「ねえ、わかってると思うけど、明日も帰るからご飯よろしくね。」
またこの呼び方。何度言ってもやめてくれない。
「えり子さん、その呼び方はやめてって、何度もお願いしてるよね。」
「あれ?なんで?お母さんとか、じいさんとか、他に呼び方あるだろ?」
「ないわよ。どうひっくり返しても、私はあんたの義母でしょ。」
「ババアはどうひっくり返してもババアだし。」
「あなた、将来自分の子供のお嫁さんからそう呼ばれてもいいの?」
「いいわけないじゃん。しばくわ。」
ため息をつきながら、私は言った。
「それに、普通は盆と正月に帰ってくるくらいでしょ?あんた、月に一回は帰ってきてるわよ。」
「そりゃ嫁として、旦那の親のことを心配するのは当然じゃん。」
「来るのは別に構わないわ。でも、毎回ご飯がまずいとか臭いとか、風呂沸かせとか、わがまま放題じゃない。」
「うん。それの何が悪いの?」
「はっきり言うわ。迷惑なの。」
「ふうん。」
「せめて、盆と正月だけにしてほしいんだけど。」
「無理。」
「なんでよ。あんただって、美味しくもないご飯をわざわざ食べに来る必要ないでしょ。」
「食費を浮かせたいの。」
「だったら、外食するお金くらいあげるわよ。」
「いらない。だるいし。」
「息子抜きで帰ってくるのも変よ。」
「あの人は仕事で忙しいんだもん。」
「うちの夫も、不信に思ってるわ。」
「あの地蔵はほっときなよ。将棋とご飯のことしか頭にないんだから。」
「とにかく、明日も行くから、よろしくね。」
そう言い残して、えり子は帰っていった。
翌朝、夫に愚痴った。
「ねえ、あなた。えり子さんがまた明日来るらしいわよ。」
「そうか。」
「あなたからも、なんとか言ってよ。来るたびに寝そべったままわがまま放題、たまったもんじゃないわ。」
「好きにさせてやれ。」
「あなたはいいわよね。無視してればいいんだから。」
「断っても来るんだ。よほど居心地がいいんだろう。」
「そうかしら。その割には、ご飯食べたらお礼も言わずにさっさと帰ってるけどね。」
「まあ、忙しいみたいだし。」
「一人分の飯を作るのが面倒なんじゃないか。」
「あの人の味方をするの?」
「そういうわけじゃない。」
「息子のお嫁さんだと思って我慢してきたけど、口の聞き方も態度も、あんまりだと思わない?」
「まあ、確かにひどいな。」
「だったら、どうにかして。」
「わかった。明日来るなら、ちょっと話してみるよ。」
「頼んだわよ。」
翌日。えり子が来た。
「ああ、今日も食った食った。」
「買ってきたお肉、全部食べちゃうなんて。肉って言ったって、鳥の唐揚げじゃない。夫の分が残らなかったじゃない。」
「知らないし。出かけたじいさんが悪いんでしょ。」
「風呂まで入って帰るなんて、何なのよ。家で入ればいいでしょ。」
「水道代とガス代浮いてラッキー。」
「なんて人なの?」
「でも、今日のご飯もしょぼかったわ。」
「あれだけ食べておいて、よく言うわよ。」
「せっかく寄生したんだから、高級寿司くらい出せよ。」
「食べたければ、自分で買ってきなさい。」
「ババアの手作りとか、罰ゲームかよ。最低な実家だわ。」
「だったら来るんじゃないわよ。」
「文句言うために来てるの?」
「いい加減にしなさい。」
「もうそんなに怒るなよ。血圧上がっちゃうぞ。」
「冗談じゃないわよ。二度とうちの敷居はまたがせないからね。」
「そんなこと言わないでよ。」
「ダメなものはダメ。」
数分後、夫が外出しようとしていた。
「ずるいわよ。あなただけ外出するなんて。」
「あの嫁の相手で、私がどれだけ疲れたと思ってるの?」
「すまん。ちょっと将の家に行ってたんだ。」
「はあ?なんで私を置いていくのよ。私だって息子に会いたかったわ。」
「ちょっとした用事だよ。」
「えり子さんのこと、話してくれた?」
