「捨て山、知ってるか?」
夫が突然、そんなことを言い出したのは、いつもの冗談の延長かと思った。30年連れ添った相手だ。たまに変なことを言う人ではあった。
「昔はそういうこともあったらしいわね。ひどい話だわ」
「今、お前を捨てられそうな山を探してるんだ」
「はいはい」
「まあ冗談だがな。離婚となれば財産分与で半分持っていかれるだろう。だったら山にでも捨ててやろうかと思ってな」
私は笑って流した。でも、次の言葉で笑えなくなった。
「退職金目当てで、今まで結婚生活を続けてきたんだろ?」
「何言ってるのよ」
「本当か?」
「そんなわけないでしょ。家族として、お互いに支え合ってきたつもりよ」
夫は鼻で笑った。
「お前が何したって言うんだ? 家で飯作って、ちょっと掃除してただけだろ」
「ちょっと待ってよ。それがどれだけ大変なことだと思ってるの?」
「ほざけ。その程度のこと、俺にもできるわ」
「じゃあ、やってみなさいよ」
「やってやるよ。だから出ていけ」
私は言葉を失った。とっさに、ずっと前のことを思い出した。
「お茶が飲みたいって、買い物中の私を呼び戻すような人が、何を言ってるのよ」
「そのくらいできる。もうお前は必要ない。お前と30年も結婚生活して、もううんざりなんだわ」
「……さっき、退職金目当てじゃないと言ったな」
「ええ、そうね」
「じゃあ、退職金は全額俺のものだ。離婚して出ていけばな」
「本気で言ってるの?」
「もちろん。お前が俺の退職金を我が物顔で使うと思ったら、吐き気がするんだよ」
「私だって、あなたの仕事を支えてきた自負はあるわ」
「家で飯作って掃除してただけの女が、何を偉そうに」
「ひどいこと言うのね。あなたこそ、子育てに何も協力しなかったくせに」
「俺の稼ぎで、あいつらは立派な大人になったんだ」
「それは分かってるわ。でも、私が何もしなかったってことはないでしょ」
「お前じゃなくてもよかった。どの女を選んでも、お前くらいの働きはしたよ」
「随分と好き放題言ってくれるじゃない」
「あとは全部、家政婦に頼めば問題ない。おばあさんが消えて、最高の老後だな」
「……いつもの冗談じゃなさそうね」
「もちろん」
「がっかりだわ」
「あなた、もしかして浮気とかあるわけ……ないか。あなたを相手にする女性がいるわけないものね」
「なんだと? 俺だって本気を出せば、女の1人や2人は捕まえられるんだぞ」
「へえ、すごいですね」
「お前みたいな無価値な女は、もういらん」
そこまで言われて、私はようやく決心がついた。
「そこまで言うなら、いいわ。出ていく」
「心配するわけじゃないが、行くところはあるのかよ」
「ないわね」
「息子夫婦の邪魔だけはするなよ」
「分かってるわ。お世話になりました」
夫は「やった、これで俺は自由だ」と、まるで祝うように言った。
私はその日、家を出た。
三日後、息子から夫に電話があった。
「母さんと連絡がつかないんだけど。旅行か何か?」
「いや、あいつは出ていった」
「は? なんで?」
「老後までじいさんの面倒を見たくないんだとよ」
「そんなこと言ったの?」
「ああ、ひどい話だろう。おかげでまともに飯も食えてないよ」
「警察に捜索願いとか出した方が良くない?」
「自分の意思で出ていったんだぞ。失踪したわけでもあるまいし」
「そうだけど、父さんは心配じゃないのか?」
「捨てられたのは俺の方だ。心配するなら、父親の方だろう」
「お母さんの電話、電源が入ってないんだよ。どこかで倒れたりしてないかな?」
「俺のことはどうでもいいのか?」
「父さんは連絡も取れたし、家にいることが分かってる。でも母さんは、どこで何をしてるか分からないんだよ」
「そりゃそうだが、あいつの意思なんだから、ほっとけ」
息子は、何か引っかかるものを感じたようだった。
「父さん、退職してから何してるの? 少しは動いたり出かけないとだめだよ」
「なんだよ。ボケるとでも言いたいのか」
「なんか、やけに突っかかるね」
「お前が母さん母さんと言うからだ」
「俺にとっては、どちらも大事な両親だよ」
