもしれなかった。 翌週の月曜日、竜平は再び銀座のオフィスを訪れた。今度は自分の方から質問を用意していた。プロジェクトの現地責任者の名前、日本国内での法的根拠、途中解約の可否。柴田は一つずつ答え、全ての回答に対して追加の資料が出てきた。竜平にはその書類の中身を精査する専門知識がなかった。しかし、それを認めることができなかった。最後に柴田が静かに言った。「黒川さんのような業界経験を持つ方が判断されるなら、この案件は非常に相性がいいと思います。エネルギーと流通の両方を知っている人はそう多くない。」 その一言が、竜平の残っていた抵抗を緩めた。 竜平は頭の中で逆算した。今の貯蓄では到底届かない。しかし、マンションを担保に借りれば3000万円は出せる。リターンで返済する。2年で元が取れれば、その後は黒字になる。竜平はこの計画の前提が崩れた時のことを考えなかった。考えようとしなかった。 その日の夕方、竜平はオフィスのデスクで震える手でボールペンを持った。契約書は5ページあった。最後のページに署名欄があった。柴田はその間何も言わず、静かに待っていた。それが却って竜平には逃げ場のなさとして感じられた。竜平はペンを動かし、自分の名前を書いた。書類を柴田に渡すと、柴田は笑顔で「ありがとうございます」と言った。エレベーターの中で鏡に映った自分の顔には、表情がなかった。 9月の第1週、柴田から電話がかかってきた。「先月分の配当が確定しました。来週の初めに指定口座へ振り込みます。」金額は60万円だった。3000万円の出資に対して月利20%であれば600万円になるはずだった。しかし柴田は「初月は手数料と現地コストの精査があるため、配当は段階的に増えます。今月は60万円。来月からは正規の計算に戻ります」と説明した。竜平はその説明に頷いた。翌朝、指定口座に60万3000円が振り込まれていた。柴田の言葉通りだった。 宮島に報告したい衝動があった。しかし、思い止まった。宮島は最初からやめろと言っていた。今更うまくいっていると伝えることが、勝ち誇るようで恥ずかしかった。その代わり、竜平は柴田に電話した。「来月の配当の見込みはどうですか? 」柴田は穏やかに答えた。「来月からは正規レートでお支払いします。3000万の20%、600万です。」その夜、竜平は久しぶりによく眠れた。 その翌週、柴田から「重要なご連絡があります」とメッセージが来た。折り返し電話をすると、柴田の声はいつもより少しだけ早かった。「政府の方針で、来月から海外への資金送金規制が強化されます。今のプロジェクトのポジションを維持するために、今月末までに追加の資金を入れていただく必要があります。今週金曜日までに、3000万円の追加出資をお願いしたいと思います。今のお客様は皆さん対応されています。もちろん無理にとは言いません。しかし、枠を失うと来月以降の配当への影響が出てしまいます。」 3000万円。今の自分にはない金額だった。しかし、方法はあった。マンションを担保に借入れをする。不動産担保ローンなら、短期間で資金を作れる。 その日の午後、竜平が出かけている間に、千鶴は寝室のクローゼットを整理していた。季節の変わり目で夏物を奥にしまおうとしていた。クローゼットの下段に畳んで置かれていた竜平のジャケットを動かそうとした時、その下に薄いファイルが挟まっているのに気づいた。クレジットカードの明細だった。数ヶ月分。最新のものは先月の日付だった。最初の1枚の利用残高の欄に、117万円という数字があった。 夜、食卓で千鶴が口を開いたのは、食事が終わりかけた頃だった。「クローゼットを整理しようとしたら、鞄が出てきました。」それだけ言って止まった。竜平は箸を置いた。「カードの明細を見ました。100万円以上。ずっと隠していたんですね。」声は静かだった。しかし、その静かさが竜平には怒鳴られるより重かった。竜平はテーブルの木目を見た。「仕事のためだ。接待とか会社のために使ってきたんだ。それが積み重なって。」千鶴は少しの間竜平を見て、静かに言った。「私に相談して欲しかった。」 竜平は「大丈夫だ。今、別の収入がある。ちゃんと返せる」と言った。「別の収入? 」千鶴は繰り返した。「どんな? 」竜平は少し間を置いた。「仲介の仕事を始めた。放送資材の。うまくいってる。」千鶴は何も言わなかった。箸を持ったままテーブルを見ていた。「信じてほしい。」竜平は言った。千鶴は顔を上げなかった。「わかりました」とだけ言った。その夜、千鶴はいつものように体を傾けて寝ることはなく、背中を向けていた。 翌朝、柴田からメッセージが届いていた。「金曜日まであと3日です。ご確認いただけましたか。」 竜平はトイレの中でそのメッセージを読んだ。3000万円をどうやって作るか。不動産担保ローンの審査には時間がかかる。もっと早い方法がいる。竜平は千鶴名義の印鑑と実印がどこにあるかを知っていた。以前マンションを購入した時に使った実印だった。保管場所は、千鶴本人から教えてもらっていた。その事実が頭の中に浮かんだ。竜平はそれをすぐに打ち消した。しかし、打ち消してもまた浮かんだ。 … Read more