「軽くな。」
「なんて言ってた?」
「注意してくれるって。」
「それがなあ。えり子さんは、お前に呼ばれて、実家の用事を手伝いに行ってることになってたんだ。」
「は?私、呼んだことなんて一度もないわよ。」
「分かってる。でも、おかしいと思わないか?あれだけ来るなと言ってるのに、何度も来て、意味の分からない嘘をついて。」
「確かにそうだけど。」
「それともう一つ、気になってることがあるんだ。」
「何?」
「それを解明するために、先に会いに行った。」
「どういう意味?」
「帰ったら話す。今日のご飯は何だ?」
「唐揚げだったけど、えり子さんが全部食べたわよ。」
「そうか。ああ、じゃあ、何か買って帰るよ。」
「気になるわ。急いで帰ってきて。でも、気をつけてね。」
翌日、えり子から電話がかかってきた。
「いつ来るの?」
「二度と来るなって言ったのは、そっちでしょ?」
「話があるの。来ないなら、私があなたたちの家に行くわ。電車に乗れば四十分くらいだもの。」
「は?ダメダメダメ。絶対来るな。」
「自分はしょっちゅう来るくせに、どうしてこっちが行くのはダメなわけ?」
「いいから、来るな。」
「分かったの?」
数分後、夫が帰ってきた。
「やっぱり拒否されたわ。」
「そうか。昨日の話だけど、えり子さんが長袖ばかり着てるのが怪しいって言ったじゃない。」
「でも、私はまさが手を上げるなんて、どうやっても考えられないのよ。」
「それは俺も同じだ。でも、えり子さんは真夏でも絶対に半袖を着ない。」
「何かの傷を隠してるんじゃないかしら。」
「そんな単純な理由ではない気がするんだ。」
「だからって、偵察に行くなんてどうかしてるわ。」
「もしまさが暴れてたりするなら、壁や床にその痕跡くらいあるかと思ったんだが、なかったんだ。」
「ああ、何もない。綺麗なもんだった。」
「確かなのは、えり子さんが私に呼び出されたと嘘をついてることよ。」
「そこは、まあ適当に話を合わせておいた。」
「なんでよ。正直に言えばよかったじゃない。」
「私が悪者になったままなんて、やだわ。」
「でも、初動を間違えれば大変なことになる。」
「刑事みたいなこと言わないでよ。」
「元警察官だ。」
「内部の不正が許せなくて、定年まで待たずにやめた立派な警察官でしたね。」
「小言を言うな。最食金は惜しかったけど、自慢の夫だと思ってるのよ。」
「ああ、はいはい。とにかく、少し様子を見させてくれ。」
「分かった。悪い方に行かなきゃいいけど。」
数日後、えり子がまた来た。
「自分が呼び出したんだから、寿司くらい出すんだよね。」
「もてなすために呼ぶわけじゃないわ。」
「本当にケチだよね。」
「自分たちでも食べられないものを、あなたに出すわけないじゃない。」
「ケチケチババア。」
「あなた、私に呼び出されてると言ってるらしいわね。」
「は?どうしてそんな嘘をつくの?」
「そこまでして、なぜ頻繁にうちに来るの?」
「別に。」
「それと、あなたが真夏でも長袖を着てるのはなぜ?」
「は?」
「結婚当初は、肩を出してたわよね。でも、ここ十二年はずっと長袖でしょ。」
「特に意味はないけど。」
「正直に言ってちょうだい。毎月文句を言われながらではあるけど、一緒にご飯を食べる仲でしょ。もし困ってるなら、力になりたいの。」
しばらく沈黙が続いた。
「本当に?」
「もちろんよ。」
「実は……まさに、殴られてます。」
「え、嘘?」
「長袖なのは、お母さんが思ってる通りです。傷を隠すために、長袖を着てます。」
「そんな……ここ一年くらいで急にこうなって、私もびっくりしてるんです。」
「信じられないわ。」
「私もです。」
「あなた、敬語使えるのね。」
「今まで、すみませんでした。わざと生意気にしていました。」
「どうして?」