「どうだかな」
「とにかく、帰ってきたら教えて」
その三日後、また息子から連絡が来た。
「母さんと連絡取れたか?」
「いや、まだ折り返しもない。何度もかけてるが、つながらん」
「うん、俺もこの間からそう言ってるよな」
「どうにかして見つけろ」
「どうしたの? 急に焦って」
「大座があいつが抜き出したんだ」
「はあ?」
「退職金の残高が、こっそり消えてるんだよ」
「どういうこと?」
「2日前に退職金が1500万振り込まれたんだ。その翌日にあいつが出ていったんだが、その時に金を盗まれたんだよ」
「父さんの名義なんだろ? なんで母さんがお金を動かせるわけ?」
「ネットバンキングっていうのか? それでやったんじゃねえか」
「なんで父さんに黙ってそんなことするんだよ」
「知るか」
「母さん、離婚する気なのかな?」
「だから財産分与としてもらったんじゃない?」
「それにしても、全額なんてやりすぎだし、あいつは金なんていらないって言ったんだぞ」
「なんか話が噛み合わないな。本当に母さんが勝手に出ていったの?」
「そうだ」
「うーん、なんか母さんの行動がしっくり来ないな」
「俺は何もしてない。とにかく、連絡がついたら金を返すよう言っておけ」
数日後、息子の携帯に私から連絡が入った。
「母さん、みんな心配してるよ。連絡ちょうだい」
「ミキヤ、ごめん。スマホをなくしちゃって。さっき契約し直したばかりなのよ」
「ああ、やっと連絡取れた。何かあったのか? 父さんも心配してるぞ」
「ええ、まあ……心配っていうか、怒ってるって感じだけど」
「ああ、退職金のことをね」
「うん。勝手に家を出るなんて、何かあったの?」
「あの人、そんな風に言ったのね」
「違うの?」
「私は追い出されたのよ」
「は?」
「30年一緒にいてうんざりなんだって。今後は1人でのんびり生きていきたいそうよ」
「なんだよ、それ」
「今後は夫婦2人でのんびりしながら、たまにあなたたちが帰ってきてくれるのを楽しみに、穏やかに暮らしていくものだと思ってたの」
「俺だってそう思ってたよ」
「でも、それは私の勝手な人生プランだったみたい。あの人にとって、私は邪魔な存在だったのね。そんなことに気づかなかったなんて、私も妻として失格かもしれないと思った」
「違う。父さんが会社を務め上げたのも、俺が大人になれたのも、母さんのおかげだよ」
「ありがとう。でも、もういいの。私もずっとやりたかったことをやろうと思ってるのよ」
「何?」
「今準備中だから、お披露目できるようになったら知らせるわね」
「分かった。今はどこにいるの?」
「実家」
「それだと、あの人にすぐバレるから」
「今は内緒」
「そっか。それより、父さんの退職金を全額引き出したって本当なの?」
「うーん、そんなこと言ってたんだ。ATMで残高を見たら、すっからかんだったって」
「まあ、そうでしょうね」
「やっぱり母さんなんだ」
「私じゃないわね」
「じゃあ、誰が……」
「お父さんに伝えて。15年前のことを忘れたのかって」
「分かった。俺には教えてくれないの?」
「説明するには時間がいるわ。今、ちょっと忙しいの。お父さんから聞くといいわ」
「分かったよ。じゃあまた連絡するけど、家とかは大丈夫なの? あれだったら、うちに来てもいいんだよ」
「お嫁さんに迷惑はかけられないわ。それに、私なら大丈夫。心配しないで」
「そうか。何かあったら、すぐ言ってくれよな」
「はいはい、ありがとうね」
翌日、息子は夫と会った。
「母さんと連絡取れたよ」
「はあ。俺の連絡は無視してるくせに、あの女……!」
「父さんから聞いてる話と違うんだけど、どういうことなのかな」
「何がだ?」
「母さんは追い出されたと言ったよ」
「そうやって自分が被害者のふりをすることで、お前の同情を引こうとしてるんだ。ずるいやつだよ」
「2人とも言うことが違うんだよな」
「俺は嘘はついてない」
「あと、お金の件だけど……『15年前のことを忘れたのか』って言ってたんだけど、何の話?」
「え?」
