「そのお金、俺たちの相続分でしょう。」…
玄関を開けた瞬間、息子の妻・彩佳の口から飛び出した言葉に、私は耳を疑った。 「そのお金、俺たちの相続分でしょう。」 久しぶりの再会に、抱きしめたいほどだったのに。まさか、お金の話をするために来たなんて。 夫のシゲルが亡くなって、今年で六年になる。静かな朝だった。すっかり冷えた布団の隣で目覚めると、部屋の空気だけが時間を止めていた。 それからというもの、私はこの古い家で一人で暮らしている。息子のユヤは結婚してから、めっきり来なくなった。連絡もほとんどない。でも私は、あの子が元気でやっているならそれでいいと、ずっと思っていた。そう思おうとしていたのかもしれない。 この家には、夫が残した土地がある。家の裏には小さな畑と、手作りの農作業小屋も残っていた。以前は夫婦で土を耕したものだけれど、今では草が茂るばかりで、私一人では手に余るようになっていた。 ある日、茶箪笥の整理をしている時だった。古びた図面や不動産の資料が出てきて、ふと私は手を止めた。 「そろそろ、身辺整理をしてもいい頃かもしれない」 ぽつりと呟いた自分の声に、誰も返事をする者はいない。でも、その静けさはどこか心地よくもあった。 最初は迷った。いずれはユヤに渡すべきではないかと。でも、あの子がこの土地に何か思い入れを持っているとは思えなかった。あれだけ何年も顔を見せず、家のことも知らないのに、今更何ができるというのかしら。 それに、畑の管理も限界だった。 そんな折、町内会で知り合いになった方が、地元のNPO法人が土地活用に興味を持っていると教えてくれた。話を聞いてみると、子供たちの自然体験施設として整備するという。心が少し動いた。夫と私が育てた土地が、未来の子供たちの笑い声で満たされるなら、それはきっと何よりも幸せな形かもしれない。 そうして私は、家族には何も言わず、全ての不動産の売却を進めた。夫が残した土地、家の隣の畑、そして農作業小屋。売却が全て終わった時、通帳には二千五百万円の数字が並んでいた。 私はその数字を見て、不思議なほど落ち着いた気持ちになった。このお金は、これからの私の人生に使っていいんじゃないかしら。 まだその時は夢にも思っていなかった。この静かな決断が、やがて息子夫婦を引き寄せ、嵐のような出来事を招くことになるなんて。 農作業小屋のあった場所に、可愛らしい建物が建ったのは、それから三ヶ月ほど経った頃だった。週末になると、小さなリュックを背負った子供たちが次々と集まってきて、土に触れ、虫を追いかけ、水辺の生き物に夢中になる姿が目に入ってくる。 「わあ、虫がいた!」 「こっちには、おたまじゃくしがいたよ」 そんな歓声が風に乗って、私の家まで届いてくる。最初はただ懐かしさを感じるだけだったのに、いつの間にか私はカーテンの隙間からそっと子供たちの姿を探すようになっていた。 ああ、こんなにも賑やかな声が、心に沁みるものなのね。一人での生活が当たり前になっていた私の心に、小さな明かりが灯るような気がした。庭に咲いた小さなビオラを見て「綺麗だね」と言ってくれる声はないけれど、その代わりに聞こえてくるのは、未来へと繋がる命の響き。 「シノブさん、今度は野菜の収穫体験もやるんですよ」 NPOの職員の一人、内山さんがそう教えてくれた。 「もしよければ、見にいらしてください。シノブさんの畑だった場所ですから」 私は笑って頷いた。 「ありがとう。でも、私はこの距離から見てるのがちょうどいいのよ」 土を耕し、草を引き、苗を植えていたあの頃とは違う。今は誰かの育てる景色をそっと見守る。それで十分だった。 あの子たちの笑い声に包まれているとなぜだか、私まで笑ってしまう。一人ぼっちのはずの家の中が、いつしか明るく感じられるようになっていた。 昔は、誰かのためにご飯を作って、布団を干して、洗濯物を畳んで、「ありがとう」の一言を聞くために生きていた気がする。でも今は、自分のために今日も一日を過ごしたと思えるようになった。それがこんなにも自由で心地よいものだなんて、知らなかった。 だけど、この静かで穏やかな日々が、思いもよらぬ訪問によって乱されるとは、まだ知る由もなかったのだった。 ある土曜日の午後だった。久しぶりに庭の草取りでもしようかと思い、腰を上げたその時、家の電話が鳴った。 今時、固定電話にかかってくるなんて珍しい。受話器を取ると、聞き慣れたけれど、どこか他人行儀な声がした。 「もしもし。俺、ユヤ。久しぶり」 一瞬、時間が止まったように感じた。 「ユヤ…元気だったの」 そう返す声が震えていたのは、驚きか、それとも嬉しさか、自分でも分からなかった。何年ぶりだろう。連絡すらよこさなかった息子が、なぜ今更。 「今度の連休、ちょっと顔出すよ。彩佳も一緒に」 彩佳。あの子の声を最後に聞いたのは、夫の葬儀の時だったか。あの日も悲しそうな顔一つ見せず、ずっとスマホをいじっていた姿が目に焼きついている。 「うん。わかった。気をつけてきてね」 受話器を置いた後、私は鏡の前で一つ呼吸をした。何を話そう? どんな顔をしよう? 久しぶりの再会に、心のどこかが浮き立つ気もした。でも同時に、胸の奥には得体の知れない重さがあった。 そして数日後の午後、黒い外車が家の前に停まり、ユヤと彩佳が降りてきた。私は玄関を開け、笑顔で出迎えたつもりだった。 「まあ、よく来てくれたわね。元気そうで何より」 だが二人の表情は、どこか固かった。茶間に通してお茶を出した後、静まり返った空気の中で先に口を開いたのは、彩佳だった。 「聞いたんですけど、土地売っちゃったんですね」 突然に突きつけられた言葉に、私は一瞬言葉を失った。 「ええ…色々考えて、管理もできなくなってきたし」 ユヤが続ける。 「母さん、あのお金、ちゃんと俺らの分も考えてくれてるよね。だって、相続ってそういうものでしょう」 その言葉に、頭の中が真っ白になった。ああ、そうか。あの子たちが来た理由は、私の顔を見るためじゃなかった。お金、ただそれだけだったんだ。 何かを言おうとしても、喉が詰まって声にならない。気づいたら、私は涙を流していた。答えようと思ったのに、止められなかった。 「お母さん、なんで泣いてるの?」 ユヤが困ったように言った。私は俯いたまま、震える声でぽつりと答えた。 「ユヤからは…帰ってこようって、そういう電話だと思ったのよ」 なのに、彩佳がため息混じりに言った。 … Read more