「仲良くなったら、甘えてしまうでしょ。そうしたら、この家から帰りたくなくなるから。」
「そうだったの。お母さんが早く帰りなさいよって追い出してくれないと、家に帰る気になれなかったんです。」
「だからって、あそこまで暴言吐かなくても。」
「間違ってるのは分かってました。でも、ため口で悪態ついても、受け入れてくれて。それが、嬉しかったのもあるんです。」
「どういう意味?」
「家では夫の言いなりで、反論もできません。その反動というか、ストレスを解消してたのかも。」
「そうだったのね。言ってくれたら、よかったのに。」
「お母さんがもう来るなって言った時、もうこのまま黙っていられないと思いました。でも、気づいてくれて、ほっとした自分もいるんです。」
「えり子さん、辛かったわね。」
「はい。」
「分かってあげられなくて、ごめんなさい。」
「言わなかった私が悪いんです。」
「息子には、私たちから話をするわ。」
「いえ、それはやめてください。」
「そういうわけにはいかないわ。」
「あの人は今、仕事で大事な時期なんです。きっとそのストレスもあって、私に当たってただけだと思うんです。」
「どんな理由があっても、ダメなものはダメよ。」
「仕事が落ち着けば、きっと元のまさに戻ります。私は大丈夫ですから、どうかお願いします。」
「そう言われても。」
「お願いします。」
「夫に相談していいかしら?」
「まさに言わないのであれば。」
「分かった。伝えてみる。」
「これからも、お邪魔していいでしょうか?」
「構わないわ。もう、普通に接してくれるのよね。」
「はい。今まで、本当にすみませんでした。」
「もういいのよ。」
「ありがとうございます。」
数分後、夫に報告した。
「寿司を食べてたわ。大変だわ。本人の口ぶりからして、やっぱり傷を隠しているみたい。どうしましょう?まさがこんなことするなんて。」
「お前は息子を信じないのか?」
「信じたいけど……」
「俺には、違和感しかなかったけどな。」
「え、そう?」
「辛いなら、まさと一刻も早く離れたいはずだ。なのに、無駄に話を先延ばしにしている。」
「確かに。」
「お前じゃ埒が明かん。俺が探りを入れてみる。」
「分かった。お願いね。」
数時間後、夫が義父の家から戻ってきた。
「妻から聞いたよ。息子がとんでもないことをしたね。」
「お父さんまで……ありがとうございます。」
「すまなかった。私たちの育て方が悪かったんだ。」
「そんなことはありません。」
「私は、女性に手を上げる男を許せない。現役時代もそういうのをたくさん見てきたが、全員、豚箱にぶち込んでやったよ。」
「まさは、その人たちとは違います。ストレスを抱えているだけなんです。」
「えり子さん、それは違うよ。私は、息子とは縁を切ろうと思う。」
「え?」
「ただ、えり子さんが嫌じゃなければ、私たちの娘でいてくれていい。」
「お父さん……」
「実は、私の命は長くない。」
「へ?そんな……」
「息子に残すと書いた遺言書は、破り捨てるよ。」
「そこまでしなくても。」
「妻とえり子さんに、わずかだが残したい。」
「そんな、私にもらう権利なんてありません。」
「気を使うほどの額じゃないよ。警察を途中でやめた男だ。大した蓄えはないから、遠慮することはないんだ。」
「でも……」
「謝罪の気持ちだ。」
「本当に、私の名前を書いていただけるんですか?」
「もちろんだ。」
「その気持ちが嬉しいです。ありがとうございます。」
「一刻も早く離婚して、新しい人生を歩みなさい。そのための手伝いなら、いくらでもするよ。」
「嬉しいです。でも、警察には行きません。」
「なぜだ?」
「彼が捕まるのは本望じゃありません。私は、この生活から抜け出せればいいんです。」
「分かった。ただ、どうかあと一ヶ月待ってください。」
「何かあるのか?」