「心当たりあるの?」
「いや……さあ、何のことだか」
「なんか今すごく忙しいみたいで、ゆっくり話せなかったんだ。どこにいるか分かったか?」
「いや、それも教えてくれなかった」
「何をこそこそしてやがる?」
息子は、ここでようやく夫に核心を問いただした。
「父さん、頼むから俺には正直に教えてくれないかな? 離婚を切り出したのは、父さんなの?」
「そうだよ。だったらなんだ?」
「どうしてだよ。今までずっと支えてくれたのは母さんだろう」
「そうだな。ただ、その役目が終わったというだけだ」
「退職金を手にした途端、切り捨てたの?」
「人聞きの悪い言い方をするな。お互いの人生を歩むというだけの話だ」
「ずっと主婦だった母さんが、いきなり世の中に放り出されて、何ができると思ってるんだよ」
「知るか」
「冷たすぎるよ。感謝もないのか?」
「あるから、今まで食わせてきてやったんだろう」
「なんて言い草だよ。……15年前の件って、何? 本当は心当たりあるんだろう?」
夫は、しぶしぶ口を割った。
「あれは俺が投資に手を出して、大損したんだ」
「俺が中学生の時に? そんなことがあったの、全然気づかなかった」
「このじいさんが、金を貸してくれたんだよ」
「いくら?」
「1800万くらい」
「はあ……そんなに。でも、ちゃんと毎月返済してる。15年も払ってきたんだぞ。もう終わってるはずだ」
「母さんは、そのお金を回収したのかな?」
「いや、でも、やっぱり勝手にお金を移動したり引き出すのは、銀行が許さないと思うんだけどな」
「だろう。だからあいつは犯罪者なんだよ。1ヶ月以内に返さないと、警察に突き出してやる。それが嫌なら、すぐに連絡するよう伝えろ」
2週間後、夫はようやく私と電話で話せた。
「しつこいわね。何なのよ」
「やっと返事しやがったな。1ヶ月近く無視しやがって」
「色々と忙しかったのよ。……離婚届けを出してくれたみたいね」
「なんで分かるんだ?」
「住民票を実家に変えておいたから、受理通知が届くのよ」
「ああ、そういうもんなのか。そんなことはどうでもいい。さっさと金を返せ」
「ミキヤにも伝えたけど、15年前のこと、忘れたの?」
「じいさんに借りた金の件だろ? あれは毎月返済してたし、もう終わってるはずだ」
「いいえ」
「なんだよ?」
「父には、毎月1万円しか返済してなかったのよ」
「はあ?」
「年間12万を15年で、180万しか返してないわ」
「なんで、それっぽっちだったんだよ」
「あの頃はミキヤの高校進学や大学進学を控えて、お金が必要な時期だった。父はそれを分かってて、1万ということにしてくれたの」
「そうだったのか。でも、契約書みたいなの作ったよな」
「そう。そこが重要なのよ」
「え?」
「私と夫婦でいる以上は毎月1万で良かったけど、離婚をしたら即時全額返済するという文言が入ってたのよ」
「はあ? 知らないぞ」
「知らないわけないでしょ。あなたがサインしたんだから」
「いや、あんなのを読んだって、よくわからないし……」
「父は私たちの夫婦関係が終わることなんて想定してなかった。だから、強制執行文言付きの契約書を作成したの」
「なんだそれ?」
「要は、支払いが滞ったり条件が変わった場合には、給与や預金を差し押さえることができる。強力な契約書なのよ」
「え、離婚したことで、父があなたに返済を猶予する理由がなくなったでしょ。だから即時に強制執行されたというわけ」
「ちょっと待てよ。そんなの知らねえよ」
「調べてみたら分かると思うけど、差し押さえという形で、もう手続きは済んでるはずよ。残りの120万は分割でいいそうよ」
「俺の退職金が、一瞬でパー……」
「そもそも、あなたが知識もない株に手を出して大損したことが原因でしょ。だからって父が言ったはずよ。『娘を裏切ったり傷つければ、すぐに返してもらうぞ』って」
「そうだったかな」
「その時、あなたはこう言ったの。『俺は一生ミヨコさんを大事にしますから、そんな心配は必要ないですよ』って」
夫は、しばらく沈黙した。