「夫の資格試験の結果が出るんです。それに受かれば昇進するはずなので、それだけ見届けさせてください。」
「分かった。何かあれば、すぐに逃げてきなさい。」
「はい。」
数分後、私は夫に詰め寄った。
「お父さん、遺言に食いついたわね。」
「あなたが餌をぶら下げるからでしょ。」
「でも、遺言は現役時代から本当に書いてたものね。」
「そうだ。何があるか分からないからな。」
「ピンピンしてるのに、よくもあんな嘘つけたわね。」
「嘘つきには、嘘で対応するしかない。」
「なるほどね。お前ならどうする?」
「置き換えてみろ。」
「お父さんの言う通りだわ。」
「そういうことだ。」
「どうするの?」
「探るに決まってるだろう。息子を守れるのは、俺らしかいない。」
「そうね。あなたの言う通りにするわ。」
一週間後。
「どう?見つかってない?」
「大丈夫?」
「うるさいな。邪魔するなよ。」
「だって、気になるじゃない?」
「元刑事だぞ。隠行はお手のものだ。」
「うん。まあ、そうだけど。」
「お前はえり子さんの言うことを真に受けて、すっかり騙されちまったんだから、俺に任せておけばいいんだよ。」
「だって、えり子さんがうちに来た日の帰宅時間が、毎回夜遅くなるって情報を知らなかったんだから、仕方ないじゃない。」
「言わなかったか?」
「聞いてないわよ。それを知ってたら、私だって名探偵並みにピンと来てたわね。」
「えり子さんは夕方に来て、十九時過ぎにはうちを出る。電車で二十分、タクシーでも三十分ちょっとで帰れるはずだ。」
「そうね。」
「なのに、まさの話だと、毎回、日をまたぐって言うんだ。」
「それで、まさが、私がこき使いすぎだって怒ってたんでしょ。終電の時間まで働かせるなんて鬼かよって、ぶち切れてたな。」
「ひどい。でも、まさはそんなに怒ってるなら、どうして私に連絡しなかったのかしら。」
「えり子さんが口止めしてたんだよ。嫁と仲を壊さないでほしいって。」
「嘘つき女ね。私もすっかり騙されちゃったけど。」
「まさも、長袖のことは気になってたらしいんだ。」
「うんうん。でも、夫婦なんだし、脱いだところを見ることもあるんじゃない?」
「それが、ここ最近は全くなかったらしい。」
「へえ、そうなのね。」
「そりゃ、孫も生まれないわけだわ。」
「まさも忙しかったし、良くないとは思ってたらしいが、一度違うとなかなか軌道修正するのは難しいそうだ。」
「うん。で、まだなの?」
「一時間前に入ったばかりだぞ。」
「でも、おじいちゃんが若い人が行くようなホテルの前で見張ってたら、余計怪しまれない?」
「運良く、向かい側にコインパーキングがあるんだ。」
「ラッキーね。」
「お前、楽しんでるな。」
「そりゃそうでしょ。あんだけ悪態つかれた挙げ句、嘘までつかれたのよ。私の心の道場返せって話だわ。」
「まあ、それは気持ちだと思うが、これは結果次第では、まさが傷つくことになる。」
「そうね。浮かれて、ごめんなさい。スマホ見てたら、出てきても気づけない。そろそろ終わるぞ。」
「ああ、そうね。また連絡して。」
二週間後。まさに電話を入れた。
「まさ、今、ちょっといいかしら?」
「何?」
「えり子さんのことなんだけど。」
「うん。」
「うちに来てるのは、知ってるわよね。」
「しょっちゅう呼び出してるんだろう。」
「それは誤解よ。えり子に口止めされてたけど、いい加減言わなきゃと思ってたんだよ。」
「ちょっと、色々複雑なことになってるの。」
「言い訳なら、聞きたくないんだけど。」
「私たちが会社の近くまで行ってもいいけど、人前ではとても話せないのよ。」
「なんなんだよ。会って話すから。」
「分かった。じゃあ、明日の夕方、寄るわ。」
「お願いね。仕事、頑張って。」
翌日。まさが来た。
「えり子。どういうことだ?」
「何が?」
「母さんに呼ばれてたのは、嘘だったのか?」
「え?なんでそんなこと聞くの?」
「父さんと母さんと話したんだ。」
「いびられてる側が、本当のことを言うと思う?」
「いびられてたっていうのか?」
「そうよ。」
「もうやめろよ。どこまで嘘つくんだ?」
「嘘じゃない。」
「全部、見せてもらったよ。」
「何を?」
「証拠に決まってんだろ。お前と母さんとのLINEのやり取り、あれ何なんだよ。よくあんな暴言吐けたな。」
「何のことか分からない。きっと私を貶めるために偽造したんだと思う。」
「そんなわけねえだろ。」
「本当なの。信じて。」
「仮にLINEが偽造だったとしよう。じゃあ、お前が実家を一時間ちょっとで出て、うちに帰ってくるまでの二時間半、何してた?」
「一人になる時間が欲しくて、散歩したりカフェ行ったり。」
「お前の行きつけのカフェは、ホテルなのかよ。実家を出た後に、まず駅へ向かうよな。」
「そうだよ。」
「電車に乗ると思いきや、駅前で待ってる男の車に乗り込んでるだろう。」
「誰それ?」
「俺が聞きたいんだけど。それから、郊外のホテルへ直行。最寄りの駅まで送ってもらって、終電に乗る。これがお前の行動だ。」
「それ、証拠あるの?」
「全部ある。」
「探偵使ったの?」
「いや、親父がやってくれた。」
「は?なんでお父さんが?」
「元警察官だから、尾行はお手のものらしい。」
「だからって、プライバシーの侵害よ。訴えるからね。」
「訴えるなら、好きにしてくれって言ってた。ありがたくて、頭が上がらないよ。」
「なんで疑われたの?」
「最初は、お前が被害者なんじゃないかと思ったらしい。長袖で来てたからだろ。俺も聞かれたことがある。」
「なんで母さんに嘘ついたんだ?それは、つい……」
「俺が一度でも手を上げたことがあるか?」
「ないけど……お母さんが勝手に誤解したから、乗っただけで。」
「でも、その誤解を利用しただろう。」
「そんなことない。」
「なんで長袖で腕を隠したんだ?」
「年かしらね。冷え性がひどくって。」
「足は出してるのに、か?」
「上半身が、特にね。」
「どうしてタトゥーなんか入れた?」
「え?なんで知ってんの?」
「寝てる時に見た。今まで気にも止めなかったくせに。」
「確かにそうだな。親に言われるまで、お前が長袖を着てることを変だとも思わなかった。」
「そうよ。私のことなんて、見てなかったんでしょ。」
「だからと言って、不倫していいわけじゃない。」
「いいえ、違うの。あれは推しだよ。」
「推し?」
「Hっていうの。ずっと好きだったんだよね。」
「ふざけんなよ。お前、テレビなんてまともに見ないだろ。パッと思いついたHがつく芸能人を言ってんじゃねえよ。」
「だって、本気なんだもん。」
「認める気がないってことだな。」
「何もしてないもん。」
「分かった。もういい。あとは、弁護士からの連絡を待ってくれ。」
「なんでよ。」
「離婚に決まってんだろ。」
「じじいとババアの言うことを、鵜呑みにするの?」
「俺の親をそんな風に呼ぶ時点で、無理だ。」
「今のは、そっちが煽ったからでしょ。」
「お前の本性はとっくに分かってんだよ。離婚だ。それ以外の選択肢はない。」
数分後、私は義母に報告した。
「おい、クソババア。」
「あらあら。過去最高にご機嫌斜めね。」
「てめえのせいで、離婚されそうになってんだよ。」
「てめえのせいでしょうよ。じじいを使ってこそこそつけ回すようなことをしやがって。訴えてやるからな。」
「どうぞ、どうぞ。脅しじゃない。本気だから、構わないわ。親ってのはね、子供を守るためなら、刑務所だってあの世だって怖くないの。」
「嘘つけ。」
「そんな夫を、誇りに思ってるわ。そして、その夫の調査で、優しい息子と別れることになったあなたは、哀れね。」