「……戻ってこい」
「は?」
「俺がどうかしてた。今後も一緒に暮らそう」
「お断りします」
「なんでだよ。どうせみすぼらしい生活を送ってるんだろう。俺もまだ若いし、就職して稼ぐから」
「あなた、私の趣味知ってる?」
「さあ、何だったかな。編み物か?」
「やったことないわね。……そういえば、何かパンとかよく焼いてたな」
「そう、それを仕事にしたの」
「はあ? 素人のパンなんて誰が買うんだよ」
「そうなのよね。だから、商品を限定してみたのよ」
「意味が分からん」
「ヒントは、ミキヤの息子」
「カトがどうした?」
「あの子、小麦アレルギーでしょ?」
「そうなのか?」
「本当に何も知らないのね。それで、美味しいパンもクッキーも食べられないの。そんなの可哀想じゃない?」
「まあ、そうだな」
「だから、グルテンフリーのお店を出すことにしたのよ」
「なんだそれ?」
「小麦粉を一切使わないで、パンとかお菓子とか、おかずとかを売るのよ」
「お前はアホなのか? そんなもの、ミキヤの息子しか買わないだろう」
「今はアレルギーじゃなくても、小麦を控える人が多いの」
「それじゃ、ラーメンもうどんも食えないじゃないか」
「そういうのを求める人をターゲットにするのよ。ちなみに、明日オープンよ」
「はあ? 金はどうしたんだ? 1500万はじいさんに返済されたもので、お前にくれてやったもんじゃないんだぞ」
「分かってるわ。ただ、その退職金は本来なら共有財産と知ってる? 半分はもらえるのよ」
「そうなのか?」
「ただ、マイナスも共有財産。父に返済した以上、私は何ももらえない。じゃあ、開業資金はどうしたんだって?」
「いい抜き物件が見つかったし、比較的余裕で開業できたわ」
「だからって、ただじゃ何もできないだろう」
「老後のために、コツコツと貯金してたのよ」
「え?」
「お金があると分かれば、あなたがまた余計な投資話に手を出すかもしれないから、黙ってたのよ」
「くそ……いくらだ?」
「1200万」
「そんなに!?」
「そう。だから、退職金はあなたがもらって、私はこの貯金で開業する。これで仲良く半分ってところね」
「こっちはおかげさまで、すっからかんなんだぞ」
「ええ、全額私がもらうわよ」
「なんでだよ。お前が離婚って言ったんだろう」
「あなたには家があるじゃない。その家の評価額もちょうど1200万くらいよ。これで、仲良く半分」
「いや、俺はここに住み続けるし、売ってしまえば住む場所がなくなるだろう」
「それは知らないわ。財産をきっかり半分こすればいいだけだもの」
「……本当は、このお金で老後は旅行したり、2人でのんびり生きていけたらと思ってた。でも、そんな夢を思い描いてるのは、私だけだったのね」
「悪かったよ。退職金を手にしておかしくなってた。一緒に旅行に行こう」
「悪いけど、そんな薄っぺらい嘘に騙されないわ。今の私にはやるべきことがあるの」
「俺も手伝おうか」
「あなたみたいな不機嫌な店員がいたら、売れるものも売れなくなるから。結構よ。じゃあ、さようなら」
「ちょっと待てよ。まだ話し合う余地はある」
私は、夫の顔を見て、静かに言った。
「山に捨てたと思ってちょうだい」
数分後、息子に電話をかけた。
「母さんと連絡取れた。グルテンフリーの店をやるそうだ」
「知ってる」
「え、うちの妻も手伝うことになったから」
「お前、知ってて黙ってたのか?」
「いや、聞いたのは数日前だ。でも、アレルギーの息子のためにこんな風に動いてくれるなんて、嬉しかった。母さんの子で良かったって思ったよ」
「俺は……敵だね」
「は? そんな母さんを定年直後に見捨てて、退職金を独り占めしようとしてた父親のどこを尊敬か、逆に教えてよ」
「……だから、それは謝ったけど、許してもらえなかったんでしょ?」
「そうなんだ」
「お前からも、何とか言ってくれないか?」
「もう無理だと思うよ」
「どうしてだよ」
「母さんと妻を見てると、羨ましいくらい楽しそうなんだ。前しか向いてないっていうか。……俺は、過去の人だってことか」