「私は、離婚なんてしない。」
「お揃いのイニシャルを入れるほど好きな人がいるんだから、そっちと一緒になればいいじゃない。」
「誰がお揃いって言った?入れたのは、私だけよ。」
「まあ、そっか。お相手は既婚者だし。そんなもの入れたら、奥様にバレちゃうものねえ。」
「ここまで知ってるの?」
「あなたを駅で下ろした後、彼の車をつけたら、子供用の自転車が置いてある一軒家に帰って行ったわ。」
「そうよ。」
「分かりました。全て、おっしゃる通りです。本当に、すみませんでした。」
「急にどうしたの?」
「夫が忙しくて、寂しかったんです。」
「だから何?」
「心に開いた穴を埋めたかっただけなんです。」
「そうですか。」
「お母様、お父様には、大変失礼な言動をして、申し訳なく思っております。どうか、お体に気をつけて、長生きしてください。」
「言われなくても、そうするわ。」
「では、失礼します。」
「ちょっと待って。」
「夫からの伝言でしょうか。」
「お前は、遺産ゼロな。」
「え?それは、話が違うというか……最後に罪を認めて丁寧に謝れば、宥和してくれるだろうとでも思った?」
「いえ、別に、そういうわけじゃ……」
「夫は、あえて餌をぶら下げたの。遺産が入ると思って、男に群がってたんじゃないの?安っぽいホテルから、少し高いところになり、高級焼肉店にも行ってたわね。」
「いや、悪いけど、うちの夫はまだまだ長生きするわよ。いつもらえる予定だと思ってたの?遺言書とか言うから、何かあるたびに書き換えるような人よ。次には、あなたの名前なんて消えてるわ。」
「そんなこと、言わないでください。私たち、一緒に食卓を囲んだ仲じゃないですか。」
「あなたが勝手に押しかけてきたんでしょ。」
「本当に、一緒にいると落ち着いたんです。嘘じゃありません。」
「よく言うわ。一時間ちょっとで、さっさと帰ってたくせに。ああ、騙された自分が悔しいわ。」
「でも、楽しかったですよね。」
「いいえ。全く。」
「お母さん、本当は、私のこと可愛いと思ってたんでしょ?」
「全然、思ってなかったわよ。」
「悪態ついてたのだって、半分は演技だったかもしれないけど、半分はあんたの本性でしょ?」
「違います。本当の母のように思ってたんです。」
「もう騙されないんだから。血が繋がってなくても、私はお二人の娘です。」
「明日からは、他人よ。二度と、あんたにご飯は作らないわ。」
その後、まさとえり子の離婚はすぐに成立しました。不倫相手の奥様にもお伝えした結果、てっきり離婚になるかと思いましたが、「離婚して自由になんかさせたくない」ということで、結婚生活を継続される道を選んだそうです。なるほど、そういう復讐の仕方もあるんですね。確かに、離婚してしまえば、えり子さんとくっつくかもしれません。でも、自らの幸せを犠牲にしてまで、夫を追い詰めるだけの毎日が幸せなのか、私には分かりませんし、正解もないのでしょう。
Hの正体は、宏という男だったようです。Hと名乗り、名を刻まれるほど愛してくれた女性とは、会うことも叶わず、宏は一生、独房の中です。当然、まさは不倫相手とえり子さん、双方に二百万円ずつ慰謝料請求をしました。えり子さんに関しては、財産分与もなく、支払い能力もなかったので、ご実家から借金をしたそうです。嘘に嘘を重ね、人に暴言を吐き、敬意も払わず、甘えた結果、彼女に残ったものは、多額の支払いのみとなりました。実家からは「返済の連絡以外するな」と縁を切られ、不倫相手とは連絡を取ることもできず、孤独の中、どこかで寂しく暮らしているのでしょう。まさは資格試験に合格し、無事昇進しました。週に何回か、うちに寄って、ご飯を食べて帰ります。唐揚げでも文句は言われないし、イライラもせず、楽しい食卓が毎日続くことに感謝して、残りの人生を夫と楽しみたいと思います。