「でも、ある意味、父さんが母さんを見捨てたことで、夢や目標が見つかったんだから、感謝してるかもね」
「俺は……自分が頑張って働いてきた退職金という結晶を、あいつに我が物顔で使われるのが嫌だったんだ」
「母さんが管理してくれてたから、家も建ったし、俺も進学できたんじゃないの?」
「まあ、そうだけど……投資の件も聞いたよ。母さんがいなかったら、今頃うちは終わってた」
「分かってるんだけど……忘れてたというか」
「父さん、ありがとう」
「何がだ?」
「支えてくれる妻という存在の大切さに、改めて気づかされたよ」
「はあ?」
「俺は絶対にこんなクソ父になってはいけないって、新たに決意することができた」
「どこが感謝だ? けなしてるだろう」
「いやいや、本当に反面教師としては最高の事例だった」
「お前なあ……」
「これで実は浮気してましたみたいなパターンなら面白みもあるんだろうけど、そんな浮いた話がないところも、父さんらしいよね」
「ほとんどバカにしやがって」
「新しいパートナーもいない。お金もない。息子や孫にも会えない。そんな人生を65歳で選ぶその勇気には、ただただ驚くばかりだよ」
「これでも、随分と見下してやがるな」
「じゃ、残りの人生楽しんで。俺もそうするよ」
「お前、俺を見捨てるのか?」
「最初に自分がやったことを、もう一度思い出せばいい。ボケるにはまだ早いよ、父さん」
3ヶ月後、私はお店を順調に切り盛りしていた。
「母さん、すごい繁盛だね」
「そうなのよ。毎日忙しくって大変。でも、最高に幸せよ」
「俺も米粉で作ったパンとか初めて食べたけど、めちゃくちゃ美味しいし、会社の人たちにも大人気なんだ」
「それは良かったわ。息子も、喜んで朝ご飯にパン食べてるよ」
「行動起こしてなかったら、今頃本当なら……私はあの人のためにご飯を作るだけの毎日を、何の疑問も持たずに送ってたのかもね。たまにあなたたちが来てくれるのを心待ちにして」
「という人生が悪いわけじゃないけど、今の母さんは楽しそうだよ」
「あの人、今何してるか知ってる?」
「気になるの?」
「別に、そんなんじゃないわよ」
「建設現場で働いてるみたいだよ」
「え、営業畑だったあの人が……最終職に転向したんじゃないかな」
「あら、困ってる時に手を差し伸べてくれるかどうかって、今までのその人の積み重ねだと思うんだよね」
「確かに。長年一緒にいたけど、部下を連れてくることもなければ、贈り物が届いたこともなかったわ。よほど信頼のない人だったのね。今が人生の答え合わせってことか」
「でも、仕事は真面目だった。休まず働いて、家族を支えてくれたのは事実よ」
「うん、そこだけは見習おうと思う」
「さて、休憩は終わり。午後のパンを焼かないと」
「無理しないでよ」
「でも、楽しんで」
「ありがとう、お母さん。最高に幸せよ」
その後、元夫は4LDKの広い一軒家を持て余し、結果的に売却したそうです。一時的に手にした1000万ちょっとを増やそうと、手堅い個別銘柄の株を買ったそうですが、経営陣の不祥事で暴落し、資産は半分以下に減ったそうです。ここまで投資運のない人間がいるでしょうか? そのため、建設業のバイトを辞めるわけにもいかず、老後に退職金で優雅に暮らすプランは崩れ去りました。
そもそも、料理も洗濯もろくにしなかった人が、どうやって生きていくつもりだったのか。今となっては謎ですが、どうでもいいです。きっとカップラーメンのゴミと洗濯物の山の中で、のんびりと「快適な老後」を送っていることと思います。
私のグルテンフリーのお店は、おかげさまで大繁盛。アレルギーを持つお子様の親御さんから、感謝の口コミをたくさんいただきます。今までは家族のために生きてきました。でも、知らない誰かが喜んでくれる人生も、それはそれで嬉しいものです。お嫁さんと一緒に切り盛りして、いつか彼女が大きくしてくれたら。年を取った私でも、そんな夢を見ていいですよね。
あと何年生きられるか分かりませんが、家族とお客様の笑顔を支えにして、頑張りたいと思います。



